(前編)怖がってなんかいない
まるで猿みたいだ。
そう思った。
歯茎をむき出しにして敵を威嚇する、猿のあの口元そのものだ。
診察室の壁に取り付けられたモニターに、私の口元のレントゲン写真が映し出されている。
「要するに抜いたほうがいいってことなんでしょ」
私は歯科医の説明を途中でさえぎって言った。医師が敵でないのは当然だが、口調は自然と荒くなった。
「そうです」
医師は笑顔を崩さず落ち着いたようすでそう答えると説明を続けた。左下の歯茎から〈親知らず〉が斜めに生えていて、手前の奥歯の根元を押しているのが痛みの原因らしい。
いまのところ腫れはないものの、からだに疲れがたまってくると、鈍痛が心臓の鼓動にあわせて、波打つようにやってくるのだった。
「もしかすると歯茎を切ったりする手術が必要になるかもしれません」
医師はそこまで説明すると私の顔を見た。
「ああそうですか」
催促されたみたいで私は反射的にそう答えたが、掌にはじんわりと汗がにじんでいた。
あくまで手術の可能性があるといっているだけだ。意地悪でも脅しでもない。
ただ私としては、怖がって尻ごみをしているなどとは思われたくないだけだった。
「それでは紹介状を書きますから、そちらの病院へ行ってください」
抜くことになってしまった。
帰りに手渡された紹介状を、コンビニのレシートでも受け取るかのように無造作にカバンの中へ投げ入れ、クリニックを出た。
紹介された病院の診察予約は二週間後でとれた。
抜く覚悟はできている。予約時間のすこし前に着いた。
待つあいだ診察室の前に置かれた長いすの隅に座って、持ってきた本を開いた。
しばらくすると、私とおなじくらいの四十男がパジャマ姿でやってきた。たぶん入院患者なのだろう。まるで歯痛の子どもが漫画から抜け出たように、顔の周囲に布をぐるりと巻いていた。患部が腫れているのか、それとも保冷剤でもあてているのか、左頬の下あたりがふっくらとしていた。男は待つことなく診察室へ入っていった。
彼も〈親知らず〉を抜くのだろうか。
私もあんな漫画みたいな格好をすることになるのだろうか。
もし入院でもすることになったら‥‥。こちらの病院を紹介されたってことはそうなることもありうるわけだ。
男の診察に時間がかかり過ぎている。――そんな気がした。
本の内容はちっとも頭に入ってこない。
やがて男は入ったときとおなじ様子で出てきて、次に私の名前が呼ばれた。
診察室に入るとメガネをかけた女医さんが座っていた。年は私よりすこし若そうに見える。
クリニックのときとおなじように、またレントゲン写真を撮った。どうやら今日は診断だけのようだ。血圧が高めなので薬をのんでいると〈お薬手帳〉を見せながら伝えた。
女医さんは終始優しい雰囲気をかもしだして抜歯の手順などを説明し、最後にこう付け加えた。
「たぶん大丈夫だと思いますが、もしかすると歯茎を切って縫うことになるかもしれません」