#2 停泊
夕刻、西日が赤く照らす雲海の上を、ただ一隻進む。
このまま、艦上で夜を明かすのかと思いきや、伝声管から艦長の声が聞こえてくる。
『達する。艦長のティッキネンだ。これより当艦は、ハミナ市港に寄港する。夜間着陸となる、総員、着陸作業にかかれ。以上』
4日ぶりの地上だ。ということは、今夜はぐっすりと寝られる。艦上の寝床は揺れが激しいだけでなく、ともに雑魚寝する男どもの欲情の餌食にさらされる。といっても、さすがに襲われることはないのだが、夜な夜な胸のあたりをゴソゴソとまさぐられるくらいのことはよくある。触るのは結構だが、私のように小さな胸など触って何が嬉しいのかと思う。
着陸の報を聞いた私は、砲撃室を出て艦橋への通路を歩く。通路といっても、布と網だけでできた簡素な筒で、真ん中に張られたロープだけを頼りに歩く。ギシギシと音を立てるこの脆弱な通路がもしなにかの拍子に抜けても、高度3500メルテから真っ逆さまに落ちないためだ。そう、この布の向こうは、足場のない空だ。
そんな恐ろしい通路を抜けて、金属製の床にたどり着く。ここは艦橋の手前の部屋で、6人がけのテーブルが一つ置かれた場所。通常、このテーブルの上には、天測と地形照合により得られた現在地を示す大きな地図が広げられている。が、今その地図は壁にかけられ、真ん中には茶色の物体が山と積まれた器が置かれている。
「あ、ユリシーナ……じゃない、カルヒネン伍長。食事、並べますよ」
そう言って、奥の調理場から現れたのは、マリッタ・ライリアだ。調理師の彼女は、この艦で私以外の唯一の女だ。
「マリッタちゃん、きょうの料理はなんだい?」
などと言いながら、ある機関士がマリッタの大きめの胸に手を伸ばそうとしている。が、その手を、持っていたトレイで弾き返す。
「さ、変なことを考えてないで、お食事を摂って下さい。あとが控えてるんですから」
何人分かの皿が載せられたトレイをドンとテーブルに置く。おっとりとしているようで、案外たくましいのがマリッタだ。その勢いに、もはやその機関士以外の男どもも手を出そうとはしない。
マリッタはこの艦で唯一、軍人ではない。調理師として乗り込んでいるが、この艦には料理長が不在であり、事実上、この民間人が艦内の食事の一切を仕切っている。
なお、マリッタは寝る際は調理場に入り、裏から鍵をかけてしまう。それゆえに、男どもはあの大きな胸に指一本触れられない。だから、手近な私で我慢しているようだ。そう考えると、なんだか腹立たしいな。
出された食事は、干したトナカイ肉、オリーブオイル、石のように硬いビスケット、酢漬けキャベツが皿に並べられている。真ん中には、瓶詰めの豆が盛られている。それを何本か刺さったさじですくい取れというものだ。
紅茶はコップ一杯。空中では、水は貴重だ。むさ苦しくて汗ばんだ身体だが、かれこれ5日は水浴びをしていない。私は味気ない料理を取り、小さなさじで豆をすくい取って口に入れ、トナカイ肉をオリーブオイルに漬ける。カチカチのビスケットは、そのさじで3度ほどつついた後に、オリーブオイルをしみ込ませた肉を載せて、ビスケットのひび割れからオイルが染み込むのを待つ。そして、それを一気にかじりつく。
にしてもこのトナカイ肉、やたらと臭い。何を使ったら、こんなに臭くなれるんだ。おまけに、ビスケットへのオイルの染み込み具合も浅い。グニャッと柔らかい奇妙な感触の缶詰肉と、まるで石膏のような硬いビスケットとの組み合わせを、どうにか顎の力で噛み砕いて咀嚼し胃に流し込む。その後に、多少はマシな酢漬けキャベツを放り込み、味を中和しつつ食べる。
味なんて期待できない。船内食などこんなものだ。軍学校時代から幾度も口にしたこの悲惨な食事を重ねることで、私なりの食事法を編み出していた。
食べ方は様々で、ビスケットを力技で砕いてオイルに漬ける者、砕いたビスケットと酢漬けキャベツをかき込み紅茶を飲む者、様々だ。
いずれにせよ、まともに食える代物ではないという点では変わりない。ここでの食事は単に流し込むためのものに過ぎない。
『ハミナ市港、視認! 総員、繋留準備にかかれ!』
そんな食事風景も、入港を目前としたこの号令がかかるとすぐに一変する。大急ぎで食事を流し込むと、即座にそれぞれが持ち場に向かって走っていく。
私は計算士だ。だから、入港の際はただぼーっと見ているわけにはいかない。私にも役目がある。そのためにここ、艦橋まで来たのだ。私は抱えていた鞄から計算尺と紙と鉛筆を取り出して、そのさらに奥にある部屋へと向かう。
そこはまさに、艦橋だ。航海士が舵をとりつつ、その脇には艦長が座る。副長はその後ろに立つ。
「速力50、風速20!」
航海長が叫ぶ。私は慌てて床にメモ紙を敷き、航海長の読み上げた数値を書き取る。そして持っていた鉛筆を立て、片目でその先の窓の方を見る。
入港する繋留塔の先とこの艦の船首とのずれは、目視では30メルテ。距離はあと300といったところ。船外にある吹き流しのなびき具合から、20メルテの風が右方向に吹いている。
私は計算尺で進路補正を導く。風速と速力、そしてずれ量。そこから私が導いた答えを、航海長に伝える。
「面舵3度! 速力そのまま!」
それを聞いた航海長は、私の答えを復唱する。
「面舵3度! 速力そのまま!」
「おもーかーじ!」
カラカラと、少し舵を回す航海士。やがて艦は少し右に動き、船首が塔の先を向く。私は再び鉛筆を立てて船首と塔を見るが、ピッタリと重なっている。
直後、ズシンという音と共に、その塔の先端と空中戦艦ヴェテヒネンの船首が結合する。幸い、一発で入港できた。
もっとも、砲撃の弾道演算に比べたら、入港補正など大した計算ではない。相手は動かない塔だし、地上付近の風は穏やかだし、何もかもが予測しやすい。こんな簡単な計算を外す奴がいると聞くが、私には到底信じられない。
塔に捕捉されたこの艦は、先端の繋留具が下がるのに合わせて徐々に高度を下げる。私の立つこの艦橋の真下の地面が、ゆっくりと迫ってくる。やがてガツンと音を立てて、艦橋の底部が接地した。
「総員、下艦を許可する」
艦長のこの一声で、艦橋の両側に開かれた扉から、乗員が一斉に降り始める。この空中戦艦ヴェテヒネンの乗員は、全部で26名。今回も、一人も欠けることなく全員が帰投できた。
その26名を乗せていた空中戦艦を、私は見上げる。
全長がおよそ300メルテ、高さ80メルテ。前後が紡錘形の大きな筒型の白い飛行船。真下には2つの大きなゴンドラが吊り下げられており、前側には艦橋と食堂兼作戦指揮所と調理場、後ろ側には砲撃室と機関室がある。その前後ゴンドラの間には、口径が25サブメルテある砲身が見える。あれが、この空中戦艦の唯一の武器だ。
こんなものが空を飛び、この独立戦争の主力兵器として用いられている。ついさっきまで、そんな兵器に乗っていたのかと思うと、なんだか不思議な気分だな。
「そして、こちらが今回の王都防衛の貢献者です、閣下」
と、背後から聞こえてきた艦長のこの言葉で、私は振り返る。そこには艦長とともに、飾緒付きの明らかに将官と思われる人物が立っている。私は慌てて持っていた計算尺を左手に持ち替えて、空いた右手で敬礼する。
「ああ、かしこまらなくていい、楽にしてくれ」
その人物は私にそう告げるが、私は伍長、相手は准将以上のお方であることは間違いない。楽になど、できようはずもない。
「カンニスト中将閣下。無線でもお知らせしました通り、射程外からの砲撃を進言したのは、この計算士です」
「ほう、彼女が、か」
うう、そんなに偉い方だったのか。それにしても、中将閣下からじろじろと見られるのはあまり心地いいものではないな。私自身、少なくとも容姿に自信があるとは到底言い難い。だから、見られることにはどうしても抵抗がある。
「よし、私からは総司令官閣下に、カルヒネン伍長および空中戦艦の砲撃科に、金三等勲章の授与を進言することにしよう」
ところが、である。いきなり、勲章の話が飛び出した。想定外の言葉に、私は思わず身体を震わせる。
「いえ、閣下、戦果は爆撃艦一隻であり、階級も考慮すれば、この場合は銀等級が相応しいのではありませんか?」
そんなありがたい提案に、艦長は反論する。だが、中将閣下は続けてこう述べる。
「なればこそだ。ただ一隻の重爆撃艦を沈めた、というだけではない。射程外からの正確な砲撃、ならびに王都防衛に大いに貢献した。敵も今後、爆撃艦の出撃に慎重にならざるを得なくなるだろう。これを金等級で讃えなくて、どうして前線の士気を上げられようか」
このような言葉が、まさか前線指揮官から飛び出すなど、予想だにしなかった。私はただ、あの重爆撃艦を沈めたい一心で算出を行った。おまけに、命中には運の要素も大きい。外していれば、その後の命中率は深刻なまでに落ち込んだことだろう。そんな運任せな事案に対して、過分過ぎる栄誉だ。私はそう思った。
もっとも、総司令官である大将閣下がどう判断されるかである。勲章の話など、たちまちに消えてしまうかもしれない。そう考えれば、あまり期待せずにこの話の行く末を見守る方が得策と言える。その場を意気揚々と離れる中将閣下に再び敬礼して見送ると、ようやく私は地上に降りた安堵感と向き合うこととなる。
「おまたせ~、そんじゃユリシーナ、行こうか」
そのすぐ後に、調理師のマリッタ・ライリラが現れた。私の両肩を掴みつつこう呟いた彼女は、そのまま私の背中にあの大きめの胸を押し当てて、街灯りのある方へと私を歩ませる。
「おいマリッタ、あまり勢いよく押すな。歩きづらい」
「へぇ、そんじゃ、手をつなごうか」
この調理師は、まるで遠慮がない。にしてもだ、いい大人が揃って手を繋ぐとか、恥ずかしくないのか?
と言いつつ、マリッタにはあまり逆らえない。内気な私を、いつも引っ張ってくれる。これは調理師が持つ嗅覚ゆえだろうか、この見知らぬ街のどこに美味しそうな飲食店があるかを嗅ぎ分けてくれる。宿も浴場も同様だ。だから、彼女なしに、私は地上を歩けない。
「うう~ん、ここが良さげね」
ガス灯頼みな薄暗い街中を巡るうちに、この調理師の嗅覚が探り当てたのは、お世辞にも綺麗とは言い難い店だった。木製の扉はヒビが入っており、今にも打ち破られそうだ。そんな危うい店の中に、私はマリッタに手を引かれて入る。
中を、見渡す。特段、これといって特別な何かがあるようには感じない。どちらかと言えば、場末の酒場と言った雰囲気の店だ。出されている料理も、どこかさびれている。
が、一点だけ、私にもその店の特別な雰囲気を悟った。
そう、中にいる客のほとんどが、我が空中戦艦ヴェテヒネンの乗組員だ、ということだ。
その中のひと際大柄な人物、すなわち、砲撃手のキヴェコスキ兵曹長が立ち上がって、木製の杯を高らかに掲げてこう言い放つ。
「我が艦の英雄である計算士殿に、乾杯!」
「「かんぱーい!」」
この思わぬ歓迎に、私は面食らった。思わず、自分の顔を手に持った計算尺で覆い隠す。
それから私は、めちゃくちゃに飲まされた。が、あまり記憶にはない。安い酒場の、安い酒を大量に飲まされて、ただただ振り回されたという感覚だけが残る。
そして、翌朝を迎える。
「うう……」
見知らぬ宿の、見知らぬ天井を見ながら目を覚ます。頭痛はするが、思ったほど痛くはない。記憶はなくなるが、お酒に弱いというわけではない。それよりもだ、私は何か違和感を覚える。
一糸まとわぬ姿で、薄いシーツに身を包んでいるだけの自分に気づく。は? なんで裸に? それを見た私は一気に目が覚める。
が、そんなことが些末なことに思えるほどの衝動を、私は受けることになる。それは、すぐ隣りで寝ている人物を見た時のことだ。
そこにいるのはマリッタだと思っていたが、明らかに違う。どう見ても、それは男だ。
それも、よく知る人物だ。
「ほ……砲長、殿……」
私は、その人物をその肩書で呼んだ。すると、砲長は頭を掻きつつ、ゆるりと私の方を見る。
「なんだ、もう朝か」
冷静につぶやく砲長を前に、私は一応、尋ねてみる。
「あの、どうして私はここに……」
その問いに、砲長のマンテュマー大尉はこう答える。
「また、私の腕から離れなかったからだ」
ああ、やっぱり。私は「また」やらかしたのか。見知らぬ宿のベッドの上で、私は頭を抱える。
これで、三度目だ。なぜか私は酔うと、砲長にしがみついて離れないらしい。さらに、寝起きの際のこの格好は、つまりその……
これ以上、考えるのをやめよう。自身の軽率さに、虚しくなるばかりだ。
私は立ち上がり、枕元に置かれた計算尺を左手に持ち、胸の大事な部分をそれで隠す。そして右手で敬礼しつつ、砲長に尋ねる。
「砲長殿、私の衣服は、どこにありますでしょうか?」
着替えを済ませて、そそくさと宿を出る。宿の主人が、こちらを見ながらニヤニヤしているのが気になるが、まあいい。だいたい考えていることは分かるから、ここはあえて反応しない。
すっかり日は昇り、街中を太陽が照らす。荷馬車が数台、何やら大荷物を積んで大通りを走り抜ける。その道の先には、我が空中戦艦の姿がある。
あの馬車は、我が艦に補給物資を運んでいるようだ。最後尾の馬車には、大きなボンベが積まれていた。補充用のヘリウムだろう。どんなに密閉していても、飛行船のガスは徐々に抜けてくる。このため補充は必要だ。
そういえば、我がイーサルミ王国にはヘリウムを採取できる天然ガス井戸が存在する。一方のオレンブルク連合皇国には、ヘリウム採取井戸が存在しない。このため、オレンブルク軍の空中戦艦はガスの補充に苦労しているものと推測されている。
捕虜からの情報によれば、ヘリウムの蓄積が底をついたオレンブルク軍は、ついに水素に手を出し始めたそうだ。ヘリウム井戸がなくても、水の電気分解により入手可能なこの気体は、しかし高い爆発性のためにその使用が禁止されていた。が、背に腹は代えられない連合皇国側は、ついに水素の使用を決めたと見える。
我がイーサルミ王国も、この重要資源であるヘリウムの採取場を独占するがゆえに、独立する決断をする。が、すでに3年もの間、この戦争は続いている。我が王国にある三か所のヘリウム採取井戸を奪取すべく、苛烈な攻撃を加え続けている。
だが、我が王国は決して屈しない。やつらが我が国の独立を認めるまで、我々は戦い続ける。すでに我々は大国のフロマージュ共和国の支持を得ており、空中戦艦の技術供与も得て、この戦いを優位に進めようと……
「ユリシーナ!」
我が艦を眺めながら物思いにふけっていると、背中の方からいきなり抱きつかれる。大きな二つの柔らかい感触が、背中を介して伝わってくる。
「なんだ、マリッタか」
「なんだ、じゃないわよ。で、夕べもお楽しみだったんでしょ?」
くそっ、お楽しみも何も、記憶が全くないんだから返答のしようがない。それを知ってか知らずか、こいつは私の顔をニヤけつつ眺めてくる。
「で、なんだ。そんな私をからかいに来たのか」
「決まってるじゃない。夕べもすごかったわよ。『砲長、私、一人者でとっても寂しいんです。慰めてください』って、上目遣いに真っ赤な顔で迫ってくるもんだから、マンテュマー大尉も呆れた顔で……」
「ああ~っ、それ以上はもういい!」
本当に私は、そんなことを言ったのだろうか。今の私からは到底信じられない。だから、お酒を飲むのはやめようと心に誓っていたのに、夕べはつい英雄と持ち上げられてしまい……みんな、私がこうなることを知って、その上で飲ませたのだろう。まんまとはめられた。今度こそは飲まないぞ。
と、思っていたのだが。
「ねえ、補給は明日一杯までかかるって。だから、昼間から飲まない?」
「う……構わないが」
「じゃあ、行こう行こう! あのね、いい店見つけたんだ」
このマリッタの誘いを断れなかった。私は再び酒の勢いに負けることとなり。
そして、記憶が飛んだ。
「うう……」
気づけば、またベッドの上だった。しかし今度は、真横にマリッタが寝ている。
それはいいのだが、どうして私もマリッタも、全裸なんだ? 私は一体、何をされた?