5.魔女の弟子
鞭の傷とか、痛い表現があります。
なんだかとても寒くてぼんやりとしながらぶるっと震えたら、今度は身体中が痛かった。
おかげで、完全に目が覚めた。
ひんやりと湿った石の床に、顔を押し付けるように転がされていた。起き上がろうとしたら、腕が背に回されたままがっちりと固定されていて、身動きするどころではなかった。
……おまけに、相当乱暴に扱われたのか、少し身体を動かすだけであちこちが酷く痛かった。きっと痣や擦り傷どころではない傷がたくさんついてるんだろう。腕や足が折られていないだけ、マシなのかもしれない。
「あ……」
おまけに、髪も切られて短くなっていた。せっかくウルスが梳かしてきれいにしてくれたのに。
「どうして、こんな目に合わなきゃいけないんだろう」
ぽつりと呟く。
こうなると、もうお師匠様はだめなのかもしれないと思えてきた。封印がどうにかなって、魔物が解き放たれて、何か領主に害を与えたのだろうか。お師匠様にその責任があると思われたのだろうか。
幼い頃、森の中をひとりで彷徨ってた自分を拾って、ここまで大きくしてくれたお師匠様。何も知らなかったわたしに魔法やいろんなことを教えてくれたのに。お師匠様は、もう……?
今までは、トラブルに巻き込まれただけできっと大丈夫と考えるようにしていたけれど……耳に残ったお師匠様を“魔女”と呼ぶ兵士の声に、ぽろりと涙が溢れる。
はあ、とゆっくり深呼吸をして、身体の痛みが治まるのを待ちながら、ウルスはちゃんと逃げられただろうかと考えた。あんなにきれいな黄金色の竜なのに、魔物と呼ぶなんて……自分のせいで、何か傷付けてしまったみたいだった。あんなに親切に、優しくしてくれたのに、わたしは何も返せていない。たぶん、この先も返せない。
──せめて、どうかこのまま、彼が無事でいますように。
今はいったい、どのくらいの時間なんだろう。窓もなく、風も入ってこないから、さっぱり見当がつかない。……たぶん、この湿った生臭い空気からすると、ここは地下牢なんだろう。わたしは、近いうちに処刑されてしまうのだろうか。“魔女の弟子”として。
もう一度、はあ、と大きく息を吐いて、ぼんやりと考える。あの時、お師匠様を止めてたら、こんなことにはなっていなかったのだろうか。でも、そうしたらウルスとは会えなかったのだろうか。封印されていた魔物はどんな奴で、今どこにいるのだろうか。初代の日記に、魔物の名前はちゃんと書いてあったのだろうか。
ぐるぐると取り留めのないことを考えていると、誰かが足音を忍ばせて近づいてくるのに気がついた。こんな地下牢で、縛られて何もできないわたしのところへ来るなんて、いったい誰なのか。
訝しんでいたら、がちゃ、ぎいっと意外に大きな音を立てて扉が開いた。誰かの持つ小さな灯りが部屋の中へと差し込む。
「いたわ」
「あまり時間がありません、早く」
小声でぼそぼそと話す男女の声に小さく首を傾げる。聞いたことのない声だ。
「誰、ですか?」
掠れて力のない声で尋ねると、相手ははっと息を呑んだ。
「──あなたが魔女の弟子ね?」
「魔女ではなくて、魔法使いタリアの弟子です」
そこだけは訂正したい。お師匠様は、断じて魔女なんかじゃない。
「……時間がないの。タリアはお父様に呪いをかけたの?」
「え?」
お父様? 呪い?
話が掴めず混乱していると、彼女についてきた男が口を出す。
「領主様だ。旦那様に、魔女は呪いをかけたのか?」
領主? 呪い?
「いったい何のことですか? 呪いなんて、そうそう掛けられるものではありませんよ」
「……そうでなきゃ説明がつかないもの! 教えて、魔女はお父様に何をしたの!?」
ますますわからない。感情が高ぶってるためか女性の話は要領を得ないし、男性のほうも女性を宥めることに一生懸命で、補足も何もしてくれない。
「……あの、さっぱりわからないんです。すみませんが、最初から説明してください。話が掴めません」
彼らの話はこうだった。
ひと月たらず前のこと、なぜだか急に領主の様子が変わったのだという。曰く、優しかったお父様が急に領民に酷い要求をすると。曰く、つまらない罪で罪人を増やし、残虐な刑罰を科すと。曰く、諌めた官吏を捕らえ、牢に繋ぐと。
見かねた彼女……領主の娘ヒルダが何故そんなことをするのかと涙ながらに問うと、魔女のせいなのだ、と言ったというのだ。
だから魔女を捕らえようとしたのに、魔女は行方知れずでひとりいた弟子の姿もない。ようやく探し当てた弟子は、魔物を従え、兵たちに抵抗した。どうにか捕まえたけれど、魔物は依然逃げたままだ。
あまりの言いがかりに、言葉を失うとはこういうことかと思った。
……濡れ衣だ。変わった時期といい、どう考えたって魔物のせいじゃないか。いきなり襲われたら、誰だってあのくらい抵抗する。
「そんなの……言いがかりです。お師匠様は、魔法使いタリアは呪いなんてかけませんし、わたしだって、理由もわからずいきなり剣を突きつけられたんです」
「そんな言葉が信じられると思っているの? お前の言うことに、真実があるとでも?」
ぐっと唇を噛みしめる。どうして……。
「どうして、そこまで言われなきゃならないんですか? これまで、お師匠様もわたしも、この土地に住むひとたちとうまく助け合ってきたのに」
「何を言うのよ……魔族のくせに!」
はっと瞠目する。いつの間に、わたしの魔法が解けていたのだろう。
「その色も、その目も、その角も、どれも魔族の特徴じゃないの。さすが魔女の弟子だわ。魔族だなんて」
「……それでも、お師匠様は絶対呪いなんてかけてないし、わたしだって何も悪いことはしていません」
震える声でそれだけを言う。
ごめんなさい、お師匠様。トラブルは魔物のせいだけど、わたしがそれを酷いものにしてしまったかもしれない。
翌日から、魔女の行方を教えろという尋問が始まった。知らないと答えれば容赦なく鞭を打たれて、だんだんと何も考えられなくなっていく。鞭の傷はこんなに痛いものなんだと、初めて知った。封印の魔物のことを口に出せば、でたらめを言うなと怒鳴られた。わたしが従えていた魔物はまだ捕まっていないと、あれの他にも魔物を従えているとは、さすが魔族だ恐ろしいと。
それから、この領主の城を取り巻く嫌な気配にも気がついた。どうして誰も気がつかないのか、不思議なくらい嫌な気配だった。
……たぶん、封印の魔物はこの城にいるんだろう。わたしにもわかるくらい、はっきりした気配だ。やっぱり、領主が変わってしまったのは魔物のせいなんだ。
背中の痛みに耐えながら、ぼんやりと初代の日記を思い出す。魔物のことをどんな風に書いていたっけ。
……魔物の気配は弱った心を侵す。じわじわと、ゆっくり効果をあらわす毒のように、時間を掛けてひとびとの心を侵す。
「毒……」
ふと、なぜかあのレシピが頭に浮かんだ。あの、でたらめで、いったいなんでこんなものを書き留めたのか、よくわからない害虫駆除の薬のレシピ。
「“毒を抜き、悪魔のレシピの後に続けよ。最初が肝心”」
口に出してみて、突然、ああそうだったんだと思い至って、くつくつ笑いがこみ上げる。とんだ間抜けだ。初代はちゃんと肝心なことを書き留めてたじゃないか。しかもかなりはっきりと。
ああ、でも……。
「ちょっと遅かったなあ……ウルスと一緒の時にわかっていればなあ」
あの時にわかっていれば、いくらでもやりようがあったのに。
「おい、お前の処刑が決まったぞ」
不意に扉の外から声が掛けられた。ああ、やっとかと思う。痛いのも、苦しいのも、もう終わるんだ。
「明日だ。明日の昼、お前の処刑を執行する。楽しみにしてろよ、魔女の弟子め」
……いや、まだチャンスはあった。たぶん、これが最初で最後のチャンスだ。どうせだめなら、最後にひとつくらい、やらかしてやる。
「お師匠様、ウルス、どうかわたしに力を貸してください。どうか、魔物に一矢報いることができますように」