#15 復帰
あのエクロース大佐というお方が、恐ろしいと感じた。
我々が王都クーヴォラに帰投した直後、キヴィネンマー要塞司令部付きの参謀長を解任されたエクロース大佐も、王都に戻ったという。
が、ここから、この元参謀長の行動は早かった。
この方は、アンティラ准将から参謀長を罷免されると同時に、准将の指揮下からも抜けることとなった。参謀長を解任されたが、それが即、要塞司令部付きも解任とはならないのだが、あのとき感情的となったアンティラ准将の心の火に上手く油を注いだことで、そのまま要塞司令部付きからも自身を解任させることに成功した。そしてその言質を得たことで、エクロース大佐は陸軍参謀本部の指揮下に戻ることとなった。
ところで、参謀本部とは戦場や軍隊内部の情報を収集し、作戦立案や軍組織改変、人事異動を行う機関だ。
となると、エクロース大佐は、参謀本部本来の役割に則り、元上官であるアンティラ准将が要塞司令官として行ってきた数々の悪行を、准将にはばかることなく洗いざらい参謀本部にて暴露することになる。
私の砲台での弾道計算行為を糾弾した件だけではない。そもそも弾道計算の集中管理という非効率な運用を強行し要塞砲の命中率低下を招いていた件、爆撃艦サウッコの出撃不許可、さらにそれ以前からあった准将閣下の作戦運用上の問題の数々を、それを裏打ちする証拠とともに参謀本部に提出した。
私のことがアンティラ准将にバレたのは、その情報を得たエクロース大佐がアンティラ准将にばらしたためだ。それを利用して准将閣下を激昂させ、自身を解任させるよう促したのだ。つまり私はただ、この元参謀長のコマとしてあの場に引き出されていた。そういうことだったようだ。
この元参謀長の告発の結果、アンティラ准将は陸軍司令本部より即、キヴィネンマー要塞司令官を解任されることとなる。で、その後釜にはエクロース大佐が収まることが決定した。なお、エクロース大佐は要塞司令官就任と同時に、准将へ昇進することが決定している。
これであの要塞も、今後は死傷者が減るのではないだろうか。いや、私すらもコマとして使う冷徹なところがあるから、兵士の命と王国の命運が天秤にかかった時は、平然と兵士を死地に追いやりそうな気がする。そういう事態にならないことを願うばかりだ。
さて、爆撃艦サウッコだが、一旦は王都に戻ったものの、せっかく焼夷弾の補充を受けて何もしないというのはもったいないということになり、補給が済み次第、早々に出撃命令が下る。
ちょうどキヴィネンマー要塞に、敵大隊が再び接近したとの連絡を受ける。
それで我々はサウッコに乗艦し、再び要塞上空に戻ってくる。が、今回の敵はサラトフ級2隻を繰り出してきた。
そこで空軍も、たまたまハミナ市港に停泊していた高速巡洋艦トゥイマを繰り出した。この艦は全長が150メルテとさらに小型で、搭載されていた砲も15サブメルテ口径と小型のものを搭載する艦で、射程が短い。が、その名の通り、速いのが特徴だ。
その足の速さを活かして2隻の戦艦を翻弄する間に、サウッコは焼夷弾を敵後方に控える輸送部隊に叩き込んだ。物資を失った敵大隊は撤退を余儀なくされる。
とまあ、すっかり爆撃任務に慣れてしまった我々26人の乗員だが、再び王都に帰投したところで朗報がもたらされる。
戦艦ヴェテヒネンの修理が、ようやく完了したというのだ。
「えっ、調理場が広くなったんですかぁ!?」
変なところで喜んでいるのは、調理師のマリッタだ。そりゃあ自身の働く場が広くなったと聞けば、喜ぶのは当然だ。
といっても少し広がった程度だが、それでも床に一人寝転がるのがやっとだった調理場に、二人分が寝られるスペースが得られた。
つまりだ、私も調理場で寝ることが可能となったのだ。
これまで、艦内では男に混じって寝ることを余儀なくされていた。特に砲長が私のそばで寝ていると、いつも胸の辺りをまさぐられる。こんな小さいのをまさぐって何が楽しいのか……というのは置いておき、風紀上、好ましい状態ではない。
ということで、調理場を広くすることで、私の艦内における住環境の改善を図ったようだ。むしろ喜ぶべきは、私だった。
『繋留錘切り離し、戦艦ヴェテヒネン、発進する!』
まるで水を得た魚のように元気さが戻った艦長が、発進の号令をかける。小型爆撃艦サウッコも決して悪い艦ではなかったが、艦長にとってはこちらの艦長席の方が居心地がいいらしい。
私も、久々に伝声管越しに発進の号令を聞いた。繋留錘のロープが切り離されて、ヴェテヒネンの巨大な船体が宙に浮かび始める。
『高度1500に到達』
『機関始動、両舷前進半速』
機関が始動する音が、ここ砲撃室に響き渡る。私はふと望遠鏡を取り出して、窓からサルミヤルヴィ山脈の方角を見る。
気のせいだろうが、山脈が雄大に見える。別に大きな艦に乗ったからといって、山脈の大きさが変わるわけではない。にもかかわらず、なぜかあの山々が大きく見えてくる。
メモ紙を手に取る。最初の表紙に弾道計算式が書かれたこのメモ紙が、妙に懐かしい。ここ最近は、爆撃任務に固定砲台の弾道計算だった。久しぶりに目にするこの複雑な空中戦艦用の弾道計算式を見ると、なぜか心が躍る。やはり私は根っからの計算士なんだなと感じる。
「何を浮ついているんだ」
そんな私を見て、砲長がそう問いかける。
「別に、浮ついてなんていません」
「顔がにやついてたぞ、何を考えている」
あれ、顔に出てたか? いや、それ以上に今日の砲長、どことなく機嫌が悪いな。どうしてだろう? 何か私はまた、気に障ることをしたのだろうか。
ああそうだ、そういえば今日からは寝床が別々になるんだった。それが不満なのだな。自分の欲望に正直なのは結構だが、艦内にいる時はもう少し自重してほしいものだ。
ところで、このところのオレンブルク側の空中戦力は、大きな動きを見せていない。以前ならば週に2、3隻は爆撃艦が現れて、周辺都市に爆撃を行っていた。王都も、何度か小規模な爆撃を受けている。
が、辛うじて中心部への爆撃は防いでおり、王宮や貴族街、それに主要な軍需工場は被害皆無である。それをこの先も守るのが、我が空軍の役目だ。
「ハルヤバルタ第32観測所からの情報だ。敵の偵察艦を発見したとのことだ」
出発から4時間が経過し、高度4000メルテのこの空の上で最初のブリーフィングが行われた。このところオレンブルクの空中戦闘艦は見かけなくなったが、逆に増えているのが偵察艦というやつだ。全長は100メルテほどと小さいが、砲身も爆装もない分、高速に移動できる。直接の被害はないものの、これだけ頻繁に現れるとなると何か意図を感じる。
「にしても、急に偵察艦が増えましたね。何を探っているんでしょうか?」
「分からんな。が、好き勝手にするわけにもいかない。偵察艦を発見でき次第、これを追撃する。各員、発見に全力を注げ」
全力と言われても、結局は目で見るしかない。空中での戦いが主流になったとはいえ、今のところは目視以外に敵を見つける手段はない。
ブリーフィングの後、砲撃室に戻った私は計算尺を滑らせながら、ふと考える。そういえば、ラハナスト先生が作られたあの電子手順計算機の発達によっては、この敵を見つける手段も変化するのだろうか。もしかすると数十年後の戦いでは、この計算機が敵の発見でも重要な役割を担う存在になっているかもしれないな。
だがその前に、敵や味方の位置をあの計算機で扱えるような形に変えないといけない。穴の開いた厚紙を多用していたが、あれで情報を伝えるのはあまりにも効率が悪過ぎる気がする。その前に、どうやってその位置を知るんだ?
目視以外の方法が出てこない限りは、結局は索敵の方法は変わらない気がする。でも数十年後、きっと人類は何かその別の手段というやつを作り出すと確信している。その時はきっと、ラハナスト先生の名前と共に新たな計算機が……
『はーい、砲撃室のみなさーん、夕食のお時間ですよぉーっ』
などと物思いにふけっていると、マリッタの大声が伝声管から響いてきた。どうやら、食事の用意ができたらしい。もうちょっと早ければ、ブリーフィングでそっちにいたのに。やれやれ。
ということで、再び通路を伝って隣のゴンドラに移る。通路とは名ばかりの、ただの布でできた筒で、真ん中にロープが張られており、それをつかんだまま恐る恐る歩く。
時々、この布の底が抜けるという事故があり、ロープをつかんでいないとそのまま落下するという恐ろしい構造だ。底にはハンモックのような網を敷いてはいるが、それだけでは頼りない。なにせここは、4000メルテ上空だ。その空と自身を隔てるのが、薄っぺらい布と太さ2サブメルテのロープのみ。もうちょっと頑丈なもので作れなかったのだろうかと、いつも思う。
もっとも、ヘリウムの浮力だけで浮くこの艦に余計な重さはかけられない。だからこその構造なのだが、にしても、怖いことには変わりない。
「おい、お前も船乗りになってもう4か月だろう。これくらい、ビビるな」
と言いながら、私の脇を通り抜け、真ん中の命綱も握らずスイスイと移動するのは、キヴェコスキ兵曹長だ。
「いや、そうはいっても、時々落下事故が起きてると聞いてるので、注意するのは当然ですよね」
「そんな事故、このヴェテヒネンじゃ一件も起きてねえぜ。そういうのは、ビビってるやつに起きるもんだ。だからもっとしゃんとしろ」
いやあ、事故は油断した者にこそ起きうるものであって、臆病とは無関係だ。現に落下事故で亡くなったのは、このロープを握っていなかったやつばかりだ。統計的にも、300のヒヤリ、29の軽微な事故の上に一件の重大事故が起こると言われている。一歩一歩がヒヤヒヤで、往復するだけで300のヒヤリなんて経験させられるこの通路なら、もういつ重大事故が起きてもおかしくないのだが。
などと怖い思いを乗り越えて、艦橋と食堂のあるゴンドラにたどり着く。食堂といっても、6人ほどが囲める程度のテーブルが置かれた場所だ。そこは、作戦地図を広げる場所でもある。
で、そこでの食事というのは、いつものようにあの硬いビスケットに干しトナカイ肉、それに真ん中に盛られた煮豆の山。いつもと違うのは、出発初日のみ出される野菜サラダだ。これにオリーブオイルをかけたものが、皿に盛られて出されている。
そのサラダの底に溜まったオリーブオイルに、あの硬いビスケットを突っ込んで柔らかくして、頃合いを見てそれを一気に噛み砕く。トナカイ肉も筋が多いが、ビスケットに比べたらヤワな方だ。
にしても、こんな艦内生活のおかげで、あごが強くなった気がする。だけど計算士のあごが強くなったところで、なんの役にも立たない。せめて計算尺が早く使えるようになるとか、一度に2つの計算ができるようになるなら、いくらでも鍛える気になるのだが。
そういえばこのビスケット、王族や貴族の間で食べられている同名のものはもっと柔らかくて、しかも甘いと聞く。そんないいものがあるなら、こっちにも寄越してほしいといつも思う。そんなことをしたら、貴族が食べるビスケットが無くなる? ビスケットがないなら、こっちのビスケットを食べればいいじゃないか。
なんて考えていたら、食事が終わった。毎度、この硬い食い物には悩まされる。数十年先には、もうちょっと柔らかい戦闘食が作られてて、それを片手で食べながら、もう一方の手の中で動く計算機で弾道計算をする時代になっていることだろう。
「さてユリシーナ、一緒に寝よう」
食事が終わるや、マリッタが誘ってくる。そういえば、今度から私もあの調理場で寝るんだった。副長と話している砲長の怪訝そうな顔を横目に、私とマリッタは調理場に入る。
真新しい木の香りが残るこの調理場の床の上に横になり、上からブランケットをかける。その後ろに、マリッタも横になる。
目の前には、大量の缶詰めが積まれている。5日分の食糧と水がここにはある。これを、マリッタはたった一人でやりくりしている。計算尺もなしに、よくさばけるものだ。
そういえば、缶詰めの缶って、開けた後はどうしているのかとマリッタに尋ねたことがある。なんてことはない、空になったら外に捨てるといっていた。下が街や道でないなら構わず捨てているのだという。どこの艦でもやってるよと、マリッタは言う。
そういえば、糞尿も垂れ流しだよな、この艦。だが、糞尿と違って缶詰めの缶はずっと残る。戦争が長引けば、この国の森は缶詰めの缶だらけになるのではないか。早く終わらせなくては。
と、物思いに浸って寝転がっていると、背後からマリッタが迫ってくる。
狭い場所だ、互いに触れ合うのは仕方がない。だが、狭いのが理由じゃなかった。
「むふーっ、ユリシーナの胸、可愛い。マンテュマー大尉が、夢中になるわけだ」
そう、背後から手を伸ばし、私の胸部をまさぐり始めたのだ。背中には柔らかい感触を二つ、感じる。
「おい」
「なあに?」
「お前の方が、もっと立派なもの持ってるだろう。なんでわざわざ、私の貧相な胸を触るんだ」
「えっ、もしかして触りたいの? いいよ、触りっこしよう」
というので、私は身体の向きを変えさせられて、その手を自分の胸に添えてきた。
圧倒的に弾力が違う。何を食ってたら、ここまでなれるんだ? これは、トナカイ肉だけでは無理だな。
いや待て、私は何かいけないことをしているんじゃないのか。少し躊躇してしまう。そんな私の手を握りながら、この胸の持ち主はこう言い出す。
「酔ってる時だと、もっと積極的なのにねぇ。素面だと、どうしてこんなに可愛くなっちゃうのかなぁ」
と言って、今度は私の腰の辺りをまさぐってきた。が、そこでマリッタは、腰にある物を見つける。
「……ねえ、なんでこんなものが、ここに?」
「いや、いつ必要になるか、分からないだろう」
マリッタが、私の腰に差していた計算尺を取り出す。怪訝な顔をしているが、私は計算士、常に身につけているのは当然だろう。全裸にされたって、手放さないんだぞ。
「まったく、どこまでいっても計算バカなんだから。寝る時くらい、放しなさい」
「そういうわけにはいかない。今、敵が来たらどうするんだ」
「それじゃあ、触りにくいでしょう」
と、少し問答をしたが結局、私が背中を向けて、マリッタに私の胸元を触らせる格好で妥協した。
だけど、あれ、結局私の胸は触られるのか? これってわざわざ寝床を変えた意味あったのか?
そんな調理場での出来事はあったが、そのまま私もマリッタも、いつの間にか寝てしまった。
『当艦前方に積乱雲、このままでは突入するおそれあり』
翌朝、観測員からの声で目覚める。私は起き上がろうと身体を起こすが、マリッタの手が巻きついていて立てない。
どうにかそれを振り払い、私は身体を起こし、調理台の上に置いてあった望遠鏡を取り出して窓から外を伺う。朝日を浴びた、真っ白な雲が縦に伸びて、まさに我が艦の行く手に立ちはだかっていた。
その下を望遠鏡で覗くと、青い閃光が時折見える。すごい雷雲だ、あれに突っ込んだらえらいことになる。
『進路変更だ。面舵30度』
『おもーかーじ!』
船体が揺れる。ガタガタと、調理場内の缶詰めなどが音を立てて揺れる。その音と揺れで、マリッタも目覚める。
「な、なに!? 敵襲!?」
「違う、進路上に積乱雲があるから、それを避けてるんだ」
「積乱雲? 積乱雲って、なんだっけ」
あれ、マリッタは積乱雲を知らないのか。もう何度、飛行船に乗ってるんだ。私は窓の外を指差すと、起き上がったマリッタがあの渦高く伸びる雲を見る。
「へぇ、あれ積乱雲ていうんだ。でもなんで避けるの?」
「雷雲だぞ。あれの中は強い風雨だけでなく、頻繁に稲妻が飛び交ってる場所なんだぞ」
「ひえっ! そりゃあ避けなきゃダメだわ」
まったく、飛行船乗りなら当然知ってることだろうが。今までも何度か出くわしたけど、その時の話を聞いてなかったのか?
が、その直後だ。その積乱雲のそばに、飛行する物体を見つける。それはまさに、この艦が探していたものだ。
『艦影視認! アブローラ級、積乱雲手前、高度2000、数1、速力130!』
アブローラ級とは、敵の偵察艦のことだ。この報が伝声管よりもたらされた瞬間、艦内が一気に緊張する。




