相思相愛
早いもので、次の日には森本主任の昇進が決定していて発表されていた。
間をすっ飛ばして、いきなり部長へとなるそうだ。
文句が出そうなところだが、今までも木根部長以上に……木根部長がやるべき仕事を主任がしていた……仕事をしていたので、文句を言う者はいなかった。
何なら実菜よりも大変だったのではないかと思うが、そこは頭の出来の違いが関係しているらしかった。
「部長!森本部長!!ここは、ぱぁーっと、皆で呑みに行きませんか?!ぱぁーっと!!昇進祝いです!!イェーイ!!」
と、言って騒いでいるのは、主任に昇進した久住先輩だ。
普通は昇進した者以外が言い出しそうな言葉だが、この人はどうやらお調子者らしい。でも、面倒見は良いらしく、昇進の件も皆が頷いていた。
三人が辞めたことなど、誰一人として話題にも出さない事が逆に怖ろしい。
唯一、聞かれたのは「居なくなってくれてせいせいしたよね」だった。つまり、居ても居なくてもどうでもいい。必要ない人間だったということである。
反面教師になってくれて、ありがとう。私は清く正しく生きて行きます。必要ないと思われる人間にはなりたくありません。
と、実菜は強く思うのだった。
そして、いつの間にか決まった昇進祝いの飲み会で、一番はしゃいで騒いでいたのが久住だった。しかし、酔っぱらいの介抱や、その他、幹事的な事の一切を取り仕切っていたのも久住だった。
ドンチャン騒ぎの翌朝。実菜の仕事用のパソコンにメールが届いた。
『今日、帰り空いてる?』
森本からだ。今は全体を見渡せる部長の席に座っている。そして実菜は、森本が元々使っていた席に移動していた。
なんで、わざわざメールで?
不思議に思いながらも、実菜が『空いています』と、返せば『空けておいて、食事に行きましょう』と、即レスが来た。
ちらっと部長の席を見遣れば、森本がこちらを見て笑顔で頷いている。
連日、外食になるとお腹の出っ張り的に厳しいのだが……太った事を気にしている……実菜は頷き返した。
こんなに早く終わって良いのだろうか。いや、普通に定時ではあるのだが。実菜は清々しい気持ちでいた。
そして、この後は森本とのご飯である。るんるん気分で帰り支度をしていると、森本から「下で待ってて」と、声を掛けられた。
そして、内緒話のように実菜の耳元に口を寄せると、「兼元くんと剣持くんが昇進のお祝いしてくれるっていうから、一緒に行きましょう」と、囁いた。
んげっ?!
驚いて、穴が開くかというほど森本の顔を凝視していると、悪戯が成功した子供のようにくすくす笑い、「絶対、待ってなさいよ?!」と、実菜に念を押してから部屋を出て行った。
謀られた?!
でも、なんで??
そんな食事会、私はいない方が良いんじゃないの?
しかも、今日は社長もいるという。実菜の足取りは急に重くなった。
立派なエントランスがあるほど大きなビルではない。入口の端っこの方で待っていると、他の社員たちが次々と帰宅して行く。待っているだけというのは、意外と時間が長く感じられるものだ。
あ、あの人は確か、新幹線で遠くから通っているんだよねー。
あの人は、単身赴任で、家族で住む部屋が見付かったら、こっちに引っ越して来るとか来ないとか……。
などと、暇潰しに人間観察をしていると、兼元が下りてきた。
「あれ?神倉さんだけ?森本はもう少し掛かりそうなんだけど……おかしいな、剣持の方が先に下りたと思ったけど」
社長を探しているのか、周囲をきょろきょろとしながら近付いて来た。
うん。やっぱり、役職がある人は大変なんだよね。それにしても、社長といきなり二人きりでなくて良かったわ。会っても社長だと分からないかもしれないし。
うんうんと頷き、兼元を見上げた実菜は、思わず森本と並ぶ姿を想像してしまった。
二人とも高身長でスタイルも良いし……少し副社長はがっしりしてるけど……格好いいカップルなんじゃないかしら!
一人、むふふとしていると、兼元からじっとりとした視線を送られている事に気付いた。
ぅわっ!変な奴だと思われてる?!
何か言わなければと思った実菜の口から出た言葉は、「森本部長が結婚しちゃったらどうします?」だった。
「……は?」
兼元は物凄く変な顔をしている。
「いや、あの……会社に通えないくらい遠くにお嫁に行っちゃったら、辞めちゃうのかなぁ、寂しいなぁって、思って……」
自分でも変な質問だったと思うが、さっきここを通った人たちの事情を思っていたら自然と出てきてしまったのだ。
「え……と、考えた事がなかったな……」
軽く流されるかと思ったが、思いの外、真剣に捉えてくれたらしく、深刻な表情で黙り込んでしまった。
そりゃ、部長になった途端、辞められたら困るだろうけどね。森本部長なら、どこからでも通いそうだよね。寧ろ結婚しないかも。
「その……そういう相手がいるって、言ってたのか?」
兼元はその話をまだ広げる気でいるらしい。
「いえ、でも……好きな人は……」
実菜は素直な人間だった。そこまで言ってしまってから口を噤んだ。
やば……。言っちゃいけないんだった。でも、「いる」とは言ってないし(かろうじて)、「誰を」とも言ってはいないわ。セーフ。
しかし、兼元の方はセーフではなかった。
がしっと実菜の両肩に手を置くと、超至近距離で実菜を見つめる。眉間にしわを寄せた兼元の顔は存外、怖い。実菜は睨まれている気分だった。
「あいつには好きな奴がいるのか?」
「へ?へ?あの……副社長?もしかして……森本部長の事、好き……ですか?」
「どうなんだ?」と、詰め寄る兼元に、もしかしてと思い尋ねると、怖かった顔が徐々に赤味を帯びてきた。と、思ったら実菜からすっと離れた。
「君……オブラートに包むという事は出来なかったのかい?」
兼元は口を押さえ、明後日の方向に顔を向けていた。
口は隠せても、赤くなった耳までは隠せていない。
え、じゃあ……まさかの両思いっ?!
部長ぉーっ!!!森本部長ぉーっ!!やりましたよぉーっ!!
叫び出したい気持ちで興奮していると、「おいっ」と、兼元の肩に誰かの手が置かれた。
「会社の前で、堂々とセクハラしてるんじゃないよ」
その手の持ち主が、呆れた様子で姿を現した。
……え?あれ?ちょっと……待って?
突然現れた人物に、実菜の目が見開かれていく。先程の浮かれた興奮とはまた違う、心臓の跳ね上がりを感じた。
髪は軽くオールバックの様に後ろに流して、雰囲気は少し違うが、間違いない。
「……九条……さん?」
兼元の後ろに現れたのは、あの人だった。
「髪……短くなっちゃったね」
そう言ってはにかんだ笑顔を見せると、九条は実菜の短くなった髪を一房取った。
ぅわぁあっ!!また、近い!!
それよりなんで、なんでっ?!こんな所に九条さんがいるのっ?!
借金取り?そうか、会社の名前は言った気がするもんね!早く返せって事か!
実菜はどきどきしながら瞬時に色々考えるが、どうして良いかわからず俯く。
「あの……」
九条が口を開いた時、兼元がずいっと、二人の間に割り込みわざとらしい咳払いをした。
「俺の存在を忘れて二人で雰囲気作るのやめてくれませんかねー」
「兼元、男の嫉妬は醜いぞ?」
「……お前が言うんじゃねーよ、剣持」
朗らかな笑顔の九条にじっとりとした視線を向けている兼元。そんな二人に混乱する実菜。
「へ?けん、もち?……あ、あれ、あれ?……九条さんじゃ?」
今、確かに兼元は九条に向かって剣持と呼んだ。実菜は混乱する頭で二人の顔を交互に見遣る。
「あー、はい。九条なんですけど……剣持でもあるんです」
きまり悪そうに剣持と呼ばれた九条でもある男は頭を掻いた。
「会社を作った当初は剣持姓だったから、会社ではそのまま剣持を名乗っているんだよ。色々面倒だから。驚かせちゃったらごめんね」
結婚しても会社では旧姓のまま。という、あれか。
あれの変則版か。
て、ことは……社長さん。て、ことですよね。
何てこと!!雲の上の存在ではないですか!!
気持ちを自覚した途端この仕打ち。……神様は何してくれてんだ!もうお賽銭投げてあげないからね!
ぽかんとしたまま、心の中で神への暴言を吐いていると剣持が顔を覗き込んできた。
さぞかし間抜けな顔であろうという自覚はあったが、開いた口が塞がらないという事は本当にあるのだと実菜は実感していた。
「実菜さん?」
「は、はひ」
声を掛けられ、はっと、口を閉じる。が、近距離でばっちりと目が合ってしまい、その威力により実菜は、とっ、とっ、と後ろに後退った。その結果、段差部分に足を乗せてしまいバランスを崩すという失態を披露するはめになった。
「え、きゃあっ?!」
腕をばたばたさせ、支えを探すが周りには何もなく、転がるのを覚悟したその瞬間、ぐいっと腕を引かれ実菜は剣持の腕の中へと収まっていた。
「本当に君……意外とやんちゃだよね」
剣持の胸に顔を押し付けている状態のところに、更に耳元で囁かれ、実菜は不謹慎ながらぞくぞくしていた。
心臓が……痛いんですけど。
どきどきしているのがバレそうで怖いわ。
あ、でも九条さんも、どきどきしてる?
そんなにびっくりさせたかしら。……そりゃ、何にもないような所でコケられたらびっくりするか。
剣持の心音を聞いて少し落ち着いてきた頃に、二度目の咳払いが聞こえた。
「君ら、これ以上イチャつくなら、他でやってくれないか?」
半目になっている兼元に気付き、弾かれるように身体を離した。
「違います!!イチャついてなんていません!!社長は助けてくれただけで……イチャつくのは……恋人同士がする事で……ええと……」
動揺した実菜が自分でも何を言っているのか分からなくなっていると、今にも吹き出しそうな兼元とは裏腹に、剣持は困ったような表情をしている事に気付いた。
「ほら!社長も困ってます!全っ然!!そんな事じゃないんですから、からかわないで下さい!」
勘違いしていると思われたら困る。実菜が必死に否定していると、剣持の表情は今にも泣き出しそうなくらい悲しそうなものに変わった。
「ぶはっ!!ははははっ!!」
「っ?!」
とうとう兼元が腹を抱えて笑い出した。そんなにおかしな事を言ったかしらと、実菜がきょとんとしていると、兼元が涙を拭いながら「ひぃ、ひぃ」と、呼吸を整えた。
「いやー、神倉さんいい、いいよ。剣持がフラれるところなんて、初めて見た。いやー、いいもん見せてもらった」
兼元は、未だ笑いを残した口元で「じゃあ、行こうか!」と、機嫌良く歩き出した。
だから、そんなんじゃないのに!
フラれたとか、九条さんが困るような事、言って欲しくないのに……副社長ったら!もうっ!!
ぷんぷんしながら実菜は二人の後をついて行く。
剣持も機嫌が悪いのか、兼元の話に気のない返事を返していた。
ああ、ほら、やっぱり。私にフラれたなんて、気分の悪い事を言うから、九条さん怒っているんだわ。
剣持と顔を合わせるのが、申し訳なさから憂鬱になってきた頃、前に連れて来てもらったお店に到着した。
森本は場所は知っているので、仕事が終わり次第こちらに来るのだそう。
案内されたのも以前と同じテーブルだ。もしかしたら、ここが三人の特等席なのかもしれなかった。
「全員揃ったら注文する」と告げると、女性店員は笑顔で頷き、下がって行く。これも以前と同じだった。
なんか……気不味いわ。
剣持と兼元が横並びで、向かいに実菜が座っているのだが、二人は実菜には分からない仕事の話をしていて話には入れない。目のやり場にも困っていた。
早く部長来ないかなぁ。と、思っていると、ふっ、と剣持がトイレに立った。
「なぁ、剣持と会った時、自分のとこの社長だって気付かなかったって、本当?」
剣持がその場にいなくなった事で、兼元がおもちゃを見付けた子供のように実菜の方に身を乗り出した。
ゔっ。
何も言えず、実菜は俯く。それが答えである。「ははっ」と、兼元が笑った。
「まぁ、ほとんど会社にも来てないし、顔も出してないから仕方ないっちゃ、仕方ないよね」
「何で来ないんですか?」
「……モテるから?」
兼元の言う事は、冗談でも何でもなく。軌道に乗り始めて社員を募集したところ、仕事がしたいとかではなく、社長目当ての女性ばかりが集まってしまい問題が多くなって大変だったのだとか。
それから、社長……特に顔……は表に出ないようになったのだ。
やり取りはほとんどメールやリモートで行っている。
「モテるって、大変なんですね」
「何で、俺の顔を見ながら言う?」
他意はない。偶然だ。嫌味でもなんでもない。
実菜は、ふいっ、と、視線を逸らした。
奥まった席だが、実菜の位置からは店のガラス張りの窓がよく見えた。行き交う人々の流れの中、小走りでこちらに向かって来る女性の姿が実菜の目に映る。
……森本部長だわ。
「……副社長」と、実菜が兼元に向き直ると、兼元は片眉を上げるだけの返事を返した。
「やっぱり、男は決める時は決めないといけないと思うんです」
「うん?」
そうよ、きっと森本部長は気付いてくれる事を一途に待っているのよ。
折角、両思いなんだから伝えなくちゃ!
何の話か分からず、兼元は曖昧な表情をしていたが、実菜はお節介をやく事にした。
「善は急げです、副社長!私たちは帰りますから、しっかり決めて下さいね!大丈夫です。きっと、上手くいきますから」
「はい?え、おい?!……たちって……?」
実菜は、戸惑う兼元を置き去りにして、ぐっとガッツポーズをすると立ち上がった。
丁度、のんびりした表情で席に戻って来た剣持を捕まえると、強引にその腕を取り、ぐいぐいと出口に向かった。
「社長、私たちはここに居てはいけません」
「へ?何で?」
「何でもです!出ましょう」
「は?兼元は?」
「副社長は良いんです」
「へ?何で?」
「……何でもです」
強引である事は承知の上だったが、実菜は兼元と森本を二人きりにする、という使命感に駆られていたのである。
剣持も「へ?へ?」と、戸惑ってはいたが、実菜の手を振り払うことはなく、大人しく連れ出されていた。
店に入る森本の姿が見えた。ここで出くわしてしまうのはよろしくない。
「こっちです」
店内を見渡した実菜は、パーテーションの様に置かれている観葉植物に隠れるように剣持を押し込む。
どの席か分かっているのと、店内が少し暗めの照明だったことが功を奏したのか、二人に気付く事なく森本はその目の前を通り過ぎて行った。
「ターゲットは通過しました。さあ、外に出ましょう」
この頃になると、剣持も理由は分からずとも楽しくなってきたのか、実菜と一緒になって店を出た。
店員は不思議そうな表情をしてこちらを見ていたが、特に咎められる事はなかった。
店の近くの公園まで走って来た所で「これ、何ごっこ?」と、剣持に聞かれた事で実菜の使命感は解かれた。
解かれたことにより、とんでもない事をしでかしたと、今更ながら血の気が引いて来た。
これでは社長と二人きりになりたい人みたいじゃないか?!
副社長の話によれば、きっとこういう事も多かったに違いない。多分。
そして、きっとこういう女は飽き飽きなはずだ。多分。
早く事の説明をしなければ!
「え……と、脱出ごっこ?……でしょうか?わっ?!すみません!!」
そこでやっと、実菜は剣持の腕に自分の腕を絡ませている事に気付き、ばっと振り解く。
「……えー……」
なぜ残念そうな声を出すのか。そして、なぜ背中に腕を回すのか。
女性関係のトラブルが多かったのは、剣持のこの距離の取り方ではないかと思われた。
「じゃあ、そろそろ戻らないとだね」
「駄目です!ここで決めないと男じゃありません!邪魔しちゃ駄目なんです」
説明して引き留めようと慌てて振り返ると、剣持の胸に飛び込む形になってしまい、更に慌てて後退ったが、すぐに抱きすくめられ、再び剣持の腕の中に収まっていた。
「……だ か ら!急に動くと危ないって。いい加減、学びなよ」
「は……はひ」
後ろでシャーッと、自転車が通り過ぎた音がした。色んな意味で恥ずかし過ぎて顔が上げられない。
「でも……確かにこのままにしておくのは男じゃないよね」
うん、うん。
「分かった……少し、話そうか」
うん、うん。……うん?
実菜が顔を上げると、真剣な表情の剣持と見つめ合ってしまい、今日イチの心拍数を叩き出した。
お読み頂き有難う御座いました。




