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恋文鳥

 猫皮を張った三味線をばちで打ち鳴らし、小粋な音色を奏で、詠み上げるはかの有名な都都逸。高杉晋作が江戸花街の情緒を謳ったものと謂れのあるものだ。


三千世界の 烏を殺して 主と朝寝が してみたい


 女は三味線とともに、和歌や狂歌、都都逸を愛し、客からの指名が入らぬ昼間などもこうして、三味線を抱きかかえて詩を吟じていた。

 人柄のある者からは、稽古熱心と褒めたたえられていたが、捻じ曲がったものからは、三味線が恋人などと揶揄されていた。だが女からすれば、まわりの眼など詮無き事。自ら詩を詠むときは自己に陶酔し、他人の詩を詠むときは作者の胸中に思いを馳せながら、まるで独りきりの世界に入ったように興ずる。女は、その趣向に相応しい、文彩あやという名前を当てられた。


廓で苦労を 積んだる夜具に まさる世帯の 薄布団


「また、文彩の三味線が聞こえるよ」

「ほんに毎日飽きずにやるものやね。あちきは、座敷の上でもう、弾くのも聞くのも、懲り懲りさね」


 文彩のその音色は、よく廓に住まう遊女たちの話の種となった。なにせ、隙あらば独りきりの部屋から欄間をぬって漏れ聞こえてくるのだから。

 おまけに彼女は自分ひとりの世界に入り浸り、いくら悪い噂話をしようが耳を貸さない。


 そうと来れば、悪い方向にも良い方向にも、脚色されて話が大袈裟になるというのが女の常だ。


「でも、最近……、文彩の客取りも落ち目らしいよ」

「当り前さね。三味線弾いてる様子を見れば分かりんす」

「どういうことだい?」


「憐れでありんす。あの顔――好いた男がいるに違いないさね」



逢うたその日の 心になって 逢わぬその日も 暮らしたい


 廓言葉を使う女は、文彩が自己陶酔しながら都都逸の中でも恋歌を選び出して吟ずる様を見て、そう勘付いたのだろう。確かに――見れば、頬がおしろいの向こうからほのかに紅く色づいており、想い人に慕情を寄せている様にも見える。


 世間の女としてみれば、微笑ましいことなのだが、身請けも決まっていない遊女が恋愛に興ずるのは、一種の自殺行為とも言える。

 遊女という身分の上、会う男は座敷の客だ。上等な太夫と言われる遊女であれば、客がいくら金を積もうが弾いてしまっても客が絶えないというのもあるが、多くは客を選ぶことを許されず、等しく尽くさねばならない。それが出来ずに贔屓するものは、贔屓を外れた客によってあらぬ噂や苦情を寄せられて、廓を追いやられるのが定め。

 しかもそれは、まだましな場合で、厄介なのは男の方にその気がなかったか、心移りされた場合だ。


「客を選ぶような身分でもないのに、男を好けばろくなことにはなりやしない」

「幽霊三味線がそれをよく表しているでありんす」


 幽霊三味線というのは、遊女の間で有名な怪談話で、文字通り遊女の霊が憑りついた三味線の話だ。

 客の男が遊女と好き合って、同じ座敷を何度も過ごしたはいいものの、女遊びに親族の有り金をつぎ込んだ男が蔵に折檻されてしまった。遊女は、男が逢えぬ間も、そうとは知らずに待ち続け、物ものどを通らずにやせ細り、ついには彼宛ての詩を詠みながら三味線を抱きかかえて息絶えたという。

 その三味線には彼女の未練が乗り移っており、男が出席した彼女の葬式の最中、線香の煙が立ち上るとともに三味線がひとりでに音色を奏で始めたという。

 本来の話はそこで終わりなのだが、聞いてる者を怖がらせるため、廓の中に誰も触れない三味線が残っていて、それが真夜中になると独りでに音色を奏でるなどのサゲがつけられることもある。


惚れて通えば 千里も一里 逢わで帰れば また千里


 それを思い出してぞっとしたのは、ふすまを隔てて、欄間をぬって聞こえる文彩の詩を枕に噂話をしていた廓言葉の女。よもや文彩はその幽霊三味線の二の舞になってしまうのではなかろうかと。くわばらくわばらと呟いてふたりは、そそくさとその場を後にする。



 ようやく邪魔者がいなくなったひとりの座敷。

 文彩はそのど真ん中に座布団を一枚敷き、使いもしない腕枕を右脇に置いて、開け放った窓から見える晴れ空に浮かぶ傾いた陽を仰ぎ見ながら、三味線を弾いて詩を吟ずる。


「――ようやく、要らぬ音がなくなった。末成よ。主の所にも届いておるか」


 末成と男の名前を口にする文彩。どうやら、あのふたりの戯言は邪推ではなかったらしい。

 想い人の名は末成、世間では名の知れた講釈師で、芸名は一龍齋鶴朱いちりゅうさい かくしゅと通っている。講釈の腕もさることながら、三味線においても名手であり、長唄や義太夫にも傾倒している多芸の持ち主である。

 そして、この末成が決まって廓で呼び出すのは、この文彩であった。


 その座敷はまことに奇妙で、末成が筆をとり、読み書きを教えるかと思えば、互いに連歌を詠み、ときには講釈や三味線の語り合いを行い、床を交えずに夜を明かすこともあったという。


 文彩は、廓で客を取り始めたときは、難しい読み書きはあまりできなかったが、今となっては歌本だけでは飽き足らず、客からもらった金も講談本に注ぎ込む始末。文彩の部屋には、ほとんど彼女でしか読めぬような漢字で描かれた講談本が積まれている一角があるのだ。文彩は不意に立ち上がり、その一角から一冊の本を取り出す。背表紙に達者な続け字で太閤記と書かれてある。


「主には色々なことを教わったな」


 周りに誰もいなくなり、独りきりになると一層、文彩は自分だけの世界にのめり込む。相手もいないひとりごとの会話をつらつらと続ける様は、まるで独り芝居。透き通るように白く、細い指の腹で、半紙を束ねた本の袖を愛でるように撫でる。そして、一枚また一枚と紙をめくって行く。


 行の始めを読めば内容がまざまざと思い出される。


「感慨深いものだ。主に会うまでろくに読めずにいたものも、今では足りぬ」


読めど知りたる 紙の上より 未だ知らずの 床の上


 咄嗟に胸中を歌に綴る文彩。思えば都都逸も末成から教えてもらったもののひとつだ。多芸に秀でていた末成は詩の才もあり、百人一首と古今和歌集を常に持ち歩き、俳句、川柳、狂歌、都都逸などを集めた歌本も、よく文彩との座敷で読みあっていた。七七七五の文字に乗せて三味線とともに語られる庶民的な詩。文彩は都都逸に魅せられ、末成と詠み合ううちに、いつしか両方にどっぷりと浸かってしまったようだ。


足のみ浸かると 誓うたけども 気づかず沈む 恋湯船 


 そんな末成もここのところ、この廓を訪れていない。

 文彩の客取りが落ち目と噂とされているのは、どうやらそれが原因らしい。彼が足しげくこの廓に通っていたときは、文彩が彼以外の男と座敷を共にすることはそうはなかったが、彼の足が遠のいてしまった以上、当然文彩にも他の客の指名が入る。本人は気づかねど、客は気づいていた。三味線のばちをとる彼女の眼が、明後日の方向を見つめていたことを。


群がる虫に 外目を向けて まぶたの裏に 主の顔


 あらぬ方向へと視線を注ぐ文彩を、気味悪がったのか。客への気配りができないと思ったのか。

 彼女は次第に客を取れなくなっていた。ほおずきと称される血色のいい健康的な顔立ちも、このところ少し痩せたせいか顎が尖り出し、不健康な色になりつつあった。――それも三味線を抱けば、生気を取り戻すようだが、このまま末成の足が途絶えれば、彼女はまさしく幽霊三味線になるやも知れない。


 そんな折、彼女の詩に再び要らぬ音が入ることになる。


 ぴぃ…ぴぃ……


 目をつぶって詩を吟じていたところに舞い込んで来たのは、小鳥のさえずりだ。遠くの松の木に止まるホトトギスやウグイスのさえずりなら何度も耳にしているが、その声はやけに近い。ひょっとしたら目の前にいるのではないかと思うような距離だ。

 ゆっくりと男の顔を浮かべていた瞼をそっと開くと、障子窓のさんに一羽の文鳥が止まっていた。文鳥はしきりに首を動かしながら文彩の顔をあらゆる角度から見つめ、羽をぱたつかせては、ぴぃぴぃとさえずる。何とも愛らしいその姿に、文彩は手を刺し延ばし、しなやかな指先に文鳥を誘おうとする。


川に身を投げ 生れ変わるるは 岸の一輪に 舞う鳥よ 


 文彩は耳を疑った。自分の口が動いていないというのに、どこからか都都逸が聞こえてきたのだ。だが、人が発した声にしては何ともぎこちなく、抑揚がない。昔に、見世物小屋で見た”物言い鳥”という喋る鳥の話し声にそっくりだ。まさかとは思うが、目の前の文鳥が歌ったのだろうか。


「詠み手は主か」


 そう尋ねると、文鳥はちょうどオウム返しのごとく、先程の都都逸をもう一度詠みあげる。ここまで来れば、この文鳥が都都逸を詠んだとして間違いはない。文彩は歓喜し、晴れやかな顔で、これは面白いと口の前に手を当てて驚嘆する。きっと誰かがこの鳥に文を教えたのだろう。そう考えた文彩は、あることを思いつき、障子窓のさんに止まる文鳥に向かって、三味線を抱いていつものように詩を吟じはじめた。


花と咲くよりは 主に喰われて 気ままに空を 飛びたしか 


 それを聞くと、文鳥は何かに納得したかのように首を縦に振り、窓の外の空へと飛んで行った。



*****



 明くる日のこと。文彩は相も変わらず、障子窓を開け放ち、自分以外は誰もいない部屋のど真ん中に座布団を敷いて三味線を抱きかかえる。昨夜の廓も客が大入りの繁昌で、文彩の指名も入った。

 もちろん客の男との話の種は都都逸を詠むという文鳥の話。身分の低い遊女というものは、おもてなしをする側であるため、男の話を聞いてやるのが常だが、中には寡黙な客や話題に困っている客もいる。そういうときには、たしなみに遊女の間での噂話や、客から聞いた話を回したりするのだ。文鳥の話は、良いお酒の肴になり、そこから客と都都逸の詠み合いなども行ったが、文彩の胸に充足感は得られなかった。

 やはり、末成のものでなければ、心には響かない。それが彼がいないという心の隙間から来るものと言われれば、否定はできない。客の男が詠んだ歌は座敷で飲んだ酒の酔いとともに消えて行った。だが、代わりに文鳥が詠んだあの詩だけは頭の中に残っていた。


川に身を投げ 生れ変わるるは 岸の一輪に 舞う鳥よ 


 思い返せば、あの都都逸は末成が詠んだものと作風というか、言葉遣いが似ているような気がした。もちろん、なんとなくのもので自分の中で確証は得られない。

 それでも、脚の途絶えていた彼への手がかりがつかめたような気分になり、三味線の3本の弦の上で、ばちが童遊びのけんけんぱをするかのように踊る。ひとりの部屋で目を閉じてそっと薄ら笑いを浮かべていると、昨日と同じ小鳥のさえずりが聞こえてきた。

 そして目を開けると、やはり同じように、開け放った障子窓のさんに文鳥が一羽止まっている。身体の模様も目つきも昨日のものと同じだ。


「――主か、また会うたのう」


 話しかけると、首をひねり、文彩の顔をさかさまに覗き込んで鳴いて見せる。人語を理解し、会話をすることはやはりできないようだ。


百の窓を 訪ねたりしが 今はひとつに なりにけり


 だが、覚えてきた都都逸だけは詠めるようだった。自分が教えたものも、文鳥の飼い主にこのように伝わっているのだろうか。

 そう思うと、まるで離れた恋人と文通をしているような気分になり、文彩の顔はほおずき色に色づく。そんなやり取りが幾度か続き、いつしか毎日の日課となっていた。そんな折、文彩はある企てを思いつく。いつものように障子窓のさんに降り立った文鳥。


幾度つめたく つき返されど 次は明いと 訪ねけり


 それを手招きと口笛で誘い出し、髪を止めていた梅の花の柄があしらわれた、漆塗りのかんざしを抜いて、さらに自分の長い髪も一本引き抜く。そして、その脚にかんざしを髪の毛で結びつけた。ちょうどそれは、遊女たちが使う手練手管のひとつ、心中立てというものに似ている。再び同じ座敷に、同じ男を呼び出すべく、自分の髪の毛を男の小指に結び付ける。中には、血判や小指を切り落として贈るものまでいたそうだ。


窓を閉づ夜 かんざし持たば 迷わず此方へ 誘わん


 それは、文鳥の飼い主を今宵の床に誘い出すための彼女の心中立てだった。

 都都逸には、たとえ窓を閉めている夜でも、私のかんざしを持っていれば、座敷にご案内いたしますよという意味が込められている。するとまた文鳥は、まるでその意味を理解したかのようにひとつ頷いて、窓の外に飛んで行った。



「文彩、お客さんだよ。入っとくれ」


 夜になり、廓が回り始めた。連日のように大入りのてんやわんやの状態だ。お許しさえ出れば、街ゆく娘をとっ掴んででも人手をかき集めたいくらい。顔の見えない裏方の作業なら、客の男も巻き込みたい。まさに猫の手も借りたいというほどの大忙しだ。廊下をばたばたと遊女や禿たちが駆けずり回る中、文彩はすまし顔で三味線を抱いていた。


「なにやってんだい、人手が足んないんだよ」

「今宵は待ち人がありんす」


「はぁ……? なんだい。あんたを指名する物好きな客がいるってのかい? あの講釈師なら、もう三月みつきも来てないよ。どうせ違う廓の女に金を積んでいるころだろうさ」

「一度会うてみたい者がおる。今宵の座敷にお誘い申した」


 そこで、文彩を呼び出そうとした遊女は、文彩がいつもつけている「かんざし」がなくなっていることに気づき、全てのことを悟る。


「――随分と遊女らしい手管を使うようになったのね。その客を取れるというんなら、それを待ちなんし」


 文彩は背中越しにこくりと頷き、座敷のふすまが閉められるのを背中越しに聞いたのち、再び講談本を手に取り字を追いながら時を過ごす。部屋の隅に置いてあった山積みの講談本を右脇に置き、読み終えたものから左脇へと移す。

 ――全てが左に移ったころには月が沈み、太陽が顔を出し、鳥のさえずりが空に響いていた。ついに、待ち人は現れず、文彩の指名が入ることはなかった。夜をただ待ち、ただ待ち、明かした不摂生は、おしろいをはがして美しい顔を歪ませる。


「…ついに来ぬ…か…」


だが、待ち人の代わりにある来客があった。その客は、開け放った障子窓からいつものように現れた。見ると、脚にはまだ心中立てが巻き付いており、さんの上でかんざしが転がって、かんからと音を立てる。


「主を飼いたる人を待っていたが、ついに来なんだ。もしや、主も会っておらぬか。飼い主のもとに帰らぬとは、――鳥の廓でもありしか…」


 飼い主を呼んで来なかった文鳥に文彩は憎まれ口を叩く。文鳥が頭の中で考えて言葉を綴り、都都逸を詠むなどあり得ない。そもそもそんな芸当ができるなら、人と会話を交わすこと等さらに容易いはずだ。従って、この文鳥に飼い主がいることは確実なのだが、連れて来ないとあれば、文鳥側の不届きか、それとも心中立てが断られたかだ。


「主よ。お前は遊びにほうけて、飼い主をここに連れて来なんだ。なにか、言いたいことはあるか?」


 眠りもせずに待った挙句、待ちぼうけを喰らわせた男への憂さを、会話のできない文鳥を攻めたてることで晴らそうとする文彩。


逢えぬ間繋ぐ 百の文を 綴り織りして 夜を明かし


「言い訳を考えているうちに夜が明けてしまったか。面白い」


 だが、文鳥はまるで先ほどまでの会話を受けて考えたのかのような詩を返す。きっと偶然なのだろうとは思いながらも、こちらも返しの詩を考える。


逢えぬとよこす 百文は 愛しき一見に しかずかな


 返しの詩を三味線の音色とともに詠みあげると、また例のごとく文鳥は、空の彼方へと飛び去って行く。その行方を目で追うも、自由な鳥はすぐに姿をくらませてしまう。


「主に帰るところがあるなら、追いかけてみたいものだ」


 一言つぶやくと、文彩の脳裏にひとつ手がかりが思いついた。自分が施した心中立てを文鳥がほどいていないとあれば、それにつかったかんざしを尋ねて回ろうというものだ。

 普段は三味線を弾いて詩を吟ずることにふけり通しで、あまり外に出ることはない文彩だが、このときばかりは嬉々とした足取りで、どこの廓の遊女と悟られぬよう、顔を覆いで隠して、色町に出て行く。色町にある廓はもちろんひとつやふたつではなく、複数の廓がひしめき合っており、夜になれば客引きがそこらじゅうを横行し、街の通りをまっすぐになど歩けるものではない。

 それが日中となれば、まだ人通りも少なく、地べたにむしろを敷いて遊女相手に物を売るものが沢山いる。彼らの出どころは、てんでばらばらのため、尋ねて回れば効率的に情報を拡散することができる。文彩はそこに目をつけたのだ。


「へい、よってくかい」


 思えば、末成に手を引かれて露店を回ったこともあった。そのときの見世物小屋に出ていたのが、物言い鳥だ。


「少し、尋ねごとがありんす」

「へい、なんでありやしょう」


 一軒目に尋ねたのは、骨董屋だ。むしろの上に茶碗を並べ、これはなにがし焼、あちらはそれがし鉄器などと謳っているが、実のところは定かではない。粗悪品が高値で売られていれば、高級品が安値で並んでいることもあり、それを目利きのない腑抜けた店主が売りさばいている。かと言って勘定に融通が利かないかと言うとむしろその逆で、客が言った値で品物が出て行くという何ともしまりのない商売だ。


「知らないなあ」


 文鳥の模様や、脚に巻き付いた漆塗りのかんざしのことも話したが、店主の答えはその一言。当然最初から期待はしていない。これを二軒、また三軒と繰り返すことに意味があるのだ。


「そうかい、伝えといておくれよ」


 そう付け加えておけば効果は二倍にも三倍にも跳ね上がる。

 二軒目に尋ねたのは、壺屋。三軒目は菜売り。四軒目の薬屋と尋ねる。そうして、何軒も何軒も露店を尋ねて回った。もう、頃合いかと廓に戻ろうかとしたとき、俥を引いて歩く商人が目の前を通りかかる。


「歌本はいらぬか、歌本はいらぬか」


 都都逸や和歌、俳句、川柳をこよなく愛する文彩にとっては、嬉しい知らせだ。

 文彩は少し疲れていた足のことなど忘れて、急いで商人の肩を尋ねる。値段は安くはなかったが、ちょうど持っていた講談本を全て読了してしまったあとだ。これでまた、時間を消化できる肴が出来たと思うと、いくらでも安く思えた。


「毎度有り」

「この歌本は、詠み人は決まっておるのか」


 何気なくそう尋ねると、商人は顔を歪める。


「――詠み人はひとりだ、ひとりが詠んだ百の都都逸をまとめてある」

「ほう……、詠み手がひとりとはいいものでありんす。百もあらば、その人を深く知ることができる」


 文彩は面白い本が手に入ったと顔をほころばせているものの、それとはちょうど間反対に商人の顔が憂いを帯びていく。文彩はそのわけを尋ねずにはいられなかった。


「――詠み手は、逝き倒れた息子だ」


それを聞くと文彩は、口元に手を立てて驚嘆する。聞けば、商人はひとり息子が書いた詩を泣きながら書写して、この歌本を書いたという。なおも商人は続ける。


「息子は、この界隈で名の知れた講釈師でな。名を売るために、地方巡業に出ておった。帰ってくるころには国中に名を轟かす大物になって帰ると――だが、それも叶わんで出先で流行り病にかかって倒れてのう」


「うつってはいかぬと隔離されて、独りきりで苦しんでいた。それをあまりに憐れんで、看病してくれた医者の姪が、話し相手にと一羽の文鳥を息子にくれたそうだ」


「文鳥……?」


 商人の話と自分の尋ねごとに共通項を見出した文彩は、もしやと思い、自分が尋ねて回っていた文鳥の話をした。都都逸を詠みあげる文鳥。まるで息子の魂が乗り移ったかのようだと、商人は募る想いを涙に変えてさめざめと泣き始めた。


「お心お悼み申し上げます」

「……是非とも、その文鳥に会えば、詩を詠んでやってくれ。息子は……、よく文鳥と都都逸の話をしていた。廓に置いてきた女子がいると、その女子に会ったら、百の文を聞かせて、わしが死んでも淋しい思いをさせないでくれと」


 ここで文彩は、奇妙な一致に気が付いてしまった。


「……、…あ、…あの…」


 さらに、歌本を手に取り開くと次のような詩が目に入る。


川に身を投げ 生れ変わるるは 岸の一輪に 舞う鳥よ 


 これもそう。あれもそう。


百の窓を 訪ねたりしが 今はひとつに なりにけり


 文彩の前で文鳥が詠んだ詩は全て、商人が売っていた歌本に記されたものであった。


 彼女はまさしく、触れてはいけない扉の前に立っていた。


「…その息子の名前は、何と申すのですか」


 だが、彼女は扉の掛け金に手をかけてしまった。

 扉は重い音を立てて内側へと開いた。が、その先に床はなく、ただぽっかりと空いた真っ暗な穴が大きな口を開けていた。吸い込まれるように文彩はその中へと落ちていく。

 光は何もなく、全てのあらゆる感覚が一枚の壁を隔てたかのように感じた。聴覚も馬鹿になってしまい、まわりの音全てが遠巻きで聞こえる空言のようにしか感じられない。真実を告げた商人の言葉も。現実を逃避するかのように繰り返す自分の中の戯言でさえ。


「お、おい。しっかり」

「大丈夫でありんす。――大丈夫でありんす」


 彼女は力のない糸のように細い声で、そう繰り返す。

 ゆらりゆらりとまるで酒を飲んだあとのおぼつかない千鳥足で、彼女は薬屋を訪ねて、「附子はあるか」と問うた。附子は漢方の中でもとくに有名なものなので、置いていない薬屋はなかった。

 だがそれは単独で用いられることはなく、高温で燻したのちに色々な他の生薬と混合して用いられるものだ。金銭を払い、薬屋の「必ずよく煎じて飲むよう」という警告にから返事。



 彼女は、廓に頭を垂れて戻った。そしていつも通り、誰もいない独りきりの座敷のど真ん中に座布団を引き、三味線を膝の上に寝かせる。


 鉄瓶に沸かした湯を湯呑に注ぎ、奇妙な茶をつくったあと、それを一思いにすすり上げる。ばちをとり、三味線を打ち鳴らし、また詩をひとつ吟じる。


飛びゆく空で あえなき主と せめて番に なりたしか


 三味線の音が止まる。


 ばちが女の手から外れて、畳の上にごろりと転がる。


 ぐらりと三味線が傾いて倒れ、畳に弦を下の方へ向けてうつ伏せの格好で横たわる。


 そして、それを追うように女の身体は崩れた。



 あとに開け放たれた障子窓から一羽の文鳥がやって来た。

 文鳥は、詩を詠むでもなく、女の頬に寄り添い、ただただ虚しくさえずるのであった。――まるで、女の死をさめざめと悔やむかのような、憂いに満ちた声だった。



作中で用いた都都逸ですが、自作の物とそうでないものがありますんで一応ここで

断りを入れておきます。


他の人がつくったのを引用したのが下の4首。


三千世界の 烏を殺して 主と朝寝が してみたい

廓で苦労を 積んだる夜具に まさる世帯の 薄布団

逢うたその日の 心になって 逢わぬその日も 暮らしたい

惚れて通えば 千里も一里 逢わで帰れば また千里


自分でつくったのは下の11首。


読めど知りたる 紙の上より 未だ知らずの 床の上

足のみ浸かると 誓うたけども 気づかず沈む 恋湯船 

群がる虫に 外目を向けて まぶたの裏に 主の顔

川に身を投げ 生れ変わるるは 岸の一輪に 舞う鳥よ 

花と咲くよりは 主に喰われて 気ままに空を 飛びたしか 

百の窓を 訪ねたりしが 今はひとつに なりにけり

幾度つめたく つき返されど 次は明いと 訪ねけり

窓を閉づ夜 かんざし持たば 迷わず此方へ 誘わん

逢えぬ間繋ぐ 百の文を 綴り織りして 夜を明かし

逢えぬとよこす 百文は 愛しき一見に しかずかな

飛びゆく空で あえなき主と せめて番に なりたしか


計15首もの都都逸が作中で謳われています。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。 文章も物語に合った文体で読みやすく、内容がするすると頭に入ってきました。 地に足のついた話で、プロの小説家の方が書いたと言われたら信用してしまいそうです。 [一言] 落語…
[良い点]  遊郭の風景や、時代が見える描写が実に綺麗で、時代物でありながら、すらすらと読むことができました。  また、都都逸が二人の心を音として表しており、その時代ならでは面白さを感じました。 [一…
[良い点] 歴史ものに詳しくない方でも読みやすい。 遊女=悲恋、いい意味で裏切らなかったところ。 だけど、好きな人と相思相愛で逝くことができるのは、きっと遊女にとっては幸せなことなのかもしれないなー…
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