[Secret Track]
[Secret Track]
あの日を境に、コーラルの生活は変わった。セリアがいなくなったあの日から。
コーラルは、現実を受け止めきることが出来なかった。セリアの体がどんどん透けていき、終には消え去ってしまったあの日から。
渡したペンダントも、消え去ってしまった。セリアは、どこを探しても見つからなかった。まるで、最初から存在しなかったかのように、コーラルの世界から消え去ってしまったのだ。
彼は葛藤した。セリアと平和な生活を、幸せな人生を過ごしたかった。幸せにしてやりたかった。いや、必ず幸せにするつもりだった。
なのに彼は、セリアを幸せに出来なかったという後悔の念を抱き続けた。
セリアの父クロードも、侍女ノイフも、セリアの消失を悲しんだ。コーラルの言葉を信じることが出来ず、セリアの姿を探した。しかし、セリアを見つけることは出来なかった。そして、コーラルの嘘偽りない言葉が真実であると、悟った。
コーラルは現実を受け止めきれなかった。かといって、酒に逃げることはしなかった。それは、少しでもセリアの感触を忘れたくないという、固い決意から来るものだった。
亡くしてから、コーラルは気づいた。一目惚れをしたあの日から。恋仲になったあの日から。セリアの存在が、彼の人生を彩っていたことに。
忘れたくない歌。自分のために歌ってくれた歌。その歌を忘れないことだけが、彼女の存在を忘れないことが、コーラルに出来ることだった。
季節は移ろい、雪は地上を凍らせ、春は人々を包み込み、夏は一瞬の幻覚かのような眩しさを与え、秋の散る葉は、人間の悲しみをくすぐった。
コーラルは、公爵家ということもあり、多くの女性からアプローチされた。しかし、彼は決して妻を娶ることはしなかった。周りからは、変わり者と思われた。だが、コーラルの決意は変わらなかった。胸の中には、頭の中には、常に笑顔を向けるセリアの顔が、感情のこもった歌声があった。
彼は神を信じたことはなかった。ただ、ただ、もう一回だけでいい。
セリアに、他の誰でもない、コーラルだけのために歌ってほしかった。
夢物語。彼は気づいた。この世界は、夢物語のようなものなのかもしれないと。
いつ幸せが崩れてしまうか、わからない。目の前の幸せが当たり前であると鈍った心に、突然の嵐が針を刺す。
もっと、セリアにしてあげたいことがあった。
色々な景色を共に見たかった。
二人の間の子供が欲しかった。
セリアの歌を、もっと周りに知ってもらいたかった。
側に居たかった。年老いたとしても、寄り添って過ごしたかった。
コーラルは、悲しい想いを引きずり続けた。
セリアがいなくなって、十年経っても、コーラルはセリアを愛していた。コーラルの見た目の変化は少なく、一回り年を取っただけだった。彼は十年の間に、書物と向き合った。女性との浮いた話はなく、ただひたすらに、自分の内面を磨き続けていた。
コーラルは思った。人を愛するということは、茨の道であることを。
いっそ、記憶が無くなってしまえば良いと何度も思った。しかし、それに反発するように、セリアのことを忘れたくないという気持ちが衝突した。
コーラル・ベインスは、久しく訪れていなかった、フランティス家を訪れた。黒色のシャツを着ている。
庭を通る。セリアとの最後を過ごした、綺麗な庭。
ぼんやりとそこを通り抜けて、正面の玄関を開けた。誰もいない。
そこに現れたのは、セリアの侍女、いや、元侍女のノイフだった。
ノイフは、以前よりかなり老いたように見えた。セリアがいなくなったことが、彼女に異影響を与えたのかもしれない。
「コーラル様、お久しぶりです」
「ノイフ殿、ご無沙汰しております」
「紅茶をお淹れいたします。どちらで飲まれますか?」
「ありがとうございます。そうですね……庭で」
コーラルは微笑した。そして、思い出に浸ろうとしている自分に気がついた。
彼は振り返り、庭に置いてある椅子の元へと向かった。10年前から、何も変わっていない光景。
椅子に座る。ノイフを待つ。
ノイフと共に、セリアも現れてくれないだろうか。そんな事を思った。
もし、突然消えてしまったのが悲劇なら。再び、現れてくれる奇跡は起きてくれないだろうか。
起きてほしい。しかし、神様はいない。
ノイフが紅茶を運んできた。コーラルは丁寧に礼を言い、一人で静かに飲みたいということを、ノイフに告げた。彼女は淀みなく頭を下げ、屋敷の中に戻っていった。
コーラルは一人取り残され、美味しい紅茶に口をつけた。
神様がいないとしても。
もう一度、あの女性と会いたい。
もう一度。もう一度だけ……。
藍はスターとしての人生を送った。しかし、彼女は、ファンのためにと言って、男性と付き合うことを、ついぞしなかった。その言葉は建前で、コーラルのことを愛していたからだ。自分の人生に愛情を注いでくれた男性を忘れたくなかったからだ。
彼女は、自分が夢見がちだとわかっていた。もしかしたら、またあの世界に戻れるかもしれないと、夢を見ていたのだ。
一人は、寂しくないといえば嘘になったかもしれない。それでも彼女は、一人で生きていく道を選んだ。転生先で愛情を注いでくれる人たちがいなければ、彼女の人生は無かったのだ。
藍は、転生先での世界の言葉でも、歌を歌えるようにした。その作品は、世には出なかった。あくまで、藍個人としての活動だった。
神様がいないとしても。
もう一度、あの男性と会いたい。
もう一度。もう一度だけ……。
藍は、人生を進む中で病気にかかり、入院していた。白く、清潔に保たれた部屋の中。その中の白いベッドで、彼女は横になっていた。点滴がしてある。
ぼんやりと思う彼女。コーラル。もう一度、もう一度だけ……。魔法が解けてほしい。現実という魔法が解けて、もう一度だけでいいから、コーラルに会いたい。
嘘だ。もう一度だけなんかじゃない。ずっと一緒にいたい。
彼女はうっすらと目を閉じた。
コーラルは、ノイフに淹れてもらった紅茶を飲み終えた。美味しい紅茶だった。ノイフのような侍女に仕えられて、セリアは幸せだっただろう。
足音がした。コーラルは、ノイフが帰ってきたのだろうと、足音の方向を振り向いた。
振り向いた彼の姿は、硬直した。
そこに、立っていたからである。
在りし日のセリア・フランティスが、立っていたからである。
10年前と変わらない、セリアの姿に、見間違えることもなかった。
セリアは目に涙をたたえ、コーラルをじっと見つめていた。
コーラルはすぐに動いた。すぐに、セリアを抱きしめた。もうどこにも、行かせたくなかったから。目の前の現実が、奇跡的だったからだ。
「セリア」
「コーラル、会いに来ました。ずっと、ずっとあなたに会える日を夢見ていました」
涙を流すセリア。コーラルのセリアを抱く腕は、痛いほどだった。だが、セリアはそんなことを気にしたりしなかった。
「セリア、貴女のことだけを想い続けてきました」
「少し、年を取られたようですね。私も、貴方のことを想い続けてきました。貴方の愛情が無ければ、私、どうしようもなかったと思います」
「もう離しません」
「離さないでください、コーラル。たくさんお話を聞かせてください。バイオリンを聴かせてください。私の歌を聴いてください」
「勿論です。もう二度と、消えたりしないでください。愛している、セリア」
もうそれ以上の言葉は、二人には必要なかった。ただ、抱き合って、幾つとも数え切れない時間が流れた。
「私が消える時に聴いてもらった歌が、終わりならば」
セリアは潤んだ瞳で、コーラルの瞳を見つめた。
「次に聴いてもらうのは、始まりの歌です。コーラル、私と一緒に……」
「僕から言わせてください。一生、僕と一緒に過ごしてください。年老いても、死が目の前に迫っているとしても、僕とともに人生を歩んでください」
「はい」
セリアはくしゃくしゃの笑顔を見せた。
その涙にまみれた笑顔は、世界の何よりも美しく、尊いものだった。
「コーラル、愛しています」




