1 流されて異世界
ありふれたものに則った筋書、能力、場所、ひと。
与えられるものはじゅうぶんに授けた。あとは見守るだけだった。
「どうなるかな」
「楽しみだね」
なにせ創世以来のできごとだ。この先がどうなるかは、神様にだってわからない。ありふれたものと同じ道をたどるのか、はたまた一風変わったものを産むのか。ここまで干渉したのは初めてだけれど、どっちに転んでも悪くはならないだろう。そういうふうに作った。
「ここからが本当の始まりだ」
「苦難はとうぜんある。いつの日か、かならず悲嘆にくれることだろう」
「そのうえでつかみ取るといい」
「頑張れ我が子」
「まけるな我が子」
「それが生きるというものだ」
***
目が覚めると、なんだか空が近かった。さわやかに吹く風にそよぐ若葉がその端っこをちらつく。陽の光はぽかぽかと暖かくて、何もなければ今にも居眠りをしてしまいそうなくらいに心地いい。まぶたを閉じそうになって、体が震えた。足が異様に冷たい。
上半身を起こすと目の前に川があった。両足がくるぶしあたりまで浸かっている。そりゃあ冷たいわけだ。すぐに膝を曲げた。靴下はぼとぼと、学校指定の革靴はたっぷりと水を貯め込んでいる。気持ち悪い。革靴から水を出し、さっさと靴下を脱いで絞る。スラックスのすそも濡れているけど、パンツになってまで乾かす気にはなれなかった。靴下をそろえた革靴の上にのせて、そこでやっと目が覚める前に自分が何をしていたのかを思い出した。
「……そうだ、俺」
増水した川に飲み込まれたんだっけ。
傘をさしても意味がないくらいの豪雨のなか、普段の穏やかさが嘘みたいな激しさを見せた川のそばで、小さな女の子と一緒に。目を閉じるとおかしいくらいに増水した川が浮かんだ。低い壁みたいな水の塊は、逃げる隙も与えずに俺に襲い掛かってきた。腕の中には小学生の女の子がいて、俺はぜったい離してやるもんかと思って、小さな体を抱き込んだ。せめて女の子だけでも堤防まで上げてあげられたらよかったんだけど。川に体を持っていかれたときの衝撃を想像して、けれどいまいち現実味がわかなかった。あまりに強すぎて記憶が飛んでいるんだろう。
それにしては、体の痛みは全くと言っていいほどになかった。ぬれていると言っても、先ほど確認した両足くらいで、川に飲み込まれたはずなのにその他のところは湿ってすらいなかった。あのときは帰宅途中で、今は太陽が真上にある。気を失っているあいだに水に触れていないところは乾いたんだろう。夜に目が覚めなかったのはラッキーだったのかもしれない。というかそもそも、あんな濁流にのみ込まれて生きてるだけでもうけものだ。
生きている、そう考えたとたんに女の子の行方が気になった。俺が見つけた、豪雨なのに川のそばでじっとしていたあの危なっかしい小学生。あたりを見渡してみても、あの子のすがたはなかった。
死んでしまった、のかな。不吉な想像をしてすぐに取り払う。俺が生きているんだから、あの子だって生きてるはずだ。きっと、周りに誰もいなくて寂しがってる。探してあげないと。靴下をつかんで濡れたままの革靴に足を突っ込んだ。気持ち悪いけど、裸足よりはましだ。
とりあえず川の流れに沿って行ってみることにした。俺の身長は高校生の平均くらいだからたまたま岸に引っかかったのかもしれないが、女の子は小さかったからさらに流されている可能性がある。何日経っているのかわからないけど、彼女の目が覚めていないのであれば、周辺を探していればきっとみつかる。そう思って捜索を始めた。
見えるのは川と木ばかりだった。五メートルくらいの幅がある川に少しの砂利、そこからは木ばかり生えている。俺がいるのは森のなからしい。こんなところあったっけ。小学校のときに地理でならったとき、俺が流された川はたしか海につながっていた。いかんせん十年前ぐらいの知識だから自信はないけれど、こんな森のなかを挟んでいたような覚えはない。すこし不気味さを感じながらくまなく探す。あの子のすがたはなかった。体どころか靴も黄色い通学帽子も赤いランドセルもなくて、正直安心できるのか不安に思えばいいのかわからなかった。彼女の持ち物があれば手掛かりにはなるが、なんとなく、嫌な考えが頭をよぎってしまう。トトロを思い出す。あれは結局めいの靴じゃなかったんだけど。
三十分くらい歩いたけれど、女の子は見つからず、川が途切れたり二股にわかれたりすることもなかった。同じ太さのままずっと続いている。砂利道のせいで足が痛くなってきた。革靴の形が崩れている。まなじりをあげる母さんの顔が浮かんだ。しかたないなあ、って眉を八の字にする父さん、どんくさいんだから、と背中をたたいてくる妹、家族の反応がつぎつぎに頭をよぎる。心配してるだろうな。少なく見積もっても一日は経ってるわけだから、もしかしたら捜索願とか出されているかも。急に体が冷たくなったような気がした。濡れてる靴を履いているせいじゃない。
早く帰りたい。あの日の夕飯は妹が作るって張り切っていたのに。絶対に雨が降ると予言めいたことを言ったのも妹だった。忘れそうになった傘を持たせてくれたのは母さんだった。父さんは俺よりも先に家を出るから、俺は寝起きの顔で行ってらっしゃいと言った。次の日は数学の小テストだったから、それを友達に教える約束をしていた。代わりに英語を教えてもらう予定だった。約束、守れなかったな。
思考が暗くなるにつれて俯いていくのに気が付いた。足が止まっている。ぼろぼろになっている革靴と、濡れたスラックスの裾が目に入った。こんなんじゃだめだ。あのとき、女の子をどうにかしようと思ったのに後悔はない。助けてやれるようなタイミングじゃなかったのに動いたのにも後悔してない。あの時はあれでよかった。俺のいまやることは、女の子を見つけることだ。
息をついて、背筋を伸ばして顔をあげた。
川の向こう岸に、白い塊がいた。
「……え」
正しくは、それは白ではなかった。大量の白い絵の具に少しだけ緑を混ぜたような色をしていた。あきらかに俺よりも大きかった。首は長い。胴には蝙蝠のものをもっと逞しくしたつばさが付いていて、四本の足で、犬のようにおすわりしていた。尾もある。顔は、鼻先が犬よりも突き出ていて、瞳は大きい。頭には二本の角が、額に沿うように伸びている。そしてその体のほとんどが、うろこでおおわれていた。
俺はその生き物を知っているけど、知らない。だってこれは、竜は、空想上の生き物のはずだ。
竜はじっと、その大きな金の瞳で俺を見ていた。怖いと思う気持ちはたしかにあった。でもそれよりも、目にはめ込まれた金色が綺麗で。俺は動かないままそれを見返していた。まばたきをするたびに金色が太陽の光を受けてきらきら輝いた。敵意はないんだと、直感した。
竜がゆっくりと立ち上がった。折りたたんでいた翼を広げて一度だけ羽ばたくと、のそりのそりとこちらに向かって歩いてくる。川なんてものともしない。逞しい足で、数歩で渡り切ると、俺の目の前に来て、またちょこんとお座りした。俺が動く前に、竜は首をゆったり下げて俺の顔に頬ずりした。鱗はひんやりして、でもどこか暖かかった。その感触が、目の前の存在が実在しているんだとはっきり言ってきた。
これは夢なんだろうか。そっと手を伸ばして竜の首に触れる。硬くて冷たい。ごつごつしている。けれど岩を触っているようなとげとげしさは無く、ただなめらかだった。指先で感じるすべてがなまなましくそこにあった。これは現実なんだと、受け入れろと俺の頬をぶった。
バイクのマフラー音のような音が竜から聞こえる。猫みたいにごろごろ言っている。竜は頬ずりをやめて俺の腕に顔をすりつけた。撫でろ、と催促されてる。首から頬に手をやると、竜は金の瞳を細めた。うれしいのかもしれない。仕草がどうしようもなく愛らしく見えた。
「……おまえ、どこから来たの」
なんとなく声をかけてみると、キュルルと高い声で鳴いた。一度かわいいと思ったらもうだめだ。頬が緩んで仕方ない。角と角のあいだを撫でてやるともっともっとと言わんばかりに鼻をあげた。かわいい。現代に存在するとかしないとかどうでもよくなってきた。かわいいは正義ってこういうことだ。竜は人懐こい生き物らしい。
ひとしきり撫でてからはっとする。こんなことしてる場合じゃない。
「あの子を探さないと」
このまま川を下っていくのもありだけれど、上流を探してみてもいいかもしれない。とっくに目が覚めて川から離れている可能性もある。ひとりでうんうん唸っていると、竜が袖だけを器用に噛んで引っ張った。そうしてゆっくりと首を地面に近付けていく。上目づかいで俺を見た。乗れってこと?
「……もしかして、探してくれるのか?」
竜は高く鳴いた。言葉が通じているのかはわからないけど、早く乗れ、と言われているように感じた。ずっと掴んだままだった靴下を慌ててポケットに突っ込み、竜の首に手をかける。さらに体勢が低くなった。やっぱり乗せてくれる気なんだ。翼を蹴りつけないように気をつけて首の根本あたりにまたがる。すると、竜の足元に一瞬、からだと同じ色の輪っかが浮き出たように見えた。
「う、わ」
そこからは驚いている暇もなかった。前触れなく強い風が吹いて、竜が翼を広げる。飛ぶんだ。俺が首にしがみつくと同時に、竜の体がふわりと浮き上がった。ばさりと翼が動くと、高度がぐんとあがる。プールのスライダーの頂点くらいまで浮かんだところで、竜はぴたりと静止した。
そこには、俺の想像していたものはなかった。
「あれ……?」
見渡すかぎりに森ばかりだった。たまに円形に木がない場所もあるものの、植物に覆われていることには変わりない。滝らしきものがあったり、遠くのほうに街っぽいものがあったりはするが、それまでだ。どれだけ遠くを見ても山が連なったり、なんとなく海が見えたりするだけ。
コンクリートの建物なんて、五階建て程度のビルですら、どこにもなかった。
川に流されてここまで来たのだと思っていた。川の流れに逆らって歩いて行けば、知らない場所であろうと現代日本らしいところにたどり着けると思っていた。お金や携帯が手元になくても、人が川に流されたらニュースになるから、どうにかして保護してもらえると思っていた。
でもそれはすべて、ここが日本であるという前提があればこそだ。
さきほど飲み込んだばかりの現実が頭を殴る。俺がいままたがっている生き物そのものが、夢だなんて妄想をさせてくれなかった。
ここは日本じゃない。川に流されて外国まで来たなんてありえない。
「ここ、どこ……?」
俺はいったい、どこにいるんだ。