1
平穏なんて簡単に崩れる。
そのとき、優は改めて思い知った。
一日の授業を終えて校門を出たところで、優は先に広がる光景を見て思わず立ち止まる。
そこに女神が、いや、悪魔が降臨していた。
学校の前の歩道。下校する生徒で溢れ返り、地味と不評の濃紺のブレザーが景色を埋め尽くしているが、彼女一人、制服なんかお構いなしの眩い光を放つ。周りの男子や女子もチラチラ覗き見ては溜息を吐き、沿道の桜さえ彼女に惹かれてピンクの花弁を散らしているみたいだった。
やっぱり綺麗だな……。優は見惚れ、しかし我に戻って全身の血の気が引く。もうすでに遅かった。
彼女はふと振り返ると、優の存在を発見。「あっ」と声を上げ、ぱたぱたと駆け寄って来た。来てしまった。
「偶然だね、優。今日は一人?」
優の目の前で、にこりと微笑む少女。
彼女の名前は空乃結月。優とは十五年来の付き合いになる、いわゆる幼馴染だ。
その長く艶やかな黒髪が、陽射しを受けて輝きの粒を湛えていた。真っ白で小さな顔はすっぴんでも抜群に整っており、形の良い眉の下では二つの瞳は驚くほどに明るく煌めく。背はすらっと高くモデル体型で、ふわりと春風に揺られるとそのまま溶けてしまいそうな可憐さが零れている。
抜けるような青空と桜吹雪をバックに立つ今の姿など、ほとんど一枚の絵画。
まあ、どうしたものか、優なんていう平凡な少年と共に育ちながら、幼馴染の結月は絶世の美少女に仕上がっていた。
とはいえ、
「ん、どうしたの、固まっちゃって」
「あっ、その、うん! なんでもないよ。あの、偶然だね、あははは……」
優は彼女の登場を素直に喜べなかった。取り繕う顔面も僅かに固い。
美少女の幼馴染……これが贅沢な立場ということは優自身分かっている。それはもう友人からも羨ましがられるし、こんな気さくに声までかけてもらえるなんて客観的に見ても幸せすぎる。それは重々承知している。
しかし、それでも、なぜか――こうなってしまう。
彼女を目の前にして湧き上がる気持ちを、優はなんとか抑えようとした。幼馴染に対して抱いてはいけない感情。でも、無理だった。強く想っても、それは胸の奥の方からゾクゾクと這い上がって来て全身に細かな穴を開けるようにのたうち回る。
「ちょっと、優……本当に大丈夫? 顔、青くなってない?」
心配そうな表情を浮かべる結月は相変わらず可愛い。
優はその美貌を視界一杯に入れ、思った。
……うん、綺麗だ。でも、怖い。
この感覚は優以外には中々理解出来ないものだと思う。優しく、美人な幼馴染が怖いのだ。見た目も態度も行動も、どこにも棘はないのに怖い。傍に寄るだけで思考は恐怖に支配され、なぜか寒気や鳥肌も止まらなくなってしまう。
この原因は本人にも分からない。周囲の嫉妬の目が突き刺さっているせいかもしれないし、思春期になって異性を意識するようになった下半身が震えているせいかもしれない。
ただ、とにかく。
今の優にとって結月は女神であり悪魔。あまり長時間一緒にいると、それはそれは本気で失神してしまうほどに追い込まれるのだった。
「ううん、気にしないで。それよりさ、結月ちゃんの方こそ友達待たせちゃってるけどいいの? 僕なんかに構わないでいいから戻った方が……」
優は必死に愛想を絞り出してみるが、顔色や呼吸は明らかにおかしく、どう見ても大丈夫ではない。
結月の瞳が不安の色を強めた。唇は小さく一文字を描き、グレーのリボンの下に置かれた細い指が胸の憂いを掴むようにきゅっと握られる。
「ねえ……保健室行く?」
「いや、本当に大丈夫だって! 全然、元気! ほら! だいたい家も近いんだし保健室なんて!」
「だけど……」
「それに顔色も元々こんなのだよ。大丈夫、大丈夫」
ああ、なんて酷いことをしてるんだろう。
優は言いながら、幼馴染の優しさを無下にする自分を後悔する。でも、恐怖により発生する逃げの気持ちは止まらない。あーだこーだと次々言い訳を並べ、身振り手振りが激しくなる。
しかし、それは結果的に言えば逆効果だった。
ただならぬ優の言動に結月は増々疑いを持ったようで、なにか決心したように頷くと、一歩踏み出し、
「分かった。じゃあ、一緒に帰ろ? ね?」
結月は善意と明るさに満ちた天使の微笑みを浮かべる。
その眩しい笑顔を前にすると、さすがに優もこれ以上断ることは出来なかった。
「……はい」
――これも幼馴染に怯える自分への罰か。
友達の下へ状況を伝えに向かう結月の背中を見ながら、優は心の中で自虐的にぼやく。