表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

~ナマイキ陰陽師と鬼の王~

 生意気ツンデレ(?)美少年陰陽師と、和風吸血鬼の王の、奇妙な絆の物語、今回で完結。第四幕と終幕です。

第四章

 宵乱は、身じろぎもせずに眠っている。

 紅月のために用意されていた、血を作る作用のある薬湯を飲ませたが、まだ目覚める気配はない。

 それでも、少しずつ頬に赤みが戻ってきているようだった。

(寝てりゃ、かわいいもんだな。)

 眠る宵乱を見下ろして、紅月は思う。気を失った姿は…というか、気を失わせたのは紅月自身なのだが…見たことはあるが、こんな風にまじまじと寝顔を見たことはなかった。

 いつも爛々と、刃のように輝く目が閉じられていると、年齢よりも幼く見える。

 宵乱の手が動いた。

 気がついたのか、と言いかけて、紅月の言葉は途中で宙に浮く。

 宵乱は、紅月の狩衣の袖をつかんだまま、まぶたは開かない。

 ぎゅっと、布にくっきりとしわが寄るほど強く、すがるように。

 紅月に強くつかまれたために、宵乱の白く細い手首には、うっすらと赤く、指の痕が残っている。

「…乱…。」

 思わず呼ぶと、宵乱がやっと目を開けた。

 だが、まだ半覚醒なのだろう。憎まれ口をたたくこともなく、ぼんやりと紅月を見上げた。

「…紅月…。起きていいのかよ…。」

「…ああ。おまえのおかげだ。…悪かったな。」

 苦いものを滲ませた声で、紅月が言う。

 フンと、宵乱は鼻を鳴らす。

「そう思うなら…そろそろ、本気でオレと戦え…。」

 どう返すか、紅月が逡巡している間に、宵乱の目がまた閉ざされる。

 それでも、宵乱の手は、まだ紅月の袖をつかんだままだ。もしかしたら、自覚はしていないのかもしれない。

 紅月は、自分の袖をしっかりと握りしめている宵乱の指をつかむ。意識がないくせに、そして、紅月よりも一回り小さな手のくせに、その指を外すのに苦労した。

 紅月は、一度、宵乱の小さな手を握りしめ、そっと褥の上に下ろす。

 こんな小さな手で、紅月がやすやすと組み敷くことができてしまった、細く華奢な体で、宵乱はずっと、紅月に戦いを挑んできたのだ。

「…だから、オレは…。」

 紅月の真紅に瞳に、切ない光が揺れる。

「なあ、乱。オレたちは、どんなえにしだったんだろうな…。」

 この負けん気の強い少年は、きっと即座に「敵同士だ。」と返すのだろう。けれど、もうそれだけではなくなってしまった。

 鬼の王として、守らなければならないものを危うくするほどに。

 紅月は、静かに立ち上がり、身を翻す。燭台の炎を受けて、銀糸の髪が朱金に光る。

 紅月は、一度だけ振り返った。

「…ありがとな、乱。」

 紅月は、目に焼き付けようとするかのように、もう一度、宵乱を見つめ、そして去って行った。

 安倍の屋敷を出て歩き出した紅月は、そこで待っていた相手に気づき、かすかに目を細めたが、そのまま歩を進めた。

 すれ違う寸前に。

「行かれるのですね、鬼の王。」

 記憶にあるままの、高く澄んだ少年の声で訊かれる。

 初めて会ったのは、二百年近く前。その時と変わらない声、変わらない容姿。

「約定の番人として訊きます。鬼の王よ、静明様と交わした約定を、これからも守り続けていただけますか?」

 互いに、前を向き、視線を合わせないままに、足だけを止めて。

「ああ。それが、オレの守りたい全てのものを、守ることになるからな。」

 静かに夜に沁み渡る、深い声音。二百年前と同じ声だ。けれど、どこかが違うと、天一は思う。鬼の王は変わった。変えたのは。

 天一の瞳が、決意の色に染まる。

 歩き出す。

 鬼の王とは逆の方向へ。

「紅月!」

 叫んで飛び起きた宵乱は、眩暈に襲われて、褥の上に手をついて体を支えた。

 素早くめぐらせた視線のどこにも、紅月はいない。

 首筋には丁寧に布が巻かれている。

 はだけた童狩衣の襟元は、元通りに閉じられていた。

 宵乱は、右手を握りしめて、立ち上がる。くらっと、よろめきそうになったが、踏みとどまる。

 門から出るのも面倒だった。裸足で、庭に下りる。

 そこで待っていたのは。

「どこに行くんです?」

 と、微笑みながら、蒼天の瞳でまっすぐに宵乱を見る天一。

「てめえには関係ねえ!」

 宵乱は、天一の脇をすり抜けようと駆け出しかけて、ハッと身構えた。戦い続け、研ぎ澄まされてきた反射神経のなせる業だった。

「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」

 宵乱が、刀印で五芒星を描きながら叫ぶ。光の星が、襲い掛かる吹雪を弾き飛ばした。

「鬼の王のもとへ行かせるわけにはいきません。」

 自分の体よりはるかに長い槍を、悠然と構えて、天一がゆったりと微笑む。

 槍の切っ先は、雪と氷をまとって、凍てついた輝きを放つ。

 それは、宵乱が初めて見る、十二神将としての天一の姿。百年前、安倍静明とともに、数多の鬼や妖怪を狩った、伝説の式神。

「あなたは危険です。鬼の王を狂わせる。」

 高潔な方だったのにと、かつての紅月を知る天一は言う。彼は、静明様が認めた鬼の王だったのにと。

「鬼の王は言いました。約定を守るのは、それが自身の大切なものを守ることにつながるからだと。つまり、鬼の王にとって、一番大事なのは約定ではない。」

 透明な、幼い声で。

「約定よりも、あなた一人を選ぶかもしれない。そんな王は、約定の守護者にふさわしくない。」

 一滴の情けもかけない、冷徹な断罪が紡がれる。

「ボクは、約定の番人として、静明様の最後の願いを守ります。」

「ごちゃごちゃうるせえ!!」

 宵乱が吠える。

 ぎらぎらと、狂おしく輝く瞳は、危険な火花だ。

「約定なんてオレには関係ねえ!オレの邪魔をするなら全部ぶっとばす。」

 にい、と危険な笑みを閃かせた。

「ちょうどいい。おまえとは、一回、本気で戦ってみたかったんだ。」

 宵乱が、素早く印を結ぶ。

「オン・バサラ・サトバ・アク!」

 轟く雷鳴。四方八方からいかづちが天一に迫る。

 天一が、ブンッと槍を振るう。風を切る音から、槍の重さがわかる。細い腕のどこにそんな力があるのかと目を疑うが、天一は軽々と槍を操る。槍の切っ先から放たれる吹雪が、雷を真っ二つに切り裂いていく。

 しかし、全ての電撃が裂かれる前に、宵乱は次の真言を放っている。

「ノウマク・サンマンダボダナン・アビラウンケン!」

 乱れ飛ぶ、光の斬撃。

 目を射る輝きを放ちながら、触れれば骨ごと肉を落とす鋭利な刃が天一に迫る。

 闇を貫く閃光の数は、百近い。

 天一は、吹雪を放って光の剣を次々と吹き飛ばし、愛らしい顔にかすかな毒を滲ませる。

「うっとうしいなあ。きりが無い。」

「だったら、さっさとくたばりやがれ!!」

 宵乱が、呪いの言葉を叩きつける。

まかれ!」

 閃光が一気に速さを増した。

「!?」

 天一が大きく目を見開く。

 槍を水平に構えた。大きく回転させる。

 槍の切っ先から放たれる吹雪が円を描き、天一の前に壁を作った。

「防御に専念ってとこか。」

 に、と宵乱が唇の端をつり上げる。槍を振り回している状態なら、瞬時の攻撃に移れるが、天一はそれを捨てた。当然、作られた壁は強固。だが。

「そんなんで防ぎきれるかよ!」

 その言葉の通り、光の刃は、吹雪に阻まれるが、勢いは消しきれない。

「うああああっ!!」

 吹雪の壁ごと吹き飛ばされ、天一は地面に叩き付けられた。

「う…。」

 起き上がることもできず、うめき声をあげる。人間なら、背骨が折れるほどの衝撃だったはずだ。

 宵乱は、倒れた天一に一瞥すら与えず、その脇をすり抜ける。

 焦っていた。

 嫌な予感がした。

 一刻も早く、紅月のもとへ辿り着かなければいけない気がしていた。

 それが、仇となった。

「行かせ…ない。」

 ゆらり、と立ち上ったのは冷気。

 天一は、伏したまま、地面に叩き付けられても手放さなかった槍の先を、地面に突き刺す。

 宵乱が

「ノウマク。」

と唱えるよりも早く。

 ピキピキピキキッ!!

 槍の先から放たれた冷気が、一瞬で大地も空気も凍てつかせた。

 天一は、ぜいぜい肩で荒い息をしながら、地面に突き刺したままの槍を杖にして立ち上がる。

 目を見開いたまま、氷の彫像となった宵乱を見る。

「…こんな、大技…静明様と一緒に戦っていたときだって…数回しか、使ってないですよ…。本当に…力だけなら、キミは、静明様に匹敵する陰陽師なのに…。」

 春の淡い蒼天の瞳で、宵乱を見つめて。

「どうして、キミは、その力を…正しいことに…静明様の約定を守ることに…使おうとしなかったのかな…。」

 天一は、既に過去形で語っている。この氷の中に閉じこめられたら、数分で心の臓が凍りつく。天一自身も、しばらくは身動きがとれなくなる大技だ。

 天一は、膝が砕けて座り込む。手放した槍が、カランと地面を転がる。

(弟君の方はかたが付いた。鬼の王は、そちらに任せますよ。一族の罪は一族の手でけりをつけるのが筋でしょうから。)

 安倍の屋敷を出た紅月は、悠然と歩む。歩を進めるたびに、白銀の髪が揺れ、月光を冷たく弾く。

 ひら、とどこかから舞い下りて来た桜が、その肩に触れる。

 ジュッと音をたて、花びらが燃え尽きる。

 静かな横顔に表情は無い。しかし、今の彼をただの人間が目にしたら、それだけで卒倒したかもしれない。

 鬼の王は、深く、静かに、燃え上がる怒りの炎を立ち上らせていた。

 紅月が向かったのは、一条戻橋。一年前、宵乱が全壊させたが、数か月で新しい橋がかけられた。橋は端。そして、川の水もまた、彼岸と此岸の間を流れるもの。

 紅月は、橋からひらりと身を躍らせる。

 純銀の髪が風をまとって大きくうねり、きらきらと光を零す。

 紅月の沓の先が水面に触れた瞬間。

 彼の姿はかき消えた。

 川は、その流れをいささかも乱すことなく流れ続ける。

 結界の地。

 そこは、現世と鬼の里の境に在る。

 薄暗く、薄明るい。黄昏時がずっとずっと、果てなく続く。

 天才陰陽師、安倍静明の張った強固な結界が、永遠に溶けない氷壁のようにそびえたつ様は圧巻だ。

 しかし、この光景を目にする者はごくわずか。高位の鬼か、天賦の才に恵まれ、さらに修行を積んだ陰陽師でなければ、亜空間に入れない。その中でも、結界を越える技量をもつ者はさらに少ない。

 そのごく少数である鬼の王と、彼の腹心は、大禍時のかぼそく不吉な光の中で、静かに向き合っていた。

 紫紺の瞳で主を見上げ、竜胆が感情を排した声で言う。

「傷が塞がっておられますね。」

 雨に打たれる花のような、儚げな美貌が、ごくわずかな…消え入りそうな笑みに歪む。

「…人の血を口になさいましたか。」

 責めるでなく、詰るでなく、嘲るわけでもなく。けれど、事実のみを謳いあげているわけでもなく。もっと深いところからあふれる感情を押さえつけた声音。

「人を餌とするのは、好まれなくなっていらしたのに。安倍静明と出会ってから。」

 紅月は、静明を認めた。だから彼と同じ人を、餌と見なさなくなった。

「さぞ不本意でいらっしゃるでしょうね。」

 紅月は無言だったが、常に傍にあった竜胆には、主の思考が読めるのだろう。

 紅月の本気の怒り。それが向かう先は竜胆ではなく、紅月自身であることに。

「けれど、ただの人間の血ならそこまで悔やむこともなかったでしょう。あの子どもだからこそ、そんなに怒っていらっしゃるのでしょう?」

 竜胆が刀をすらりと抜き放つ。

 ぬらりと妖しく輝く、鬼殺しの呪のかかった刀。今まで数多の鬼の血を吸ってきたのだろうとわかる、不吉な輝き。

「あの陰陽師の子どもは、貴方を惑わす。貴方は、もはや我らの王ではない。」

 底無しの闇のような、暗紫の瞳で紅月を見据えて、竜胆は刀を握りしめる。

「それ以上、無様な姿を晒す前に、私が貴方を裁きます。」

「で、その後は?」

 向けられた感情を、奈落の底のような眼差しを、真正面から受け止めてなお、紅月は動じない。

「オレを殺して、鬼の王になったら、おまえが約定を守るか?」

「はい。堕ちる前の貴方が守っていたものは、私が受け継ぎましょう。」

 竜胆は、そこで珍しく、はっきりとした笑みを浮かべた。竜胆がこれほど感情をあらわにするのは、滅多にないことだった。長い付き合いの紅月でさえ、初めて目にした。しかしそれは、暗く淀んだ、心の負の部分から浮かび上がった、虚ろな笑みだった。

「約定に反するあの者は、私の手で殺します。」

 紅月は、覚悟を決めて、片頬で笑った。

「だったら、オレはおまえに殺されてやるわけにはいかねーな。」

 ザッと、風もないのに大きくなびく銀色の髪。紅月が、舞の一手のように優雅に右手を掲げた。

「鳳凰炎舞。」

 紅月の手から、燃え盛る炎をまとった、巨大な鳥が放たれる。

 一瞬で薄闇を焼き払い、まばゆき光を放ちながら、竜胆に迫る。

「ハアッ!」

 竜胆が、裂帛の気合いとともに、刀を振るう。

 鳥は、刀に切り裂かれたが、裂かれた炎は瞬く間に鳥の形を取り戻し、再び竜胆を襲う。

「っ!」

 竜胆は鳥を切り捨てる。しかし、幾度斬られようと、炎の勢いは減じない。炎は、変わらずごうごうと音をたてて燃え盛る。

 対する竜胆は、いつまでも同じ威力で刀を振り続けることはできない。

 扱っているのは、呪のかかった刀。消耗が激しい。

 額に汗が浮かびだした竜胆は、なんとか紅月の懐にとびこもうとする。しかし、明らかな優勢であっても、紅月に隙はなく、間合いに入ることはできない。

 竜胆が、紅月に傷を負わせることができたのは、紅月が竜胆を信じ切っていて、警戒の欠片もしていなかったからに過ぎない。

(けれど、隙を作れば、勝機はある。)

 竜胆は、近づいてきた炎の鳥の羽根を横に薙ぐ。渾身の力をこめた斬撃に、炎の鳥が四散する。けれど、そこで竜胆は力を使い切ったのか、膝をついた。ぐったりと腕が下がる。

 紅月が、少しだけ悲しそうな目で竜胆を見て、

「煉獄。」

と言いかけたとき。

「我が君。私を殺しても、安倍の当代の弟は助かりませんよ。」

 それは罠。罠と知ってもあえて踏まなくてはならない類の仕掛け。

「この刀はどこから手に入れたと思います?鬼殺しの呪、しかも鬼の王である貴方を斬れる呪いなど、安倍静明にしかかけられない。」

 紅月が真紅の目を見開いた。安倍静明の刀を持ち出せるのは。

「これを私に託したのは、静明の一の式神。」

 それは、約定の番人が、宵乱を敵と見なしたということ。

(乱!)

 紅月が呼吸を忘れた。

 天一が今いる場所は。

「安倍の当代の弟は、確かに強い。けれど、十二神将の長に勝てるでしょうか?」

 彼の力は、貴方が一番良く知っているでしょうと、竜胆は言外に告げる。天一は、安倍静命の右腕。鬼の王たる紅月の宿敵だったのだから。

 紅月の脳裏を、血の海に沈む宵乱の幻影がよぎる。

 刹那、目の前の竜胆から気がそれた。

 紅月は、竜胆が刀を一閃する前に、竜胆ごと刀を焼き尽くすべきだったのに。

 半瞬、反応が遅れた。

「鬼を屠る太刀よ、わが命を糧に、その力を解き放て!!」

 竜胆が、渾身の力で刀を振り下ろした。

 全身の感覚が無い。

 指一本動かせない。

 意識が遠のいていく。

 心の臓まで凍てついているはずなのに、冷たさよりも眠気が勝る。

 すとん、と眠りに落ちかけた意識を。

 ガツンと乱暴に殴られた。

(乱!)

 宵乱の意識が、一気に浮上する。

(そうだ。こんなところで死んでたまるか!)

 宵乱の中に、燃え上がる劫火。

(オレは、紅月を。)

 印も結べない。真言も声には出せない。けれど、炎が必要だ。この氷の棺を燃やし尽くす業火が。

(おまえの力、貸せよ、紅月!)

 心の中で思い描く。紅月の生み出す、究極の獄炎を。華麗にして無慈悲。全てを無に帰す。

(ノウマク・サラバ・タタギャテイ・ビヤサルバ・モッケイ・ビヤサルバ・タタラセ・センダ・マカロシャナ…)

 呼ぶのは、不動明王の憤怒の炎。いつもの一字呪ではなく、一帯を焦土と化す威力を持つ炎界呪。禁呪の領域ある荒業で、使って無事に済む保証はない。けれど宵乱は、迷わなかった。

(…ケン・ギャキ・ギャキ・サルバビキナン・ウン・タラタ・カン・マン!)

 炎が爆ぜた。

 高温の、蒼白い炎が、爆風をともなって荒れ狂う。

 バキバキバキバキ!!

 轟音とともに崩れ落ちる氷壁。金剛石並に堅固なはずの氷が、脆く砕け散った。

「っ…。」

 宵乱は、大きく息を吸う。そのとたん、ゲホゲホとむせて、しばらくゼーハーと、荒い呼吸を繰り返す。

 本来は、聖安京全体を丸ごと焼き払う威力の術だが、天一の氷壁もまた、最強の十二神将の、最大の技。威力のほとんどが相殺されていた。

「…信じられない。」

 天一が、呆然と呟いた。座り込んだまま、化け物でも見るような目で、宵乱を見上げ…ぎこちなくだが、ゆっくりと笑った。

「ああ、でも…完全には棺から抜け出せないみたいですね…。」

 それは、静明とともに千の戦場を駆け、百の修羅場をくぐってきた、十二神将の意地か。たった十三の宵乱が、今の時点では、どうあがいても天一に届かないもの。踏んだ場数。

 宵乱の左足は、足首より下が、いまだ地面に縫いとめられている。天一の作った氷の棺の、最後のひとかけらによって。不動明王の炎を耐えきった、怨念じみた天一の氷の鎖。

「チッ!」

 宵乱は、氷を拳で殴りつける。火界呪を放った直後では、術は発動できないのだろう。しかし、素手でどうにかなる氷ではない。拳はすぐさま傷だらけになり、鮮血が飛び散る。

「もう、あきらめたらどうです?」

 天一の口調は、呆れ果てていた。

「どうせ、もう間に合いません。」

「どういう意味だ?」

 宵乱が、妙に静かに訊いて来る。頬に飛んだ鮮血が、ゆっくりと流れ落ちる。

「鬼の王とは言え、静明様の鬼殺しの呪のかかった太刀には勝てません。あれは、使い手の命を吸うことで、強大な力を発揮する。だから静明様は封印していたんです。」

 天一は言外に、竜胆に加担していることを語る。けれど、宵乱にとっては、どうでもいいことだった。心に引っかかったのは。

「紅月の側近の鬼はオレが。」

「鬼の王の腹心は、ボクが回復させました。」

 その瞬間。

 宵乱の目の色が変わった。

 投げ出されていた、天一の槍を拾う。

 そして自分の足首目がけて、一切の躊躇なく、その切っ先を。

「ノウマク・サンマンダボダナン・アビラウンケン」

 涼やかな声で詠唱された光明真言とともに奔った光の刃が、天一の槍の柄を、すっぱりと切り落とす。

 槍の切っ先は、ストッと地面に突き刺さった。

「…おまえは、本当に、無茶しかしない。」

 苦く重いため息をつきながら、歩み寄って来るのは。

「夕蓮…。」

 氷に囚われたまま、宵乱は兄を見上げた。

 夕蓮は、表面上はいつもと変わらない。思慮深く冷静な、安倍の宗主であり、陰陽寮を統べる者。

しかし、その奥には荒れ狂う感情の嵐があり、必死で抑え込んでいるようだった。

「どうしてそこまで鬼の王にこだわる?恋よりたちが悪い執着だ。」

 そこで、抑えきれなくなったように、夕蓮は言った。

「私には理解できんな。」

「オレの勝手だろ!」

 反射的にカッとなって言い返した宵乱の頬を、夕蓮の大きな手が包んだ。

「!?」

「そうだな。きっと、おまえはそれでいい。おまえは、私とはちがうから。」

 微笑む夕蓮の瞳の奥に、慈愛の光が瞬いた。

「オン・アミリテイ・ウン・ハッタ。」

 軍荼利明王の甘露呪。夕蓮の手が、柔らかい光に包まれる。きらきらと輝きながら、宵乱の中に流れ込むのは、癒しの力だ。宵乱の霊力を回復させる。

 同時に、すうっと清涼な気に包まれて、体が一気に軽くなった。

「夕蓮。」

「行けばいい。おまえは自由だ。」

 必死でこらえて、それでもあふれる感情に、その声が揺れる。頬に触れたままの兄の手も、かすかに震えていた。

 二人とも、わかっている。これが今生の別れだ。

 宵乱が頷いた。

「カン!」

 一声で、氷の足枷が砕け散った。

 頬から離れていく兄の手を、宵乱は一瞬だけつかむ。

 ずっと好き勝手にやってきた。迷惑しかかけてこなかったのに、いつ見捨てられたって文句など言えなかったのに。最後まで、守ってくれた。正しい道を選ばないと知っていて、それでも愛してくれた。

「ありがとう。」

 少しだけ逡巡した後に、宵乱は長いこと口にしていなかった言葉で呼んだ。

「兄上。」

 すぐに駆けだしていった宵乱は、夕蓮の瞳に光った雫に、気づくことはなかった。

「…行ってしまいましたね。」

 黙って見ていた天一が言った。

「当代様。ボクを殺しますか?」

「なぜです?貴方は約定の番人として、当然のことをしただけだ。甘いのは私でしょう。」

 小さな子を相手にするように、夕蓮は膝をつき、天一に視線を合わせた。

「天一殿。わたしは、この京を守護する自分の役割に誇りをもっています。けれど、宵乱に、この京は窮屈でしょう。」

 忘れない。

 幼い頃から驚くほどの才能を見せ、周囲の期待を集め、けれど素行の悪さで全て台無しにしてきた、困った弟。

 自分はもちろん、おそらく静明を超える陰陽師になれるはずの未来を、惜しげもなく捨てていく。

いつも手を焼かされて、理解もできなくて。けれど、振り回されても、嫌いにはなれなかった。

 離れても、この気持ちは変わらない。

(私は、ずっと、おまえを。)

(寂しくはないのですか。)

 天一は、心の中だけで問いかける。主のいない世界で百年を過ごした式神は。

 けれど、きっと、夕蓮はたくましく生きていくのだろうと、天一は思う。

(それが、人の強さですか、静明様。)

 返る言葉はないけれど、これからも静明の子孫を見守ろうと、天一は思う。できれば、支えていけるといいと、ふと思った。

「鬼を屠る太刀よ、わが命を糧に、その力を解き放て!!」

 竜胆が絶叫した。

 鬼殺しの太刀から、無数の触手が伸びる。

「煉獄華炎!」

 紅月の放つ炎の花びらが降り注ぎ、触手を焼くが、触手は次々と生まれる。

「劫火満月!」

 紅月をぐるりと取り囲む、炎の壁が築かれる。

 真円を描く炎の結界。

 いかなるものも、焔に遮られてその内側には侵入できないはずだった。

 しかし。

 竜胆が、がくりと膝を折り、玉の汗に黒髪を濡らしながらも、叫ぶ。

「この命、尽きようと構わぬ、鬼殺しの太刀よ、その力を存分に振るえ!!」

 触手の数が、一気に増した。

 幾本もの触手が炎の中に焼け落ち、そのたびに新たな触手が、炎の壁に激突する。

 燃え盛る朱金が、漆黒に覆い尽くされる寸前。

「さようなら、我が君。」

 竜胆が顔を歪めた。それは、刀に命を吸われているせいか、それとも。

 ついに、触手の一本が、炎の壁を突き抜けて紅月に眼前に迫る。

「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」

 五芒星が、眩い閃光を放つ。漆黒の触手を阻む盾となる。

「こんなやつに追い詰められてんじゃねーよ、紅月!」

 疾風のように現れた宵乱が、背で庇うように紅月の前に立つ。肩ごしに振り向いて、傲然と笑う。

「乱!?」

 珍しく、素で驚き、真紅の目を丸くした鬼の王に

「おまえを殺すのは、このオレだっ!!」

 宵乱は高らかに吠える。

「…おまえなぁ…。」

 紅月は、笑ってしまう。そんな状況ではないのだが、もう笑うしかない心境だ。

「…十二神将の長は、しくじりましたか。」

 冷ややかに凍りついた声で、竜胆が呟いた。

「おまえが、全ての元凶。」

 憎悪や憤怒を通りこして、絶望と虚無に染まった目で、竜胆は宵乱を見る。

「おまえさえいなければ、我が君はっ!」

 鬼殺しの太刀を握る両手に、ぐっと力を込める。みしりと、骨が軋む音がした。

「死ね!」

 竜胆が渾身の力を込めて刃を一閃した。

 どす黒い触手が、五芒星を直撃する。

 闇が光を侵食するように。

 ピキッと儚い音をたてて、五芒星に亀裂が入る。

「乱、よけろ。」

 自分の前から動こうとしない宵乱に、紅月が焦った声で言うが。

「なめんな。」

 宵乱の目がぎらりと不遜に光る。

 刀印を結び、再度、五芒星を描く。

「東方降三世夜叉明王、南方軍荼利夜叉明王、西方大威徳夜叉明王、北方金剛夜叉明王、中央二大日大聖不動明王!」

 五大明王の名号とともに描かれた五芒星は、先程のそれよりもはるかに強い光を放ち、漆黒の触手を駆逐していく。

 しかし、霊力の消耗も激しく、宵乱は肩で大きく息をする。左手で強く胸を押さえた。それでも、唇を引き結んで顔を上げ、五芒星を維持する。

「乱、もういい。」

 紅月が、その小さな背中に向かって言う。宵乱が眉をつり上げた。肩ごしに振り向く。

「ふざけんな、オレは、まだ。」

「…もう十分なんだよ。」

 ささやく声音は、ひどく哀しそうだった。

「どういう意味だ?」

 と、宵乱は眉をひそめて紅月を凝視し、気づいた。

「そうか。」

 と頷く。

 この一年、ずっと紅月に挑み続けてきた宵乱は、その凄まじいまでの強さを肌で知っている。

 宵乱が作った時間は、ごくわずかなものだが、紅月は、数秒、力を溜める時間があれば。

「白焔風斬!!」

 空間を歪ませるほどの高温。青白く火花を散らす炎は、突風を生む。風は炎を煽り、炎はさらなる風を生んで突き進む。

 炎は鬼殺しの太刀を直撃し、瞬時にそれは灰燼に帰した。

 ドサリと重い音がした。

 乱れた黒髪が、蒼白になった顔にかかっている。

「我が君…。」

 焼け爛れた手を伸ばし、地面に伏した竜胆が呼ぶ。

 紅月は、腹心の傍に膝をついた。

「おい。」

と宵乱が声を上げるのを、紅月は視線だけで制する。宵乱はふてくされた顔をするが、黙って隣に立つ。警戒は解かないまま。

「…なぜですか、我が君。貴方はこれほどの力を持っているのに…誰よりも鬼の王にふさわしい方なのに…なぜ、人の子一人のために、王の責務を蔑ろになさるのですか。」

 それは、怨嗟でも糾弾でもなく。親とはぐれた幼子が途方に暮れているような悲嘆。聞いている者の胸を抉る、静かな慟哭。

 紅月は唇をかみしめる。ひたすらに自分を慕ってくれた竜胆に、かける言葉が見つからなかった。

「責務とか役目とか、どうでもいいんだよ!」

 宵乱が、主従に落ちた沈黙を引き裂いた。

「そんなもんに縛られてんのがバカなんだよ。」

 どこまでも傲慢に、堂々と言ってのける。

「紅月!!」

と、射抜くように、その真紅の双眸を見据える。

 紅月が膝をついているから、視線の高さがいつもと逆で、いつもよりも近い。

 宵乱の視線が、紅月の心を突き刺す。痛みを覚えるほどの、鋭利な光で、まっすぐに貫かれる。

「オレは、おまえと戦って、戦って、最後におまえを殺す。オレは、それ以外は何もいらない!!」

 宵乱の手が、紅月の胸に伸びる。

 紅月は、よけることも振り払うことも忘れて、宵乱の瞳を見返している。魅入られたように。

 宵乱が、紅月の胸倉をつかんで、ぐいっと強引に引き寄せた。

 細い腕の、どこにそんな力があるのかと疑うほどの、容赦のない力で。

「おまえもそれでいいって言え。おまえも、オレ以外は何もいらないだろ!!」

 息のかかる距離で。

 かみつくような勢いで。

 理屈どころか意味さえ不明なせりふを、どうしてそんなにきっぱりと言い切れるのか。

(こういうところか。)と、紅月は雷に打たれたような衝撃と共に納得した。

 道を踏み外すほどに惹かれたのは。

「…愚かな。そんなことで、鬼と人の双方を危うくするなど。」

 倒れたまま、竜胆が吐き捨てる。

 うるせえ、と怒鳴りかけた宵乱を、紅月は

「乱。」

と呼んで止める。

 竜胆を抱き起こし、結界に背をあずける形で座らせて、紅月は腹心に向き合った。壊れ物を扱うような優しい手つきに、宵乱は面白くない顔をしたが、口には出さなかった。

「おまえの言う通り、オレはもう、鬼の王じゃねえ。」

 間違っているとわかっているのだ。それでも、もう正しい道を選べない自分は、王たる資格がない。

「我が君。」

 と言いかけた竜胆を遮って。

「勝手なことを言うが、約定の守護者を継いでくれ。おまえが次の鬼の王だ。」

 紅月は、返事を待たずに立ち上がる。

 哀しいほど綺麗に微笑んだ。

「竜胆、今まで世話になった。」

 竜胆は瞠目した。

 歩き出した紅月を、

「おい、待ちやがれ!」

 と、宵乱が追う。

 竜胆が、結界に手をつき、立ち上がった。

 数百年仕えた主を、最後まで見送ることなく背を向ける。

 泣いて縋っても、彼が留まることはないのなら、無様な姿を晒しはしない。

(私は、貴方を超えます。だから、堕ちた貴方などに、未練はありません。)

 それは竜胆の意地だ。

 振り向きたくなる気持ちを押さえつけ、竜胆は歩き出す。


終幕

「紅月、何考えてる?」

 隣を歩く紅月を見上げ、宵乱が問う。

 夜の聖安京。一条戻橋。

 人気はない。貴賤を問わず、夜に出歩く都人は少ない。闇に生きる者たちを恐れて。

それでも、人通りは皆無ではない。先ほども、やむを得ない事情を抱えているのだろう都人とすれ違った。幸い、恐ろしいモノを見ないようにしてか、俯き、自分の足元だけを見て、急いで去って行ったので、紅月の銀糸の髪にも真紅の瞳にも気づかれることはなかった。こめかみから伸びる角にも。

「これから、どうすっかなと。」

 紅月は宵乱を見下ろして答える。

「オレは、人の世では生きられねえ。おまえに、鬼の里での居場所はねえ。」

 そして、今まで通り宵乱が人の世で、紅月が鬼の里で生きることも、もうできない。

 人と鬼が関われば、多くの血が流れ、どちらかの種が滅ぶまで戦いは終わらない。そして生き残った方にも甚大な被害が出る。おそらく、共に滅ぶだろう。

 だから百年前、安倍静明は鬼の王と約定を結んだ。双方の種が生き続けるために、互いの関係を断つことを決めた。

 その約定を、静明の子孫と鬼の一族は、これからも守り続けていく。

 紅月は足を止めた。宵乱もそれに倣う。紅月が刻み込むように言った。

「オレ達はここじゃ生きていけねえ。」

 関係を断てないのだから。

(本当は、もう二度と会わないつもりだったんだがな。)

 けれど、宵乱は紅月の意志など尊重しない。そして紅月は、そんな宵乱を突き放すことがもうできない。

「じゃあ、どっか行こうぜ。」

 あっけらかんと、笑みさえ浮かべて宵乱が答えた。

「オレは、おまえをいつか殺せる場所なら、どこでもいい。」

 月光が照らす白い顔は、晴れやかだった。生まれ育った場所にある全てを投げ捨て、顧みない。非情と呼ぶ方がふさわしい潔さで、宵乱は言い切った。

「ああ、そうだな。」

 紅月も笑う。

 冬の最後の名残を宿した、冷たい突風が吹いた。

 ざっと、桜吹雪が舞い踊る。

 視界を白く染めるほどの、花の牢獄。

 ため息を誘う美しさが、狂気を招いたのだろうか。それとも、出会った最初から、もう既に。

 熱に浮かされるように、紅月は唇に浮かぶ笑みを深めた。

「おまえになら、いつか殺されてやってもいい。」

                                          終


 ここまで読んでくださった方がもしいらしたら、とてもうれしいです。ありがとうございます。

 宵乱と紅月について、筆力不足で伝わっていないであろう点を、この場を借りてちょっと説明させてください。

 宵乱。この子は、とにかく自分勝手でわがままな、その分自分の気持ちに正直な子。ただし、紅月への自分の思いを完全に理解していないのではないかな。考える前に突っ走っています。

 紅月。この時点では最強なんですが、あんまりそう見えない。宵乱を面白がっているうちに、深みにはまってどうしようもなくなってしまった鬼の王さま。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ