4.誤解
さらに数日、わたしとウルスは初代の日記を解読した。
……解読といったところで、掠れて読みづらい文字とか、何やら殺虫剤のレシピやらを読んだだけなのだけど。
「……この殺虫剤って、ほんとに効き目があるんですかね」
「そうなの?」
「だらだら薬草と毒草を取り混ぜて並べて、全部いっしょくたに混ぜた後、“毒を抜き、悪魔のレシピの後に続けよ。最初が肝心”って、適当過ぎるのではないでしょうか。それに、“悪魔のレシピ”が何かっていうのもどこにもないですし」
あまりに変すぎて、そこの記述だけが浮いているように感じる。それとも、家で燃えてしまった本の中に“悪魔のレシピ”とやらが書いてあったのだろうか。そんなことをぶつぶつ言っていると、ウルスが横から覗き込んでやっぱり首を傾げた。
「ほんとだ。トリカブトに夾竹桃、スズラン、ドクゼリ……って、これだけ毒草を混ぜたら、毒抜きどころじゃないね」
「でしょう? これで本当に害虫退治ができたら驚きます」
はあ、と息を吐いて日記を置くと、ぐうっと伸びをする。
あの家を引き揚げてから、かれこれもう10日近く経つ。食べるものも寝るところもウルスの世話になりっぱなしで申し訳ないと思うけれど、お師匠様が見つかって封印がらみのトラブルがなんとかならないことには、もうどうしようもない。
おまけにここ数日は何の進展もなく、巣穴に篭ったままひたすら初代の日記を眺め続けているだけだ。そろそろ手詰まりなんじゃないだろうか。
「……さっぱりです。初代の日記で魔物を封印したっていうのはわかったし、どうやら初代は力不足で、そいつを送り返すとこまではいけなかったようだというのはわかりました。けど、肝心の魔物がどんなものなのか、名前がわかってるのか、全然読み取れません」
伸びをしたままの体制でごろりと横になると、ウルスが来てわたしの頭を自分の膝に乗せた。
「なんだろうね。どこかに書いてないはずはないと思うんだけど、どうも、かなり怖い魔物だったみたいだし……隠し過ぎちゃったのかな」
「隠しすぎですか……」
ウルスがわたしの目に手を当てる。竜のウルスは人型になっても体温が低いのか、ひんやりとした感触が疲れた目に気持ちいい。
「何かを見落としているんでしょうか……こういうの、苦手です」
どうやったらわかるんだろうとぐるぐる考えながら、さっぱり思いつかなくて途方に暮れる。
お師匠様は無事だろうかと考えて、あれからもう20日近く経ってしまったのだから、どう考えても無事じゃないんだろうと思い直す。やっぱりあの時無理にでも止めるべきだったのだ。
お師匠様がこのまま戻らなかったら、わたしはどうしたらいいんだろう。
「何を考えてるの?」
顔の上から、ウルスの声が降ってくる。額から髪をゆっくり撫でながら、わたしを落ち着かせるように。
「……このままお師匠様が帰らなかったら、わたしはどうしたらいいのかなって」
「ずっと僕のところにいればいいよ」
目に当てられていたウルスの掌を外して、彼を見上げる。
「どうして、ですか?」
「え?」
質問の意味がわからないというように、ウルスはきょとんとわたしを見つめ返す。
「ウルスは、どうして、わたしにこんなに良くしてくれるんですか? ただ、ここにあなたが巣穴を決めた後、たまたま最初に訪ねてきたのがわたしだったってだけじゃないんですか?」
ウルスはしばらくわたしを見つめた後、「だって、名前を交換したじゃないか」と、くすくす笑った。
……名前を、交換?
ぽかんとウルスを見上げていると、彼はまたにっこりと笑う。
「最初に、君が僕に名前を教えてくれって言ったんだよ? そんなこと言われるの初めてだったし、異種族からっていうのもあって、ちょっとどきどきしたよ」
え……ちょっと意味がわからない。どういうことなの。
「あの、ウルス?」
「なに?」
「名前を交換って……?」
「え?」
ふたりでぽかんとしたまま見つめ合う。とたんにウルスがぼっと顔を真っ赤にして、狼狽え始めた。
「……え? 違ったの?」
「だから、何がでしょうか」
「そんな、僕はてっきり……」
「ええと、ウルス、自分だけで完結しないでください」
なぜか涙目になったウルスに驚いて、わたしは慌てて起き上がった。
「何がてっきりなんですか?」
宥めるように顔を覗き込むと、ウルスは「やっぱり違ったんだ」とがっくり項垂れる。いったいなぜかはわからない。けれど、どうやらわたしが原因であることは確かだ。
「ご、ごめんなさい」
おろおろと謝るわたしに首を振り、ウルスは力なく笑い返した。
「ソーニャのせいじゃなくて、僕がちょっと早とちりだっただけみたいだ。気にしないで。
……でも、ごめん、少しひとりで考えさせてね」
ウルスはふらふらと立ち上がり、洞窟の奥へと行ってしまった。わたしはいったい何をしてしまったのだろう。名前の交換て、いったい何のことなのか。こんなとき、お師匠様がいれば何かわかったかもしれないのに。
自分は本当にものを知らないのだなと、溜息を吐いてしまう。
たぶん、今わたしがウルスをおいかけても追い討ちをかけることにしかならないんだろう。そう考えて、もう一度溜息を吐いて、初代の日記をめくり始める。もう何度読み返しただろうか。いい加減、内容を諳んじることができるんじゃないかと思うくらい読み返しているが、やっぱり肝心なところがわからないままだ。
これじゃ、いつになったらお師匠様の行方がわかるのか。
気になることが増えすぎた。ただただひたすらに頁をめくりながら、ひとりきりで書物を読むのはいつぶりだろうと考える。お師匠様が居なくなって、ウルスと出会ってからずっと、頁をめくるわたしの横には彼がいた。
ぼんやりと頁をめくりながら、けれど中身はまったく頭に入らないまま、ふと外が騒がしいような気がして顔を上げた。
何かが……いや、誰かがこの洞窟に来たのか?
そう考えたとたん、どかどかと大きな音とともに甲冑に身を包んだ兵士たちが部屋に飛び込んできた。
──いったい何があったのか、頭が付いて行かずにぽかんと見ていると、剣を抜いたその兵士たちに周りをぐるりと囲まれた。身につけた鎧やお仕着せを見るに、これは領主の兵士なのだろう。けど、いったいなぜ領主の兵士がこんなことを?
「な……なんですか?」
周りを囲む兵士に剣を突きつけられ、そろそろと手を上げると、後ろに立つ兵士に飛び掛かられ、乱暴に組み伏せられた。床に打ち倒され、視線だけを動かして呆然と周りを見上げるわたしの前に隊長らしき兵士が立ち、蔑むように言葉を放つ。
「魔女タリアの弟子だな。ようやく見つけたぞ。こんなところに隠れているとはな」
「……魔女?」
魔女とは邪法に堕ちた魔法使いの蔑称だ。なぜお師匠様が魔女などと呼ばれなくてはならないのか、わけがわからない。
押さえつけられ、がくがくと震えながら必死に考える。お師匠様は、いったいどんなトラブルに巻き込まれたというのか。
──お師匠様は、無事なのか?
「……ソーニャ!」
自分を呼ぶ声と一緒に悲鳴が上がる。周りを囲む幾人かの兵士が、ウルスに吹き飛ばされて倒れたようだった。
「──魔物め! 主人の命が惜しくば下がれ!」
だめだ、いくらウルスが竜でも、こんな狭い場所でこれだけの数の兵士が相手じゃ、無事では済まない。
「……ウルスだめです! いいから逃げてください!」
「でも、ソーニャ!」
「早く! わたしは大丈夫です、だから!」
とたんに兵士の剣の柄で殴り飛ばされて、うっと声が詰まる。ソーニャ、と呼ぶウルスの声がどんどん遠くなっていく。大丈夫、彼ならきっと逃げられるだろう。なんたって、ウルスは竜なのだから。
あの強い翼で空を飛んで、誰にも捕まらない場所まで逃げられるはずだ。
「大丈夫、何かの間違いです。きっと、封印のトラブルで誤解が……お師匠様さえ見つかれば……」
ぶつぶつと呟く自分の声も遠くなり、わたしは意識を手放した。