ヴァイク・ダイク・フォン・ダリファンドという少年
ここレングテックは小さな島国である。
南の海を渡った大陸の北端、レングテックに最も近い国であるドラクレア帝国では、地方の貴族が自由に領地を治め、税を王へ納める形ではない。
皇帝が絶対的な権力者となっており、あらゆる決定権は最終的に皇帝にある。
かつてのグレーイル聖王国も、聖王と呼称されるが、同じ国家形態だった。今は議会政治になっている。
また、帝国では皇帝への発言を許された一族があり、主な国家運営の業務を行っている。
彼らは十剣家と呼ばれている。
その一つ、武を司るダリファンド家の三男。
ヴァイク・ダイク・フォン・ダリファンドが彼の名前らしい。
明るい性格で、彼はすぐに人気者になった。
まだ婚約者のいない娘達はもしかしたら十剣家の嫁になれるかもと、瞳をきらきらさせて話し合っている。
しかし、キスティには関係ない。
どうせ呪いが解かれることはないのに、愛し合っても仕方がない。歌姫だということを知ってもらえない苦しみを味わうなら、関わらない方がいい。
そう考えていた、のだが・・・。
「やあ、おはよう、ヴァッセル嬢」
何故か満面の笑顔で毎日話しかけてくるので、どうしたものかと考えてしまう。
ヴァッセルというのはキスティの家名である。
キスティは無言でぺこりと頭を下げるに留めた。人気者と話して目立ってしまっては面倒なのだ。それでも、周りからひそひそ話が聞こえてくる。
今日も話しかけられているわ、どうしてあんな子が、少しは反応しなさいよ。などなど・・・。
被害がないので今はまだいいが、いじめなどに発展して欲しくはない。痛いのは嫌なのだ。面倒なのも。だから基本的に無視しているのに、何故飽きもせず毎日話しかけてくるのか。
「今日は音楽の授業があるね。いつものライエルンかな?」
ライエルンとは、グレーイルで古くから伝わる弦楽器の一種であり、元々キスティの最も得意な楽器だ。永い時を過ごしてきたので腕前は常人離れしている。歌を歌わないことに注目させないように、そこそこの腕前に見せているが、それでもかなり目立っていたようだ。
「君のライエルンの音色は素晴らしいよね。一体どれだけの努力の証なのか、考えられないよ」
「わたしもそう思います。今度教えてくださいよー」
アンジェがすっと話に割り込んできた。これはいつものことで、放っておくとキスティが全く喋らないので、より周囲から悪く思われてしまうのを防ごうとしてくれているのだ。
周りも、ヴァイクと仲良くなりたいのなら同じようにすればいいのに、とキスティは思うが、結局のところ、打算なく人に優しいアンジェだからこそできることなのだろう。陰口を叩く人達などより、よほど可能性があると思うのだが。
「クラエル嬢、私は君のハヴェもとても好きだけどね」
「ありがとうございます。ダリファンド様のクォーレも素敵ですよ」
ハヴェは大きめの弦楽器、クォーレは鍵盤楽器の一種である。
なんてことはない褒め合いだ。この二人がくっ付いてしまえばいいのに。クラエル男爵家では家格のつり合いが取れないが、この時代は政略結婚の意味も薄れてきている。二人で好きなだけ仲良くしてもらって、自分のことはそっとしておいてくれればいいのだ。
「そういえば、音楽の先生が変わるらしいですよ」
「ああ、今日からか。また女性教師らしいね」
音楽の前の先生は結婚で退職したので、新しい教師が来るとはキスティも聞いていた。
といっても、誰だろうと基本的には同じなので、興味もなかったが。だから二人が世間話で盛り上がっているのを、無表情に聞き流していた。
そうやって、なるべく静かな生活を送ろうとしていたが、その日、迎えた午後の音楽の時間、キスティは戦慄した。
長い黒髪を真っすぐに伸ばした、柔和な笑顔をした若い女性だ。絶世の美女と言って過言ではない。背は高く、すらりとしているのに肉感的で、必要な部分がきっちりと出ている身体。
「今日から音楽の授業を担当します。シャーラクレイア・ヴェリチアーデ・アルトラヴィクタです。長いから気軽にレイアって呼んでね。年齢は二十三歳で、まだ教師歴が浅いから、至らないところがあったら許してくださいね」
いけしゃあしゃあと言っているが、キスティは彼女が断じて二十三歳などではないことを知っている。今は失われた言語の名を持つ彼女は、古い古い知り合いだった。
グレーイル以外では歴史に埋もれ、この時代で名前はあまり知られていないが、彼女こそはキスティの呪いを解除可能な呪いへ変え、王子様の命を救った偉大なる大魔女であり、悠久を生きる人ならざるものなのである。
それが音楽教師だなど、いったい何の冗談か。
頭を抱えたくなったキスティだが、ふと目が合うと妖艶に微笑まれた。
基本的に魔女は人間の生き死にや争いには滅多に介入しない。
魔女は好きなことをして、気に入った人間がいればよくも悪くも玩具にし、飽きれば去る。
歌姫の時に介入してくれたのは、呪いをかけた女王が魔女だったからだ。レイアは、魔女が人の国の歴史を変えるほど介入することを好まない。
キスティの居場所は常に把握しているようで、ごく稀に会いにくることはあった。もっと遥かな未来に転生した時すら。永遠を生きる魔女の、ほんの気まぐれの暇つぶしなのだろう。
魔女は人ではない。長い時に耐えられず、心が壊れかけているキスティとは精神構造が違う。
人間とは異なる精神構造をしている者の考えなど、考察するだけ時間の無駄だが、多くの場合、彼女はついでに転生と転生の間の空白にどんな時代があったかなど、興味深い話もしてくれる。
少しだけ楽しみだった。
授業は魔女の本性を知るキスティからすると拍子抜けなほど、ごく普通に進行した。恐らく同級の生徒達には見事に、『未熟だけれども真面目で交換の持てる若い教師』に見えているに違いない。
魔女は面倒ごとを嫌い、普段は人に紛れる。演じるのはお手の物、ということなのだろう。
変に絡んで来やしないかと冷や冷やしていたが、その心配もなさそうだ。キスティは人知れず、ほっと胸を撫でおろした。
その直後。
「知り合いなのかい?」
横合いから掛けられた声に、思わずびくりと反応してしまった。
振りむけば、ヴァイクがいつの間にかすぐそばにいた。
「ど、どうしてそう思われるのですか」
「ほんのわずかだけど、レイア先生が来てから、ころころと表情が変わっていたから」
驚いた。彼は長い時を経て鉄面皮になっていったキスティの、僅かな表情の動きが分かったらしい。
とはいえ、運命の相手である彼とは、キスティにその気があれば恋仲になるのは容易い。今回はたまたま、向こうから興味を持ってしまったのだろう。
だが恋仲になっただけでは呪いは解けない。
口づけをすることともう一つ、『見つけて』もらわないといけない。
初めは恋仲になって、口づけをすればいいと思った。そしてそれは実践できた。
しかし呪いは解けなかった。『見つけてもらう』、それはつまり、キスティが歌姫の生まれ変わりだと信じさせなければならないのだ。
そんなことは不可能だった。
どんなに愛し合っても、どうしてもそれは信じてもらえなかった。
だから諦めた。
「気のせいですわ」
小さな声でそれだけ言って、キスティはなおも何かを言いたそうなヴァイクから顔を逸らした。
(何故こんなにも彼女のことが気になるのだろう)
ヴァイクは今まで女性を本気で好きになったことはなかった。ましてや一目惚れなど、自分が経験するとは思ってもみなかった。
だが、今抱いている感情は恋としか思えない。まだ出会って一月程度だというのに、気になって仕方がない。
一目見た瞬間から、妙に胸がざわつくのだ。
それに、普段は殆ど返事も返してくれないというのに、先程は普通に会話が成り立ったことにも驚いた。
明らかにあの教師と関係がある。
それも気になって仕方がない。
制御できない感情を胸に、ちらちらとキスティを見るヴァイク。
そして大魔女レイアはそんな彼らを魔術で見ていた。もちろん顔など少しも向けない。向けなくとも、僅かな表情や鼓動の音まで、部屋の中のあらゆることを知覚する程度、大魔女には造作もない。
二人のやり取りを見て、レイアは口元をほんの少し吊り上げた。