第2章-ホロビユク サイゴノイノリ ユリノハナ-
第2章-ホロビユク サイゴノイノリ ユリノハナ-
第2章-ホロビユク サイゴノイノリ ユリノハナ-
朝陽が昇るより先に文鳥は目を醒まして、窓から星々を見送りながら朝陽を待っていた。
月が顔を隠し朝陽が目覚める時、人の喧騒や街の雑踏も消え、自分の声だけが世界中で唯一の音だと確かめる様に呟く。
『ティエス フィッツ ヴァルーニ』
小さな頃、今は亡き母が毎朝呟く言葉。
何という意味なのかも、何処の言葉なのかも、全く知らない不思議な響き。
それでも、母の遠い想い出の中の温もりに近付ける瞬間であるという理由から文鳥は毎日月が沈み太陽が昇る前の一瞬の時間に祈る様に唱える。
昔人間が信じていたという宗教という、全知全能妄想を抱いた人間が集まり肩を寄せ合い壊れそうな運命を分かち合うものと似ているのかもしれない。
陽が昇り始めた時に鶺鴒の機械仕掛けの声が響く。
『オハヨウ文鳥。』
という声に少々驚き、同時にさっきの言葉を聞かれていたらと考えると何故か少し気恥ずかしい気がしたものの平静を装って鶺鴒に目を落として
『起こしたのならすまない。』
と、伝えた。
鶺鴒は文鳥の方を向き(見えてはいない筈だが)微笑みながら
『随分ト早イ様ダガ眠レ無カッタノカ?』
と、問うので文鳥は鶺鴒の閉じている瞳を見詰めたまま首を横に振り、もう行くのか?と問われ文鳥は首を上下する。
『陽ノ沈ミ逝ク方角ヘ』
その言葉を背に文鳥は床の扉を横にスライドさせて開き下の狭いショップへと大きなトランクと共に降りた。
そこは相変わらずマスクをしていなければかなり浸食されていそうな狭い通路しかないショップ内。
その唯一の通路をトランクを物にぶつけない様に出口に向かって慎重に歩き出したその時に、扉の前に立つ人影に気付く。
ふと伏し目がちにしていた目を真っ直ぐに向けると鶺鴒の孫にあたる揚羽が立っている。昨日見かけた時と変わらずに端正な美しい容姿をしたままに。
揚羽は綺麗に折り畳まれたこの街の何処のショップでもなかなか高価な値段がしそうな美しい観た事のない動物の絵が透かしになっている紙を文鳥に向け差し出し美しく微笑んでいる。
そこには
「どうか金糸雀の皆様にお会いになりましたら再びこの鶺鴒のショップに必ずお立ち寄り下さい。鶺鴒も私も何時迄も心よりお待ちしております。」
と描いてあった。
その文章から離れた場所に
「どうか命だけは御落とさない事だけを祈っています」
とも描かれてある。
文鳥は
『ありがとう。鶺鴒にも世話になったと伝えて欲しい』
と告げ、揚羽が躯を退かした後ろにある扉をミシミシとギシギシの中間の音を響かせながら開き、朝焼けに焦げ始めた街へと振り返る事なく歩みを進めた。
街は未だに眠りについているかの様で、ショップも大半は閉まっており、時折散歩らしき人々が行き交う程度。
陽当たりの良い場所で座っていた人影が文鳥を見て一目散に近付いてくると身振り手振りで何かを伝える。
どうやら街を出る辺り迄荷物を持ちたいと言っている様だったが、勿論断った。
砂埃舞う荒れた街の中央に位置する大通りを、街に入った場所を背にしながら大きなトランクと共に真っ直ぐと突き進む。
ただ真っ直ぐに、何が見える訳でもない場所を目指して、何が待つか解らない場所へと向かう。
身振り手振りで何かを伝えるマスクをしていない沢山の物乞いや物売りを交わして辿り着いた街の終着点。そこで文鳥はマスクの中で深く息を吸い込み、吐き出す。そしてもう一度、さっきより小さく吸った息を吐き出す時に『さようなら。そして、ありがとう』と、やはり振り返る事なく声に出し、陽の昇った方向を確認して、まるで後光がさすかの如く背にしながら、追い付く事のない自分の影を追いかける様に歩き出す。
荒廃した殺伐とした風景が永遠であるかの様に視界が届く範囲に続いている。振り返りさえすればきっとそこには鶺鴒や揚羽の住む街が未だ観えるだろうが、文鳥は其れを決してしようとはせず、ただ金色の砂と岩だけしか見えない。
黒くて少し大きな帽子で顔を隠し、コンパクトで鼻と口が隠れるだけの防塵マスクと黒のトレンチタイプのボタンやジップの山程付いたロングコート、手には肘のやや下迄かくれる皮の手袋をして、黒の細身のパンツに先の尖った黒のブーツを履き死体でも運べそうなトランクを持った黒尽くめの男が前だけを見続けて歩く。
時折強く吹く風は砂を浚い、あの日から岩を削り、平坦な道なき大地を創り、まるで時間迄を歪めたのかもしれない。
何度自分の影が新しく産まれたのか?文鳥は既に喉の渇きに限界が来ていた。
持っていた水さえももう残りはほぼ無い様な状態で、今は何より水が欲しかった、喉を潤してくれる物が…
何とか歩みを進めて行くと一面金色の砂と岩しか無いキャンバスの彼方に小さな緑色のインクが堕ちている…
『緑…』
声に出さずに文鳥は頭の中で自分に言う。
『幻か?』
更に同じ様に自分に問う。
もう既にこの金色以外の色が世界にある事を忘れてしまうには余りに充分過ぎる時間が流れている様に感じていた。
しかし、何も頼れる情報等はないのだから、ただただ鶺鴒の言った陽の沈み逝く方角だけを必死に目指し歩んでいる。
遠くの緑のインクが1歩1歩と歩く度に少しずつ近付いて来ている。
緑が木々だと認識が出来る位になると、そこには今や懐かしささえも感じる揺らめきを秘めた水がある事を視覚に捉えるのも容易だった。
蜃気楼では無い事は確かだった。
此処は風景としては蜃気楼が出てもおかしくはなさそうな景色ではあるが、実際空気を屈折させるだけの気温の上昇はなく、陽炎さえも出る事はない。
文鳥は迷う事なく、ただ一心にその緑と水を目指し、少し早足になる様に足場の良いとは言えない砂地を急いでいく。