プロローグ
怒りがあった。憎悪があった。
歪められた正義。貶められた我らが王室。
正さねばならぬと憤り――そしてこれが、我らの望んだ結果だったのか。
屍山血河。まさにその通りの光景がそこにはあった。
撫で斬りにされた共和国の市民。首を失い野晒しにされた肉塊の、耐え難い“生臭さ”が鼻をつく。
嗚呼、なるほど。これが酸鼻を極めるということか――
「……中佐」
伍長勤務の肩章を付けた上等兵が、己の上官に呼び掛けた。
十九歳という年齢は、ハイラル王国の兵としては決して若い年齢ではなかったし、実際に彼の戦歴は、古参兵の中でも上位である。
だがそんな彼をしてこの死体の山は耐え難いのか、顔を青褪めさせていた。
「中佐、中佐殿。……ここまでする必要が、あったのでしょうか」
「勿論あったとも」
背中を向けたまま『中佐』は答えた。この凄まじい悪臭の中で、声色に一切の揺らぎが無いのは如何なる技か。
まだ二十台半ばであろう。階級に似合わぬ若さであったが、しかし――その悠然たる態度は、およそ常人とはかけ離れていた。
「戦略目標を達成するために。こうして野晒しにされた死体は当分この都市を汚染する。それに共和国の民衆に対して、恐怖を植えつけることが出来る」
「しかしこれは、建国王ハロルドの理想に適うものですか。我らが軍神ハイラルに、捧げることのできる戦ですか」
「敵対国に心理的恐怖を与えることは、王国の国家戦略に則っているのだけれど。……とりあえず、この程度は共和国軍が我らの国でやったことと大して変わらないよ」
「リカントの戦の流儀と、我らハイラルの戦の流儀は、そもそも違って当然です。王国臣民が虐殺されたからといって、やり返して良い道理は無い」
「勿論、その通りだ。しかしね」
中佐は振り返る。足元の死体を踏みつけにして、上等兵を見る。
随分と立派になったなあ、と、中佐は感慨を覚えた。士魂と剛運、抜群の戦闘勘だけが武器の猪武者が、今では士官たちと論を戦わせられるほどに育ったのだから……。
「相手の流儀に合わせて叩き潰すのもまた、戦略だよ。共和国と王国では政体が違う。つまり講和のため必要な要素が違う。そのことはこれまでの推移で判明している」
「民主主義、ですか」
「その通り。しかも制限選挙制を実施している共和国では、一級市民に犠牲が出ない限り、戦争を終わらせようとは思わない……二級市民以下の兵隊を、いくら殺しても無駄ということだ」
「……卑劣な連中です」
「そうだね、卑劣だ。前から思想的に相容れないとは思っていたが……まさかこれほどとは、我々も思わなかったな……」
酷い戦だった。本当に酷い戦だった。
戦の神ハイラルを主祭神とするハイラル王国は、何より武勇を重んじる。戦の勝敗は戦場で決すべし。最近の言葉で言うなら、正面決戦主義が基本戦略である。
対するリカント共和国の主祭神は、知恵と議論の神リカント。故に共和国の民は討論と思索を好み、その機会を失わせる暴力的な闘争を嫌う。……そのことは前々から知られていたが。
「二級市民や植民地民は女子供まで動員しておきながら、まさか亀のように引っ込んで殆ど前線に出ないとは。『主力を温存して講和に臨む』とは、よく言ったものだよ」
「強兵は弱兵の背中を撃つだけ……。馬鹿げた国ですよ。強者が弱者を守らない国に未来など無い」
「リカントの教義では、弁舌で相手を言いくるめる人間が一番偉いことになるからね。……連邦制だった頃はまだまともだったはずなのだけれど、リカントなんかを主神に選んだばかりにこの様とは……」
この世界において、国家の国民性や政治体制は、その国が主神とする神の性格と権能によってほぼ決定される。
かつて共和国は、大陸東方を勢力圏とする諸国家の連邦であった。それが周辺国の圧力に対抗するために、一体となって生まれたのがリカント共和国である。
寄せ集めであった初期の共和国を、無血で統一するために主神として選ばれたのがリカント神であった。その目論見は成功し、内政の充実と思想、科学技術の発展によって、共和国は世界をリードするに至る。
そして海外に進出し、帝国化し――ここで共和国は暴走を始めるのだ。
「……見たまえ、この足輪を。肉体労働用に使役されていた植民地奴隷だろうね。……まだ子供だろうにこんなに痩せて」
街路に横たわる首の無い死体を指して、中佐は言った。
小柄な体格。まだ十歳かそこらではないだろうか。十分な食料を与えられていなかったのか骨は浮き、手足は細かな傷で覆われていた。
これが、リカント共和国の歪みであった。知恵と議論を重んじる共和国人は――その価値観に基づき、“話の通じない相手”を蔑視することで、絶対的な差別社会を作り上げたのである。
「せめてリカントの教義に『知識を共有する』という一文があれば、違っただろう……。『議論を通じて知恵を共有する』という教義だったばかりに、彼らはついに、理解し合うことを放棄してしまったんだ」
「…………」
「『彼らを救おう』なんて、我らは言える立場じゃない。王室に従わない者達がどうなろうが、はっきり言ってどうでもいい……。だがね」
中佐は真っ直ぐに、若者を見つめた。
怒りがある。それは共有される怒りだ。全く共通する痛みだ。この東部第一軍団――否、“グルネスト公国軍”の全将兵が、等しく抱く感情だ。
即ち、共和国に対する徹底した殺意――
「『議論においては議場に立たせず』『戦争においては戦場で使い潰す』……こういうダブルスタンダードを平気でやるのが共和国だ。それが分かった以上、もはや遠慮してやる必要は無い」
「リカント式の戦略で、潰す……」
「そうだとも。奴らの戦略方針は既に分析済みだ。“完璧にやり返せる”」
誓いを捨てても、誇りを捨てても、勝たねばならぬ戦場がある。
もはや戦士の道義は失なわれた。『戦う力を持たぬものは殺すな』というハイラルの基本的な教義さえ、守ってはいられない。
だが、『あらゆる攻撃に対しては、必ず効果的な方法で反撃しろ』というのもまた、ハイラルの教えなのである。
「じゃあ行こうか、クライド。君はきっと銀剣を得るだろう。だからこそ知っておかなくてはならない。士魂無き世界の現実を。三道無き世界の戦場を。そして我ら王国が戦わなくてはならない相手が何なのかを――」
エクト帝国暦1727年。ハイラル王国暦997年。四月。
王国陸軍第三軍司令陸軍大将、グルネスト公ネストラ・リーデルバッハ公爵は、東部第一軍団前線司令部においてハイラル王国の王権の停止を確認。
憲法の規定に従い、軍団を掌握した上で『グルネスト公国』の独立を宣言。リカント共和国へ宣戦を布告。
以後終戦までの八ヶ月、全ての軍事行動を己の名で実行した。