一人の人間の魂
拍手が終わった後、ノイフはソイルを連れ、壇上へ向かう途中にある控室へと向かった。セリアと話をしなければならないからである。勿論、セリアが予選を勝ち上がったことをノイフは嬉しく思っており、その想いを口にしたいという気持ちもあった。そして、決勝へ万全の状態で望めるように。ノイフ達は、控室へと急いだ。
一方、リーリエ陣営は控室に居座っていた。リーリエの侍女、それとメイドが一人、合わせて二人がリーリエを補佐しているのだ。
壇上で謙虚な姿勢を見せてから退場したリーリエ。彼女の頭の中には、嬉しさがだけがあるわけではなかった。むしろ、危機感すら感じていた。決勝戦に残った。それはいい。自分が他の女よりも優れた容姿を持っているということだ。しかし、決勝にはセリア・フランティスも残った。もし決勝戦で、あの馬鹿なセリアに負けてしまったら、とんでもない恥をかくことになる。観客にはフィゲルもいるというのに。
リーリエは確実に焦っていた。その焦りのポイントの一つは、セリアの着ている服だった。まったく派手ではない服。考慮にも値しないはずの質素なドレス。だが、セリアの着るドレスは、何か気迫のようなものが漂っており、それがセリアの容姿とマッチして、美しさを表現していたことである。
彼女は一つの決断を下した。このまま戦えば負けるかもしれないと察したのだ。そして、すぐに思いついた行動を起こした。
控室には、泣いている女性もいた。美しさを競うコンテストに負けてしまったという屈辱。認められたかったという想い。褒めてもらいたかったという感情。様々な感情が、控室の空気に渦巻いていた。
その渦の中に、リーリエと親しい女性の姿があった。明るいピンク色のドレスを着た、長い銀髪の貴族である。
その女性は、唇を噛んでいた。泣いてはおらず、表情に見えるのは、何故負けたんだという、憎しみの表情。名前はコルティアという。
そのコルティアに、リーリエは音もなく近づいた。コルティアはリーリエの姿に気が付き、話しかけた。
「リーリエ、おめでとう。私は駄目だったけど……貴女に負けるのはいいわ。でも、セリア・フランティスに負けたのが、悔しくてしょうがないの」
「コルティア」
リーリエはコルティアの背中をさすった。
そして、同時に思った。間違いなく、このコルティアは利用できると。
「コルティア、貴女は美しいわ。勝負がついた後に、こんなこと言えないけど……自信を持って。私は勝ち上がったけれど、怖くてしょうがないの。セリア嬢に負けるかと思うと……」
「ありがとう。そう、そうよね。リーリエも怖いわよね。私、手伝えることがあったら、なんでもするわ。何か出来ることはない?」
コルティアはリーリエの青の瞳を見つめた。リーリエに勝ってほしかったのだ。
「コルティア、私……セリア嬢のドレスが怖いの。容姿で負けるのは、仕方がないと思うの。でも、あのドレスさえなんとか出来れば……」
リーリエは遠慮がちに目を背けた。それすら計算の内であるが。
「セリアのドレスを何とかすればいいのね?」
「何とか?コルティア、何を考えているの?」
「私に任せておいて」
コルティアは意を決したような表情で、リーリエに背を向けた。
リーリエは、この一連の流れを、心の中で笑っていた。どうやら、コルティアが自分の得になることをしてくれそうだと。
ノイフ達と合流したセリア達は、リーリエ達のいる控室へと戻ってきた。
セリアに対して、様々な視線が送られた。嫉妬、憎しみ、羨み。セリアはそれを無視して、リーリエに挨拶でもしようかと思っていた。同じ決勝に残った者同士なのだ。
そうして、リーリエの方にセリアが向かおうとした時、一人の女性がセリアに近づいた。コルティアである。
コルティアは手に、カップを持っていた。茶色い紅茶の入ったカップを。
彼女は、それを迷うことなくセリアのドレスめがけて投げかけた。
紅茶がドレスに接触。綺麗な白いドレスに、紅茶の色が染みていく。
時間が凍った。紅茶がぽたぽたと床へ。
固まるセリア。睨むコルティア。
「なんでアンタみたいな悪女が勝つのよ!!」
叫ぶコルティア。自分の行動を反省せず、セリアに喧嘩を売った。
セリアの方は、紅茶をかけられ喧嘩を売られたという状況よりも、パトリドのドレスの方を心配していた。代わりのないドレスなのだ。他のどのドレスでも、パトリドのドレスには敵わない。それが、今、紅茶が染みている。
セリアはコルティアの方を睨んだ。その赤い瞳は、まるで蛇のようだった。そして、何も言わない。コルティアは喧嘩を売ったはずなのに、その瞳に睨まれ、硬直してしまった。
「貴女、自分が何をしたかわかってるの?」
セリアは低い声で問いかけた。コルティアは答えることができない。
「何をしたのかわかっているの!?」
セリアの感情は、怒りとは少し違った。理不尽への抵抗ともいえる感情。
そんな様子を見て、内心しめたものだと思っていたリーリエが間に入った。
「セリア様、コルティアは、このコンテストに、命すらかける覚悟で臨んでいたのです。勿論、今のコルティアの行動は、酷いものだったと思います。しかし、彼女は本当に人生をかけて戦っていたのです。どうか、許してくださりませんか」
リーリエはセリアに深く頭を下げた。その様子を見ているセリアの頭の中は、パトリドのドレスをどうするかということだけだった。
紅茶に染まってしまった部分は、右側の腰の辺りである。とても目立つ染みになってしまっている。
「セリア様の容姿なら、ドレスを着替えても勝負出来るはずです。コルティアも、ドレスの修繕費を出すことでしょう。セリア様は、ドレスをたくさんお持ちでしょう?」
リーリエはすらすらと喋った。謎のドレスの退場を喜びながら。
「冗談じゃない」
「え?」
「私はこのドレスを着て、決勝に臨みます。修繕費など不要」
「え、いや、しかし、紅茶の染みが……」
「これで出ると言っているのです。黙りなさい、リーリエ・ストライド。私はこれで出る」
セリアは被害者にも関わらず、申し訳ないという気持ちを胸に抱いていた。パトリドのドレスを、こんな形で汚くしてしまった。このドレスは、人間の全力が注ぎ込まれたドレスだ。勿論、紅茶の染みのついたドレスなどでコンテストに出れば、負けてしまうだろう。だが、彼女はそれでもパトリドのドレスで出ようと決意していた。ここでドレスを変えてしまったら、パトリドは悲しむだろうから。負けてしまうとしても、あの老人を裏切ることだけは出来なかった。
「本気という感情を理解出来る?」
セリアがリーリエを睨んだ。
「本気、ですか……?」
「そう、人間の本気よ。それを踏みにじる人間がいることも、理解出来る?」
「ちょっと、何の話なのか……」
「私は負けない。ノイフ、ソイル、髪を梳かすのを手伝って」
そう言うと、セリアはリーリエとコルティアに背を向けて、その場を立ち去った。ノイフとソイルは慌ててセリアについていった。
控室に、リーリエとコルティアが取り残された。
「なによ、あの悪女!あのドレスで決勝に出るなんて、リーリエを馬鹿にしているの?勝てるわけないじゃない」
悪態をつくコルティア。しかし、セリアに対しては何も言えなかった。恐ろしい気迫のようなものを感じたからだ。
リーリエも凍りついていた。異様なるセリアの雰囲気に。
だが、これで負けることはなくなったと言えるだろう。なにしろ、セリアは汚れたドレスで勝負に出ると言ったのだ。あのドレスにどんな思い入れがあるのか知らないが、見る側から見れば、どんな思いがあろうと関係ない。汚いドレスにしか映らないだろう。
「コルティア、私は絶対に勝ちます。ありがとう」
ありがとう、とリーリエは言った。それは、ただ一人の醜い人間だった。




