(後編)捨ててよかったのか
一週間後、抜歯の日がやってきた。
「それでは、はじめていきますねぇ〜」
メガネの女医さんが、今日の私の体調を確認したあとそう言った。やけに語尾の伸びた話しかたをするのは、患者に威圧感を与えないための配慮なのだろうか。
私はおなかの前で指を組み、悠然と事の成り行きに身を委ねているかのように装いながら、無言でゆっくりうなずいた。
「いすを倒しますねぇ〜」
背もたれが倒れてほとんど横たわる姿勢になると、左の人差し指の指先に血圧計が取りつけられ、しぶきが飛んだときのためにと、口元のくり抜かれた淡い水色のビニールシートが顔全体にかぶせられた。もしかすると血も飛び散ったりするのかもしれない。
口元だけをむき出しにして人前にさらしているのだと思うと、幼稚園のころ、トイレへ行くのに上着を着たままパンツだけを脱いで、下半身がすうすうしていた感覚を思い出した。
視界がシートでさえぎられたため、意識は口のなかに集中していった。
「麻酔を三本注射しますので、すこしチクッとしますねぇ〜」
シートの向こうで女医さんがいった。
痛みに備えて反射的にからだに力がはいる。しかし痛みを感じたのは一本目だけで、あとはもうなにも感じなかった。
二十代のころ、健康診断の血液検査で、会社の先輩が注射器の針を刺されるときに、顔を背けているのを見たことがあった。それが大人の男としてちょっと情けなく感じられた。目をそらさずにじっと見ていれる男でありたいとも思った。それ以来、注射器の針の先を凝視するようになっていた。
そのとき、また女医さんの声がした。
「気持ちを楽にしていてくださいねぇ〜」
「‥‥」
最初はなにをいわれているのかわからなかった。でもすぐに気がついた。きっと指先につけた血圧計のせいだ。いくら平気を装っていてもからだが反応しているのだ。
血圧がどんどん上がっていくのを見ていた女医さんにとって、私が悠然と構えているのはひどく滑稽に思えたにちがいない。
抜歯はあっけなく終わった。
「抜いた歯はどうしますか。持って帰りますか」女医さんが訊いた。あの伸びた語尾はなくなっていた。
「いらないです」即答した。
「それではこちらで処理しておきます。お疲れさまでした」
次の順番の患者が呼び入れられた。
数日後、傷口を消毒するため病院へ行った。傷口の血は止まり、化膿もしていないらしい。どうやらこれで終わりのようだ。
役に立たなくなった〈親知らず〉だからといって、簡単に捨ててしまってよかったのか――。
そんなことがいまも気になっている。