『なろう』が自己保存則を要求している件。
取り敢えず文字にしなければ。
それがなければ形は見えてこない。
アイデアは冗長な現実に流され、情熱は次第に熱を失う。
いつしか人は以前の自分の考えすら理解できなくなる――乃ち後悔をすることになる。
人は簡単に変わってしまうのだ。
男子三日会わざれば……とはよく言ったもので、実際その通りなのである。
男女問わず人は皆、代謝という機能を持っている。
古い細胞を破壊し、新たな世代の細胞がその役割を担う。
具体的な数字に意味は無いが、たとえば筋肉は大体3ヶ月で全て入れ替わるといわれている。
細胞の種類によってその時間は違うのだろうが、ここではたいした問題では無い。
要するに自己とは一定の存在ではないということだ。
今日の自分は昨日の自分とは何パーセントか違う。
自分の何パーセントかが明日には何パーセントか失われているわけだ。
その中に書くことへの情熱や書きたかったことが含まれていれば、もはやその人にはそれを書くことは不可能だろう。
生物学的永久化を迎えるのだ。
だから思い付いたらすぐにでも文字にするべきなのだ。
自分が変わってしまう前に。
まことに申し訳ないが、上の主張は主張としての価値がゼロである。
論理的に大きな間違いがあるわけでは無いのだが(多分)、どこかに欠陥があるようだ。
というのも、この主張は現実に則していないからだ。
第一に『なろう』には反例となる方がたくさんいらっしゃる。
四半期ランキングや、累計ランキングを見るだけで分かるように、何ヵ月という長いスパンに渡って執筆、更新が行われているではないか。
彼らが生物学的永久化を迎えていないのが偶然だとは思えないし、思いたくもない。
第二に小説の特性上の問題がある。
俗に言うプロット作成が問題なのだ。
プロットを実際に作るか作らないかは人それぞれのスタイルがあるのだろうが、作らない人も多かれ少なかれ頭の中でプロットを組み立てているのではないだろうか。
長編ともなると特に、念入りに組み上げたプロットをもとに書いていく必要があると思う。
ノンプロットの見切り発車をした経験がある人なら分かりやすいと思うが、勢いだけで長編は書けるものではない。
いずれ設定と設定の間で雁字搦めになって動けなくなるのが関の山だ。
従ってじっくりと時間をかけなければならないのだが、これは生物学的永久化論と真逆の主張になるのである――というか一般的に見て生物学的永久化論が間違いなのは明らかである。
上記の通り、残念ながら私の主張はやはり聞く価値のないゴミクズのようである。
さて、私の主張は主張としての価値を持たないようだが、ゴミクズのまま終わらせるのは癪なので本題に入ろうと思う。(震え声)
※(震え声)といった表現方法をとることの善し悪しは非常に厄介だが、本作においてはニュアンスを伝える都合上他の適当な表現が見つからなかった。
『なろう』内でもこの表現方法ついて論じている方がいらっしゃるようなので、読んでみると面白いと思う。
話が逸れたが、本題とは私の主張内の間違いについてだ。
『代謝→自己の変化=自己の消失→消失前に書くべき』
この内『→』には間違いが無いと思う。
代謝によって確かに自己は変わっているし、自己が消失するのなら早く文字にしなければならないだろう。
とすれば問題は『=』だったのだ。
つまり現実では、自己の変化≠自己の消失という関係であったのだ。
それは自己の変化の中でも自己が保存されうるということだ。
ではいったいどのように保存を可能にしているのだろうか?
……保存?
保存で思い出したのだが、これと同じ疑問を似たようなことで感じたことがある。
いきなり話が変わって申し訳ないのだが、私の一番古い記憶は家族で行った愛知県の某所のイルミネーションだ。
(某所というのは伏せているのでなく、場所の名前を忘れているだけなので気にしないでもらいたい。)
青や白の色鮮やかな光のトンネルを見上げながら歩いたことを覚えているし、ベビーカーに乗った弟が寝ていたのも覚えている。
綺麗なイルミネーションだった。
弟がベビーカーに乗っていた頃だから、私は当時3、4歳だったのだろう。
どうして、私はそんな前のことを覚えているのだろう……と、私が抱いたのはこういう疑問だ。
これについては実は私自身納得できる理論で解決している。
何かで読んだのだが、どうやら私は記憶を記憶しなおしていたらしい。
親から聞く話やわずかに残るおぼろげな記憶から、新しく作り物の記憶を記憶する。
こうして記憶のリレーをして今継ぎ接ぎの記憶がある。
過去の記憶の中に自分がスコップで遊んでいる姿の記憶があったので、私はこれを正しいと思っている。
そうでなければ、私がどうやって自分自身の姿を見たのかという説明が出来ない。
こうしてできた記憶は元となる記憶とは違うだろうが、イルミネーションを綺麗だと思ったという重要な点は保持されている。
こういった意味で記憶の保存は可能なのだ。
ならば、自己の保存にも同じことが言えるはずだ。
なぜなら記憶も自己も似たようなもの(本質的には同じかもしれない)だからだ。
両者共に曖昧なのに非常に疑いにくく、確固たる自分の物だと私たちが信じて止まない。
こうして導き出されることは、自己を元に自己が作り変わるという説だ。
書き手のアイデアや情熱は、次世代の自己へと引き継がれる事で保存され、熟成し、作品へと昇華するのだ。
私たち作品を読む側の人間は、人類が何世代もかけて発展させた科学技術を享受するかの如く、書き手の何世代もの自己の継承を享受しているのである。
だから、私たちは極大の感謝を持ってその作品を読まないといけない――とまでは私は言わない。
しかし、書くことにそういった面がある、ということを考える瞬間が有っても良いのではないのだろうか。
以下は蛇足かもしれないが、書き手側に偏り過ぎるのもどうかと思うので。
書き手が自己を継承することで保存しているとは言った。
だが、エントロピーの観点から見ると自己内だけでそれを続けるのは難しいのだ。
よって自己の継承には自己以外からの刺激――書き手にとってはそれが読み手となるだろう――が必要となる。
乃ち、読み手無しでは書き手の自己の保存は正常に行われなくなるのである。(あくまで一般的にだが)
勿論の事、自己が保存されなくなれば生物学的永久化が待っている。
だから、書き手たちは私たちに感謝しなければならない――とは私は口が裂けても言えない。
しかし、ここ『なろう』において私たち読み手には出来ることがある。
それはブックマークだったり、ふと伝えたくなった感想かもしれない、レビューに挑戦してみてもいいだろうし、もしかしたらダイレクトメールでのやり取りかもしれない。
『なろう』は書き手と読み手の距離が近い。
私たち読み手の行動で避けられる生物学的永久化もあるのでは無いだろうか。
もし、それがあなた好みの作品であったのなら、それはとても素晴らしい事ではないでしょうか。
蛇足の蛇足(もはや蛇じゃない)になるが、ここまで読んできた方が薄々感じたかもしれないことを。
一行で。
この作品は自己の保存に失敗しました。