#1 射程外
「これからは計算の時代だ。いかに素早く、正確な計算をこなせるか。それが世を動かす原動力となる」
恩師ラハナスト先生は計算工学の生徒を前に、そう話した。私は白い真新しい計算尺を握りしめ、その言葉に心震わせた。この学科で唯一の女だった私はその後、計算尺での計算速さと正確さでトップを取れた。
が、その腕が活かされた先は、世の中を動かすというより破壊を目的とする、戦争だった。
もっとも、これは私自身が望んだことでもあるのだが。
そして今、私は空中戦艦に乗っている。
『艦影視認! 距離8200メルテ! 方位、当艦基準プラス25度! 高度3000!』
突如、艦上部にある見張り台から、観測員の声が伝声管越しに届く。砲長のマンテュマー大尉が望遠鏡を取り出し、その方角へと向けた。
「見つけた。艦影から察するに、あれはペロルシカ級だな」
ペロルシカ級、つまり相手は敵の重爆撃艦ということになる。
「敵の進行方向は?」
「ほぼ当艦の真横、260度方向を向いている。後方のプロペラの回転数から、ほぼ全速の毎時120サンメルテで進んでいるようだ。間違いない、あれは我が王都クーヴォラを目指しているな」
私は砲長が話す数値を、漏らさず手元のメモ紙に書き留める。風切り音に混じって、私のこの鉛筆の音がカリカリと響く。
「ならば接近し、砲撃しかありませんな」
そう砲長に告げるのは、砲撃手の一人、キヴェコスキ兵曹長だ。今の観測結果を鑑みると、兵曹長の言い分は極めて正しい。なぜならば、我が艦の砲は最大射程7800メルテ。つまり、敵は今、射程外にいる。あと400は接近しなければ、その射程に収まらない。
が、私はそんな二人に進言する。
「接近は不要です。射程外ですが、当てられます」
それを聞いたキヴェコスキ兵曹長は私を見下すように睨みつけながら、こう言い放つ。
「おいおい、計算士の分際で、射程距離の概念を知らないとは言わないよな?」
女であることも原因だろう、この下士官は、私のことをどこか見下している。が、私は反論する。
「このまま追撃しても、射程内に入るまでには数分はかかります。その間に、我が艦が発見される可能性は高く、そうなれば回避運動をとられ、命中率はガタ落ちでしょう。この遠距離から一撃放ち、もしそこで外れることがあっても、その後に追撃すれば結果としては同じ。ならば射程外からの砲撃を試すことは、決して無駄ではないと愚考いたします」
私はこの下士官の一言に、こう答える。が、砲長はこれに反論する。
「カルヒネン伍長、今の進言には、射程外からの砲撃を当てられる根拠が見当たらない。それを述べねば、その進言を許可することはできないぞ」
この一言に、私はハッとする。その通りだ、つい感情的になりすぎた。私は砲長のこの問いに答える。
「この季節、高度5000メルテ以上の上空には毎秒50メルテの風が西に吹きます。ちょうど敵艦は我々の風下にあり、我が砲の弾着距離を伸ばすことができます。加えて、敵艦と我が艦との高度差が500あり、これも射程距離を伸ばす要因となり得ます」
「そうか、わかった」
私のこの答えに、砲長は短く答えるのみだった。が、伝声管の方に向かうと、砲長はこう叫ぶ。
「砲撃所より艦橋、敵艦隊への射程外での砲撃許可を乞う!」
これはつまり、砲長が私の進言を受け入れたということだ。しばらく沈黙が続いた後、艦橋から返信が入る。
『艦長より砲長へ! 砲撃を許可する! 全艦、戦闘態勢へ移行!』
それを聞いた私は、紙と鉛筆を取る。メモ紙を脇机に広げると、それを抑えるように計算尺を置く。艦長のこの号令を受けて、砲撃手らによって砲身の尾栓が開かれる。
「砲長、いいんですか? 射程外の敵なんて、どうやって当てるんです」
キヴェコスキ兵曹長が砲長のマンテュマー大尉に食ってかかる。が、砲長は一言、こう返す。
「エラインタルハ海での訓練砲撃で、長射程の標的に三度続けて当てたという、伝説の計算士だ。我々の目の前で、その答えを導き出してくれるだろう」
そんな砲長の言葉を背に、私は計算を始める。風速、風向、自艦と敵艦の相対速度、方位、砲撃時の衝撃後退量……考えられる数値を、すべて式に叩き込む。
射程を超えての砲撃だ。仰角は最大飛距離の得られる45度。こちらの25サブメルテ砲の初速は、最速で毎秒284メルテ。飛行船はその表層に穴を開けてしまえば、ガスが抜けて浮力を無くす。このため、装填弾には重さ300サングラーテの、数百発の散弾をまき散らす散弾式が使われる。弾着時間はおよそ40秒、炸裂時限信管はその直前の38秒とすれば、奴らに目一杯、弾を喰らわせられる。
もっとも、今どきの飛行船は複数の区画に分けられていて、一箇所穴が空いた程度では浮力を失わず、致命傷とはならない。が、あの紡錘形の船体のど真ん中辺り、つまり、一番大きな区画にダメージを集中させれば、船体をへし折って一撃で沈めることができる。
カタカタと響く鉛筆の音、計算尺をずらして算出しては、その答えを予測式に入れる、これを数度繰り返して計算を終える。
が、最後に私は敵艦を望遠鏡で窓越しに観測する。再度、方角と距離と速度を自身の目で確かめ、それを再び予測式の最後の補正項に加え、最後にそれらを加算して答えを得る。
「砲長! 仰角45、艦主軸左方向33.5度、装填火薬7袋、時限信管設定38秒!」
私が数値を読み上げると、砲長が砲撃手に指示を出す。
「兵曹長、散弾式弾頭の信管設定!」
「はっ! 設定完了!」
「弾頭および7袋装填、急げ!」
「了解! 散弾式、および7袋装填!」
他の二人の砲撃手が、開いた砲の尾栓に砲弾を突っ込み、さらに火薬の袋を放り込む。尾栓が閉じられると、砲身が動き出す。
「仰角45、左33.5度!」
キヴィコスキ兵曹長が仰角用の、もう一人の砲撃手が水平角用のハンドルを大急ぎで回している。ジャラジャラと響く鎖の音と共に、この艦唯一の砲身が敵艦の方へと向けられる。
「砲長! 仰角45、左33.5度、射撃用意よしっ!」
「砲撃始め、撃てーっ!」
ドーンという炸裂音と共に、主砲が火を噴く。目には追いきれぬ速さで、散弾が飛び出していく。
弾は音速よりもやや遅い速度で飛ぶ。しかも、真っ直ぐではない。放物線を描いて飛ぶから、当然、こちらの砲撃音の方が早く敵艦に届く。よほど耳の悪い音響観測員でもなければ、音でこちらの存在に気づくだろう。
「次弾装填に備え! 砲身もどーせーっ!」
砲長の号令で、主砲は再び元の位置へと戻される。尾栓が砲撃室に収まる頃、弾着時間を迎える。
『だんちゃーく、今!』
私と砲長は、手に持った望遠鏡で敵艦を睨む。が、何事も起こる様子はない。やはり、遠すぎたか?
と思ったその直後、敵艦の船体が大きく萎み始める。中央付近のガス袋がみるみるうちに萎み、その前後の、穴の空いていない区画が萎んだその中央区画で分断されて、まるで二つにへし折られたニシンのような姿で高度を下げていくのが見える。
狙い通りだ。ど真ん中の区画に、当たった。
雲の隙間から、その行方を追う。真下は湿地の広がる平原、その只中へと向かっていくペロルシカ級爆撃艦が、一瞬、高度を上げる。
と、その直後に、地面から火の手が上がる。
「今頃になって、お荷物の爆弾を切り離したようだな。だが、もう遅い」
砲長が呟いた通り、敵は持っていた焼夷弾を放棄してなんとか艦を立て直そうとしたようで、それがあの湿原を燃やした火の手の正体だったわけだが、それも虚しく、敵の艦は高度を再び下げ始める。
やがてそれは、地面に激突する。パパッと火花が散り、黒煙が上がるのが見える。
「やったぞ、一発で撃沈だ!」
その煙を見た瞬間、この砲撃室内で歓声が上がる。たった一撃で、それも射程外とされる遠距離からの砲撃、全長280メルテを超える敵の重爆撃艦を葬ったのだ。これほど見事な戦果は過去に例がない。
『こちら艦橋、現時刻を持って戦闘解除、以降、通常航路に戻る。警戒を怠るな、以上だ』
このあっけない勝利に浮かれるなと言わんばかりの艦長の一言が響くが、ここ砲撃室ではどこ吹く風だ。
「いやあ、やっぱりお前、すげえな。見直したぜ!」
そういいながら、私の肩に馴れ馴れしく手をかけてくるのは、ついさっきまで私を見下していたあの兵曹長である。いい気なものだ、当たらなかったら、私に何をいうつもりだったのだろうか。
「あれがあっけなく沈んだとなれば、オレンブルクの連中も黙っちゃいないだろう。むしろ、ここからが本当の戦いだ。厳しくなるぞ。今のうちに、休んでおけ」
砲長のひと言に、砲撃手らは敬礼して応える。私も計算尺を左手に持ち替えて、右手を額に向け、敬礼する。
妙な話だが、皆が冷静になって初めて、私の中で勝利の実感が湧いてきた。が、それは喜びというよりは、もっと別の感情だ。
(ああ、やっと私は、あのオレンブルクのやつらに、一矢報いることができた)
3年前のことだ。我がイーサルミ王国が、オレンブルク連合皇国からの独立を宣言した直後のこと。その独立を容認しない連合皇国は、報復として国境沿いの私の故郷、ケラヴァの街を空襲した。3隻の重爆撃艦が放った数百の火炎弾によって発生した数千度の業火が、私の両親と弟を飲み込んだ。王都の学校にいた私だけが、一家の中で唯一の生き残りだ。
この時、クーヴォラ軍学校の計算工学科にいた私は、あの忌まわしき重爆撃艦を沈めるため、砲術計算士となった。
私の名は、ユリシーナ・カルヒネン、21歳。
そういえば、さっきの戦いはまさに私の初陣だった。私にとっての初の実戦は、こうしてあっけなく幕を閉じた。
【作中の単位説明】
メルテ = メートル
グラーテ = グラム
サン = キロ
サブ = センチ
このため、「サンメルテ」=「キロメートル」という具合に読み替えていただければと思います。