~ナマイキ陰陽師と鬼の王~
生意気ツンデレ(?)美少年陰陽師と、和風吸血鬼の王の、奇妙な絆の物語、今回で完結。第四幕と終幕です。
第四章
宵乱は、身じろぎもせずに眠っている。
紅月のために用意されていた、血を作る作用のある薬湯を飲ませたが、まだ目覚める気配はない。
それでも、少しずつ頬に赤みが戻ってきているようだった。
(寝てりゃ、かわいいもんだな。)
眠る宵乱を見下ろして、紅月は思う。気を失った姿は…というか、気を失わせたのは紅月自身なのだが…見たことはあるが、こんな風にまじまじと寝顔を見たことはなかった。
いつも爛々と、刃のように輝く目が閉じられていると、年齢よりも幼く見える。
宵乱の手が動いた。
気がついたのか、と言いかけて、紅月の言葉は途中で宙に浮く。
宵乱は、紅月の狩衣の袖をつかんだまま、まぶたは開かない。
ぎゅっと、布にくっきりとしわが寄るほど強く、すがるように。
紅月に強くつかまれたために、宵乱の白く細い手首には、うっすらと赤く、指の痕が残っている。
「…乱…。」
思わず呼ぶと、宵乱がやっと目を開けた。
だが、まだ半覚醒なのだろう。憎まれ口をたたくこともなく、ぼんやりと紅月を見上げた。
「…紅月…。起きていいのかよ…。」
「…ああ。おまえのおかげだ。…悪かったな。」
苦いものを滲ませた声で、紅月が言う。
フンと、宵乱は鼻を鳴らす。
「そう思うなら…そろそろ、本気でオレと戦え…。」
どう返すか、紅月が逡巡している間に、宵乱の目がまた閉ざされる。
それでも、宵乱の手は、まだ紅月の袖をつかんだままだ。もしかしたら、自覚はしていないのかもしれない。
紅月は、自分の袖をしっかりと握りしめている宵乱の指をつかむ。意識がないくせに、そして、紅月よりも一回り小さな手のくせに、その指を外すのに苦労した。
紅月は、一度、宵乱の小さな手を握りしめ、そっと褥の上に下ろす。
こんな小さな手で、紅月がやすやすと組み敷くことができてしまった、細く華奢な体で、宵乱はずっと、紅月に戦いを挑んできたのだ。
「…だから、オレは…。」
紅月の真紅に瞳に、切ない光が揺れる。
「なあ、乱。オレたちは、どんな縁だったんだろうな…。」
この負けん気の強い少年は、きっと即座に「敵同士だ。」と返すのだろう。けれど、もうそれだけではなくなってしまった。
鬼の王として、守らなければならないものを危うくするほどに。
紅月は、静かに立ち上がり、身を翻す。燭台の炎を受けて、銀糸の髪が朱金に光る。
紅月は、一度だけ振り返った。
「…ありがとな、乱。」
紅月は、目に焼き付けようとするかのように、もう一度、宵乱を見つめ、そして去って行った。
☆
安倍の屋敷を出て歩き出した紅月は、そこで待っていた相手に気づき、かすかに目を細めたが、そのまま歩を進めた。
すれ違う寸前に。
「行かれるのですね、鬼の王。」
記憶にあるままの、高く澄んだ少年の声で訊かれる。
初めて会ったのは、二百年近く前。その時と変わらない声、変わらない容姿。
「約定の番人として訊きます。鬼の王よ、静明様と交わした約定を、これからも守り続けていただけますか?」
互いに、前を向き、視線を合わせないままに、足だけを止めて。
「ああ。それが、オレの守りたい全てのものを、守ることになるからな。」
静かに夜に沁み渡る、深い声音。二百年前と同じ声だ。けれど、どこかが違うと、天一は思う。鬼の王は変わった。変えたのは。
天一の瞳が、決意の色に染まる。
歩き出す。
鬼の王とは逆の方向へ。
☆
「紅月!」
叫んで飛び起きた宵乱は、眩暈に襲われて、褥の上に手をついて体を支えた。
素早くめぐらせた視線のどこにも、紅月はいない。
首筋には丁寧に布が巻かれている。
はだけた童狩衣の襟元は、元通りに閉じられていた。
宵乱は、右手を握りしめて、立ち上がる。くらっと、よろめきそうになったが、踏みとどまる。
門から出るのも面倒だった。裸足で、庭に下りる。
そこで待っていたのは。
「どこに行くんです?」
と、微笑みながら、蒼天の瞳でまっすぐに宵乱を見る天一。
「てめえには関係ねえ!」
宵乱は、天一の脇をすり抜けようと駆け出しかけて、ハッと身構えた。戦い続け、研ぎ澄まされてきた反射神経のなせる業だった。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」
宵乱が、刀印で五芒星を描きながら叫ぶ。光の星が、襲い掛かる吹雪を弾き飛ばした。
「鬼の王のもとへ行かせるわけにはいきません。」
自分の体よりはるかに長い槍を、悠然と構えて、天一がゆったりと微笑む。
槍の切っ先は、雪と氷をまとって、凍てついた輝きを放つ。
それは、宵乱が初めて見る、十二神将としての天一の姿。百年前、安倍静明とともに、数多の鬼や妖怪を狩った、伝説の式神。
「あなたは危険です。鬼の王を狂わせる。」
高潔な方だったのにと、かつての紅月を知る天一は言う。彼は、静明様が認めた鬼の王だったのにと。
「鬼の王は言いました。約定を守るのは、それが自身の大切なものを守ることにつながるからだと。つまり、鬼の王にとって、一番大事なのは約定ではない。」
透明な、幼い声で。
「約定よりも、あなた一人を選ぶかもしれない。そんな王は、約定の守護者にふさわしくない。」
一滴の情けもかけない、冷徹な断罪が紡がれる。
「ボクは、約定の番人として、静明様の最後の願いを守ります。」
「ごちゃごちゃうるせえ!!」
宵乱が吠える。
ぎらぎらと、狂おしく輝く瞳は、危険な火花だ。
「約定なんてオレには関係ねえ!オレの邪魔をするなら全部ぶっとばす。」
にい、と危険な笑みを閃かせた。
「ちょうどいい。おまえとは、一回、本気で戦ってみたかったんだ。」
宵乱が、素早く印を結ぶ。
「オン・バサラ・サトバ・アク!」
轟く雷鳴。四方八方からいかづちが天一に迫る。
天一が、ブンッと槍を振るう。風を切る音から、槍の重さがわかる。細い腕のどこにそんな力があるのかと目を疑うが、天一は軽々と槍を操る。槍の切っ先から放たれる吹雪が、雷を真っ二つに切り裂いていく。
しかし、全ての電撃が裂かれる前に、宵乱は次の真言を放っている。
「ノウマク・サンマンダボダナン・アビラウンケン!」
乱れ飛ぶ、光の斬撃。
目を射る輝きを放ちながら、触れれば骨ごと肉を落とす鋭利な刃が天一に迫る。
闇を貫く閃光の数は、百近い。
天一は、吹雪を放って光の剣を次々と吹き飛ばし、愛らしい顔にかすかな毒を滲ませる。
「うっとうしいなあ。きりが無い。」
「だったら、さっさとくたばりやがれ!!」
宵乱が、呪いの言葉を叩きつける。
「禍れ!」
閃光が一気に速さを増した。
「!?」
天一が大きく目を見開く。
槍を水平に構えた。大きく回転させる。
槍の切っ先から放たれる吹雪が円を描き、天一の前に壁を作った。
「防御に専念ってとこか。」
に、と宵乱が唇の端をつり上げる。槍を振り回している状態なら、瞬時の攻撃に移れるが、天一はそれを捨てた。当然、作られた壁は強固。だが。
「そんなんで防ぎきれるかよ!」
その言葉の通り、光の刃は、吹雪に阻まれるが、勢いは消しきれない。
「うああああっ!!」
吹雪の壁ごと吹き飛ばされ、天一は地面に叩き付けられた。
「う…。」
起き上がることもできず、うめき声をあげる。人間なら、背骨が折れるほどの衝撃だったはずだ。
宵乱は、倒れた天一に一瞥すら与えず、その脇をすり抜ける。
焦っていた。
嫌な予感がした。
一刻も早く、紅月のもとへ辿り着かなければいけない気がしていた。
それが、仇となった。
「行かせ…ない。」
ゆらり、と立ち上ったのは冷気。
天一は、伏したまま、地面に叩き付けられても手放さなかった槍の先を、地面に突き刺す。
宵乱が
「ノウマク。」
と唱えるよりも早く。
ピキピキピキキッ!!
槍の先から放たれた冷気が、一瞬で大地も空気も凍てつかせた。
天一は、ぜいぜい肩で荒い息をしながら、地面に突き刺したままの槍を杖にして立ち上がる。
目を見開いたまま、氷の彫像となった宵乱を見る。
「…こんな、大技…静明様と一緒に戦っていたときだって…数回しか、使ってないですよ…。本当に…力だけなら、キミは、静明様に匹敵する陰陽師なのに…。」
春の淡い蒼天の瞳で、宵乱を見つめて。
「どうして、キミは、その力を…正しいことに…静明様の約定を守ることに…使おうとしなかったのかな…。」
天一は、既に過去形で語っている。この氷の中に閉じこめられたら、数分で心の臓が凍りつく。天一自身も、しばらくは身動きがとれなくなる大技だ。
天一は、膝が砕けて座り込む。手放した槍が、カランと地面を転がる。
(弟君の方はかたが付いた。鬼の王は、そちらに任せますよ。一族の罪は一族の手でけりをつけるのが筋でしょうから。)
☆
安倍の屋敷を出た紅月は、悠然と歩む。歩を進めるたびに、白銀の髪が揺れ、月光を冷たく弾く。
ひら、とどこかから舞い下りて来た桜が、その肩に触れる。
ジュッと音をたて、花びらが燃え尽きる。
静かな横顔に表情は無い。しかし、今の彼をただの人間が目にしたら、それだけで卒倒したかもしれない。
鬼の王は、深く、静かに、燃え上がる怒りの炎を立ち上らせていた。
紅月が向かったのは、一条戻橋。一年前、宵乱が全壊させたが、数か月で新しい橋がかけられた。橋は端。そして、川の水もまた、彼岸と此岸の間を流れるもの。
紅月は、橋からひらりと身を躍らせる。
純銀の髪が風をまとって大きくうねり、きらきらと光を零す。
紅月の沓の先が水面に触れた瞬間。
彼の姿はかき消えた。
川は、その流れをいささかも乱すことなく流れ続ける。
☆
結界の地。
そこは、現世と鬼の里の境に在る。
薄暗く、薄明るい。黄昏時がずっとずっと、果てなく続く。
天才陰陽師、安倍静明の張った強固な結界が、永遠に溶けない氷壁のようにそびえたつ様は圧巻だ。
しかし、この光景を目にする者はごくわずか。高位の鬼か、天賦の才に恵まれ、さらに修行を積んだ陰陽師でなければ、亜空間に入れない。その中でも、結界を越える技量をもつ者はさらに少ない。
そのごく少数である鬼の王と、彼の腹心は、大禍時のかぼそく不吉な光の中で、静かに向き合っていた。
紫紺の瞳で主を見上げ、竜胆が感情を排した声で言う。
「傷が塞がっておられますね。」
雨に打たれる花のような、儚げな美貌が、ごくわずかな…消え入りそうな笑みに歪む。
「…人の血を口になさいましたか。」
責めるでなく、詰るでなく、嘲るわけでもなく。けれど、事実のみを謳いあげているわけでもなく。もっと深いところからあふれる感情を押さえつけた声音。
「人を餌とするのは、好まれなくなっていらしたのに。安倍静明と出会ってから。」
紅月は、静明を認めた。だから彼と同じ人を、餌と見なさなくなった。
「さぞ不本意でいらっしゃるでしょうね。」
紅月は無言だったが、常に傍にあった竜胆には、主の思考が読めるのだろう。
紅月の本気の怒り。それが向かう先は竜胆ではなく、紅月自身であることに。
「けれど、ただの人間の血ならそこまで悔やむこともなかったでしょう。あの子どもだからこそ、そんなに怒っていらっしゃるのでしょう?」
竜胆が刀をすらりと抜き放つ。
ぬらりと妖しく輝く、鬼殺しの呪のかかった刀。今まで数多の鬼の血を吸ってきたのだろうとわかる、不吉な輝き。
「あの陰陽師の子どもは、貴方を惑わす。貴方は、もはや我らの王ではない。」
底無しの闇のような、暗紫の瞳で紅月を見据えて、竜胆は刀を握りしめる。
「それ以上、無様な姿を晒す前に、私が貴方を裁きます。」
「で、その後は?」
向けられた感情を、奈落の底のような眼差しを、真正面から受け止めてなお、紅月は動じない。
「オレを殺して、鬼の王になったら、おまえが約定を守るか?」
「はい。堕ちる前の貴方が守っていたものは、私が受け継ぎましょう。」
竜胆は、そこで珍しく、はっきりとした笑みを浮かべた。竜胆がこれほど感情をあらわにするのは、滅多にないことだった。長い付き合いの紅月でさえ、初めて目にした。しかしそれは、暗く淀んだ、心の負の部分から浮かび上がった、虚ろな笑みだった。
「約定に反するあの者は、私の手で殺します。」
紅月は、覚悟を決めて、片頬で笑った。
「だったら、オレはおまえに殺されてやるわけにはいかねーな。」
ザッと、風もないのに大きくなびく銀色の髪。紅月が、舞の一手のように優雅に右手を掲げた。
「鳳凰炎舞。」
紅月の手から、燃え盛る炎をまとった、巨大な鳥が放たれる。
一瞬で薄闇を焼き払い、まばゆき光を放ちながら、竜胆に迫る。
「ハアッ!」
竜胆が、裂帛の気合いとともに、刀を振るう。
鳥は、刀に切り裂かれたが、裂かれた炎は瞬く間に鳥の形を取り戻し、再び竜胆を襲う。
「っ!」
竜胆は鳥を切り捨てる。しかし、幾度斬られようと、炎の勢いは減じない。炎は、変わらずごうごうと音をたてて燃え盛る。
対する竜胆は、いつまでも同じ威力で刀を振り続けることはできない。
扱っているのは、呪のかかった刀。消耗が激しい。
額に汗が浮かびだした竜胆は、なんとか紅月の懐にとびこもうとする。しかし、明らかな優勢であっても、紅月に隙はなく、間合いに入ることはできない。
竜胆が、紅月に傷を負わせることができたのは、紅月が竜胆を信じ切っていて、警戒の欠片もしていなかったからに過ぎない。
(けれど、隙を作れば、勝機はある。)
竜胆は、近づいてきた炎の鳥の羽根を横に薙ぐ。渾身の力をこめた斬撃に、炎の鳥が四散する。けれど、そこで竜胆は力を使い切ったのか、膝をついた。ぐったりと腕が下がる。
紅月が、少しだけ悲しそうな目で竜胆を見て、
「煉獄。」
と言いかけたとき。
「我が君。私を殺しても、安倍の当代の弟は助かりませんよ。」
それは罠。罠と知ってもあえて踏まなくてはならない類の仕掛け。
「この刀はどこから手に入れたと思います?鬼殺しの呪、しかも鬼の王である貴方を斬れる呪いなど、安倍静明にしかかけられない。」
紅月が真紅の目を見開いた。安倍静明の刀を持ち出せるのは。
「これを私に託したのは、静明の一の式神。」
それは、約定の番人が、宵乱を敵と見なしたということ。
(乱!)
紅月が呼吸を忘れた。
天一が今いる場所は。
「安倍の当代の弟は、確かに強い。けれど、十二神将の長に勝てるでしょうか?」
彼の力は、貴方が一番良く知っているでしょうと、竜胆は言外に告げる。天一は、安倍静命の右腕。鬼の王たる紅月の宿敵だったのだから。
紅月の脳裏を、血の海に沈む宵乱の幻影がよぎる。
刹那、目の前の竜胆から気がそれた。
紅月は、竜胆が刀を一閃する前に、竜胆ごと刀を焼き尽くすべきだったのに。
半瞬、反応が遅れた。
「鬼を屠る太刀よ、わが命を糧に、その力を解き放て!!」
竜胆が、渾身の力で刀を振り下ろした。
☆
全身の感覚が無い。
指一本動かせない。
意識が遠のいていく。
心の臓まで凍てついているはずなのに、冷たさよりも眠気が勝る。
すとん、と眠りに落ちかけた意識を。
ガツンと乱暴に殴られた。
(乱!)
宵乱の意識が、一気に浮上する。
(そうだ。こんなところで死んでたまるか!)
宵乱の中に、燃え上がる劫火。
(オレは、紅月を。)
印も結べない。真言も声には出せない。けれど、炎が必要だ。この氷の棺を燃やし尽くす業火が。
(おまえの力、貸せよ、紅月!)
心の中で思い描く。紅月の生み出す、究極の獄炎を。華麗にして無慈悲。全てを無に帰す。
(ノウマク・サラバ・タタギャテイ・ビヤサルバ・モッケイ・ビヤサルバ・タタラセ・センダ・マカロシャナ…)
呼ぶのは、不動明王の憤怒の炎。いつもの一字呪ではなく、一帯を焦土と化す威力を持つ炎界呪。禁呪の領域ある荒業で、使って無事に済む保証はない。けれど宵乱は、迷わなかった。
(…ケン・ギャキ・ギャキ・サルバビキナン・ウン・タラタ・カン・マン!)
炎が爆ぜた。
高温の、蒼白い炎が、爆風をともなって荒れ狂う。
バキバキバキバキ!!
轟音とともに崩れ落ちる氷壁。金剛石並に堅固なはずの氷が、脆く砕け散った。
「っ…。」
宵乱は、大きく息を吸う。そのとたん、ゲホゲホとむせて、しばらくゼーハーと、荒い呼吸を繰り返す。
本来は、聖安京全体を丸ごと焼き払う威力の術だが、天一の氷壁もまた、最強の十二神将の、最大の技。威力のほとんどが相殺されていた。
「…信じられない。」
天一が、呆然と呟いた。座り込んだまま、化け物でも見るような目で、宵乱を見上げ…ぎこちなくだが、ゆっくりと笑った。
「ああ、でも…完全には棺から抜け出せないみたいですね…。」
それは、静明とともに千の戦場を駆け、百の修羅場をくぐってきた、十二神将の意地か。たった十三の宵乱が、今の時点では、どうあがいても天一に届かないもの。踏んだ場数。
宵乱の左足は、足首より下が、いまだ地面に縫いとめられている。天一の作った氷の棺の、最後のひとかけらによって。不動明王の炎を耐えきった、怨念じみた天一の氷の鎖。
「チッ!」
宵乱は、氷を拳で殴りつける。火界呪を放った直後では、術は発動できないのだろう。しかし、素手でどうにかなる氷ではない。拳はすぐさま傷だらけになり、鮮血が飛び散る。
「もう、あきらめたらどうです?」
天一の口調は、呆れ果てていた。
「どうせ、もう間に合いません。」
「どういう意味だ?」
宵乱が、妙に静かに訊いて来る。頬に飛んだ鮮血が、ゆっくりと流れ落ちる。
「鬼の王とは言え、静明様の鬼殺しの呪のかかった太刀には勝てません。あれは、使い手の命を吸うことで、強大な力を発揮する。だから静明様は封印していたんです。」
天一は言外に、竜胆に加担していることを語る。けれど、宵乱にとっては、どうでもいいことだった。心に引っかかったのは。
「紅月の側近の鬼はオレが。」
「鬼の王の腹心は、ボクが回復させました。」
その瞬間。
宵乱の目の色が変わった。
投げ出されていた、天一の槍を拾う。
そして自分の足首目がけて、一切の躊躇なく、その切っ先を。
「ノウマク・サンマンダボダナン・アビラウンケン」
涼やかな声で詠唱された光明真言とともに奔った光の刃が、天一の槍の柄を、すっぱりと切り落とす。
槍の切っ先は、ストッと地面に突き刺さった。
「…おまえは、本当に、無茶しかしない。」
苦く重いため息をつきながら、歩み寄って来るのは。
「夕蓮…。」
氷に囚われたまま、宵乱は兄を見上げた。
夕蓮は、表面上はいつもと変わらない。思慮深く冷静な、安倍の宗主であり、陰陽寮を統べる者。
しかし、その奥には荒れ狂う感情の嵐があり、必死で抑え込んでいるようだった。
「どうしてそこまで鬼の王にこだわる?恋よりたちが悪い執着だ。」
そこで、抑えきれなくなったように、夕蓮は言った。
「私には理解できんな。」
「オレの勝手だろ!」
反射的にカッとなって言い返した宵乱の頬を、夕蓮の大きな手が包んだ。
「!?」
「そうだな。きっと、おまえはそれでいい。おまえは、私とはちがうから。」
微笑む夕蓮の瞳の奥に、慈愛の光が瞬いた。
「オン・アミリテイ・ウン・ハッタ。」
軍荼利明王の甘露呪。夕蓮の手が、柔らかい光に包まれる。きらきらと輝きながら、宵乱の中に流れ込むのは、癒しの力だ。宵乱の霊力を回復させる。
同時に、すうっと清涼な気に包まれて、体が一気に軽くなった。
「夕蓮。」
「行けばいい。おまえは自由だ。」
必死でこらえて、それでもあふれる感情に、その声が揺れる。頬に触れたままの兄の手も、かすかに震えていた。
二人とも、わかっている。これが今生の別れだ。
宵乱が頷いた。
「カン!」
一声で、氷の足枷が砕け散った。
頬から離れていく兄の手を、宵乱は一瞬だけつかむ。
ずっと好き勝手にやってきた。迷惑しかかけてこなかったのに、いつ見捨てられたって文句など言えなかったのに。最後まで、守ってくれた。正しい道を選ばないと知っていて、それでも愛してくれた。
「ありがとう。」
少しだけ逡巡した後に、宵乱は長いこと口にしていなかった言葉で呼んだ。
「兄上。」
すぐに駆けだしていった宵乱は、夕蓮の瞳に光った雫に、気づくことはなかった。
「…行ってしまいましたね。」
黙って見ていた天一が言った。
「当代様。ボクを殺しますか?」
「なぜです?貴方は約定の番人として、当然のことをしただけだ。甘いのは私でしょう。」
小さな子を相手にするように、夕蓮は膝をつき、天一に視線を合わせた。
「天一殿。わたしは、この京を守護する自分の役割に誇りをもっています。けれど、宵乱に、この京は窮屈でしょう。」
忘れない。
幼い頃から驚くほどの才能を見せ、周囲の期待を集め、けれど素行の悪さで全て台無しにしてきた、困った弟。
自分はもちろん、おそらく静明を超える陰陽師になれるはずの未来を、惜しげもなく捨てていく。
いつも手を焼かされて、理解もできなくて。けれど、振り回されても、嫌いにはなれなかった。
離れても、この気持ちは変わらない。
(私は、ずっと、おまえを。)
(寂しくはないのですか。)
天一は、心の中だけで問いかける。主のいない世界で百年を過ごした式神は。
けれど、きっと、夕蓮はたくましく生きていくのだろうと、天一は思う。
(それが、人の強さですか、静明様。)
返る言葉はないけれど、これからも静明の子孫を見守ろうと、天一は思う。できれば、支えていけるといいと、ふと思った。
☆
「鬼を屠る太刀よ、わが命を糧に、その力を解き放て!!」
竜胆が絶叫した。
鬼殺しの太刀から、無数の触手が伸びる。
「煉獄華炎!」
紅月の放つ炎の花びらが降り注ぎ、触手を焼くが、触手は次々と生まれる。
「劫火満月!」
紅月をぐるりと取り囲む、炎の壁が築かれる。
真円を描く炎の結界。
いかなるものも、焔に遮られてその内側には侵入できないはずだった。
しかし。
竜胆が、がくりと膝を折り、玉の汗に黒髪を濡らしながらも、叫ぶ。
「この命、尽きようと構わぬ、鬼殺しの太刀よ、その力を存分に振るえ!!」
触手の数が、一気に増した。
幾本もの触手が炎の中に焼け落ち、そのたびに新たな触手が、炎の壁に激突する。
燃え盛る朱金が、漆黒に覆い尽くされる寸前。
「さようなら、我が君。」
竜胆が顔を歪めた。それは、刀に命を吸われているせいか、それとも。
ついに、触手の一本が、炎の壁を突き抜けて紅月に眼前に迫る。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」
五芒星が、眩い閃光を放つ。漆黒の触手を阻む盾となる。
「こんなやつに追い詰められてんじゃねーよ、紅月!」
疾風のように現れた宵乱が、背で庇うように紅月の前に立つ。肩ごしに振り向いて、傲然と笑う。
「乱!?」
珍しく、素で驚き、真紅の目を丸くした鬼の王に
「おまえを殺すのは、このオレだっ!!」
宵乱は高らかに吠える。
「…おまえなぁ…。」
紅月は、笑ってしまう。そんな状況ではないのだが、もう笑うしかない心境だ。
「…十二神将の長は、しくじりましたか。」
冷ややかに凍りついた声で、竜胆が呟いた。
「おまえが、全ての元凶。」
憎悪や憤怒を通りこして、絶望と虚無に染まった目で、竜胆は宵乱を見る。
「おまえさえいなければ、我が君はっ!」
鬼殺しの太刀を握る両手に、ぐっと力を込める。みしりと、骨が軋む音がした。
「死ね!」
竜胆が渾身の力を込めて刃を一閃した。
どす黒い触手が、五芒星を直撃する。
闇が光を侵食するように。
ピキッと儚い音をたてて、五芒星に亀裂が入る。
「乱、よけろ。」
自分の前から動こうとしない宵乱に、紅月が焦った声で言うが。
「なめんな。」
宵乱の目がぎらりと不遜に光る。
刀印を結び、再度、五芒星を描く。
「東方降三世夜叉明王、南方軍荼利夜叉明王、西方大威徳夜叉明王、北方金剛夜叉明王、中央二大日大聖不動明王!」
五大明王の名号とともに描かれた五芒星は、先程のそれよりもはるかに強い光を放ち、漆黒の触手を駆逐していく。
しかし、霊力の消耗も激しく、宵乱は肩で大きく息をする。左手で強く胸を押さえた。それでも、唇を引き結んで顔を上げ、五芒星を維持する。
「乱、もういい。」
紅月が、その小さな背中に向かって言う。宵乱が眉をつり上げた。肩ごしに振り向く。
「ふざけんな、オレは、まだ。」
「…もう十分なんだよ。」
ささやく声音は、ひどく哀しそうだった。
「どういう意味だ?」
と、宵乱は眉をひそめて紅月を凝視し、気づいた。
「そうか。」
と頷く。
この一年、ずっと紅月に挑み続けてきた宵乱は、その凄まじいまでの強さを肌で知っている。
宵乱が作った時間は、ごくわずかなものだが、紅月は、数秒、力を溜める時間があれば。
「白焔風斬!!」
空間を歪ませるほどの高温。青白く火花を散らす炎は、突風を生む。風は炎を煽り、炎はさらなる風を生んで突き進む。
炎は鬼殺しの太刀を直撃し、瞬時にそれは灰燼に帰した。
ドサリと重い音がした。
乱れた黒髪が、蒼白になった顔にかかっている。
「我が君…。」
焼け爛れた手を伸ばし、地面に伏した竜胆が呼ぶ。
紅月は、腹心の傍に膝をついた。
「おい。」
と宵乱が声を上げるのを、紅月は視線だけで制する。宵乱はふてくされた顔をするが、黙って隣に立つ。警戒は解かないまま。
「…なぜですか、我が君。貴方はこれほどの力を持っているのに…誰よりも鬼の王にふさわしい方なのに…なぜ、人の子一人のために、王の責務を蔑ろになさるのですか。」
それは、怨嗟でも糾弾でもなく。親とはぐれた幼子が途方に暮れているような悲嘆。聞いている者の胸を抉る、静かな慟哭。
紅月は唇をかみしめる。ひたすらに自分を慕ってくれた竜胆に、かける言葉が見つからなかった。
「責務とか役目とか、どうでもいいんだよ!」
宵乱が、主従に落ちた沈黙を引き裂いた。
「そんなもんに縛られてんのがバカなんだよ。」
どこまでも傲慢に、堂々と言ってのける。
「紅月!!」
と、射抜くように、その真紅の双眸を見据える。
紅月が膝をついているから、視線の高さがいつもと逆で、いつもよりも近い。
宵乱の視線が、紅月の心を突き刺す。痛みを覚えるほどの、鋭利な光で、まっすぐに貫かれる。
「オレは、おまえと戦って、戦って、最後におまえを殺す。オレは、それ以外は何もいらない!!」
宵乱の手が、紅月の胸に伸びる。
紅月は、よけることも振り払うことも忘れて、宵乱の瞳を見返している。魅入られたように。
宵乱が、紅月の胸倉をつかんで、ぐいっと強引に引き寄せた。
細い腕の、どこにそんな力があるのかと疑うほどの、容赦のない力で。
「おまえもそれでいいって言え。おまえも、オレ以外は何もいらないだろ!!」
息のかかる距離で。
かみつくような勢いで。
理屈どころか意味さえ不明なせりふを、どうしてそんなにきっぱりと言い切れるのか。
(こういうところか。)と、紅月は雷に打たれたような衝撃と共に納得した。
道を踏み外すほどに惹かれたのは。
「…愚かな。そんなことで、鬼と人の双方を危うくするなど。」
倒れたまま、竜胆が吐き捨てる。
うるせえ、と怒鳴りかけた宵乱を、紅月は
「乱。」
と呼んで止める。
竜胆を抱き起こし、結界に背をあずける形で座らせて、紅月は腹心に向き合った。壊れ物を扱うような優しい手つきに、宵乱は面白くない顔をしたが、口には出さなかった。
「おまえの言う通り、オレはもう、鬼の王じゃねえ。」
間違っているとわかっているのだ。それでも、もう正しい道を選べない自分は、王たる資格がない。
「我が君。」
と言いかけた竜胆を遮って。
「勝手なことを言うが、約定の守護者を継いでくれ。おまえが次の鬼の王だ。」
紅月は、返事を待たずに立ち上がる。
哀しいほど綺麗に微笑んだ。
「竜胆、今まで世話になった。」
竜胆は瞠目した。
歩き出した紅月を、
「おい、待ちやがれ!」
と、宵乱が追う。
竜胆が、結界に手をつき、立ち上がった。
数百年仕えた主を、最後まで見送ることなく背を向ける。
泣いて縋っても、彼が留まることはないのなら、無様な姿を晒しはしない。
(私は、貴方を超えます。だから、堕ちた貴方などに、未練はありません。)
それは竜胆の意地だ。
振り向きたくなる気持ちを押さえつけ、竜胆は歩き出す。
終幕
「紅月、何考えてる?」
隣を歩く紅月を見上げ、宵乱が問う。
夜の聖安京。一条戻橋。
人気はない。貴賤を問わず、夜に出歩く都人は少ない。闇に生きる者たちを恐れて。
それでも、人通りは皆無ではない。先ほども、やむを得ない事情を抱えているのだろう都人とすれ違った。幸い、恐ろしいモノを見ないようにしてか、俯き、自分の足元だけを見て、急いで去って行ったので、紅月の銀糸の髪にも真紅の瞳にも気づかれることはなかった。こめかみから伸びる角にも。
「これから、どうすっかなと。」
紅月は宵乱を見下ろして答える。
「オレは、人の世では生きられねえ。おまえに、鬼の里での居場所はねえ。」
そして、今まで通り宵乱が人の世で、紅月が鬼の里で生きることも、もうできない。
人と鬼が関われば、多くの血が流れ、どちらかの種が滅ぶまで戦いは終わらない。そして生き残った方にも甚大な被害が出る。おそらく、共に滅ぶだろう。
だから百年前、安倍静明は鬼の王と約定を結んだ。双方の種が生き続けるために、互いの関係を断つことを決めた。
その約定を、静明の子孫と鬼の一族は、これからも守り続けていく。
紅月は足を止めた。宵乱もそれに倣う。紅月が刻み込むように言った。
「オレ達はここじゃ生きていけねえ。」
関係を断てないのだから。
(本当は、もう二度と会わないつもりだったんだがな。)
けれど、宵乱は紅月の意志など尊重しない。そして紅月は、そんな宵乱を突き放すことがもうできない。
「じゃあ、どっか行こうぜ。」
あっけらかんと、笑みさえ浮かべて宵乱が答えた。
「オレは、おまえをいつか殺せる場所なら、どこでもいい。」
月光が照らす白い顔は、晴れやかだった。生まれ育った場所にある全てを投げ捨て、顧みない。非情と呼ぶ方がふさわしい潔さで、宵乱は言い切った。
「ああ、そうだな。」
紅月も笑う。
冬の最後の名残を宿した、冷たい突風が吹いた。
ざっと、桜吹雪が舞い踊る。
視界を白く染めるほどの、花の牢獄。
ため息を誘う美しさが、狂気を招いたのだろうか。それとも、出会った最初から、もう既に。
熱に浮かされるように、紅月は唇に浮かぶ笑みを深めた。
「おまえになら、いつか殺されてやってもいい。」
終
ここまで読んでくださった方がもしいらしたら、とてもうれしいです。ありがとうございます。
宵乱と紅月について、筆力不足で伝わっていないであろう点を、この場を借りてちょっと説明させてください。
宵乱。この子は、とにかく自分勝手でわがままな、その分自分の気持ちに正直な子。ただし、紅月への自分の思いを完全に理解していないのではないかな。考える前に突っ走っています。
紅月。この時点では最強なんですが、あんまりそう見えない。宵乱を面白がっているうちに、深みにはまってどうしようもなくなってしまった鬼の王さま。