本の紹介39『地下室の手記』 ドストエフスキー/著
閉じた世界から社会を見つめる男の独白。この視線、あなたにも心当たりがあるかも。
初めて読んだドストエフスキー作品ですが、予想を裏切られる内容に驚き「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」といった長編作品を読むきっかけとなりました。
中編小説でそれほどボリュームはないので、いきなり長編に手を出すのは躊躇われる人にオススメです。短いながらも、後の作品に繋がる作者の思想、視点のエッセンスを味わうこともできます。短いといっても内容は濃い目なのでちょっと胃もたれしてしまうかもしれませんが、それがこの作者の味と感じることができれば、他の作品に挑戦しても良い体験を得られるかと思います。
「罪と罰」などの有名どころの簡単なあらすじを知っていたので、本作も重苦しくて難しい話なのだろうと身構えていました。「地下室の手記」というタイトルから、主人公が何らかの理由で地下牢に閉じ込められており、そこから社会に悲痛な訴えを投げかけるといったストーリーを連想していました。
ところが、いざ読み始めると、主人公が自らの意思で地下室に閉じこもる様子が描かれ衝撃を受けました。主人公は官吏(いわゆる公務員)として仕事をしていたのですが、人間社会に嫌気が差し、遺産相続で大金を得たことをきっかけに地下室を作ってそこに閉じこもることになります。正直言って羨ましいとすら感じました。
本書の大半は主人公が地下室から社会への思いの丈を独白するという内容となっており、主人公の強烈な自我が読者に迫ってきます。主人公は変わり者というか、偏屈な性格の人間なのですが、どこか他人とは思えないような普遍性を感じさせます。変なやつだなと思いながら第三者視点で物語を読み進めていると、ふとしたタイミングで、その思考や言動に自分も心当たりがあると気付かされるのです。
特に印象的なのが、主人公が以前街中で見かけた厳つい男性について、一度も会話をしたこともないのにその性格や暮らしぶりに偏見に満ちた想像を膨らませ、あいつは自分のことを馬鹿にしているに違いないと被害妄想を繰り広げるシーンです。妄想を信じ込み、いつか決闘してやると意気込む一連の流れはコメディ作品も顔前の笑いを誘う場面と感じたのですが、同時にドキッとした感覚に襲われました。
ここまで極端でなくても、自分も他人を偏見の目で見たり、その言動を勝手に想像してヤキモキしたりした経験があることに思い至るのです。
人間は他人のことを完全に理解することはできず、いつだって自分の物差し、自分の気持ちでしか物事を捉えることができないとは、もはや使い古された言い方ですが、そのことをまざまざと表現しているのが本作の大きな特徴かと思います。本作の地下室は物理的な存在に留まらず、人間が抜け出すことのできない自我という檻を表現しているのかなと。
主人公は望んで自覚的にその檻の中に籠るわけですが、本作はそういった生き方をただ肯定するのではなく、その滑稽さも描いていると感じます。本作全体から滲み出る、どこか空回りした感じは自分というものから飛び出すことのできない人間の悲哀やおかしさに起因しているのではないかと。
そして、そのことは主人公が地下室から覗き込む、社会で生活する人々にも当てはまるように思えるのです。他人と交わり、相互理解をしながら生きているように見えている人間であっても、根っこの部分ではわかり合うことができていいないのではないかという視点です。
優れた文学作品は安易な勧善懲悪やあるあるネタで共感を得るのではなく、多くの人が心の奥底にしまっている普遍的な感情や思考を掬い上げる力を持っているものだと思うのですが、本作にはまさしくそういった力があります。終わり




