魔女の家
櫻街右下三件通り、裏通り三丁目、西下地区隙間番地、マイナス2-58。
これはふざけても冗談でもない、いいや、実際冗談のような話なのだけれど、どうか与太話だと思って聞いてほしい。
私は今から一つだけ不思議な話をする。それは決してあなたを馬鹿にしているわけでも騙そうとしているわけでもないということを、どうか信じてくれないだろうか?
これは私が実際に体験した話なのだけれど——。
■
私が住む街には都市伝説が一つだけある。
それなりに古い街だから、怖がらせるような話には事欠かないのだけれど、どの話も最後には決まり文句のようにある街の名前が挙がるから、結局はうちの街には都市伝説は一つだけ存在することになる。
曰く、この街の裏側に、例えばビルの後ろ側、マンホールの中や閉まったままのマンションの扉、果ては鉢植えの底に至るまで、見えない部分は全て異界に通じている。異界に行けば必ず名を読ませられるから、帰ってきてもよくわかる。
街の裏側『櫻街』。そこはこの世の全ての不可解が吹き出す場所。
しかし、我々がその境を見てしまえばたちまちその扉は閉じてしまうから、私たちは街を見つけることは出来ない。
こんな水掛け論はきっと誰も信じていなかった。せいぜい夜更かしを咎められる子供くらいのものだろう。
しかし、この異界は思わぬ形で私の隣に寄り添ってくる。
順を追って話をしよう。
私は市内の高校に通うごく普通の女子高生だ。大人しい部類に入るが、がり勉だったりオタク趣味だったりはしない。おそらくなんのドラマも生み出せない人間だ。
そんな私の通う高校にある噂が流れていた。櫻街のことだったから、また新たな模造品でも出回ったかと思っていた。
友人のAが私にその噂を聞かせてくれたのだが、いつも通りであり、そして少し違っていた。曰く。
「ねぇねぇ、聞いた、あの噂!あぁもうそんなつまらなさそうな顔しないでよ、今回は本当に本当なんだから!あのね、櫻街右下三件通り、裏通り三丁目、西下地区隙間番地、マイナス2-58って場所があるんだって。そこにはね、誰でも行けて、誰でも戻ってこれる不思議なお店があるんだって!隣のクラスのBもCから聞いて、行ってみたんだってー!あぁ、なんで無視するの、ねぇ!」
私はその胡散臭い噂も、ありえない住所も、悲しくなるくらい信じていなかった。Aは噂好きでこの手の類はよく拾ってくるから、そんなものだと聞いていた。
その態度がAは気に入らず、放課後私を引きずって件の場所に行くのも、もはや恒例というものだ。
右下三件通りというものはわからない。Aもわからないそうだ。ただ、AがBから聞いた話によると、変哲ない住宅街の狭い路地から様々な隙間を一定の規則で入っていけばつくらしかった。
Aが入っていったのはやけに片付いた路地だった。
Aが言うことには、前はゴミや枯葉があったらしいがあまりに人が通るから誰かが掃除したのだそうだ。
中には横歩きしなければならない箇所もあったものの、道はちゃんと道だった。だが、どれ一つとして建物の玄関が向いていない。それが少々不気味ではあった。
いくつ目になるかわからない角わ曲がり、狭い塀の隙間を抜けると、そこは開けた空間のようで、ビル風が髪を巻き上げ一瞬私の視界は塞がれた。塞がれた視界が開けた先には……洋風の小洒落た喫茶店、風の家が一軒。手すりで半階上がらねばならず、どこから生えているのか大木が絡みつくように寄り添っている。煉瓦と木で作られたそれには看板が慎ましく乗っていた。
『ウィッチクラフト 魔女の家』。
そこはどこにでもある、スピリチュアルアクセサリーの店だったのだ。
土手がコの字を描き、設えたようにぴったりと嵌る店で、この道からはこの店にしかつかない。
不思議な店だ。こんな立地を選ぶ神経も酔狂であるが、店から醸し出される雰囲気も現代に即しているようで異質で、まるで古紙の本を読んでいるかのような気分にさせられる。
Aは意気揚々と店に入っていった。私はAには悪いが現実とはこういうものだったと、再確認のため息をついてAに続いた。知らず息を詰めていたようだ。
店は女子高生でごった返していた。店の雰囲気はカフェも兼ねているようで、そういうコンセプトだと思って見れば、かなり本格派なのだろうと知れる。カウンターの棚にはキラキラと西日を反射して輝く瓶がずらりと並び、吊るされたハーブがそれらしい香りを振りまいている。
店主はまだ二十にも届いていないであろう外国人の男だった。しかし、名は瀬川ちるさ、と至極日本人らしいものを名乗る。帰化したのかもしれない。
瀬川さんはよく笑い明るく社交的な好青年で、店の客は彼を目当てにしているのが大半であろうと知れた。
瀬川さんの他に、めったに奥から出てこない従業員が一人と、少しファッションセンスが独特な少年が一人、いるらしい。
後者の方はさっきから店の中をちょろちょろ動き回って給仕している。年の頃は私と同じ頃だろう。上から下まで真っ黒の、やたらと装飾過多な少年は女子に体良くからかわれている。
なかなかに楽しい店だ。瀬川さんの淹れるハーブティーも美味で、リピーターの幾らかはこのお茶に惹かれたのかもしれないとすら思える。
瀬川さん曰く、喫茶店は副次で本来はやっぱりスピリチュアルアクセサリーの店なのだとか。あとはちょっと本格的なおまじないの道具を売っている店だった。
Aは現実がつまらなそうな顔をして、塾があるからと早々に帰っていった。
私もそろそろ暇しようと、土産を買って帰るつもりでアクセサリーカウンターを物色していた。
そんな私に瀬川さんはあれこれとアドバイスをくれ、結局私が買ったのは護身を表すとされる石のブレスレットを二つ。瀬川さんのセールストークは素晴らしく、土産にしては少々高くついたとだけ言っておこう。
私はまた来る旨を愛想笑いで伝え、帰途につく、つもりだった。
私が扉を押し開く直前、入ってきたのは隣のクラスのBだった。
Bは本当に大人しく、人と話すのが苦手で教室の隅で一人で本を読んでいるのが似合う、縁の目立つ眼鏡をかけた女子だ。
Aの、この店の情報源であったらしいのだが、Bは思いつめた様子で一直線に瀬川さんに向かっていった。
「あの、この間この店には惚れ薬があるって言ってましたよね」
Bの震える声は店の中にやけに大きく響いた。
店主は肩肘をついてBを見上げ、なんでもないことのように言う。
「言ったね」
「ください」
Bは間髪いれずに迷いなく財布を取り出した。その財布からお札がはみ出していたのはよほど慌てていたのだろうか、几帳面なBらしくない挙動だった。
今にも崩れ落ちそうなBとは反対に、瀬川さんはとても落ち着いている。ただならぬ雰囲気の客は慣れっことでも言うのだろうか。
瀬川さんは勿体振ることもなくカウンターの下から小瓶を二つ出してBの前に並べた。
毒々しいピンクの液体が入った右の小瓶。透明で水のような左の小瓶。
「惚れるという状態はとても曖昧でね。だから、君に意中の彼を惚れさせるならこっちの一般的な惚れ薬をお勧めする。これは飲んだ時に性的興奮を軽く呼び起こして、見た人に恋をしたと認識させる、とても安全なお薬」
瀬川さんはどぎついピンクの瓶を振って見せる。そして指はそのまま左の小瓶へ移った。
「で、こっちは人の精神を書き換えて君に夢中にさせる薬」
瀬川さんの説明は簡潔で胡散臭く、非常に嘘めいて全員の耳に届いた。
Bはうろうろと左右の小瓶を見比べ、左の小瓶に手を伸ばす。
「毎度あり。お代は1200円だよ」
その手の薬にしてはとてつもなく良心的な値段だ。
B自身拍子抜けだったようで、毒気を抜かれた顔でお札一枚と硬貨を二枚カウンターに置く。瀬川さんは笑顔でそれを受け取り、小瓶を彼女に渡して、使い切りだよ、て囁いた。
Bは小瓶をまじまじと見ていた。中はただの水なのかもしれない。開けたら封が切れるからと蓋に手をかけないまでも日にすかして見るくらいのことはした。
そんなことをしているものだから、小瓶は後ろから近づいた真っ黒な従業員に奪われてしまっていた。
「やめとけ、これはダメだ」
少年は近くで見ると本当に小さく、Bと同じくらいしかない。黒いルージュとピアス、銀のメッシュの散らばる髪。黒のマニキュアが塗られた指で小瓶をつまみあげている。
「ヘンリー、それはもう売ったものだから彼女のものなんだよ。そこで取り上げたら窃盗か詐欺になっちゃうよ」
瀬川さんは不満げに言うが、ヘンリーと呼ばれた従業員はポケットから財布を取り出して札と硬貨をBに差し出す。
「金は返すさ。これのことは忘れな」
にべにもない言葉にBは少し震え、しかしすぐに眦を釣り上げて返してくださいと怒鳴る。さながら修羅場のようであったが、黒の少年はどこ吹く風だ。
ついに泣き出してしまったBに流石に狼狽えたようで、刺繍の美しいハンカチを差し出していたが受け取られることはなかった。
「あのねヘンリー、俺らは魔女なんだよ?夢を鬻いでなんぼなんだから」
瀬川さんの一言で押し黙るヘンリーの手から、Bは恐るべき俊敏さを見せつけて小瓶を奪い壁際に逃げた。
もしかしたら、瀬川さんは詐欺師でスピリチュアル商法なのかもしれない。それを知るヘンリーくんは罪悪感からそれを止めたのかもしれない。
けれども少女の夢というのをよく知る瀬川さんからすればそれは単なる善意と商売なのかもしれなかった。
舌打ちして奥に下がったヘンリーくんを見送った店内はなんとなく気まずそうで、しかしその空気はなかったとばかりに瀬川さんだけが明るい。
Bは弾かれるように外に出て行った。もともと帰るところだったこともあり、私はその後を追った。
店の外にはBが、今度は上から下まで真っ白の美しい女性といた。というか、帰り道を白い女性が遮っているのだった。
「それ、つかうと後悔するよ」
予想に反して、その可憐な唇から飛び出た声は低く、男のものだ。彼は噂の『奥から滅多に出てこない』方の従業員らしい。
Bはまたもや行く手を遮られたことに泣きそうになりながら唇を引き結んで瓶を両手で抱き込み庇う。
「忠告は、した」
真っ白の彼はいとも簡単に道を開け、店に戻っていった。裏口ではなく正面から。どうやら出入り口は一つらしい。
彼は、いったいいつ外に出たのだろう。
気味の悪い心地がして、私は早々にその場を離れた。その店は、悪いが二度と行かないと決めた。
数日して、Bが陸上部の先輩と付き合いだしたと聞いた。
先輩は同じクラスの幼なじみと付き合っていたと聞いたが、どうやら振ってBに靡いたらしい。
Bの惚れ薬の話は瞬く間に広がり、少女たちは色めき立ってかの店に行く手段を探し出していた。無論私の所にも来たが、私は知らないの一点張りで通すことにした。
効果があったにせよなかったにせよ、いいや万が一あったのだとしたら、あの店は本物ということだ。それはとてつもなく怖い想像だった。
■
その日、ちょうど以前私がかの店に行ってから三ヶ月たった時だ。私は再び魔女の家を訪ねていた。
店の中には誰もいなかった。ただカウンターに雑誌を読む金髪の青年がいる。
「あんた…っ、何をしたの!」
私は恐怖が突き抜けて怒りに変わり、それに諸々の憤慨が混ざり、要するに非常に激怒していた。
カウンターに詰め寄った私に瀬川さんはぎょっとした顔で雑誌をカウンター下に放り込む。
「何かありましたか、お客様?」
「何かあったかじゃないわよ、三ヶ月前売った惚れ薬、あれ…あれはなんなのよ!」
「何って……惚れ薬ですって。俺たちは自分の仕事に誇りを持ってますから、決して偽物は売りませんよ」
瀬川ちるさの声は困ったクレーマーを宥める声で、それは私の神経をざわざわと逆撫でする。
「Bが死んだの、あんたらのせいでしょう!?あの薬のせいなんでしょ!?」
Bは死んだ。
初めの頃はとても幸せそうで、お互いに愛し合っているのがわかるくらい仲睦まじかった。振られた幼なじみさんがその様子を見て嫉妬も起こらないと呆れ半分に笑ったくらいなのだから相当だ。
だが一ヶ月が過ぎるころには先輩は部活に殆ど行かなくなり、Bも学校を休みがちになった。それでも二人が一緒の時はこれ以上ないくらい幸せそうだった。
そして昨日、二人は手をつないで自殺した。電車の前に飛び降りたのだ。
遺体は酷く損傷していたから詳しいことはわからないが、先輩がBを道連れに飛び降りたようだと、目撃証言が上がった。
「黒い子も白い人も止めてたってことはこうなることが分かってたんじゃないの!?あんたはそれでも、あれを売った!」
私は何が許せないのかわからないまま先瀬川を揺さぶった。誰も来なかった。奥でこちらを見ている白黒の二人も置物のように動かない。瀬川だけが困ったように目を泳がせている。
「そうは言うけどね、お嬢さん。ここはそういう店で、彼女に選ばせて買わせたじゃない。ヘンリーも悠もお節介して止めたのに、彼女は欲しいと言ったじゃない。他の女の子たちは安全な方を買ったさ。それを跳ね除けてでも彼女が欲しかったのは『劇薬』だったんじゃないのかな」
「あんたがもっと強く止めていれば!そもそも出さなければ良かったでしょう!」
「だからね、俺たちは自分の仕事に誇りを持っているんだよ。魔女である自分たちに。魔女が乞われた薬を出さないなんて笑い話にもならないじゃない」
「でも、人間なら良心があるでしょう!?そんな屁理屈いらない!」
瀬川は大きくため息をつく。
「なんでわからないのかな、ここは櫻街で、俺たちは魔女なんだよ」
瀬川は私の腕を外しにかかる。乱暴ではあったが怪我をさせるつもりはない、つまりは歯牙にもかけない程度のことだと、言われた気がした。
「もう家にお帰り、人間」
それから、私がどうやって家に帰ったかはわからない。気づいたら玄関前でぼうっと佇んでいた。
そして、あの店にはどんな道を通っても辿り着けなくなっていた。
街には依然あの店の噂が闊歩している。何人かは辿り着いたのだろう。嬉しそうにあの日見た瓶を持っている。
でも死人が増えたというニュースは以前に比べ減ったとも増えたとも言えない。それはあの薬がもう売られていないのか、うまく折り合いをつけて二人が生きているのか、私には知る術がない。
どうかこの話を馬鹿だ、ただの白昼夢だと笑い飛ばして欲しい。そして万が一たどり着いてしまったら、どうかその欲を抑え、懸命な判断をしてほしいと、願う。
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ねぇねぇ、知ってる?
櫻街右下三件通り、裏通り三丁目、西下地区隙間番地、マイナス2-58って所にたどり着ければ、そこに願いをなんでも叶えてくれる魔女が、住んでいるんだって。