素晴らしい
「健康には、甘い物が良いと聞いた。だから、このチョコレートやるよ」
手から溢れたチョコレートがテーブルに落ちる。中肉中背の男は、それを気にする素振りも無く、山盛りのそれを両手持っていた。
「こんなにいっぱいですか? 健康に悪いですよ。確かに気分転換に食べるのは良いと聞きますが」
「うちでは、体調が悪いときはチョコレートをたらふく食べるんだ。チョコレートは、体調に良いと言う」
「は、はぁ……」
俺は体調が悪いんじゃない。ここがどこか分からないから、この人の家を訪ねただけだ。中世ヨーロッパ風の建物。どうやら俺は転生したらしい。
残業続きで眠れなかった。急に飛び出したトラックが悪いんだ。
いや……飛び出したのは、俺の方だったっけ。もう覚えてない。
「そんなに顔色悪く見えますか?」
「ああ、そうとも。目の下のクマが酷い。寝れないんだろう? だから、チョコレートさ」
「少し前まで、仕事だったんです」
すると、男は目を丸くした。
「仕事!? ニワトリが鳴いている。だから、今は朝だ。朝まで仕事……? お兄さん面白いね」
「いやまぁ、本当のことなんですが」
「なんて酷い。奴隷でもそんな働き方はしない。君の雇い主は、裁かれるべきだね」
「それができるのなら、やってますよ」
そう。日本には法律がある。しかし、誰も気にする事はない。
20分前に出社して、トイレ掃除をする。そのあとは、上司や先輩のために資料などを用意する。普通のことだ。それが普通だ。
むしろ、そんなことすらできないやつは、社会人失格なのだ。
家に帰る時間は、午後10時。残業時間は、3時間。誰一人として、終業時刻に返る人間はいない。稀に帰る人間が現れるが、みんなでそいつをはぶる。
社会人としての自覚が足りてない。
しかし、この社会は日本よりも文明が遅れている。明りがないので、遅くまで働けないのだろう。だから、このおじさんは、青筋を立てているのだ。
「まぁ、僕は遠いとこからやってきましてね」
「遠いところ? 王都よりも遠いのか? 俺は生れてからずっとここに住んでるもんで、遠いところって言われても、近所の山くらいしかしらない」
「海の向こうからですよ」
「ほう。海はどのあたりにあるんだね」
「……え、いやどうなんでしょう」
言葉に詰まった。俺もこの人も、この国の地理を全く知らなかった。
「たまにこの都市に来るお偉いさんは、山の道から来る。僕らから見ると、その先はただの平面な山にしか見えない。不思議なもんでぇ。まるで絵本から人間が飛び出すみたいじゃないか」
「山の奥にも平地があるんですよ」
「そんな馬鹿な! 山はこの都市と他の年を遮るもんだろう? 何を言ってるんだ君は」
おじさんは腹を抱えて笑いだした。そのせいで、大量のチョコレートは、床に落ちる。それを気にする素振りなんて見せず、僕のことを指差す。
このおじさんは、失礼な人だった。
「お兄さん面白いね。吟遊詩人かなにかか?」
「まあそうしときますよ」
「そうか吟遊詩人か。なら、何か奏でてくれないか」
「僕は、今迷子なんですが」
「あぁ、そうだったそうだった。なら、伯爵を紹介してあげよう」
「お知り合いなんですか?」
「ああ、良くこの辺りで、ドラスネスという植物を吸っているよ。気分が良くなる薬だ」
「……冗談ですよね」
「そんなわけないだろう。みんな大好きさ」
おじさんは再びガハハと笑いだすと、奥の方から通る女性の声が聞こえてくる。
「気分がよくなるのよ。貴方もどう。ちょうどここにあるんだけど」
「ああ、それがいい。体調がわるいときは、忘れるんだ。それが百薬の長だからさ」
「……遠慮します」
駄目だこいつら早くここから出ないと。俺はそう思った。
素早く180度方向転換して、ドアを開ける。
瞬間、麦の香ばしい匂いが鼻を刺激した。麦の収穫をしているようで、荷車には沢山のそれがあった。
葬送これだよ。これが異世界なんだ。
俺は胸を躍らせながら、周囲を見渡すと、ある女性が荷車を必死に押しているのを発見した。
「こら、こら! 動かんかい。神様、どうかお願いです。荷車を動かしてください。アーシス、エンダラ、マラ。アーシス、エンダラ、マラ」
魔法だろうか。俺は、その様子をしばらく見ていたが、一向にそれが動く気配はない。
「……魔法じゃないんかい」
仕方がない手伝うか。
「手伝いますよ」
「お兄さん、この荷車動かないんだよ」
「いや、それは知ってますよ。だから手伝うんですよ」
「ああ、それは助かるよ」
「……あ、小さな岩の塊がありましたよ? だから動かないんです」
「なんだって!? おにいさん天才だわ。どうやって発見したの?」
「いや、荷車が何故動かないか確認しようと思って、ざっと見渡しただけです」
「なるほどねぇ。神のおかげね」
「いやだから、周囲を確認しただけですって」
「周囲を見るってことは、神のおかげってことじゃない。お兄さん面白いこと言うわ」
この世界では、神が本質らしい。
中世なので仕方がないと思うが、流石に周囲を確認しただけで神の御業だという人間がいるとは思わなかった。
とりあえず揉め事は起こしたくないので、俺は頷くことにした。
「そうかもしれませんね」
「その通り。神が救うときは、必ず神のおかげなのよ」
女性は手を擦りながら、宙を見た。雲一つない快晴だった。
しかし、俺の心は曇り始めていた。