少女失格
夜は怖いからキライ。
ましてや冬みたいに、とびきり寒い季節のそれだとたまったものじゃない。身をしんしんと侵してゆく寒さが、わたしのこころをゆっくりと暗闇に沈めていってしまう。いくら厚着をしても通り抜けてゆく肌寒さが、わたしを臆病にしてしまう。
わかってる。自分の感じてる寒さが、本当の温度とは関係ないってことぐらい。
でもわたしには厚着をすることでしかそれを迎え撃つことができない。
だって、そうやって身を守らなければ、あまりにも脆くて、柔らかい部分が、いま、崩れそうだから。
「飲みすぎたかな……」
呟いた言葉が、夜の中に融けていった。
人混みを離れた、郊外の街。
もう零時を過ぎている。都心はまだ賑わっているだろうけど、たまに通り掛かる車以外に、物音ひとつ聞くこともなかった。
もちろん、ひと気もない。
まるでわたしの傷心を察して、黙ってくれてるみたいだった。
でもわたしはそれがキライ。
だって、それは残酷だから。冷たいだけだから。きっと、いや、優しさなのだろうとは思う。けれどもそんなカタチの優しさは要らなかった。もっとキッパリ言ってくれればよかった。そうじゃないから、わたしはどうしようもない気持ちだけを抱えて、一人淋しく帰路に着いている。
誰かいるわけでもないのに、タートルネックの首を伸ばす。鼻のあたりまでひっぱって、覆面のように自分を隠してしまいたかった。
それでも、時おりネックを下げて、ふう、ふうと息を吐いてみる。
くちびるから飛び出す白い息。
その呼吸音と、透き通る白さは、夜に対する唯一の抵抗だった。
「どうしてこうなっちゃったのかな……」
意味もなく、問い掛けてみる。でも答えなんてない。白い息になった言葉は、すぐに夜の闇に融けて、消える。あとから静けさが何もなかったかのように、わたしを包みにやってくる。
背筋が寒くなった。
わかってる。わたしはただ臆病なだけだ。好きなヒトに想いを告げたくて、ためらっているうちに、別のヒトとつながった。それだけのこと。それなのに、誰かのせいにしてしまいたくなる。あのヒトに近づいた女のせいだとか、わたしのこころに気づかなかったあのヒトが悪いだとか……でも、そんなことを考えてる自分こそが、誰よりも醜くて、幼くて、バカだった。一方で逃げて身を守ろうとする浅ましい自分がいて、他方でそれを遠くから冷ややかに眺めてる自分がいたのだった。
答えはもう出ているはずだった。
でもその答えへと辿り着けず、迷っている。それが辛くて、辛くて、家に帰りたくない、とすら思い始めていた。
ふと、しゃんしゃか音が聞こえた気がして、周りを見渡す。
いつのまにか、公園前まで来ていた。
もう深夜だ。こんな時間に誰もいるわけがない、と思っていたのだけれど。
そこには一人、ブランコに腰掛けてる人影があった。
どうも女子高生らしい。近所ではあまり見かけない制服だったけれども、いかにも都会っ子みたいに上品そうなブレザーと、街灯を反射してほんのりと白く映える顔と、対照的に黒いポニーテールが見えたからだ。
そして、その耳にはヘッドフォンがあった。しゃんしゃか鳴っていたのはそれだったのだ。
こんな時間にいるべきヒトではなかった。
だからこそ、普通じゃない何かがあるのだろう、とも。
でも興味がわたしのこころをつついた。
「どうしたの?」
ブランコのほうまで近づいて、そっと声を掛ける。
反応はなかった。
ヒトが近づいているのをわかっててしてるのだろうか、でも、彼女は、わたしなんてどうでも良いという感じで、ずっと宙を眺めていたのだった。
ひらひら、と手をその視界に入れてみた。
すると、彼女は不機嫌そうにこちらを見て、ヘッドフォンを外した。そこから学生時代にわたしもよく聴いていた女性アーティストの音楽が、流れていた。しかしすぐに音源を取り出すと、音楽は途絶えてしまった。
静寂。
あまりにも突然やってきたそれは、わたしのこころを不意打ちした。
「……なんですか?」
その隙を突くように、彼女は尋ねる。
攻撃的な、やや拒絶を含んだ言葉。
あまりにも考えなしの行動だった、と後悔の念が押し寄せる。そしてそれを酔いのせいにしたくなって、でも卑怯だと感じて、押し止まる。
「こんな時間に、どうしたのかなって」
「ああ」
と、彼女は面倒くさそうな顔になって、
「星を、見てたんです」
「星?」
「見てみればわかりますよ」
素っ気ないけど、妙に上ずった感じの声が、わたしの視点を上へと向かわせた。
そこには星が冷たく輝いていた。
満天の……と言いたいところだけど、むしろ数はぜんぜん少なくて、まばらで、ひっそりとたたずむように、それでも健気に光っている。
「わあ、綺麗」
思わず声を上げる。
それで少し気を良くしたのか、彼女は夜空を指差した。
「あれ、わかります? オリオン座なんですけど」
「どれ? ……あーっ、わかった!」
「左上の赤いのがベテルギウスで、対角線上にあるのが」
「リゲルだね」
「そうです」
「すごいね、本当にベテルギウスって赤いんだね。じかに見てもわかる」
「じゃあ、冬の大三角ってわかります?」
「えっと、なんだっけ」
「ベテルギウス、シリウス、プロキオンの三つの星です。ここからでも見えるんですよ」
「えっ、どこどこ」
「自力で探しましょうよ」
冷たくて、遠くて、広すぎる夜の空を、わたしの指が彷徨っていた。
都心では、周りが眩しくて見えないはずの星。それがここでは見えるのだ、と今の今まで知らなかったのに驚いた。小学生のとき、理科の授業でよく夜空にこれこれこんな星があって、星座はこうこう、て教わって、夢見ていたはずなのに。自分の住んでいる街では一度も試したことがなかったのだ。
わたしは、ひょっとすると足元ばかり気にして、こういう世界をすっかり見落としてしまったんじゃないか。
そう思ったとき、瞳の中から液体が湧き上がるのを感じた。
もう、止められなかった。
傍らの彼女が戸惑うのも構わず、ボロボロと鎧が剥がれ落ちるように、わたしは泣いてしまった。……
「もうだいじょうぶですか、あたま」
ようやくこころが落ち着いたとき、彼女は突き放すように、そう言った。でもその言葉には裏返しの心配が潜んでいる気がした。
「たぶんこころがダメで、あたまはだいじょうぶだと思うの……」
「何か、あったんですか?」
不器用な言葉が、ひらひらとわたしのこころに舞い降りる。それが可笑しくて、こんどは噴き出してしまった。
「な、なに」
彼女はたじろいだ。
「だって、わたしが気になって声かけたのに、逆になっちゃった」
「と、言われても」
目を反らす。
「わけがわからないですよ。いきなりやってきて、いきなり声掛けて、いきなり泣き出して」
「ごめん」
「まあ、いいですけど」
今度はブランコを漕ぎ出した。
きい、きい、と金属が上げる悲鳴が、言葉にできない想いを伝えているようだった。
「あたし、家出してるんです」
「そうなの」
「親が喧嘩してて」
と、まるでわたしがいなくてもどうでもいい、という具合に、
「居心地が悪いから、バイトとか、カラオケとか、とにかく時間を潰すのが日課みたいになってて……」
ブランコの振れ幅が大きくなる。手入れがされてないのか、揺れるたびに金属の悲鳴が大きくなる。
彼女は自信なさげに、俯いた。
「それで、今日もこんな時間になりました」
「そっか……」
「お姉さんは?」
こちらを見やる。
恐る恐る伺うような、いじらしい瞳。
「簡単に言うと、失恋した」
「ざまあ」
「ひどい!」
「初めてみましたよ、失恋して泣いちゃうようなの。ドラマや小説の中だけだと思ってました」
きい、きい、とブランコが鳴る。
そんな中でも彼女の瞳はこちらを見ていた。
悪い気は、なぜかしなかった。
「うーん、本当のこと言えば、失恋以前、ていうか……」
わたしはかいつまんで彼女に話してみた。
好きだったヒトのこと。なんで好きになったのか、そのヒトにどうすればいいのか、嫌われたくないと怯えているうちに、違うヒトとつながったということ。その雑破な概略を。
すると彼女はつまらなそうに、
「ケータイ小説の方がまだ夢あると思うよ」
「なんか……あなたにそう言われると、わたしとてもつまらないことで悩んでたみたいで、ちょっと悲しくなる」
「実際つまらないと思います」
たぶんわたしの顔には苦笑いが浮かんでいたと思う。
「わかろうともしないのね」
「そりゃわからないですよ、あなたの苦しみなんて。あたしの苦しみがあなたにはわからないように」
大きく振れたブランコから、ぴょん、と飛び降りる。その背後では、誰も乗せないブランコだけが人恋しいようにきい、きい、と鳴いている。
「でも、誰かにこういうの話せばスッキリすると思わない? わたしは思うよ。ちょっと傷ついたけど」
「それは気のせいです。思い切って誰かに喋ってみたところで、あたしのいる環境は全然変わらない。面倒ごとには誰だって触りたくないんですよね。あたしの学校だってそうだったし、あたしの遊び相手だってそう。ヒミツを共有したらしたで、まるで腫れ物に触るように、その話題を避けるんです。そんな優しさなんて要らなかった。自分勝手なやり方でわたしの苦しみを理解した気になって、自分勝手のやり方で配慮して……それが嫌で嫌でたまらないんです」
彼女はゆっくり歩いた。そして、五つくらい歩いたところで止まると、夜空を見上げた。
「あんな夜空の星みたいに冷たく、残酷に、突き放される方がマシ」
「……強いんだね」
「えっ」
振り返る。
「思っててもそんなこと言えないよ、わたしは」
「そんなこと……ないです。あたしだって、後腐れしないから好き勝手言えるだけ……」
不思議だった。
わたしたちはさっき会ったばかりで、まだお互いの名前も知らない。なのに、こうして暴露話みたいなことを平然と言い合ってる。
「ねえ、名前なんていうの?」
「それ今さら訊きます? あと名乗るなら自分から」
「わたしは松村 沙奈江。名前で呼んでくれて構わないわ」
先手を取られ、ちょっと戸惑ったようだったけど、彼女は俯いて、少し気恥ずかしそうに、
「……天野 有希」
「有希ちゃん、わたしたち友達にならない?」
「はあ?」
「ここで会ったのも何かの縁だし。ホラ、ケータイ出して」
ビクッと一瞬硬直した手は、しかしすぐにポケットに回された。
出されたスマホに、アドレスと電話番号を写そうとした。
「何やってんですか。これは専用のアプリでやった方が早いですよ」
「えっ、どうやるの」
「ここをこうして……ほら」
「わー、早い」
「ていうか沙奈江さん幾つですか? アドレス交換アプリ知らないなんて、それだけで年齢バレますよ」
「うっ」
これがケータイ世代とスマホ世代の格差なのか……!
「なんか、沙奈江さんあたしと年齢大して変わらないと思ってたのに、意外」
「うう、それは言わないで……」
落ち込みそうになる気持ちを振り切って、反撃するように言葉をひねり出した。
「有希ちゃんも、高校にしては考えてることが捻くれてるというか、大人びてるよね?」
「あー、まあ、そうですね」
妙に苦い顔になった。それを見て、わたしはしまったと思う。けれども有希ちゃんは観念したように、言った。
「ずっと、周りから『あなたには夢がないなぁ』と呆れられてました。でも、あたしには夢って言葉が逃げだと思えてならないんです。だから嫌いです。家庭だって、人間関係だって、夢見たところで大して変わらないしで」
と、突然指を空に差した。
「星ってなんで綺麗だと思います? 遠くにあって、温かみが全然ないからなんですよ。現実味がなくって、手を伸ばしても届きそうもない、そんな遠いところで延々と光ってるから、綺麗だと感じる。少なくともあたしはそう思う。だって、夢見てなんかいられないから。叶いそうもないものに、願いなんて賭けたくないから」
「でも、それって淋しいよ」
有希ちゃんはこちらを見た。
不意打ちされたような顔だった。
「届かないからって、上見ることをやめて、下ばっかり向いてたらさ、暗くなるしかないじゃない。空元気でも、上を向いてみるべきなんじゃないのかな」
ブルッと、身を震わせた。
そして、苦しそうに言葉を吐き出した。
「あたしは自分に嘘を吐きたくない。起きそうもないことに自分を委ねて、転んで失敗するのが見えてるから……そんなこと信じられない」
「じゃあ、なんでここで星空見ていたの?」
沈黙。
唐突に訪れたそれは、しかし、わたしを不意打ちにはしなかった。
わたしはただ待っていた。
その苦しみは、彼女だけのものだから、彼女が自分で語らなければいけない、とそう思ったのだ。
「……見るだけなら、タダだからです」
「嘘。そんなの理由にならないよ」
有希ちゃんが、まるで別人を見るような怯えた目でわたしを見ていた。
自分でも嫌な言い方だと思った。
でも、こうでもしないと彼女は逃げ続けるんじゃないか。そういう疑惑が、自然とわたしの言葉を鋭いものにした。
胸に手を当てて、震える声で、彼女はようやく言った。
「あたしにだって、夢はありますよ! 周りの人たちみたいに、楽しい家族の思い出を持ちたいし、友だち家に連れてみたいし、……でもダメなんですよ。家帰ってもただ冷たくて、さっさと離婚しちゃえばいっそイイのに……知ってるんですよ。あの人たちは、それでもあたしをとびきり愛してるってことぐらい。でもあたしなんかのためだけにカタチだけ保っててどうするんですか。本末転倒過ぎて、あたしは全然嬉しくない。でも何かできるわけでもなくて、誤魔化すように笑ってるだけな両親が、アホみたいで……」
感情的に、言いたい放題にやって、散々にした挙句、彼女は言葉を見失った。そして、泣きそうになるのを堪えながら、
「だから、あたしに夢見る資格なんてないんですよ。言っても無駄だとわかった、その時からずっと」
と、胸のつかえを取るように、言い切った。
今にも泣きそうだったのに、どうしても泣こうとしなかった。
「泣かないの?」
「泣きません」
「泣いても別に構わないのに……」
「泣いて解決する問題なら、幾らでも泣いてますよ」
俯いて、冷たく言い放つ。
しかししばらく間をおいて、振り返ると、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、
「でも、問題がきちんと解決できたなら、嬉しくて泣くかもしれないですね」
苦味を含みつつも爽やかだったその笑顔が、とても印象的だった。
「ねえ、記念撮影しよう」
「また変なこと思いつきました?」
「えっ、だってこんなに澄んだ星空、撮っておきたくならない?」
「構いませんけど」
面倒くさい、と言いたげに、しかしその顔は嫌そうではなかった。
スマホを取り出す。
カメラ機能なんてそう使ったことないけど、操作感覚はわかっていた。
画面の中で、星はあまりにも小さく、儚かった。だから、なるべくピントを間違えないように、あれこれ工夫しつつ、何枚か撮った。
でも、そのどれとして、星を撮れていなかった。
夜空の中に融けて消えてしまっているのだ。一番強く輝いているはずの、シリウスすら写真の中ではくすんだ穴以上の何物でもなかった。
「おっかしーな……」
何度撮り直しても、変わらなかった。
「たぶん、スマホだとこの解像度が限界なんでしょうね。本格的なカメラだったら話は別でしょうけど」
「むー、くやしい」
「仕方ないですよ。数年後ならもっとハッキリ写せるかもしれませんが、今はまだできないってことで」
「夢を語れと言った手前でなんだけど、現実は厳しいね」
「いえ、忘れなきゃいいだけですよ」
有希ちゃんはしれっと、あざとくわたしを見上げるように、言った。
「あの星空は、カメラのレンズなんかじゃなくて、あたしたちの瞳の中にしか見つけられないものなんだ、て思いましょう。ちょっとロマンチックじゃないですか」
わたしは驚いた。
そして、これが有希ちゃんなりの不器用な、優しさなのだとわかった途端、笑ってしまった。
それを見る有希ちゃんの目が、細くなっていた。よく見ると下唇を噛んでいる。照れてるのだろうか。
「なんですか、笑わないでください」
「うん……うん、そうだね。これはわたしたちだけの思い出だね」
笑いを収めると、わたしたちは歩き出した。もう一時を過ぎているかもしれないけど、もうそんなことはどうでもよかった。
「なんか、今日はありがとうございました。もう帰ろうかと思います。仲悪い両親ですが、そろそろあたしの心配してると思いますし」
「うん、そうだね。わたしも帰るよ。独り暮らしだし、明日休みだけど」
「……ぼっち」
「う、うるさい」
やれやれ、とまるで上から目線で母のような目で、有希ちゃんは言った。
「まあ、もしヒマなら今度遊びません? 沙奈江さんには、同級生とかには言えないことも、簡単に言える気がしますし」
「いいね。その日楽しみにしてるよ」
「その時は連絡しますよ。じゃあ、またいつか」
「じゃあね」
こうして、わたしたちは別れ、わたしは夜の中一人ぼっちになった。
でももう独りじゃない。
夜はまだ好きになれないけど、怖くはなくなっていた。
加筆訂正の余地があるかもしれない。
なおタイトルの意味は、作中にちょろっと出てきた曲の題名がわかればピンと来るはず。