5 瓜二つってほどじゃない
握られた手がほどけていった。すこし気分が悪い。ましろさんの言った通り足元がぐらついたのは少しだったけど、それ以上に体全体がもぞもぞするような、内側で内臓がうねるような感覚があった。ポケットにいた白緑が肩に移動したのが重みでわかる。おそるおそる目を開けてみると、知らない男と目が合った。背丈も年頃も同じくらいだ。
「あ、黒髪!」
ぴ、と俺を指さして言う彼も黒髪だった。俺としては見慣れた色だ。真っ黒な着物、たしか狩衣と呼ばれる服を着て、黒くて大きい瞳をぱちぱちと瞬いている。視線が俺の肩に移動して元に戻ったときには、その整った顔は喜色でいっぱいになっていた。
「もしかして竜使い? ましろは竜使いを迎えに行っていたの」
「結果的にそうなるな」
「ついに倭国に竜使いが!」
すごいすごい! と元気にはしゃぐ彼。頭をよぎるのは道中聞かされたましろさんの話だった。黒髪は珍しいこと、活発な性格で、俺と似た容貌の……俺は彼ほど美形じゃないけど、まあ似ていなくもないかもしれない。まさか、と思っていれば、ましろさんが淡々と言った。
「中里殿、これが倭国の東宮だ。これ、竜使い殿に名を名のらぬか」
「そうだった」
ましろさんに言われてはっ、とした彼は、背筋を伸ばし両手をお腹あたりで軽く組んで、顔に柔らかい笑みを浮かべた。人懐こい雰囲気が一気に消え、落ち着いた、人の上に立つ人間独特の威圧感が生まれる。息をのんだ。
「わたしはこの倭国の皇太子、名を大和時雨と申す。……時雨より幼名の露丸のほうが気に入っているから、そっちで呼んでくれると嬉しいな」
彼が、露丸さんが緊張感を出したのは一瞬だけだった。へら、と愛嬌のある表情をして小首をかしげる。俺は慌てて自己紹介した。
「あっと、俺は中里久といいます。この子は白緑」
「久と、白緑。これから倭国のため励んでくれ」
露丸さんは決して頭を下げなかった。とうぜんだろう。彼は次のこの国の頂点になるのだ。俺が倭国の竜使いになった、ということは、きっと彼に仕えるということなんだ。彼と王様と、この倭国に生きる人たちに、安心を与えるのが俺の仕事、そうましろさんに頼まれた。正直誰かに仕えるなんてよくわからない。でも、誰かの役に立てるかもしれないということが、この世界で俺に出来ることがある、というのがどうしようもなく嬉しかった。
俺はゆっくりと膝を床に付けた。正しい礼儀なんて知らない。でも態度で示すのはた大切なことだ。きっとそれは現世でも、幽世でも変わらない。
「承りました。俺の、出来る限りを尽くします」
頼まれたからには、責任をもって為さねばならない。両親にそう教わってきた。最後までとは言えないけれど、俺が現世に変えるその時まで、俺はできることをすべてやろう。不可能に近いことでも、ほんの少し可能性があるなら努力しよう。……家に帰る日がくるのかどうかはわからないけど。それでもやることがあるなら、あまり寂しくない。
しばらく露丸さんからの返事はなかった。彼の足袋に包まれたつま先だけが見える。たしかこういうときっていいよと言われるまで顔上げちゃダメなんだっけ。このまま待ってるべきか。考えながらもじっとしていると、やっと声がした。
「面をあげよ」
視線をあげる。すると露丸さんはすとんとしゃがんで俺と目線を合わせた。
「そこまで言ってくれてありがとう、皇子としてとてもうれしい。でもそんなに畏まらなくっていいよ」
「?」
「僕はね、国に仕える竜使いと皇族って同じだと思ってるんだ。皇族も竜使いも方法はちがうけれど国を守るでしょう。だから僕たちは対等なんだよ。敬語も敬称も畏まった態度もいらない、民の生活を守る同士なんだ」
公式の場ではそうはいかないけどね。露丸さんは俺の手を取って立ち上がった。つられて足を延ばす。柔らかく笑う露丸さんは、やっぱり俺には似ていなかった。自分の意志を、未来をきちんと見据えた、格好いい人だった。
「ずっと友達が欲しかったんだよ、身分を明かしても対等な友達。町にも……あーっと」
露丸さんは口を押えてましろさんを見た。当人はけろっとしている。表情が動かないからそういうふうに見えるだけかもしれない。
「私はそなたがどこへ出かけようが構わぬよ。やわな指導はしておらぬゆえな。どうせまた城下へ出ようとしてここにおるのだろう?」
「わかってたか。お迎えに来たって言い訳しようと思ってたんだけど……あっなら、」
「中里殿を連れてゆくのは駄目だ。やることはたくさんある」
「僕も付いて行っていい?」
「好きにせい。……理市、拓郎、ご苦労だった。下がってよいぞ」
「は。失礼いたします」
ワープしてからずっとましろさんの後ろに控えていた二人は深く頭を下げて出て行った。そこでやっと、俺は今いるのがどこなのか気になった。
「ましろさん、ここは?」
「大内裏、西洋で言う王の住むお城のようなものだな。そこにある私の住まいだ。倭国は現世で言う平安京の形を維持しておる」
「……外からましろさんのお家にそのまま来れるのはまずいんじゃ」
「問題ない。道具は使ったあと、勝手に元の場所に隠れるように術を施しておる。屋敷の座標がわかったとして、そもそもあの陣をかけるような輩はそうそうおらぬ」
こうしてしまえば転移もできん。ましろさんは部屋の隅に置かれた銀の輪っかを片付け始めた。手伝おうと手を伸ばすと、その手をぐい、と露丸さんに引っ張られた。
「久はこっち。着物を変えよう。それじゃあ目立つしね」
「まずは湯浴みからだ。私も入る」
「僕も入ろーっと」
ワープしてきた部屋を出ると、数人の女性が控えていた。驚いてしまって後ずさる。全員目を合わせないよう俯いて、膝をついていた。露丸さんは慣れた様子でひとりに話しかけた。
「湯殿は?」
「整っております」
「なら着替えの準備だけしておいて」
「御意に」
女性たちが後ずさりをして散らばっていく。もしかして侍女ってやつなんだろうか。ましろさんは偉いひとなんだとはわかっていたつもりだけれど、こうやって目の前にしてやっと理解できた気がした。時代劇みたいだ。
露丸さんに連れられて縁側に出た。広い庭園だった。花と葉っぱが交じった桜がところどころにあり、近くにある池には小さな橋が架かっている。ほんとうに、テレビでしかみたことない光景だった。ぼけっとしていると、くすくすと笑う声がする。
「珍しい?」
「こうやって目にするのは初めてだよ」
「そっか」
広い屋敷をきょろきょろとしていたらもう風呂場についていた。その間露丸さんが話しかけてこなかったのに気が付いた。気を使わせてしまったらしい。
「ごめん」
「気にしないで。見てる側としては面白かったよ」
要は俺が田舎者丸出しだったってことだ。恥ずかしくてたまらない。ごまかしたくて白緑を撫でれば、笑われてしまった。白緑に頬を舐められる。余計に恥ずかしくなった。
脱衣所に入るともうましろさんがいた。ちょうど帯を解いているところだった。いつのまに来たんだろう。脱衣所は銭湯のものほどの広さがあった。ましろさんは解いた帯を近くにある、底の深いお盆のようなものに乗せた。
「中里殿、衣を脱いだらそこに入れておくといい」
「はい」
ましろさんの指さした場所には、ましろさんが帯を入れたのと同じものが二つ並んであった。なかにひとつずつタオルがある。現世にあるのと同じようなものだ。露丸さんはもう着物を脱ぎ始めている。一つ残ったお盆のまえに立って、白緑をそこの座らせてブレザーを脱いだ。……あまり気にしていなかったけど、ましろさんがここに居るって言うことは彼は男なんだ。見た目だけじゃ全く分からなかった。
「久は現世のひとなんだよね?」
「え、よくわかったな」
「ましろとの会話を聞いてたらね。言葉が通じるのもあるし、黒髪だし……あとその衣。現世の学生が着るものだ」
僕もきてみたいな。露丸さんは期待した眼で俺を見た。制服くらいいつでも貸してあげられる。こんど着てみるか聞いてみたらうれしそうに頷いた。いつの間にか単衣すがたになっていた露丸さんを見て気が付いたことがあった。
「そういえば、今更なんだけど、皇族って他人に肌みせたら駄目みたいなのなかったっけ? 着替え手伝ってもらったりとか……現世だけ?」
「ああ、こっちにもあるよ。僕も内裏ではやってもらってる。ここだけとくべつ」
やっぱりそういうのはあるらしい。俺としては助かった。着替えとか風呂の世話なんて十年以上やってもらってない。この年になって、しかもたぶんだけど女性にやってもらうなんて耐えられない。
服を脱ぎ終わって腰にタオルを巻くと、白緑が小さな翼をはばたかせて俺のところまで飛んできた。小さい分巻き起こる風も少なくてなんだかかわいらしい。
「ビャクも入る?」
「きゅる」
入りたいらしい。そばにいた露丸さんはそれを見てにこにこしていた。
湯舟はとても広かった。檜風呂だ。洗い場らしきところを見つけて行ってみると、石鹸があった。蛇口らしきものもある。すこしほっとした。お城の形は平安時代を維持していると言っていたけれど、文明がどうなっているのかはさっぱりわからない。街を見てきたなら少しは把握できたのかもしれないが、おれは殺風景な森からましろさんの屋敷に飛んでいる。
桶にお湯を貯めて頭からかぶる。久しぶりのお湯はめちゃくちゃ気持ちいい。もういちど貯めると白緑が飛び込んだ。足がつかないと気が付いたのか、すこしだけ体をおおきくしてちょこんとお座りしている。目を細めて気持ちよさそうだ。
石鹸を泡立てて髪を洗う。水浴びはしていたとしても十日もあらってないものだから、なかなか泡が立たなくて苦戦した。近場にあった桶にお湯を貯め泡を落として洗って、を三回ほど繰り返してやっとすっきりした。体も何度か洗って、興味を持った白緑もあらって最後に一緒にお湯をかぶる。
ふと顔をあげると、少し離れた場所に座っていたましろさんがまだ髪を洗っていた。彼の髪は、露丸さんもだけれど長く、たてば尻が隠れそうなほどだ。むかし、まだ妹が小さいころ一緒にふろに入っていたときのことを思い出した。
「お手伝いしましょうか?」
「ん? よいのか」
「ちょっと失礼しますね」
ましろさんの後ろに立って、桶に少しだけお湯を貯め、そこに石鹸を溶かした。目をつぶってもらって頭からかける。手に石鹸をたっぷりつけて頭皮に触れるように指を入れる。頭のてっぺんが泡立てばあとは楽だ。
「痒いところはないですかー?」
「ないぞ。なんだ、それは美容院の真似か?」
「よく知ってますね」
「現世の観察が趣味なのだ」
「こっちから見られるんですか?」
「今は見るだけだ」
「そうですか。あやとりとか手遊びもそれで?」
「あれは上手くできておるな。一人でも楽しめるが、相手がおらねば出来ぬことがある。友を作れと言われているようだ」
ましろさんに友達がいないことはだろうが、現世の昔遊びを知っている人間はあまりいないだろう。一から教えるのもいいけれど、やっぱり知っている人とやりたい気持ちは出てくる。
心なしか表情が緩んでいるましろさんの髪を洗い流すと、気が付けばとなりに露丸さんがいた。目がキラキラしている。
「僕もやって!」
俺が湯ぶねにありつけたのは、露丸さんの頭を一から丁寧に洗った後だった。同じ体格で、同じような年頃の同性ではあるけれど、表情が純粋すぎて断れなかった。腕がだるくなったけど、気持ちよさそうな顔をしてくれたからよしとする。王子様相手に失礼かもしれないが、友達というよりは弟ができた気分になった。