アガギア領の視察③
いつもより少しだけ長めです。お時間ある時にどうぞ。
「いやぁ〜、今朝は中座してしまってすみません。
ですが、セバスの勘違いだったようで……あいつも歳ですからねぇ」
実菜達が朝食を終え、サロンにてお茶を頂いていると、伯爵が困り顔でそう言いながら入って来た。
「いえいえ、お気になさらず……ところでポチとタマが見当たらないようですが、どうしたのですか?」
前に来た時には白い犬が二頭いたはずだか、昨日も今日も見当たらない。
いつも伯爵にくっついていたのにどうしたのだろうかと思っていたのだ。
「あ〜、あいつらですね」と、伯爵が微妙な表情を見せたので、実菜は「また余計な事を言ったか?」と心拍数が上がった。
犬の寿命は人間よりも短いはずだ。
……ポチとタマが何歳かは知らないけど。
「あいつらときたら、赤ん坊の時から可愛がっていた私よりも、今はディーにくっついているんですよ」
伯爵が微妙な表情だったのは、喜んで良いのか、怒って良いのか彼自身困っていたからだったようだ。
実菜は自分の心配が外れていた事に安堵した。
しかし……ディーって誰?
「ディーって、殿下の事っすか?」
実菜が首を捻っていると、ジョンが無遠慮に伯爵に問うた。
「ああ、そうなんですよ。こんな田舎では本名でも誰も気付きませんけどね。一応、そう呼んでいます」
伯爵は手前の肘掛け椅子に腰を下ろしながらジョンに笑顔を返した。
「動物とは不思議なもので……新入りが来ると、その人にくっついている事があるんです。
私はそれに癒やされた事があるので分かるのですが……何か不思議な力でも持っているんですかね」
そう語る伯爵は、笑顔のまま遠い目をしていた。
凄いわ、ポチとタマ!セラピー犬として活躍しているのね。この屋敷にはぴったりよね!
実菜はひとり無言でうんうんと頷いた。
「ところで伯爵。この領地での診療の状態について伺いたいのだけれど」
感動している実菜を余所に、静加は早速本題へと入った。
「そうですね、昔は医師に常駐してもらっていたのですが、今は定期的に検診に来てもらうだけですかね」
今は年に一度ほど王都から医師に来てもらい、この領地に住む人達全員を診てもらっているのだと言う。
しかも、ここの領民達は軽い風邪を引く程度で、あまり病気らしい病気にかからないらしい。
静加は難しい顔をした。それでは自分はここで何をしよう。とでも言いたげな表情だ。
「それでは、伯爵。デイビッド……いえ、ディーはここでどんな様子ですか?出来れば様子を見に行きたいのですが」
実菜が尋ねると伯爵は破顔し、これから様子を見に行こうと言う。
伯爵の様子から、最悪な状況ではなさそうだと感じた実菜だったが、果たしてあの彼がどの程度まともに働いているだろうかと思うと、不安しかなかった。
「まあ、大丈夫よ」
今の時間は畑に出ているだろうけど、寮に行ってみましょうと、半ば強引に伯爵に案内されている道すがら、静加はそう言いながら緊張気味の実菜の背中をパシパシと叩いた。
伯爵の様子を見れば、彼が困った状態でない事は明白なのだが、何がそんなに不安なのか実菜自身も分からなかった。
しかし、何で本人が居ないのに寮に行くのかしら。
ジョンとトイは近くの畑に手伝いに出て行ってしまったので、寮に向かっているのは実菜と静加だけだったが、寮は屋敷の敷地内にあるのである。あっという間に入口まで到着してしまった。
「何コレ?」
静加が寮の扉に近付きながら、不思議そうな声を上げた。
実菜も近付いてみると扉には『とびら』と書かれた紙が貼ってあった。
二人が伯爵を振り返ると、伯爵は満足気に頷くだけで黙って扉を開いた。
扉を開いた先に見える床にも『ゆか』と書かれた紙が貼り付けてある。実菜は訝しく思いながらも寮の中に足を踏み入れると、そこは直ぐ食堂になっているようで長テーブルが五つ置かれていた。
そして、テーブルや壁にも同じ様な紙が貼られている。壁に関しては、食堂と書かれた紙も貼られてた。
「うわ〜、食器棚は大変ね」
静加の声に食器棚を見ると、フォーク、ナイフ、スプーン、お皿、大皿、小皿……と、全てに紙が貼られている。
「凄いでしょう?私も助かっているのですよ」
満足気に伯爵が言うのだか、実菜には全く話が見えて来ない。
「あ、じゃあ、これディーがやったんだ?」
感心したように言った静加に、伯爵がうんうんと頷いた。
屋敷の中で働く使用人には、伯爵かセバスの手が空いた時に文字や勉強を教えているのだが、外仕事をしている者達まで手が回らず申し訳なく思っていたのだという。
「じゃあ、ここの人達にはディーが教えて……?」
「そうなのです。いつの間にか慕われていましてね」
「し、したわ……れ?!」
彼が人にものを教えているという事に半信半疑の実菜は、伯爵の言葉に更に驚き思わず伯爵を二度見してしまった。
あの殿下が?!いや、そもそも私が彼は変わるだろうと思ってここに連れて来たのだけれども。
しかし……。
殿下として生活していた頃であれば、媚びを売って慕っているフリをする者は居ただろうが、ここの領民は恐らくは彼が自分達と同じ身分だと思っているはず。媚びを売る必要がない。
うーん。と、実菜は腕を組んで天を仰いだ。
想像が出来無いわ。
と、そこへこの建物の外に人の気配と動物の息づかいらしきものが聞こえて来た。
「おい、タマ!お前はもっと離れて歩けよ!踏んじまうだろうが!」
どこかで聞いた声が近付いて来た。どうやらタマも一緒らしく「ワン!」という返事も聞こえて来た。
「ポチ!お前はタマと張り合うなよ!……だから離れろって!」
ポチも一緒らしいが、大きな声と共に入口に人影が現れた。
「あれ?何で開いてんだ……んげっ?!」
その人影が食堂に立つ実菜の存在に気付くと、変な声を出し後退った。
「こら、ディー。変な挨拶をするんじゃない」
すかさず伯爵がデイビッドを窘めると、彼は肩をすくめて「どーも」と実菜と静加に会釈した。
「それにしても、もう休憩かい?」
伯爵がポチとタマの頭を撫でながらデイビッドに声を掛けた。
「ああ、ソンの奴がさ、自分のとこが早目の休憩にしたからって、俺んトコの畑に来てさ、無理矢理休憩になったんだよ」
そう言いながらデイビッドは、入口近くのテーブルの上に置いてあった手提げ袋を取り中身を確認する。
「コイツを忘れちまってたから取りに返って来たってワケよ、つーかさ、人に文字を教わりたいって奴が筆記用具を持ってこねぇって、訳わかんなくねぇ?」
そう言ってデイビッドは手提げ袋を肩に掛けた。
休憩時間に文字を教わりたいというソンという人の為に筆記用具を取りに戻って来た。と、どうやらそういう事らしい。と実菜は理解した。
「ははは。筆記用具は足りているかい?」
伯爵は楽しげにデイビッドに問い掛けると、デイビッドは「ああ」と言ったきり黙ったが、チラチラと実菜を気にしている様にも見えた。
「少し話すかい?」
伯爵がそう聞くと、デイビッドはまた「ああ」と言ってそっぽを向いた。
「彼はシャイなんですよ。聖女様から近くに行ってあげてもらえますか」
デイビッドの態度に伯爵は苦笑いすると、実菜に囁くようにしてお願いした。
デイビッドがシャイ……?
実菜は眉を顰めたが、デイビッドは一向にこちらに来る気配がない。仕方なく実菜はデイビッドに近付いたが、彼は寮の外に出てしまう。
逃げたかと思ったが、そうではなく他の人に聞かれたくなかっただけのようだ。入口の所で気不味そうに立っていた。
「ち、調子はどうかしら?」
間近で見ると、日に焼けたのか少し色が黒くなり精悍な顔付きになったデイビッドに実菜はどうしたら良いか分からず、取り敢えず話し掛けたが声が引っくり返ってしまった。
「あのさ、最初はあんたとか、他の奴等とか恨んだりしたけどさ、今は……楽しいんだ。生きてるって、良いよな。
そう思えるようになったのはあんたとか、他の奴等がいたお陰だって、今は分かってる。
あんたのお陰でやりたい事が出来た……だから、ありがとな」
実菜の声が引っくり返った事など全く気にせず、ボソボソと話すデイビッドの言葉を聞きながら実菜は呆然としていた。
「それだけは伝えとかないと……って、何であんたが泣いてんだよっ?!」
「泣いてなんかないわよ!」
仰天するデイビッドに実菜は言い返したが、それとは裏腹に頬に流れる物を感じ、実菜は自分が泣いている事に気付いた。
彼なら変われると思ってはいたけど、良かった。
……そうか、不安だったんだ。帝国の宰相の事もあったし、私のする事は余計な事ばかりなんじゃないかって。
「良かったね……やりたい事が見つかって。何をしたいの?」
涙は止められなかったが、袖で顔を拭いながら実菜がやっと言葉を掛けると、デイビッドは目を泳がせた。
「まあ、今の俺の立場じゃ難しいかもしれないけどな……」と、下を向いて後頭部をかいた。
実菜も落ち着きを取り戻し、デイビッドを見つめた。その視線に気付くとデイビッドはぎゅっと口を真一文字にした。
「ここの連中に勉強を教えてるとさ、覚えが悪い奴もいるけど、すげぇ賢い奴もいるんだ。勿体ねえだろ?!身分が低いだけで勉強する事すら出来無いんだぜ?
……だから、誰でも勉強する事が出来る国にしたい」
実菜はぽかんと口を開けてデイビッドを見つめていた。
「何だよ!!馬鹿にしてんだろ!出来る訳ねぇもんな!」
実菜の態度を馬鹿にしていると捉えたようだ。デイビッドは頬を染めて鼻を膨らませて……照れていた。
「違うわよ……その考え方を、きっと陛下はお喜びになるわ」
「父上が……?そんな事……」
父上が俺の事で喜ぶなんて事、あるわけ無い。デイビッドは言い淀んだ。
「本当よ!きっと心の中で小躍りして喜ぶわよ」
静加が実菜の後ろから話しに割って飛び込んで入って来た。
「静加……盗み聞きは良くないわ」
「申し訳ありません」
静加の後ろから伯爵がおずおずと進み出て来た。
「何だよ!皆で聞いてんじゃねぇよ!恥ずかし過ぎるだろうが!!俺は!俺はもう行くからな!」
デイビッドは顔を真っ赤にして、その場から逃げるようにして畑に向かって走って行ってしまった。
……小躍りしている父上を想像しながら。
ほっこりした気持ちでデイビッドを見送り、屋敷に戻ろうと振り返ると、寮の建物の角辺りにフワッとした栗毛が見えた。少し距離があるのでよく見えないが、どうやら実菜を睨み付けているようだ。
誰かしら。どこかで見た事があるような気もするけど、どこだったかしら?
実菜が眉を顰めていると、それに気付いた伯爵も眉を顰めた。
「たまに来ているんですよ、彼女。監視も付いていますし、遠くから見ているだけで害は無いので放っていますが」
たまに来ている……?監視が付いている……?
「あ!」
ピンクのイメージが強くて顔はあまり覚えていなかったけど、アリスか!
何故、彼女がここに?と思ったが、実菜が近付くと踵を返してしまった。
「待って!!」実菜は思わず呼び止めてしまったが、止まるはずないだろうと思ったが彼女は止まった。そして、ゆっくりと振り返ると鬼の形相で実菜を睨んだ。
「何よ?」
「ここで、何をしているの?」
その形相に怯みそうになりながら実菜が問い掛けると、プイッと顔を背けた。
「……いに来たのよ」
「え?何て?」
ボソッと話したアリスの声が聞こえず、実菜は聞き返した。
「会いに来たの!彼に!あんたの所為で……あんな仕事をさせられて、可哀想!あんな事、しなくて良い人なのに!」
幽閉されていたら、ひと目も会える事は無いだろう。寧ろここに連れて来たから会えるのだが。彼女は未だに現状を把握出来ていないのだろうか。
しかし、彼女がデイビッドに纏わり付いていたのは、唆されていたからではなかったか。実菜の頭にハテナが飛んでいた。
「……好きになっちゃったんだもん!!好きだと気付いたら会えなくなるって、酷すぎる!」
アリスは目に涙を溜めて実菜に向かって叫んだ。
な、なるほど。本気で好きになってしまったと、そういう事ですか。つまり、これは……八つ当たり?
「デイビッド殿下は元の生活に戻れる可能性があるけど……その時の彼の隣にあなたの居場所があるかしらね〜。もっと、相応しい女性が既に居たりして〜」
静加の言葉がアリスを逆撫でしたのか、ギリッと静加を睨み付けた。
「確かに……格好良くなったしね」
実菜も思わず呟くと、アリスの瞳がうるうると揺らぎ、だーっと滝の様に涙が流れた。
「私が、あなたに敵うわけないじゃない……あんたなんか、あんたなんか、本当に大っ嫌いよ!!」
実菜にそう捨て台詞を吐くと、アリスは踵を返して今度こそ脱兎の如く走り去ってしまった。
その場に残された三人は目を点にして佇んでいた。
お読み頂き有難う御座いました。




