#18 守護
……おかしいな、ここは確か、積乱雲の中のはずだ。
まったく揺れがない。静かすぎる。てっきり、もっと大荒れな風雨と、生きた心地がしないほどの稲妻に見舞われるものだと覚悟していた。が、辺りはただ、真っ白な霧が覆うだけだ。
「バカな、積乱雲の中が、こんなに静かなはずがないんだが」
砲長も同じことを感じ、呟いた。まさかあれは積乱雲ではなく、ただの雲だったのか? いや、それにしてもどこか違和感がある。それが一体、何なのか?
私は、ふと気づく。
そうだ、機関音がしない。ほぼ全開で回っているはずの機関音が、まったくしないのだ。雲の中へ突入というだけでは説明がつかない事象が起きている。
やがて、霧が晴れ始める。雲の中から出てしまったようだ。が、そこに現れた光景に、この砲撃室にいる私や砲長、砲撃手3人が驚愕する。
「ちょっと待て……ここは4000メルテ上空だぞ。どうしてあんなものが見えるんだ?」
砲長がそう呟くのも無理はない。我々が目にしている光景は、およそ4000メルテ上空の、しかも内陸ではありえないものだったからである。
眼下には、海が広がっている。青く浅い海だ、すぐ下には白い砂の海底が目視できる。その上を、穏やかな波が押し寄せている。
高度はせいぜい100メルテといったところか。だが、王都の北東方向の山脈の手前には海はおろか、大きな湖や池すらもない。ましてやこれほど青い水面と白い砂浜の海底を見せる海など、我が国の周囲には見当たらない。
そんな不可解な海の上を進む戦艦ヴェテヒネンだが、よく見れば赤茶けた島が見える。ぐるりと高さ5、60メルテほどの絶壁で囲まれた、幅が500メルテほどの小さな島。だがそれは、よく見れば島ではない。
そう、切り株だ。途方もなく巨大な木が根元近くでバッサリ折れて、その断面に無数の年輪を見せている。その切り株の下の海面に目をやれば、太い根っこが何本も海底の砂の中に極太の根を下ろしている。だが、全長300メルテのヴェテヒネンよりも太い木など、この世界に存在するのだろうか?
何もかもがおかしな世界だ。それ以前に、ここは確か積乱雲の中のはずだ。なのに、どうしてこんな場所に?
だが、この世界が一体どういう場所なのかを知るものが、その切り株の上に見えてきた。
この砲撃室の全員が唖然とする中、ヴェテヒネンは音もなく徐々にその切り株へと接近する。目を凝らしてよく見れば、その切り株の上には大勢の人たちが立っているのが見える。
なぜ、こんな海のど真ん中の切り株の上に人が? 理解が追い付かないまま、私はふと人々の中にとある人物を見出した。
まだ、距離的には数百メルテ以上離れている。にも関わらず、まるで望遠鏡で覗いているかのように、その人々の中の3人が私の視界に飛び込んできた。
それは大人の男女と、15、6歳ほどの男の子だ。その姿を見た私は、手に持っていた計算尺を落としそうなほどに動揺する。
不意に涙が、ボロボロと流れ始めた。
そう、それはまさしく3年前に、国境近くにあったケラヴァの街で暮らしていた、私の3人の家族の姿だ。父と母、そして弟である。
母と弟は、私に手を振っている。ただ徴兵の経験がある父だけが、私の軍服姿を見てか、敬礼をしている。そんな家族に、私は敬礼で返す。
ふと、隣に立つ砲長を見る。砲長も、何かに向かって敬礼していた。男ながらに、涙を流している。他にも、キヴェコスキ兵曹長や砲撃手の2人も同様に、手を振ったり敬礼をしたりしている。
どうやら、各々が見えている人が違うようだ。砲長が私の両親を見て涙を流すはずがない。あの切り株の上に立つ大勢の中から、誰かを見ているのだろう。
私は再び、切り株の方を見る。3人の家族が、再び見えた。私は不意に、3人に向かってこう呟く。
「みんなの仇を、取ってくる」
それを聞いた父が、敬礼をやめて大きくうなずいた。母や弟も同様に、うなずいてくれた。
そうだ、私は家族の仇を討つために、計算士になったのだ。敵の猛攻にさらされて、危うく初心を忘れてしまうところだったと反省する。
が、次の瞬間、背筋がゾッとする。
いや待て、家族が見えるということは、ここはつまり天国なのではないか? 積乱雲に突入した我が艦は、すでにその嵐に巻き込まれて墜落しており、死んだ我々が艦ごと天国に来ているというだけではないのだろうか。
だとすると、仇討ちどころではない。我々はすでに死んだということになるからだ。だったらいつまでも空中を漂っていないで、早くあの3人の元に降ろしてほしい。
そう願った瞬間に、辺りの光景が急変する。
いきなり、周囲が真っ暗闇に覆われる。切り株の姿はもう見えない。眼下の海面には、まるでホタルか星が浮かび流されているかのように、きらきらと光っているものが波に任せて漂う。
ただ一か所、正面に明るい場所が見える。夜空にぽっかりと空いた穴のような場所だけが、まるで昼間のように明るい。その光の穴の方角に向かって、ヴェテヒネンが音もなく進んでいる。私は望遠鏡で後方、海面を見るが、家族の姿も切り株ももう見えない。そして、あの夜空に開いた光の穴に、ヴェテヒネンが突入する。
突然、空の上に出る。けたたましい機関音が響く。周りを見ると、雲の筋に薄っすらと広がる平原の真上。ここは明らかに高度4000メルテ上空だ。私は望遠鏡を下し、辺りを見回す。
敵艦隊を捉えた。その敵艦隊の向きが、さっきとは違う。我が艦は今、敵の進行方向の正面、およそ6000メルテほどのところにいた。
『敵艦隊、発見! 当艦の左方向真横、先頭艦までの距離6400!』
積乱雲を潜り抜けた結果、敵の進路の正面に出てしまったようだ。それを見た私は、計算を始める。
敵までの距離が6400、ほぼ真横、風の影響、二列に並んだ敵……計算尺を滑らせるが、私は計算を止める。
そうだ、そういえばまだ初弾を放っていない。時限信管を設定済みの砲弾と最大量の火薬がすでに装填されたままだということを思い出す。私はそれらを考慮し、計算をやり直す。今は妙に計算尺の滑りがいい。思いの外、早く答えにたどり着いた。
「砲長!」
まだ唖然として立ち直れていない砲長と砲撃手を前に、私は叫ぶ。
「仰角79度、左92度! 現状設定のまま、砲撃です!」
それを聞いた砲長が、私のこの計算結果を復唱する。
「角度変更、仰角79、左92度!」
「アイサーッ! 仰角79、左92度! 射撃用意よし!」
「砲撃始め、撃てーっ!」
ズズーンという腹に響く砲撃音が鳴り響く。前のゴンドラを見ると、さっきまでの砲長たちと同様に呆けていた艦長や副長が我に返る姿が見える。砲弾はと言えば、ほぼ真上方向に近い方角へ放たれた。
かなり上向きの弾道を描きながら、あの弾は敵艦隊先頭を狙う。一瞬、パッと敵の真上で光る。直後、観測員が合図を送る。
『だーんちゃく、今!』
その合図の直後に、猛烈な爆発が起きる。敵の先頭の艦が我々の弾に当たって火を噴いたのだ。気嚢に詰まった水素がもたらす猛烈な化学反応によって、二つの砲を持つサラトフ級1隻が消滅していく。
が、その隣のペロルシカ級の先頭艦も、遅れて火を噴いた。ほぼ真上に打ち上げた弾は、2列に並んだ敵艦隊の先頭の2隻の真上からその散弾をまき散らした。結果、一撃で2隻を沈めることになる。
「やったぞ!」
このいきなりの戦果によって、沸き立つ砲撃室。だが、戦いはまだ始まったばかりだ。敵の大半は依然、健在だ。
「砲身戻せ、第2射用意だ!」
「もどーせーっ!」
敵は15隻あって、その内のたった2隻が沈んだだけだ。さらに攻撃を加え、敵を混乱させなければならない。その間に味方が態勢を整えて、応戦してくれるはずだ。
『次、敵2番艦! 距離4300!』
敵の進行方向にいるから、距離が詰まるのが早い。私はすぐに計算に入る。ええと、相対速度が140あるから、発射時の距離は……いろいろと予測を交えながら、計算尺を滑らせて答えを導く。
「砲長! 仰角14.2、左94、火薬袋3、時限信管11秒!」
すでに距離は2000を切った。かなりの至近距離だ。こんな距離で撃ったことがない。だが、すぐさま砲撃手が砲身を回し、あっという間に射撃用意が整う。
「撃てーっ!」
砲長の号令と共に、観測員の合図などしている間もなく、その弾着の結果を知る。
再び、敵の艦艇が1隻、火を噴いた。サラトフ級が1隻、真っ白い炎に包まれた後に、上部の気嚢が焼失して、ぶら下がるゴンドラが高度4000メルテを真っ逆さまに落ちていく。
3隻撃沈、たった2発でこれだけの戦果があがる。
こうなると、混乱するのは敵の方だ。予期せぬ方向からの、想定外の砲撃。進行方向の先頭の艦を次々にやられてしまえば、艦列が乱れ始めざるを得ない。結果、陣形を保てなくなる。
『戦艦ミンレプ、巡洋艦トゥイマ、砲撃を開始!』
伝声管から観測員の声で、敵艦隊と並走している味方艦も攻撃を開始したことが伝えられる。ついさっきとは真逆の展開となった。
味方艦が攻撃を加える間に、敵艦隊正面を通り過ぎた戦艦ヴェテヒネンは向きを変える。味方艦隊は敵艦隊の右側に展開しているが、我々だけ逆の左側にいる。
こちら側は、爆撃艦であるペロルシカ級の艦列が見える。残り7隻、こいつらを見逃せば、王都が火の海にされる。私は計算尺を握る。
『敵艦隊より発砲!』
爆撃艦列に狙いを定めるヴェテヒネンの攻撃を阻止すべく、サラトフ級が2隻、こちらに集中砲火を加えてきた。こちらが回頭中の間に、合計4門の砲身での交互撃ち方による間断ない砲撃を加え続けてきた。この集中砲火を回避するため、大きく揺れるゴンドラ。また、先ほどと同様に、近くでいくつもの敵砲弾の炸裂音が響く。
が、不思議と恐怖を感じない。
ついさっき見た、あの光景、あれが何だったのかは、未だによく分かっていない。ただ、一つだけ確信したことがある。
我々は多分、何かに守られているのだ、と。
思えば、マリッタが4000メルテの高さから調理場ごと落ちて助かるなど、今思えば単なる奇跡では片付けられない出来事を目の当たりにしていた。あれは、必然だったのかもしれない。
他の乗員も同じ気持ちなのだろう。これだけの集中砲火に、誰一人として取り乱してはいない。
そんな中、私は計算尺を滑らせて計算に入る。現在の敵までの距離は4200、高度差なし、相対速度は……時折、望遠鏡で敵艦とその周囲を流れる雲を見つつ、敵艦や風速を把握しつつそれを計算に折り込む。
今の私は、恐ろしく冷静だ。敵はランダムに回避運動を続けているが、その動きさえ読める気がする。カリカリと算出された数値を書き込み、最後にそれを加算し答えを得る。
「砲長! 仰角33.9、右72.1、火薬5袋、時限信管22秒!」
それを聞いた砲長と砲撃手らが一斉に動く。
「砲弾と火薬急げ!」
キヴェコスキ兵曹長が詰めた砲弾の後ろから、ドカドカと火薬袋を放り込み、尾栓を閉じる。するとまた二人がかりでハンドルを回して所定の角度までその砲身を動かす。尾栓が抜けた穴から吹き込む風は冷たいが、勢いよくハンドルを回す兵曹長の汗ばんだ腕からは湯気が上がっている。
「射撃用意よし!」
「撃てーっ!」
ドーンと音を立てて、砲がうなる。直後、回避運動のため、艦は大きく向きを変える。ゴンドラが揺れる間に、間近で2発ほど炸裂音が響く。敵の散弾式砲弾の炸裂した音だ。
が、特に被弾した形跡もなく、艦は健在のままだ。その間にも砲身が戻される。ちょうど尾栓が戻ったところで、観測員の弾着の合図が聞こえる。
『だんちゃーく、今』
再び、敵の艦列から白い炎が上がる。今度も2隻同時。広めに散布するように調整した散弾式砲弾から出た無数の散弾が、ペロルシカ級2隻を捉え貫いた。
この真下は、永久凍土が広がっている。その冷たい大地に、焼夷弾を持った爆撃艦のゴンドラが落ちていく。やがてその艦の持つ焼夷弾が、冷たい大地をそのゴンドラごと数千度の炎で覆い尽くす。
敵の弱点は、一発当たるだけで爆発に至る水素充填された気嚢だ。ヘリウムが枯渇した敵は、やむなく水素を使わざるを得ないが、それがために何度も一撃で沈められてきた。その弱点を補うべく、今度は集中運用と集中砲火という戦術に出た。当初はそれで我が艦隊は乱されたが、形勢は逆転し、弱点をさらした敵は5隻を失った。
軽巡洋艦カルヤラと、戦艦イクトゥルソもそれぞれサラトフ級とラーヴァ級を1隻づつ沈めたようだ。これで7隻、この時点で敵艦隊は約半数を失う。
これをもって、オレンブルクの艦隊はようやく撤退を決意した。残存するラーヴァ級とペロルシカ級からは搭載していた焼夷弾がすべて吐き出され、永久凍土の大地に炎を撒き散らした後に、全速力でこの空域を離脱し始める。我々も追撃するが、やがてやつらは雲に紛れ、我々を振り切った。
こうして戦いは終わったが、我々も無傷ではない。
戦艦ズヴェアボルグ以外にも、戦艦イクトゥルソ、高速巡洋艦ヤーカルフが気嚢を撃ち抜かれてた。その内、ヤーカルフのみが墜落、撃沈となったが、他の2隻は高度は落としたものの、かろうじて浮力を保ちドックへたどり着いた。
我が空軍は一隻の戦闘艦と、27名の人命が失われた。だが、王都爆撃を阻止し、敵のほぼ半数を撃沈した。ともかく、空の戦いはイーサルミ王国空軍の大勝利に終わった。




