キスティール・ヴァッセルという少女
爽やかな朝の陽ざしを受けて、キスティは目を覚ました。
布団を出ると、ぶるりと震える。この国は夏以外、常に氷に囲まれる極寒の国なのだ。
質素な部屋である。子爵令嬢など、家によっては裕福な平民と変わらない。贅沢できるほどの財はなかった。
だが、それ以上にキスティの無趣味さ、物欲のなさが原因だろう。
淡く赤みがかった、栗色の髪を無造作にかきあげ、ベッドから降りる。
水差しから木の杯に水を注ぎ、喉を潤して、しばらく呆けていると、扉が二度鳴らされた。
「どうぞ」
声をかければ、侍女のシャーリーが入室してくる。
高位貴族の侍女ともなれば下位貴族の娘が務めるものだが、下流の子爵家に勤める彼女は平民である。
子供の多い家庭から食い扶持を減らすために出された丁稚奉公なので、子供のころから一緒にいる。十六の歳になったキスティの二つ歳上なので、まるで姉妹のようである。
「お嬢様、本日はどのような装いをご希望ですか?」
「任せるわ」
「はいはい、但しあまり時間を掛けないように、ですね。全く、たまには練習の成果を発揮させてくださいよ」
「機会があればね」
気安い調子で話しかけるが、キスティの反応は鈍い。このお嬢様はいつも眠そうにしているのだ。
常に無表情で、長い付き合いだが、笑った顔も泣いた顔も見たことがない。
とはいえ反応がないわけでも、暗すぎるわけでもない。ただただ鈍い、というのがシャーリーの感想だ。やりがいのない相手とも言えるが、子爵や男爵程度でも平民や使用人に威張りちらす貴族家もあるので、待遇も含めて、売られた子供の働く職場としては上出来だとシャーリーは思っている。
できれば昔から面倒を見ている、無愛想な妹のようなこの娘を、もっと笑わせたいなんて思っているのだけれど。
見た目だって悪くないのにな。
キスティの髪を漉きながら、そんなことを思う。眠そうな目と髪型、化粧のせいでかなり損している。
すっと通った鼻すじに、大きな紅い瞳。ぷっくりと可愛らしい唇に完璧な配置の小さな顔。身体だって腰の位置が高く、胸は女性的なふくらみを十分にもち、足はすらりと長い。かなり魅力的だ。
ところが、前髪を目にかかるかかからないか程度まで伸ばして眼を見えにくくし、衣服も身体の線が隠れるようなものばかり好む。
普段は面倒とばかりに任せきりなのに、こちらが魅力を引き出そうとすると口を出してくる。
恐らく分かっていて隠している。目立ちたくないのだ。
勿体ない。自分は暗い茶色の髪に、顔立ちだって普通だと言うのに。
聞こえないように、シャーリーは口の中にため息を飲み込んだ。
キスティは朝食も部屋でとり、あまり家族とも交流はしない。
両親が好きにさせてくれているのはありがたかった。今回の人生は当たりの部類だろう。だからどうということもないが、苦痛の多い人生は何度やっても慣れることがない。
「キスティールさん、おはようございます!」
寒さに負けないための重たい外套を着て、学園への道をゆっくりと歩いているキスティに、横から声が掛けられる。
キスティは基本的に人との関りを避けているので、声を掛けてくるのは一人しかいない。すっと横を見ると案の定、同じ組のアンジェがにこにことした顔を向け、横を歩いていた。
金色の髪に空のような奇麗な碧い眼の小柄な少女で、華奢な体と愛らしい見た目から、守ってあげたい女の子として人気が高い。
少したれ目でいつも愛らしく笑っているこの少女は、性格も清らかであり、キスティのような根暗な女にも、にこやかに声を掛けてくれる、優しい心の持ち主だった。
それを相手が望んでいるかどうかはともかく、だが。
キスティは軽く礼をするだけで、無言を貫いた。
この国では基本的に貴族の子女は十三歳から十六歳まで、学園に通うのが当たり前だ。だから通っているだけで、そこに何の感情もなかった。
アンジェはキスティの無言にも慣れているので、気にせずにこりと笑って、先を歩いていった。少し前に仲の良い友人がいたようだ。声は掛けてくるが、無闇に距離を縮めて来るわけでもない辺り、好感の持てる少女だった。
とはいえ、キスティはそれに何か思うわけではないが。
もう何も考えたくないのだ。
永い永い時を、過去を未来を、ただただ過ごしてきたし、これからも永遠に過ごして行くのだから。
教室に入っても、誰とも挨拶も交わさず席に着く。
まだ授業が始まるには早く、皆があちこちで騒がしく話している。貴族の子女とはいえ年頃の若者たちである。噂話や下らない話に興じ、喧騒に満ちた教室の中で、一人顔を伏せ、キスティは静かにただ時を過ごすのだった。
最も多い話題はどうやら劇場のことだった。
帝国から有名な劇団が公演に来ているらしく、あの役者がどうとか、歌姫役の女優がどうとか。
歌姫・・・キスティのはるか昔の最初の人生の話は、この時代では古典文学になっており、演劇などでも定番になっている。
まだまだ転生の回数の浅かった頃は自分の話を聞くだけでも動揺して泣いたりしていたが、今はもう心が波立つこともない。
物語は時代によって広がり方が違う。
そもそも今回転生したこの国はレングテック。氷と芸術で彩られる島国である。年は帝国の皇歴で1353年。グレーイルは今の時代は法王国。数年から十数年毎に、教会によって『歌姫』が選出されているはずである。
過去にはグレーイルに転生した際、運命を信じて歌姫の座を確保したこともあった。何度転生しても、歌唱力は常に、歌姫にふさわしいだけのものがある。
だが、時には政治色が強かったり、時にはお祭り用の飾りだったり、意味がないので、目指すこともしなくなった。
人との関わりについてもそうだ。
縁というものだろうか、何度も何度も繰り返していくと、過去に出会った人の生まれ変わりに会うことがある。
直感ですぐ分かったり、付き合っていくうちに『あ、あの人かな』と感じたり。
最初のころは積極的に仲良くなったりもしたが、結局別れるだけだ。何度出会っても相手は気付いてもくれず、別れを繰り返すだけ。
自分だけが取り残される絶望。
それこそ呪いを解く王子様の生まれ変わりにも何度も会っているし、愛し合って生涯を連れ添ったこともあったが、呪いを解く条件を満たすまではいかず、諦めた。
だから、キスティはただただ無心で過ごす。
なるべく苦しむことのないように。
なるべく痛いことのないように。
なるべく悲しむことのないように。
だから、帝国との交換留学で誰かが編入して来ても、特に興味は示さなかった。
例えそれが、愛しかった王子の生まれ変わりだとしても。