2 サバイバルもどきと白い子供
竜はまるで世界を見せつけるかのように、ゆっくりと大きく円を描いた。俺が行こうとしていた川の上流を、そして下流をのろのろとしたスピードで飛び回る。人なんていないでしょ。そう言われているように感じた。たしかに人はいなかった。黄色い帽子も、赤いランドセルも、小さな靴だって見当たらなかった。川の水はただただ透き通って、太陽を反射してきらきら輝いているのみだった。
十分ほどそうしたあと、竜はゆったりと滑空を始める。目指すのは一番近くにあった木のない野原だった。数度はばたいて、その真ん中に降り立つ。重みを全く感じさせない着地だった。振動もほとんどない。俺を気遣ってくれたのか。混乱しているなかでもそれははっきりとわかって、首を撫でるとまたごろごろとのどを鳴らした。
竜から降りると、足がふらついた。驚いて竜の体に抱き着く。足に力が入らなかった。高いところにいた怖さがいまさら襲ってきたのか、それとも。高所恐怖症ではないからきっと後者だろう。背中を竜に預けながらゆっくりと腰を下ろした。なにもわからないのは、けっこうつらいんだと身をもって実感した。自分が何をすればいいのか見当もつかないし、先がまったく見通せない。
女の子を見つけないと、という気持ちはもちろんある。けれど、見つけたあと、俺はどうしてやればいいんだろう。今いる場所もわからない、どこへ行けばいいのかもわからない今の状況で、一緒にいてやったところで彼女に出来ることはほとんどなかった。気分がどうしても重苦しくなる。肺から息を吐きだすと、暖かく湿ったものがなぐさめるように頬を撫でてきた。金色の大きな瞳と視線がかち合う。
「……ありがとう」
「キュルル」
鼻筋を俺の顔に押し付けてから、竜は俺を囲うようにして野原に腹ばいになった。長い尾がぱさりと揺れて俺の太ももあたりにくる。撫でてやると、ぱさんぱさんと軽く地を叩いた。猫や犬みたいだ。なんだかおかしかった。この空想上の生き物がいるから、俺はまだ少しは元気でいられる。
伸ばした足のそばに、竜が顎を置いた。ごろごろと甘える音が響いている。龍はじいっと俺を見たあとにまぶたを閉じた。寝ろ、と言われているみたいだった。さっきからなんとなく竜の意思がわかるような気がする。仕草や行動もあるけれど、それを抜きにしても、二つの金色を見れば何が言いたいのか、どういうつもりなのかが大まかに理解できるのだ。
すべてやることを済ませたあとの、暇な時間が好きだった。心置きなくぼーっとできる。寝てもいいし、本を読んでもいい。もちろんなにもしなくていい。どうしようもなくつまらない時間が好きだった。なにかものを頼まれることが多くて、あまりその時間は取れなかったんだけど。
何をすればいいのかわからない時間は嫌いだった。はやく動かないと、と妙に心がざわざわする。やることはあるはずなのに、どう手をつければいいのかわからない。目的がはっきりしない。まわりに人がいる場合は指示を仰げばいいけれど、そうでないとき、ただただ突っ立っているのが嫌いだった。今みたいな時間だ。
竜の体に沿うようにしてあおむけに寝転んでみる。空は青くて、やっぱり近かった。太陽はまぶしかった。目の上に腕を置くと、掌を舐められた気がした。
***
しばらく龍とふたりだけの生活が続いた。食べ物は、森の中の果物ですませた。幸いにも、サクランボみたいに生っているの小ぶりのりんごっぽいのとか、三つも四つも連なっているみかんっぽいのがあったからどうにかなった。食べられないものだったり不味いものは竜が教えてくれるから、さほど困らなかったように感じる。飲み水に関してもそうだ。ただ、飲食したときに、果物が食堂を通っていくのが妙にはっきりと分かったのが不思議だった。風呂や洗濯まがいのこともできた。竜が連れてきてくれた野原の近くには小さな湖があって、そこで水浴びと、服のもみ洗いをしていた。濡れた体や服は竜が風を起こして乾かしてくれるから、すぐに制服を着られる。寝るときはいつも野原だったけれど、すこし体が痛くなるくらいで、竜がそばにいてくれるからとくべつ寒いと思うようなことはなかった。サバイバルって言うのが申し訳ないくらいの快適さだ。竜がいなかったらきっと俺は死んでいたんだろう。
生活を続けたうえでわかったことがある。俺が今いるこの世界がおそらく地球じゃないってことだ。竜と一緒に空を飛んだあの日から、やっと受け入れられるようになってきた。りんごっぽいのやみかんっぽいのとは別に見たことのない果物や、動く植物があったのもそうだし、そもそも空想上の生き物である竜がいる時点でその線は濃厚だ。極めつけは竜が、俺の服や体を乾かすときに魔法らしきものを使うことだ。羽ばたいてもいないのに風が起こる。しかも風が起こる前に竜のまわりに薄緑の円が浮かび上がるのだ。初めて飛んだときに見えたのもきっとこれだったんだろう。はったりとかインチキじゃない、不思議な力のある世界。ゲームや漫画にある異世界ってやつだ。夢なんじゃないかって疑うのはやめた。いっしょにいてくれる竜は明らかに生きている。幻なんかじゃない。それに感覚の一つ一つが生々しくて、これが夢だったら俺はもう何も信じられない。
ふたりだけで生活し始めて二、三日が経ったころ、また女の子の捜索を始めた。川には居ないとわかったから、森のなかを歩き回った。今ならなんとか食事もあるし、水浴びしかできないけど体の汚れも落とせる。できることはあると判断して動き出したのだけど、彼女はやっぱりいなかった。竜も手伝ってくれていたが、人ひとりすら見当たらない。数日つづけてもいなかったからあきらめた。この世界に飛ばされたのはきっと俺一人だったんだ。そう自分に言い聞かせることにした。それでも、森の探索は続けている。竜に土地勘があるから、どこにいっても見慣れた野原には帰ってこれる。すべてこの子のおかげだった。
ずっと竜、と呼ぶのはなんだか味気なくて、からだの色からそのまま白緑と名付けた。たしか白い緑と書いてビャクロクと呼んだはずだ。大学は日本画を専攻したいと言ってる美術部の友達が持っていた絵の具のひとつがそんな名前で、竜と同じ色だった。白緑、とそのまま呼ぶのはあまりなくて、大体がビャク、だとかロク、だとか分けて呼んでいる。自分の名前だとわかるらしく、白緑はどんなふうによんでも嬉しそうにのどを鳴らした。
いつの間にか、この世界に来て十日が過ぎていた。はっきり数えたわけではないから明確な日数はわからないけれど、それぐらいは経っていると思う。すっかり見慣れたいつもの野原で、ずっとこのままなのかと少し不安になりながら白緑とサクランボみたいなりんごを食べていたときだった。いつもは俺の手から果物を食べてはすり寄ってくる白緑が、不自然に顔をあげた。
「ビャク?」
俺が呼んでも反応を見せずに、白緑は腹ばいになっていた上半身を起こして、初めて会ったときのように座る。穏やかだった雰囲気が一気に鋭くなった。こんな白緑は初めて見た。なにか、危険なものがくるんだろうか。一気に不安になって、俺は食べるのをやめ、立ち上がって白緑に体を寄せた。慣れた感触が少しだけ気を落ち着かせてくれる。それでも、いつにない白緑の態度はぐらぐらと俺を揺さぶった。
白緑はじっと俺たちのいる場所の一直線上をみつめていた。ときおりぱたりととがった耳が揺れる。何か聞こえるんだ。俺は白緑と同じ場所をみつめながら必死に耳をすませた。しばらくは風と木の葉が揺れる音しかしなかったが、だんだんと、人の声のようなものとともに風のせいでなく葉のこすれる音が聞こえてきた。はっと身を固めると、白緑がゆったりと俺に頬ずりした。大丈夫、と言われた気がした。
「、ぉ……じゃ」
声が近付いた。体が震える。ぶわん、と羽虫が耳の横を通ったときのような音がして、ひときわ大きく視線の先の木の葉が揺れた。
それは、初めて白緑が魔法を使ったときに似ていて、少し違った。
木が、ひとりでに動く。あそこに動く植物はいなかったはずなのに、ざわざわと歯を揺らして、木が左右にしなる。道を開けるようにしてぱかりと左右に割れた木々の奥に、三人の人がいた。三人とも日本の着物らしきものを着ている。服も髪も肌も何もかも真っ白な子どもが一人と、その後ろに大人が二人。子どもの足元は緑色に光って、複雑な模様を描いていた。この世界に来て初めて見た人間だった。
「とうぐ……!」
三人は俺と白緑をみとめて、息をつめたように見えた。遠くからでもわかるくらいに顔をこわばらせている。危険そうな生き物でないことにはほっとしたけれど、まだ安心できない。ゲームや漫画の知識ではあるが、そのなかでは竜はだいたいが討伐対象か危険性物として恐れられている。子どもの足元が光っているということは、あの子は魔法が使えるのだろう。後ろの二人は武器らしいものを携えている。ずっと俺の世話をしてくれていた白緑に危害を与えないという確証はなかった。今の俺にとって、やっと会えた人間よりも一緒にいた白緑のほうがずっと大切で、安心できる存在だった。
ゆっくりと歩いて白緑の前に出る。声をかけることはしなかった。言葉が通じるとは思えない。俺の語彙は日本語と学校で習う程度の英語だけだ。そもそもここは異世界だから、俺のもっている常識が通用するわけがない。白緑がきゅるる、と鳴いて俺の肩に顎を乗せた。ぺろりと頬を舐められる。怖くないよ、大丈夫だよ。そう伝えられて、けれど安心はできなかった。俺は三人を見据えたまま、白緑の鼻筋を撫でた。
膠着状態は続かなかった。始めに子供が動いたからだ。子どもは分けられた木の真ん中を悠々と通って野原まで歩いてきた。後ろの男たちが慌てて付いてくる。子どもが軽く手を振ると、木々はゆったりと元の形に戻った。
子供はじっと白緑をみつめ、俺に視線を移したかと思うと小さな体を少し反らして息を吸い込んだ。
「お初にお目にかかるー!」
子供の口から飛び出したのは、俺の聞き間違いでなければ、堅苦しい日本語だった。
「私は倭国皇族目付け役のましろと申すものー! 後ろにおるのは私の家来、危険はござらん。そちらに行ってもよろしいかー!」
「えっ、は?」
まさか日本語が聞けるとは思えなくて、そのうえ近付く許可を求められるとは少しも考えていなかった。どうするべきかまったくわからない。そもそも俺が応えるべきなのかもわからない。白緑をみると、竜は金の瞳を細めて喉の奥だけで鳴いた。俺はおそるおそる声を出した。
「ど、どうぞー?」
「ありがたい!」
子供は無表情のままぱ、と両腕をあげると、とてとてと走ってきた。家来だという二人が困ったような、こわばった表情で続く。一メートルほどまで来たところで、子供はきれいな動作で正座した。男たちは片膝を立てて腰を下ろす。つられて俺も野原に正座した。
近くで見ると、子供はますます白かった。血管が透き通って見えるのではと思うくらいに白い肌と、同じく白い髪、そして瞳まで白かった。色がついているのは髪留めの金色と、服の裾の装飾、それから瞳孔の黒のみだった。幼いながらに整った顔とあまり動かない表情のせいで人形みたいに見える。
子供はまっすぐに俺を見た。
「もう一度名乗り申し上げる。私は倭国皇族目付け役のましろ。貴殿は?」
「えっと、中里久、です」
「ふむ。中里どのは祖国のものであろうか?」
「祖国?」
「その反応、祖国のもので間違いないな。見目にも名にも覚えがない……その見目を持っていて、私が知らぬわけがないからな」
全く話が読めない。祖国ってどこのことだ。皇族目付け役、という肩書から、この子供が見た目に反して偉いお役目をもらっていることはわかったけれど、逆に言えばそれくらいしかわからなかった。
「なにより言葉がその証拠よ。だろう? 理市」
「私に振らないでください……」
子供の斜め後ろに控えていた男のひとりが眉を下げて言った。それだけで関係がなんとなくだけど読める。この子、周りを振り回すタイプだ。
子供はひとりでうんうん頷いて、そうだと言わんばかりに手のひらをこぶしで打った。
「中里どの、その竜に名はあるか?」
「白緑、俺が付けたものだけど」
「ほう! 竜はそれを受け入れている?」
「呼んだら反応はくれます」
「それはすばらしい!」
子供は小さな掌で拍手した。なにが起こっているのかさっぱりわからない。白緑を見るときょとんとして首をかしげている。なにがわからないのとでも言いたげだった。男たちはぽけっとしながら俺を見ていた。状況が飲めないという顔ではない。理解できていないのは俺だけらしかった。
「なに? どういうことですか」
「貴殿は竜に選ばれた竜使いということだ」
「は?」
びし、と格好つけて指をさされても意味がわかるわけじゃない。人に指さしたらいけませんよ、と家来に注意されて、子供はおおう、と間抜けな声をあげて手をおろした。そうして流れるように話し出した。
「中里殿」
「はい」
「倭国の竜使いになっていただけぬか」
「竜使い?」
「我らの国に来ていただければ衣食住は約束する。知識は望むだけ与えるし、金にも糸目は付けぬ。都を離れられては困るが、旅行程度、国内ならば存分に許可しよう。倭国は豊かな国だ。すこしばかり不自由はあるかもしれんが、それを補って余りある生活を保障しよう」
プレゼンを始めた子供は変わらず無表情だったが、声には熱が入っていた。勢いも異常なほどに感じられる。見た目との差が不気味だった。そのわこく、というところがどれほどいい場所かと熱弁されても、その前提が理解できていないのだから話にならない。
「どうだろうか? ああ、もしかしてもうほかの国に雇われているのか? それなら……」
「まってまって」
「なにか? もちろん俸給はあるぞ」
「そうじゃなくて」
やっと子供は口を止めた。後ろの二人がどんよりしている。どんよりしたいのは俺のほうだ。俺は息を整えてからゆっくりと、子供の頭にしみこむように言った。
「まず祖国とか、わこく? とか、この世界についてとか。一から説明してくれませんか……」
「おお、そうだったそうだった。中里殿は祖国のものだったな」
「そっちが先にそう言ったんだろ……」
袖を口元にあててころころ笑う子供は可愛らしかったが、どっと疲れが増した。白緑がすり寄ってくるのだけが癒しだった。