3 現世と幽世
「まずはこの世界のことから説明しようか」
ましろさんはそう言って膝をついて俺のすぐそばまで移動し、人差し指をぴんと立てた。するとそのまわりに白い輪っかが浮き出る。魔法が使われているんだ。その指が空中を滑ると、まるで指からインクが出ているかのように輪っかと同じ色の線が生まれた。白緑以外が使う魔法をまじかで見るのは初めてだ。楕円がふたつ上下に並んでいるのをみつめていると、ましろさんがくすくすと笑った。視線を合わせると表情は変わっていなかった。
「珍しいか?」
「そりゃあ、まあ。俺のいた世界にはこんなのなかったんで」
「今は特にそうだろうな」
「いまは?」
「ああ、そういえば今は楷書ばかりが使われておったな?」
「はい」
気になる物言いをして、ましろさんは楕円の中に文字を書いた。俺が見やすいようにか鏡文字になっている。とても整った字だった。器用な人だ。上の楕円には『現世』、下の楕円に『幽世』と書いて、ましろさんは空いた手で上の楕円を指さした。
「読めるか? 現実の世界、と書いてあるほうがうつしよ、もうひとつはかくりよ、と読む。この現世のほうが貴殿のいた世界、幽世は今いる世界のことだ。倭国ではおとぎ、と呼んだりもする」
幽世の下に小さく『御伽』と書き足された。おとぎ、おとぎ話からとっているのだろうか。
「我らのいるこの世界は、現世に生きる人間から生み出されたものなのだ」
「人間が?」
「さよう。人間の想像や空想から、と言ったほうが正しいか。現世の人間は昔から空想が好きだろう? 祖国、現世で言う日本であれば古事記であったり日本書紀であったり、桃太郎などの童話もそうだな。他国なればギリシア神話、グリム童話、人間が生み出し、文字や絵として残した空想は数え切れぬ」
今だってフィクションは好まれているし、おれがこうやって説明を聞いている今の間にも、新しい空想が生まれているのだろう。
「生きていれば、ああだったらいいな、こうなればいいな、なんて考えたりもする。病魔をあやかしに例えたりもする。想像の力というものは大きゅうてな。祖国にはちりも積もれば、ということわざがあるが、どんなに些細なことでも、数が多ければ形となる。そうやって太古の昔から人間が想像し続けた結果、幽世が生まれた」
ましろさんは幽世の楕円のまわりに集中線を書いた。ひらがなでおぎゃあ、と赤ちゃんの泣き声も添えている。それも鏡文字になっていた。真顔でそんなことをされると、笑っていいのかどうなのかわからない。
「ゆえに幽世には、人間が空想した、現世では実現できないものはたいていある。科学ではどうにもならないものばかりがな。貴殿の竜もそうだ。魔物も妖怪もおるし神も実在する。八百万すべてだ。ここからは見えんがな、空の高い高ーいところに高天原があるのだ。他国にもそれぞれ生み出された神々が住んでおるぞ。魔法もあるだろう? 私がいまこうやって宙に字を書いているのも魔法の力だ。この世界では魔術、魔導と呼んでいる」
図に高天原を書き足したましろさんはそのまわりに「やんややんや」と書いた。それだけで神様たちがどれだけにぎやかにしているのかよく分かった。
「幽世は現世の影響を受けているが、国によって基になった現世の国がある。どの国でも創世の物語というものはあるな。その物語の力によって、幽世はいくつかの国々に分かれた。倭国なら、日本の古事記がそれにあたる。我々が日本のことを祖国、と呼ぶのは」
「祖となった国、だからそのままそう呼んでるんだな」
「その通り。理解しているようで助かる」
ましろさんは満足げにうなずいた。図もあるし、丁寧に説明してくれているからよくわかる。竜がいて、魔法があって、と来ているせいか、不思議なことばかりでもちゃんと飲み込めた。目の前で起こっていることを受け止められないほど頭は固くないつもりだ。
「日本のもとになっているとはいえ歴史まで同じではないぞ。生きている人間が違えば文明も違うのでな。倭国には倭国の、幽世には幽世の歴史がある。国の名前が変わっていないところからわかってもらえるとは思うが」
ましろさんが腕を振ると、書いていた図はすべて消えた。幼い指がまた新たな図形を書きだす。現世があったところに簡単な日本列島が、下にも同じものができた。上には日本、下には倭国と文字が添えられる。
「さて、何度も言うようだが倭国は祖国の影響を強く受けている。祖国の空想の、と言えばよいか。空想でなくても祖国中が同じような、たとえば疫病が流行っているとすれば、倭国にも同じ病に侵されることがある。これは特別多いわけではないが」
図に悪い顔をした雲みたいなものが増えた。ましろさんは結構可愛らしい絵を描くみたいだ。
「今の話を踏まえて考えてほしい。もし、祖国の人間が、政治や世界の動きによって、たくさんの不安を覚えたらどうなると思う?」
「……悪いことばかり想像する?」
「そうだ。すると、それは形を変えて倭国に具現する」
指が宙を滑る。太陽の下で苦しむ人間だったり、大雨で流される建物であったり、机の下で震える子供、恐ろしい顔をした動物らしきもの、そして先ほどの描かれた病魔がもうひとつ出来上がった。
「国の不安は天災や、凶悪な魔物となって現れるのだ。日照り、洪水、地震、病魔、なんでもいい。幽世に生きる人間の安心を脅かすものだ。国の魔術師や魔導士で多少被害は抑えられるが、限度というものがある。恵みをもらえることももちろんあるがな。他国とのいさかいがないわけではないが、この世界では現世からの影響にどう対処するかが、どの国でも一番の問題になっておる」
つまりは俺たちのせいでこの世界の人たちがすっごく迷惑してるってことだ。俺だけのせいではないけどひたすらに申し訳ない。小さく謝ると、ましろさんはころころと笑った。
「貴殿のせいではなかろう? さきほども申したが、人間生きていれば不安の一つや二つあるものだ。それにな、中里殿が思っているほど被害はないぞ。この世界には魔の力がある。さすがに人は生き返らんが、大地が割れればつなぎ合わせられるし、家が壊れればまた建てればよい。倭国は魔力を扱う技術に優れておるからな、これでも他国に比べれば被害はずっと少ないのだ」
小さな手が俺の膝をそっと撫でる。見た目は俺よりずっと幼いのに、言葉や仕草は何倍も大人びている。姿が小さいだけで、もしかすると成人してだいぶたっているのかもしれない。
ましろさんはしかし、と区切って腕を組んで見せた。目をつぶってうんうん唸っているが、眉間には皺ひとつ寄っていない。
「被害が抑えられていようと、民が不安に思うことには変わりない。はてさて、どうするか……そこでやっと貴殿の出番だ、中里殿」
「え、俺?」
突然指名されてびっくりした。さきほど注意されたからか、俺に向けて腕をつきだしてきたましろさんの手はぐっと握られている。おつきのひとの片方ははあ、とため息をつき、もう片方は口元に手をやった。笑っている。白緑がおとなしくしているせいか、初めの緊張感はどこかへ飛んで行ってしまったようだ。
「正しくは竜使いの出番だ。幽世には、現世の空想から生まれたというのにその影響を受けない生き物がいる。神々もそれにあたるが、奴らはわれらに手を貸さぬので除外だ。その生き物たちを総称して竜と呼ぶ。中里殿の竜は西洋のなりだが、竜はさまざまなかたちをしていてな、一番西洋の形をしているものが多いから竜と呼んでいるのだ。竜はその場にいるだけで厄災をおおきく退けることができる」
「はあ」
「反応が薄いぞ。竜は恐ろしく巨大な力を持っているためか、人間には従わぬ。だがたまに、気に入った人間に従うことがある。それが竜使い、つまり貴殿のことだ」
「いや、俺はそんなんじゃなくて、白緑がおれの世話をしてくれていただけであって……」
「気に入られた人間が竜を名付け、竜がそれを受け入れれば主従は完成するのだぞ。それに、基本的に人間に興味を持たない竜が、ただの親切心でそんなことをすると思うか? せんのだ。どれだけぼろぼろになった幼子が目の前に居ようと、竜は情けをかけたりはしない。邪魔ならば容赦なく殺すのが竜という生き物だ」
ぞっとした。思わずいまだ肩に顎を乗せる白緑をみつめてしまう。俺に甲斐甲斐しく世話をしてくれて、たくさん甘えてきたこの優しい生き物は、簡単に人を殺せる力を持ち、実行してしまうのだという。白緑は美しい金の瞳でじっと俺を見つめ返した。怖くなった? 嫌になった? 問うようにキュルルと鳴き声をあげる。試されているみたいだった。自分の実態を知った俺が、どんな行動に出るのか観察している風だった。
正直、白緑がそんなことをするなんて、きっと実際に目の前にしても信じられない。それくらい、この十日余りは濃くて、信頼するに値する日々だった。そっと、白緑の首に触れた。逆鱗がないのはもう確認している。ひんやりとして、それからだんだんとぬくもりを感じる、生きているものの感触だった。
もしも白緑がそんな行動をしそうになったのなら、俺が止めればいい。人間を殺してはいけないのだとゆっくり教えてやればいい。ただそれだけのことだった。本性を知ったからと離れるには、俺はこの竜にすっかり情が沸いてしまっていた。俺から頬を擦りつけてみると、白緑は嬉しそうにのどを鳴らして応えた。
「おお、すっかり懐かれておるな」
「きっと、俺のほうが白緑に懐いているんです」
「! ふふ、そうかそうか」
ましろさんはまた、袖で口を隠してころころと笑う。ぱっちりと開かれている目が、ほんの少しだけ緩んでいるように見えるのはきっと気のせいじゃない。手をおろすと、ましろさんは表情を引き締めて姿勢を正した。可愛らしい絵がふっと消える。
「して、貴殿が求めた知識は伝えた。概要はわかってもらえただろう。そのうえでもう一度貴殿に乞う」
ましろさんの声音は、いままでに比べてほんの少しだけ硬かった。
「どうか、倭国の民の安寧となってもらえぬだろうか」
俺の答えは決まっていた。白緑を見る。竜は、俺の考えに賛同するように頬を舐めた。
「……俺のできる限りなら。俺が、元の世界に帰るまででいいなら喜んで」
「有難う」
ましろさんは、はっきりと微笑んでゆっくり頭を下げた。洗練された、きれいな所作だった。下げたときと同じようにゆったり顔をあげたましろさんは、こて、と首を傾げた。
「現世に帰るという話だがな、おそらく無理だと思うぞ?」
「は?」
「千年前ほどまでは、成功率は限りなく低いもののできてはいたが、今ではまったくうまくいかず、試すものすらおらん。幽世は現世の空想を受けいれるばかりだ。正直貴殿がなぜ幽世に落ちてきたのかもとんと検討がつかぬ」
「……え?」
「もちろん国で手は尽くそう。中里殿は倭国の竜使いとなったのだからな。倭国の魔術師、魔導士の総力を結集して実験をするが、おそらくしばらくは無理だ。気長に待たれよ」
ははは、と笑うましろさん。俺の視界は真っ暗だった。いまのが、今日一番の衝撃だよ。