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その1

 峠道に出没した魔物を退治した翌日である。眠い目を擦りながら早朝現場に到着した俺に、親方が休みを言い渡したのは、まあ少し考えてみれば当然のことではあった。

 前日に連絡をくれていれば今頃寝ていられたのに……などと文句の一つも言いたかったが、流石に出勤後に二度寝するのも勿体無く、かといって流石に午前から酒を飲むのもどうかと思ったので、俺はちょいと山に登ることにしたのだ。

 目指すのは湖を見下ろす高台だ。一月ほど前にこの村を訪れた時、酒場のマスターから聞いて一度行ったきりだったが、成程たしかに絶景で、機会があればまた行きたいと思っていた場所だった。

 さくりさくりと僅かに伸びてきている雑草を踏みしめて、高台へ続く小道を歩く。吹き抜ける風が木々を揺らして、俺は僅かに身震いした。

 なにしろ季節はまだ四月で、この辺りは高地にあるせいか気温が低い。俺は北方出身で寒さには強い方だったが、それでも空っ風は身に沁みた。

 やれやれこいつはしくじったかと、少しばかりの後悔を振り払いつつ、俺はそれでも山の上へと足を進めた。


 ――だからそれは、空っ風に立ち向かった俺への、神様からのご褒美だったのかもしれない。


 二度目の震えは、春先の冷たい風によってのものではなく。不意に風と共に聞こえてきた妙なる弦の調べに、俺は思わず呆然と、あるいは陶然と足を止めた。

 この音色はバイオリンか。はたしてこんな山の中で、このような楽を聞くことになるとは思いもよらぬことで、はて如何なる酔狂な御仁がこの先に待ち構えているのやら――好奇心に急かされた俺は、足早に、しかし音を立てぬよう小道を進んだ。

 目的地まではすぐそこだった。木々の間を抜けると視界が開ける。以前訪れた時と同じ午前の太陽と、眼下の湖の反射で目が眩む。訪れたのは二度目だが、常であればそう、その二つが俺の目を眩ませた筈だ。


 今日は二つではない、三つである。


 輝かんばかりの純白のドレスが、春の日差しを受けて俺の目を眩ませる。

 白、白、白――白いのは服装ばかりではない。腰まである長髪も、後姿に僅かに覗く白魚のような手も――『処女雪の如き』という形容詞で飾られるべきだろう。

 その中にただ一点、艶やかに輝くバイオリンの茶色が彼女の処女性を穢しているような気がして、俺は嫉妬を禁じえなかった。

 だがそれも、所詮間男の妬みである。彼女と“彼”が奏でられる音色の美しさといったら! およそ俺が生きてきた中でこれほどに美しい音色は聞いたことが無く、思わず俺は溜息を吐いた。ああ、何故俺はもっと早くに彼女に出会えなかったのだろうか、と。

 束の間、ふと、白い楽師は手を止める。

 俺が漏らした息に気付いたのか、はたまた気配を悟っていたか――そんなことはどうでも良かった。何故なら白い髪を風になびかせて、彼女が俺の方を振り向いたのだから。

 ――目と目が合う、その瞬間の衝撃を、俺は表現する術を持たない。

 だがあえて、この我が拙い語彙によって表すならば。そう、こんな表現はどうだろうか。


 我が目を眩ませる輝きは三つではない。四つであった――――











「……キモい」

「うん。俺も自分でそう思った」


 熱弁をふるい終えた青年に、酒場のマスターは冷淡な言葉を掛けた。対する黒髪の青年もまた、眉間に皺を寄せて同意する。

 青年の名はクライドという。一月ほど前に仕事を求めてこの村を訪れ、今や酒場の常連であった。

 一ヶ月前に村を訪れたばかりの新参が常連というのも変な話に思えるが、さもありなん、先年の戦で戦災に見舞われたこの村にあっては、今や元の村人より復興特需目当てで集まった労働者の方が多い有様で、そんな中でも屈指の飲兵衛であるクライドは、早くも酒場ではちょっとした『顔』なのであった。

 なにしろ毎日のように安酒を飲みに来る。果ては看板娘の尻や胸を触ろうとして殴られるのが彼の日課で、こんな飲兵衛あるいは助兵衛はたしかに目立つ。酒場に集まる酒飲みたちの間では、クライドが今日は頬に紅葉を咲かせるか、両頬に二枚咲かせるか、いやいやトレイで殴られるから頬は無事なんじゃないかと賭けの対象になる始末。三軒隣の雑貨屋の店主なぞ、この一週間で銀貨一枚を八枚に増やしたとか。

 しかしながら今日は賭けは始まる前に不成立に終わっており、雑貨屋の店主の連勝記録はどうやらまだ伸びそうもない様子だった。というのも、


「で、その直後に口説こうとして引っ叩かれたってか。酒場に来る前から咲かせやがってまあ……」


 そう。酒場に入ったクライドが、おいおいどうしたと飲んだくれの諸君に声を掛けられたのは、その頬に早くも真っ赤な紅葉を咲かせていたからであり、それに対して『女神にやられたんだ』と真顔で答えたクライドの様子に、とうとうアルコールが脳に回ったかと戦慄した酔っ払い諸君が日も高い内から一波乱起こしたのは記憶に新しく、いやはや酒場のマスターとしては実に迷惑な心地である。

 そんなマスターの皮肉を知ってか知らずか、クライドはしれっと反論した。


「いいや、俺も流石に素面で初対面の女性を口説くほど節操無しじゃない」

「おいおいどの口がそんなこと言うんだ」


 マスターは呆れたが、クライドは臆する様子も無く自己弁護を続ける。ちょいちょい、と自らの顔を指差して、


「どの口が、とは失礼だな。マスターは俺が素面で、ジェーンちゃんの尻を触ろうとした所を見たことがあるか?」

「酔ってりゃ許されるとでも思ってんのか。出禁にすんぞ」

「だがアレはいい尻だ。違うか?」

「……いや、それは認めるが」

「マスター! 聞こえてますよ!」


 厨房から看板娘の怒号が飛んできて、マスターとクライドは揃って首を竦めた。

 酔いが回ってきたのか、軽く首を振ってクライドは続ける。


「……まあ尻の話はどうでもいいんだ」

「ああ、まったくだ。なんでおまえはいつも、すぐに尻の話をしたがるんだ」

「今重要なのはおっぱいの話だ」

「待て」


 マスターは酔っ払いを制止した。


「ちょっと待て、ちょっと待て。なんで尻から乳の話になった」

「尻から乳の話になることの何がおかしいんだ」

「いや……いや? ん?」

「女の尻の話題から女の乳の話題になることの何がおかしいんだ」


 ぐいっと麦酒をあおって、クライドは続けた。


「尻は丸くて柔らかいだろう。乳も丸くて柔らかいだろう。どこもおかしくは……いやおかしいな」

「おかしいよなあ!?」

「んー……? いやたしかにおかしい。俺はおっぱいの話を……いやその前に尻の話をしていたはずだ」

「おいジェーン水持って来い! この酔っ払い話がループしてやがる!」


 酔っても顔に出ないタイプはこれだから性質が悪い。とりあえずジョッキで冷水を飲ませると、人心地ついたのかクライドは少し落ち着いた口調で話を再開した。


「ええと、そうだ。女神と会ったんだよ」

「やっと話題がそこに戻ったか。手間かけさせんな」

「その女神が、おっぱいなんだ」

「………………ああ、そこに繋がるのか」


 いい乳してたんだな。ああ。そんなやり取りでようやく少し通じ合った男二人である。


「まあとにかく、そのおっぱいの目も眩まんばかりの美しさに、俺は思わず感動した」

「ああ、おっぱいじゃなくて、顔だな?」

「そして思わず駆け寄ると、おっぱいの手を握ってこう言った――『結婚してください!』」

「おいちょっと待て」

「そしておっぱいは返した。『またまたご冗談を』」

「待て、待て」


 肩を掴んで制止すると、胡乱な目でクライドはマスターを見やる。


「なんだマスター」

「とにかく突っ込みたいことは山ほどあるが、おまえさっき口説いてないって言ってなかったか」

「ああ。俺は素面で初対面の女を口説くほど軽薄な男じゃない――最初から本気で求婚した」


 マスターの頭が痛くなったのは、おそらくアルコールのせいではないだろう。


「なんだその、おまえの中では、『口説く』と『プロポーズ』は別なのか」

「別に決まってる」

「……毎日うちのジェーンの尻を追っかけてるのは?」

「何故尻の話になった。今はおっぱいの話だぞ」

「おいジェーン酒持って来い! もうこいつ潰した方が早い!」

「今重要なのはおっぱいなんだよ!」


 クライドは逆切れして声を張り上げた。


「そう、おっぱいだ。俺の本気のプロポーズは即答で断られたが、なにしろマイグラスハートは素面で女の子に振られたらあっさりブレイクする仕様だ。もちろん食い下がったさ……『じゃあ交換日記から始めましょう!』ってな」

「えっ。……えぇっ!?」

「おっぱいは答えた。『旅の身空で交換日記は、いささかハードルが高いかと』だったら文通をと、なおも俺は食い下がったが、しかしおっぱいのガードは固かった。『だから流浪の身ですので』と言われては仕方ない」


 突っ込みが追いつかないマスターを尻目に、興が乗ってきたのかクライドは立ち上がった。

 聞き耳を立てていた他の酔っ払い共も、おお、となんだかよく分からない歓声を上げる。


「だがな、だが! 俺は諦めなかった! 出会った瞬間に結婚を決意するほどの女子なんざ、人生でそうそう会えるもんじゃない! せめて一揉み。そう決意した俺の行動は早かった!」


 『なにー!?』『揉んだ!?』『揉んだのか!?』などと外野が盛り上がる。酒場のテンションは日没を迎えずして、何故か最高潮である。


「俺は頭を切り替えた。『成程旅の身空では、今夜の宿にもお困りでしょう。私はすぐそこの村に滞在しておりますが、知っている宿をご紹介いたします』そう言って山道をエスコートする腹積もりだ。なにしろおっぱいは白いドレス姿で、山歩きに向いた格好とも思えなかった。転びかけた所を支える拍子にパイタッチ。俺はそう算段を立てた!」


 『知将だー!』『……知将か?』『そうでもなくね?』外野がはやし立てる。調子に乗ったクライドは身振り手振りに声色まで交えて当時の状況を説明する。


「『これはご親切痛み入ります。実は今朝方峠を越えてきたばかりで、本来であれば行き過ぎる所、この絶景に思わず足を止めてしまった次第。予定を変更して宿を取ろうかと思っておりました』

 『ではご案内いたしましょう。既にご承知かとは思いますが、ふもとへ降りる道は足場も悪く、その装いでは一苦労でしょう。お手をお借りいたします』

 そう言って俺はプロポーズからずっと握っていた手を改めて取りなおした。初対面の女の子の手を握りっぱなしという非礼を、こうして上手く誤魔化したわけだ」


 『紳士だー!』『まあ、紳士か?』『頭の中はパイタッチだぞ?』外野でジェントルマンの定義についての論争が始まりそうになっていたが、委細介さずクライドは続ける。


「ここで俺は勝利を確信した。いや、今思えば違和感はあったんだが、この時はうっかり見逃していたんだ……『今朝方峠を越えてきて、ふと足を止めた』って言葉の意味を……」


 『ここで次週だー!』『次週か……』『いや、その引きは要らない』既に外野は外野で勝手に盛り上がっていた。なにしろお互い酔っ払いである。

 見かねてマスターがクライドに合いの手を入れる。この辺りの気配りが繁盛の秘訣である。


「……で、その心は?」

「マスターも知ってのとおり、昨日まで峠道には狼が出てて、乗合馬車の運行が止まってた。この村と、峠向こうの街で有志を募って討伐したが、この連絡が向こうの街に着いたのは多分今朝方になる。馬車に乗って来たにしては計算が合わない」

「ああそうか、日没近くまでかかったんだったか」


 クライドは頬に手を当てた。右目の下の古傷を撫で、思い起こすように言う。


「俺たちは昨晩強行軍で帰還したが、あっちの街の連中は距離もあり、討伐に出した人も多く、元より数日がかりの仕事だ。野営して日が昇ってから帰る予定だと言っていた……となると乗合馬車の運行再開は昼過ぎになるはず」

「実際昼の時点ではまだ馬車来てなかったな。……ちょっと待て。ってことは、『今朝方越えて来た』ってそのおっぱい美人は……」

「ああ。後で聞いたが、帰還した討伐隊に直接話を聞いて、そのままの足で峠を越えてきたらしい」

「……無理とは言わんが女の足で、しかも予定じゃもっと先に行くつもりだった?」

「ああ……しかもそのおっぱい、どうやら出立時から件のドレスで歩き通してきたそうだ……」

「おいおいなんだそりゃあ……」


 世の中には奇体な女子も居るもんだとマスターは絶句したが、クライドが声を落としたのは落胆からであろうか。


「こうして俺の計画は頓挫したかに思えた。なにしろ峠を易々越える健脚、俺の出る幕はない……普通の男なら諦めて、すべすべの手の感触を楽しむに留めただろう」

「普通……?」


 ――否、これは“溜め”である。


「だが生憎と! 俺は普通の男ではなかった!」

『本当だよ!』


 一同、総突っ込みである。

 狙い通りに衆目を集めて、クライドは得意げに己の体験を語りだす。


「転ばないなら転ばせてしまえばいい――最初俺はそう考えた。相手はドレスでしかもロングスカート。裾を踏めば、済む。……とな」

「いや、『……とな』じゃねえよ」


 『これは紳士じゃないなー』『紳士とはなんだったのか……』『最初から一貫して紳士じゃなかったよな?』外野からもブーイングである。

 しかしクライド、これをサラリとスルーして、


「だがこの計画も頓挫した。何故か。……それは彼女の白いドレスが、あまりにも美しかったからだ。木陰から抜けて太陽に照らされた時! その輝かんばかりの白さに魅了された記憶が! 俺の脳裏に鮮明と記憶されていたからだ!」

「おい、そのポエム長くならないだろうな」

「話の腰を折らないでくれマスター」


 せっかくテンション上げてたのに……とクライドはぼやいたが、しかし外野も『ポエムかー……』『ポエムか……』『ポエムかあ……』というリアクションを取るに至っては、流石に長々と詩情をぶちまける気にはなれない。

 咳払いして仕切りなおす。


「まあとにかく、裾を踏むのはやめておくことにした。土で汚すにはそのドレスは……いや、とにかく計画を変更した俺は、木の枝を服に引っ掛けることにしたわけだ」

「……大して変わってない気がするのは気のせいか?」

「ところがどっこい大違いだ。この計画にはドレスを汚さなくても済むという利点以外にもう一点――上手くやればポロリも狙えるというメリットがあった」


 拳を握り締めるクライドである。

 何が彼をそんなに駆り立てるのかは分からないが、『変態だー!』『変態でいいのか……?』『一周回って男だな……』などと外野も心なしか再び盛り上がり始めている。


「とはいえ素面の俺は基本的にシャイボーイだ。会って数分の女性の乳房を白日の下に晒すのは、いくら他に誰もいないとはいえ心苦しい……そんなことを考えつつ、俺は素早く道の横に飛び出した細い小枝を見つけると、おっぱいの死角から腕を回してドレスの胸元に引っ掛けた」

「内心の葛藤はどこに行ったんだ!」

「体は正直だったんだよ!」


 『たしかに正直だー!』『正直ではあるか』『理性に対しても正直になろうぜ』外野も呆れ半分賞賛半分、興味津々の様子である。

 代表してマスターが質問する。


「それでどうなった?」

「ああ。俺の仕事は寸分違わず、見事にドレスの胸元を引っ掛け……」


 ゴクリ、と誰かが唾を飲んだ。

 先ほどより幾許か長い溜めを置いて――――


「……しかし、彼女はそれにあっさりと気付いて足を止めた」


 ああ……と酒場に吐息が落ちる。

 これだけ引っ張っておいてこれかよー、という落胆の吐息である。さらに言うなら、おまえ煽るだけ煽っておいてポロリも完遂できねえのかよ使えねえなー、という侮蔑の吐息でもある。

 ……この時点で、クライドの行動を批判したいんだか支持したいんだか良く分からなくなっているあたり、所詮皆酔っ払いである。


「おいおいちょいと待ってくれ。もし何事も無かったら、俺のこの頬の紅葉は、一体どうして付いたんだいって話になるだろう?」


 しかし勿論、クライドにとってこの反応は計算のうちである。


「随分と勿体付けるなあ、たかがパイタッチに一体どれだけ引っ張るつもりだ」

「おいおいマスター、どうせ昼間っから飲んだくれてる暇人連中しか居ないじゃないか。他の連中の仕事上がりまで、場を持たせてる俺の苦労も察してくれよ」


 『俺たち暇人だったのかー』『いや、暇人だろう?』『今日休みなのはクライドもだけどな』外野連中、そろそろダレ気味である。

 クライドは咳払いして続ける。


「彼女が足を止めた瞬間、気付かれたと悟った俺の反応は神懸かっていた。なにしろ行軍中敵に待ち伏せを食らった時でさえ、これほど的確に行動できたことはなかったほどだ」


 『待ち伏せかよー!』『よく生き残ったな……』『嫌なこと思い出させるなよ!』外野は戦時中のトラウマを蘇らせていたが、語る本人はケロっとしたものである。


「つまり俺はこう行動したのさ。枝を払うと見せかけて――」


 いい加減飽きてきたマスター、ここで一言差し込んだ。


「なるほど、触ったのか」

「――――胸元に手を突っ込んだ」


 一瞬の間。


「何ぃいいいいいーーーー!!?」

「おいちょっと待て、どうしてそうなった!?」

「それまで紳士的に取り繕ってたのはどこに行ったんだよ!?」

「おいおい落ち着け聴衆諸君、俺の話は終わっちゃいない」

『これが落ち着いていられるか!!』


 声を揃えた外野三人。絶句したのはマスターである。

 詰め寄る酔っ払い共にあわやもう一騒動あるかという空気になるが、看板娘のジェーンが真鍮製のトレイを片手に厨房から出てきて、慌てて全員席に戻った。

 クライドは続ける。


「俺も実際触るだけのつもりだった。しかし谷間の魔力には勝てなかった……」

「すまない、的確な突っ込みが思いつかん」

「生乳だった」

「その情報は必要なのか!?」


 マスターはそう突っ込んだが、しかし外野は生乳ヒャッホウと盛り上がっていた。

 そろそろジェーンがアップを始めていたが、彼らには知る由もないことである。


「流石のクールビューティーもこれには驚いたのか、数秒空気が固まった。勿論俺はその間じっくりとおっぱいの柔らかさを堪能したが、楽しい時間はあっという間に過ぎ去るものだ。

 『あの、これは……』そう言われたから俺は返した。『一目貴女を見た時から、胸を揉みたいと思ってました――夢が叶った』

 ――――平手が飛んだのはその直後だ」


 語り終えてクライドは椅子に座り、ビールのジョッキを傾ける。

 話は終わった。そう言いたげな雰囲気に、慌ててマスターが周囲の疑問を代弁する。


「ちょっと待てそれでお終いか? その後そのおっぱいちゃんはどうなったんだ?」

「土下座した上でちゃんと宿屋まで案内したよ。ついでに此処の酒場を紹介しておいたから、もうそろそろ来るんじゃないかね」

「ちょっと待て、紹介したってどういうことだ」

「旅の楽師だ。酒場で一曲弾くのはおかしくはないだろ?」

「いやいや、うちの酒場でそんな――」


 そうマスターが抗弁しようとした時である。

 カランと入り口のベルが鳴り、酒場中の視線が入り口に集まった。


 ――――女神が居た。


「すみません。ここで少々演奏を……おや」


 腰まである白髪、外套の下から覗くふわりとした白のドレス。こんな田舎の酒場には不釣合いな、高貴さを感じさせる美貌。その両眼は高天の月のように銀色に輝き、およそ冒しがたい神秘さを滲ませていた。

 年の頃は二十に若干届かないくらいだろうか。少女と呼ぶには憚られるが、何処と無く顔立ちに幼さを残している。そんな風に見えた。

 それにしてもこの圧倒的な存在感はなんだ――マスターは鳥肌が立つのを感じた。他の者達もそう感じたのか、身震いしていた。

 ああ、なるほどたしかにこれは女神だ。音楽神ラーナの化身といわれても納得できる――酒場の全員がそう思い、そして一斉にある部分へ目を向ける。

 外套の上からでも分かる、豊かな双丘――――


「……な、なんですか?」


 ビクリと胸を庇う仕草に、慌てて男たちは視線を反らした。なにしろおっぱいおっぱい連呼する阿呆の話を聞いた直後である。不可抗力であるのは間違いない。なにしろジェーンさえ、厨房から顔を覗かせて胸を凝視したくらいである。

 故にこの場で動じなかったのは、ジェーンとそれにもう一人。


「外套の上からだと魅力半減だが、胸を隠す仕草は実に良いものだなあ……」

「おいこらクライド! どうするんだ、来ちまったぞ!」

「あの……そこの男の人に誘われて来たんですが、今夜ここで演奏させていただければと……ご迷惑でしたか?」

「問題ない! なあ皆!」


 おずおずと許可を求める白い楽師に、マスターを差し置いて即座に声を張り上げるのはクライドだ。

 ちょっと待てと静止する間もなく、『勿論だよー!』『よし、手伝おう!』『大歓迎だぜ!』と客たちは大興奮、素早く立ち上がると一斉にテーブルを動かして即席の演奏スペースを作り出す。

 ああくそ、今までのは全部この前振りかと、マスターが頭を抱えるのを尻目に、クライドは上機嫌で彼女に声を掛ける。


「出来ましたよ! いやあ、再び貴女の演奏が聞けるなんて私は幸せですよ!」

「あの、いいんですか? なんだか酒場のご主人、頭を抱えてるように見えるんですが」

「大丈夫です!」


 クライドは胸を叩いてこう言った。


「これは『あんなこと』をしてしまった『お詫び』ですからね。この私が責任を持って説得しましたよ!」


 その一言に、もしかしてこいつ本当は天才なんじゃないかと酒場に戦慄が走ったのは――

 まあ、余談である。











 常は賑々しい喧騒に包まれる村の酒場に、今夜はしめやかなメロディーが流れていた。

 奏でるのは流浪の楽師、白い髪のルーライ。旅路の途中不意に立ち寄った湖の風景に魅せられ、本日この村に立ち寄ることになったという。

 ラワンという名のその湖は、その名を冠するこの村のみならず、下流の人々の喉をも潤す水源で、高台から臨む絶景は、たしかにこの村の人々の自慢であった。

 日頃からお世話になっているそんなラワン湖がとうとうこんな美女を引っ掛けたとあっては、いやもう湖に足を向けて寝られねえなと、演奏が始まる前聴衆たちは口々に言っていたものだが、さて演奏が始まってみれば、これまた彼女の美貌に違わぬ美しい旋律で、毎夜馬鹿騒ぎに興じる常連連中さえ、今夜は静かに聞き入っていた。

 これには心配していたマスターも一安心である……看板娘が給仕もしないで聞き入っているのは困ったものだったが。


「……ありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げるルーライに、どっと歓声が巻き起こる。

 いつも以上の大入り満員、建物を揺らすほどの喝采に、マスターはちらと照明が落ちやしないかと心配したが、盛り上がりに水を差すのも無粋で、目の前に座る常連客に話しかけた。


「凄い奴を連れてきたもんだな、おい?」

「だろう? 心配することはないと言ったじゃないか」


 クライドはマスターの皮肉を知ってか知らずか、こう返した。


「彼女のオーラは普通じゃない。この酒場に集まる連中はたしかにガラがちとよろしくないが……あれを前にして、下手な真似に出るほど不躾じゃないさ」

「さりげなくうちの客を馬鹿にするな、気にしてるんだぞ」

「褒めてるんだよ。マスターこそあいつらを信用してやれ」

「……まあ、な」


 マスターは納得しかけたが、ふとあることに気付いてこう言った。


「なあ、もしかして今気付いたが、そんな彼女の胸の谷間に手を突っ込んだおまえって……」

「おっ、次の曲が始まるぞマスター。静かにしてくれ」


 うちの客で一番躾がなってないんじゃないか、と。

 そんなマスターの言葉は空しく消えた。











 うおおおおおおおおおおお!!!!!!

 本日何度目かの大歓声に、毎度折り目正しく一礼して、ルーライは楽器を下ろした。

 ルーライは旅の楽師である。初対面の人々の前で演奏することは珍しくもなんでもなかったが、しかしこのような田舎の酒場で、これほど熱狂を持って歓迎されるのは初めてのことだった。

 給仕の女の子が落ちているおひねりを回収してくれたのに軽く礼を言って、さて、そろそろ今日は終わりにしましょうか、とルーライは酒場を見回した。

 『ルーライちゃーん!』『一緒に飲もうぜー!』誘いの声は多くあったが、そのつもりもないルーライは、とりあえずマスターに挨拶しなければとカウンターに近づいた。


「本日は、場所を貸していただきありがとうございます」

「いやいやこちらこそ、うちの酒場がこんなに繁盛したのを見るのは久しぶりだったぜ」

「売り上げは連日より落ちてそうだけどなあ。ジェーンちゃん仕事してなかったし」


 まるで独り言のようにそう呟いたのはクライドである。この男、結局昼間からカウンター席を占拠して、とうとうこの時間まで粘っていた。

 そういえばこの人も居ましたねと、ルーライはクライドを認識した。初対面の印象は、どうにも頭の軽そうなお兄さんだと思ったものだが……。


「おいおい水を差すな。お嬢ちゃんが気にしたらどうするんだ」

「気にするべきはむしろジェーンちゃんだろ。まあここは一つ俺に任せろ」


 意気揚々と、クライドは立ち上がった。さて何をするのかと興味深げに眺めるルーライとマスターの手前、彼は手に持ったグラスを掲げて叫ぶ。


「おいてめえら! 今日のルーライさんの演奏会、最大の功労者は俺なんだが、分かってるか!」


 『引っ込めー!』『いきなり何言ってんだテメー!』『帰れー!』

 飛び交うブーイングに、クライドはハハハッ!と豪快に笑う。


「こいつはひでえ言い草だ。しかしなあ諸君! 彼女を此処に連れてきたのは俺。そして太っ腹にも場所を提供してくれたのは皆さんご存知酒場のマスター! どうだいここは一つ、俺とマスターを助けると思って、高い酒を、俺に! 奢るってのは!」


 『なんでテメエに奢らなきゃならねえんだー!』『調子に乗るなよクライドー!』『テメエに奢る酒なんかあるかー!』『引っ込めー!』

 ブーブー。一斉に親指を下に向けて返される。対するクライドは両手を広げ、大仰に肩をすくめてみせた。


「おいおい粋の分かってねえ野郎共だ! よしじゃあこうしよう! 俺のことはいいからマスターの為、高い酒を頼んで各々で飲め!」


 『結局それかよ!』『素直に最初からそう言えよ!』『まずはおまえが率先して頼め!』『そうだそうだー!』『クライドの! ちょっといいとこ見ってみったいー!』

 酒場内に巻き起こるクライドコール。ニヤリと不敵に笑ったクライドはパチンと指を鳴らし、持っていたグラスを突き上げて叫ぶ。


「よし分かった! マスター! この店で一番良い酒を頼む!」

「……本当にいいのか?」

「率先垂範は王国軍の金科玉条である!」


 『うおおおおお!! マジでいったぁー!!』『出た! 率先垂範!』『いよっ! 軍曹殿!』『兵役思い出して吐きそう……』『ただの呑み過ぎだ馬鹿』

 言い切ったクライドに歓声が上がり、我も我も注文が殺到。慌ててジェーンとマスターが奥に引っ込んだ。


「ま、これで売り上げは歴代最高額を更新するんじゃないか」

「……お気遣いありがとうございます」


 軽く頭を下げて、ルーライはクライドを盗み見る。

 どうにも食えない男である。初対面のセクハラから今夜の演奏会を経た今、それがルーライのクライドに対する評価だった。

 無造作に伸びた黒髪に黒い瞳。顔つきは精悍と言って良いだろう。右目の下の傷痕と、これまた傷だらけの逞しい前腕は、如何にも修羅場をくぐってきたような風格をかもし出していたが、笑うと妙に無邪気な笑顔になる。全体的に人好きする雰囲気だった。

 性格は天真爛漫、というかいっそお調子者であり、同時に天性の仕切り屋らしい。演奏会の準備もリハーサルも、聴衆の整理も彼が率先して手伝ってくれた。『お詫びだから』と言ってはいたが、手際の良さを見るに、どうも元々その手の仕事が好きと見える。

 思いもかけず場所代無料で演奏できたのは、間違いなく彼のお陰で――そういえば礼を言っていなかったと、ルーライは居住まいを正して今度は深く頭を下げた。


「改めましてありがとうございました。今日は色々とお世話になりまして」

「いやいやそんな。あくまでお詫びです。それと高台で演奏を聞かせて貰った礼。いや本当に、久しぶりに良い音楽を聞かせていただきました」


 クライドはうち笑う。この笑顔がどうにも憎めず、結局は先のセクハラも許してしまったのだ。

 そう考えると中々油断ならない――そうルーライは思ったが、しかしどうやら、その警戒は少々遅かったようで、


「それよりどうです? 一緒に飲みませんか?」

「いえ、私は……」


 ルーライは辞退しようとしたが、それを遮ってクライドは言う。


「そいつは困った! 貴女と一緒に飲めると思ったから、貴女のために良い酒を注文したというのに!」

「いえ、そんなことを言われても」

「それに、」


 ちら、とクライドは周りの連中に目配せした。


「皆も貴女が居なくなれば、早々に三々五々散っていくでしょう。貴女のような美人の前だからこそ、見栄を張って高い酒も飲もうと思うものです。どうですか、マスターに恩を返すと思って、ここは私の酌を受けては?」


 『うおおおおい!!?』『あの野郎それが狙いかよ!?』『畜生やられた!……でも同意せざるを得ない……!』『おいクライドの奴、今日はやけに攻めるぞ……!』

 そんな声も聞こえてきたが、すぐにクライドに同調する声が大勢を占める。それはそうだ、皆折角の美人さんを帰したくないのである。

 ルーライは顔を引き攣らせた。いや、彼が中々やり手なのは理解していたのだが、こんな絡め手で誘ってくるとは思わなかった。

 ルーライはどうしたものかと考えたが、なにしろ酒場の空気は現状クライドが支配している。ここで固辞するのも流石に辛く、たしかにタダで場所を借りた負い目もある。酒場の売り上げを考えるなら、クライドの言にも一理はあった。


「……分かりました。では少しだけ」

「やった! ではどうぞ隣に……いや、カウンターだと皆に顔が見えないか」


 素早く席を立つと、近くのテーブルの人間と席を交代してもらうクライド。

 慌ててルーライは抗議する。


「あの、あまり飲んでいる姿を見られるのは……」

「ご安心を。要は貴女を引き留められればそれでいい――なんなら酒は私が全部飲みます」

「奢ってくれるんじゃなかったんですか?」

「俺としてはどちらでも」


 しれっと言って、その間に素早くルーライを着席させている。見事な手際だった。


「まあとりあえずお近づきのしるしに一杯。そんなところで如何でしょう?」

「はあ……」


 当たり前のように隣に座られて、ルーライは困ったように首を傾げた。

 呆れたものだと思いつつも、場の雰囲気を掌握しつつ相手を自分のペースに乗せる技術には、芸人として素直に感嘆するしかない。そう考えるルーライは真面目な娘である。

 そんな彼女の内心の感心を露知らず、クライドは戻ってきたマスターに手招きしていた。


「マスター! 俺の酒はこっちに頼む」

「なんだなんだ、おまえ、ちゃっかりしてやがるな」

「これも役得って奴だ! そういうマスターも、しっかりグラスを二つ持ってきてるじゃないか」

「……まあな」


 受け取った酒をグラスに注いで、クライドはルーライに差し出す。

 次いで自分の分を注ぎながら、


「乾杯の音頭は待った方がいいか。グラスを回せマスター。最初の一杯は俺の奢りだ」

「はあ!? 何人居ると思ってるんだ!?」

「金の心配はするな。おいてめえら! 最初の一杯は俺が持ってやるからありがたくいただけよ!」


 『マジかよ!?』『よ、お大尽!』『おいおい、美人の前だからって気前良すぎるぞ!』『懐は大丈夫か!?』『正直女にかけるあの執念は見習いたい』

 巻き起こる大歓声。そんな中ぽつりと、『これくらいやらないと闇討ちされそうだしな……』とクライドが呟くのをルーライは聞いたが、女の情けで聞かなかった振りをした。

 そうこうしている内にグラスも行き渡り、テンション高く立ち上がったクライドが、杯を突き上げて叫ぶ。


「よーし行き渡ったな! じゃあ諸君! こんな美人を侍らせて酒を飲める俺の幸運に乾杯!!」

『誰がするか!!』


 どこまでも自分勝手な発言に一同は突っ込み、それに対してクライドはあーっはっはっは! と笑う。如何にも楽しげな嫌味のない笑顔だ。


「じゃあ仕方ない! 彼女の演奏を聞けた、今宵の俺達の幸運に乾杯!!」

『乾杯!!』


 自らも軽く音頭に合わせて、ルーライはしみじみと思った。

 ……面白い人ですね、と。






「人気者なんですね」

「ん?」


 声に出して言ったルーライに、早速グラスを空にしたクライドは振り向いた。

 乾杯はまず杯を空けるべし、それがクライドの信条である。


「いやいや、私なぞ単なる助兵衛の飲兵衛で、酒量と女好きだけが自慢のヤクザ者ですよ……ま、この酒場に集まる連中は、大抵仕事を求めて集まった兵隊上がりの荒くれ揃いなんですが」


 瓶から酒を注ぎながらクライドは答える。

 先ほどまでのしめやかさは何処へやら、今や酒場はいつも以上の喧騒に包まれている。厨房からはひっきりなしに調理の音が聞こえ、演奏中暇していた看板娘も、いよいよもって大回転だ。

 そんな中台風の目の如く落ち着いているのはクライドとルーライの席の周りで、喧騒の中会話するため、何気に先ほどより二人の距離は縮まっていた。……つくづくやり手なのはクライドである。


「貴方も軍隊帰り?」

「ええ。戦争が終わって故郷に凱旋しようとしたら、故郷が無くなってた……なんてよくあるパターンですよ」

「それは……」

「まあ私の地元は引き揚げが間に合ったんで、俺の両親含め民間人は大体無事だったんですけども」


 つまみがないなー、とぼやくクライド。メモ帳片手に走り回る看板娘を呼び止めようと片手を上げるが、ジェーンは一瞥してそっぽを向いた。

 そんな様子を見た酔っ払い共が、『なんだなんだ嫉妬か?』『たしかにあの野郎、ジェーンちゃんの時とえらく態度が違うが……』『満更でもなかったのか?』『マジかよ……』と邪推して、ジェーンにそんなわけあるか! と怒鳴られていた。


「……つまみはないがこの盛り上がり、いつもより賑やかで良いもんだなあ」

「たしかに、他人が楽しそうにしているのを見るのは良いものですね」

「これも貴女のお陰ですよ」


 ここが攻め時と判断したか、クライドはやけにキリッとした顔を作った。


「一目見たとき――いや、その姿を見る前から、私は貴女の音楽の虜です。高台へ続く道を歩いている時、木々の向こうから聞こえてきた弦の音に、私は心を奪われました。そしてその音楽が今宵、酒場の皆を楽しませている。改めて御礼を言います。誘いを受けてくれてありがとうございます」

「いえ、そんな」

「そしてその姿を一目見た時、私はもう一度心奪われました――貴女のおっぱいに」

「ことは……え?」


 聞き捨てならない一言に、謙遜しようとしたルーライが固まった。同時、不意を打たれた近くの席の青年が酒を鼻から噴出して悶絶する。

 しかしクライドは意に介さない。酒場中の視線が一斉に集まるが、これを全く無視していた。滔々と語り出す。


「私の故郷は北方で、雪深い山間の盆地にありました。村から少し離れたところに丸い二つの小さな山があり、夏場は子供たちの遊び場になっていたものですが、これが冬になると雪に覆われ、遠目には真っ白な双丘に見えたものです」


 ふ、とクライドは遠くを見るような目をした。遠い故郷の風景を思い起こしているのだろうか。

 その表情はたしかに失った故郷に対する郷愁を滲ませてはいたが、しかし今の主題はおっぱいである。


「私が初めて貴女のおっぱいを見た時、思い起こしたものはそんな故郷の風景でした。白いドレスの胸元を押し上げる豊かな膨らみ……それは私にとって、今はもう戻れぬ子供の頃の思い出と重なって、私の胸を貫いたのです」


 『あの野郎、故郷を失くした話からおっぱいに繋げやがった!』『相変わらずアクロバティックな口説き方しやがる……!』『口説い……てるのか?』『ボケだよねあれ』『ルーライちゃん突っ込んであげて!』

 いいんですか、とルーライは目線で聞いた。どうぞどうぞ。一斉に外野が手振りして、ルーライはすっと右手を構えた。


「思えば全ての人間にとって、おっぱいとは幼き日の思い出です。そして私にとって貴女のおっぱいは、少年時代に駆け回った野山の思い出とも重なり、まさしく両親の慈愛の下に不安なく過ごしていた日々の象ちょヴッ!」


 快音一閃、ルーライの右手がクライドの頬を打って、クライドは大袈裟にテーブルに倒れた。ヒューヒューと外野から口笛が飛ぶ。

 大丈夫でしょうか、とルーライは少々引き攣っていたが、すぐに顔を上げたクライドが、ルーライの手を取って言った。


「良い突っ込みです! 二人で漫才師としてやっていきませんか!」

「いえ、間に合ってますので」

「しかし欲を言うならば、突っ込みにもう少し華が欲しい……よし、あれでいこう」

「聞いてください」


 ああこれ心配するだけ無駄だな、とルーライは諦めた。

 そんなルーライの抗議を聞き流し、クライドは一つ頷くと、テーブルから空の小さな木皿を取り上げてルーライに渡す。


「どうぞお使いください」

「あの、受け取っておいてなんですが、これは?」

「この酒場では、セクハラをした客の後頭部をこれでパコーンと殴るのが一般的なのです」


 『真顔で嘘教えんなよ!』『それおまえしかやられてねえから!』『いや、実は俺もやられたことある』『実は俺も』『おまえら何やってんの!?』『ジェーンちゃんも大変だな……』

 常連客の間で驚愕の事実が発覚していた。

 そんな外野の喚声を聞き流し、クライドは言う。


「まあ、今日の私は酔っていますので。基本的に紳士な私ですが、流石に酒が入ると鉄の自制心にヒビも入ります。ご遠慮なく」

「十分すぎるほど理性的にセクハラをしていたと思いますが……」

「貴女は分かっていない。理性はセクハラの手段を高度化しても、決して実行を抑止はしないということに」

「すいません、誰か警官呼んでください」

「残念だが嬢ちゃん、この村の駐在所は閉鎖中だ」


 何時の間に近づいてきたのか、皿を持ったマスターがルーライに返答した。

 テーブルにパスタの大皿を置いて、クライドの後頭部を叩く。


「ほれ、つまみが欲しくなる頃だと思って持って来たぞ」

「つまみというか主食じゃないかこれ。まあ腹減ってたしちょうどいいが」

「それとおまえ、嬢ちゃんへの絡み方がタチ悪過ぎるぞ。そういうのはジェーンくらいにしておけよ」

「マスター!?」


 耳聡く聞きとがめたジェーンが抗議の声を上げたが、これにクライド、パスタを小皿に取り分けながら返す。


「仕事があるから仕方ないが、ジェーンちゃんの突っ込みは後に続かない――相方には相応しくない」

「なに本気で漫才やろうと企んでるんだ。しかも人の酒場で」

「馬っ鹿マスター、兵が笑わなくなった部隊が玉砕するように、笑いの絶えた酒場もまた潰れるもんだろうが」

「縁起でもないこと言うな!」


 『だから嫌なこと思い出させんじゃねえ!』『なんでクライドはいつもいつも軍隊で例えるんだ』『軍隊ネタなら誰にでも通じるからじゃないか?』『女の子相手でも言ってたぞあいつ』『てか笑ってても死ぬ時は死ぬよな?』

 身も蓋もない発言が実戦経験者から飛び出して、あーだこーだと各々の戦場経験を語り出す。渋い表情のマスターが離れたのを見計らって、ルーライはクライドに聞いた。


「……冗談めかして言ってましたけど」

「ん?」

「今の、結構本心でしたよね?」


 取り分けた小皿をルーライに渡して、クライドは首を傾げた。右手で右目の下の傷痕に触れて、ルーライに問い返す。


「ああ、笑いが大切ってやつですか?」

「はい。こういう仕事をしているので、“そういうの”は分かるんですよ」

「あー……」


 傷痕をに触れた右手をそのまま、照れたように頬を掻いて、クライドはルーライに答える。


「私は新参者なんで、面白キャラで売ってるんですよ。一緒に笑い合うのは仲良くなる第一歩です」

「へえ、なるほど……」


 いやまあ、八割方素でもあるんですがね。そう言ってはにかむクライドに、ルーライはつくづく感心する。

 言われてみればこのご時勢、単に能天気なだけでは世を渡れまい。ルーライは色々と世事に疎いところはあったが、旅の中でこの国の現状は実地に見聞していた。

 思い返せばたしかにこの村は比較的に明るい雰囲気ではあったが――それにしても短期間でここまで人望を集める彼の手腕は只者ではない。

 興味をそそられて、ルーライは尋ねる。


「新参者と言いましたが、この村にはいつから?」

「一月ってところですね。一年前に戦争が終わって、本土に戻ってからしばらくは王都に居たもんで」

「それは何かの手続きとか……」

「いや、私の場合は軍隊絡みで終戦後も少し仕事があったんですよ。他にも王都なら軍の職業斡旋所も充実してますしね」


 『おいおい、うちの隊は地元解散だったぞー?』『王都まで行く旅費がない』『職探しで王都まで行くとかどこのブルジョワだよ』『つーか一時期封鎖されてただろ、王都』

 クライドの発言を聞いた周囲が野次を飛ばす。

 中には、『軍の斡旋所って下士官優先だろ』『兵は条件の悪い仕事回されるぞ』『俺のダチが占領地の輜重輸卒に回されたんだけど、降格だよなこれ』という声も。


「……まあ再就職関係では皆色々と苦労があるんですが、一応そういう仕組みがあるということで」

「は、はあ」

「女性にはつまらない話でしたか」

「いえいえ、そんなことは……それにしても凄いですね、たった一ヶ月でこんなに村に馴染んでいて」

「元から寄せ集めってのもありますよ。特に軍隊帰りは、短期間で打ち解けるのが必須スキルみたいなもんですし」

「ああ、なるほど……」


 ルーライは一つ得心した。彼女にはもちろん軍隊経験はないが、何しろ軍隊だ、連携ミスで命を落とす危険がある以上、短時間で他人と信頼関係を築くのは大切だろう。

 クライドが他人を笑わせようとするのも、周囲の男たちのノリの良さも、あるいはそうやって培われたものなのかもしれない――そう思うと、ルーライは奇妙な哀愁を覚えた。

 ああ、彼らがこうして笑っているのは……戦争の傷痕の一つの形なのでしょうか、と。


「最初はてっきり地元の人だと思いましたけど。そうですか、そんな事情があるんですね」


 だからこの発言も、そんなクライドへの同情と賞賛の念から発せられたもので。

 刹那、クライドが表情を消し、同時に酒場の喧騒が一瞬にして静まったのは、彼女には慮外のことであった。






「……失礼ですがご出身は? この国の者ではないですよね?」

「え、ええ。生まれたのは北の方ですが……」


 黒曜石の瞳が鋭くなる。ルーライは動揺を面に表した。

 クライドは詰め寄る。


「具体的には? ドルトラント? それとも――」

「おいおいクライド、女の子に根掘り葉掘り聞くんじゃない」


 つまみを持ってきたマスターが、クライドの後ろから声を掛ける。

 今更ながらに近付きすぎていた事に気付き、クライドは慌てて身を引いた。冗談めかして言う。


「いやいやマスター、好きな女の子のことを知りたいと思う男心を分かってくれよ」

「そういう流れだったかぁ? 剣呑な目つきしてたぜ?」


 なあ? と酒場を見回して、マスターは呼びかけた。数人がバツが悪そうに目を逸らして、さらに数人が『いやあすまねえ』『そんなつもりじゃなかったんだが』と弁解する。

 事情が飲み込めないルーライの手前、クライドが先の大袈裟な身振りで、


「俺はシャイボーイだから、女の子と目を合わせるとついキツイ目付きになっちまうんだ」

「……それが嘘だってことは、私にもわかりますが」

「この短時間で俺のことを理解してくれるなんて! 結婚してください!」

「お断りします」


 撃沈するクライドに、これ幸いと外野が爆笑する。それじゃあ俺も、とついでに求婚する馬鹿が出て、酒場は元の陽気さを取り戻した。

 空気が戻ったのを見計らって、マスターが言う。


「うちの酒場で、あまり変な空気出すんじゃねえぞ?」

「悪いなマスター」

「俺に謝ってどうする」


 そりゃそうだ、俺としたことが。そう嘯いて、クライドはちょうど五人目の告白を撃沈したルーライに頭を下げた。


「睨んで申し訳ない。このご時勢だ、外国人には警戒心も働くものなんですよ」

「いえ、私も少し軽率でした。この国が今どのような状況か、旅の中で理解していたはずなのですが」

「嬢ちゃんも大概目立つ外見だが、逆に王国人でも違和感はないからな。むしろ見た目で言ったらクライドの方が違和感がある」

「俺はちゃんと兵役に行った王国人だ! 混血だけど!」

「おいおい怒るな。『見た目で』って言っただろ」


 このやり取りにルーライは首を傾げたが、そんな彼女を見てマスターが補足する。


「黒髪黒目は南方出身の証でな。国境の辺りならともかく、この辺じゃあんまり見かけない」

「そうだったんですか。どうもこの辺りの事情には疎いもので」

「まあ出稼ぎ労働者だらけのこのご時勢、見かけるのも珍しくないからなあ……ところでクライド、おまえ出身地何処なんだ?」

「アルザーヌ」

「へえ、アルザー……おいちょっと待て」


 『アルザーヌだと?』『そういえばあいつ、さっき北方出身だって……』『ああ、そうか、なるほど……』『道理で……』

 先ほどと別の方向に酒場の空気がざわつく。事情が飲み込めないルーライは狼狽したが、ここでもまたクライドが素早く二の句を次いだ。


「だがまあそれも昔の話だ。今の俺は安住の地を求め旅するさすらいの大工……思えば俺も流浪の身じゃないか。もしよろしければ貴女の旅にご一緒しても!?」

「え? 嫌ですけど」

「そんなー! これでも俺はそこそこ腕が立つんですよ。なにしろ軍に居た頃連隊の――」

「連隊の剣術大会で優勝して師団長直々に表彰された、だろ。耳にタコが出来るほど聞かされたぞ」


 マスターの指摘に、妙な空気を吹き飛ばさんと外野が一斉に野次を飛ばした。

 『おまえいっつもそればっかりじゃねえか!』『どうせホラだろうけどな!』『そのネタどこまで引っ張る気だ!』『ていうかうちの現場の契約期間切れてないだろおまえ!』

 大ブーイングである。一応、『昨日はたしかにいい動きしてたけどなー』などという呟きも聞こえてきたが、すぐに酒場の喧騒にかき消される。

 ところがクライド、そんな野次の中すっくと立ち上がると、


「やいおまえら! この俺がそればっかりの男だと思ってるのか?」

「おいおい、まだ何かあるのかよ?」


 代表して問うたマスターに頷くと、クライドは胸を張ってこう言った。


「今まで言っていなかったが――俺は除隊する前、年金付きの勲章も貰っている!」


 一瞬の間。


 一拍置いて、


『おまえそれ三日前にも同じこと言ってたから!!』


 この酒場の客の心が、ここまで一つになったことがあっただろうかと、そうマスターが感嘆するほど見事な合唱であった。

 うろたえたのはクライドであった。切り札のはずの伏兵が既に敵軍に補足されていたとなっては、うろたえぬ指揮官は居まい……そんなわけの分からないフレーズが彼の脳裏によぎったが、流石にうろたえてる場合じゃないと、急いで動揺を打ち消した。

 右目の下の傷痕に触れる。これはクライドが精神を落ち着けるための一種の儀式である。

 だが、彼の心境がどうあれ追及の手がやむはずもない。これ幸いとクライドの――つまりはルーライのテーブルに押し寄せる。慌てて抑えようとしたマスターであるが多勢に無勢、やむなくルーライをカウンターの向こうに退避させ、諦めて傍観者モードである。


「勲章貰った名誉の士が、なんで出稼ぎ大工やってんだよ!」

「勲章はどこにあるんだよ! 根無し草なら持ち歩いてなきゃおかしいだろ!」

「軍隊手帳を出せ! 叙勲履歴を見せろ!」

「うるせえてめえら! 勲章は親に預けてるし、年金の受け取り先も親なんだよ!」


 バンバンとテーブルを叩き、クライドはこう反論した。過去の自分の発言を忘れていた恥ずかしさもあるのか、完全に逆切れである。

 勿論これで納得する酔っ払いが居るわけもない。既に空気は弾劾裁判。白髪美女を独占していた嫉妬も手伝い、一斉にクライドを煽り出す。


「テメエがそんな孝行な柄かよ! 女の前だからって見栄張ってんじゃねえ!」

「酒の席で武功を盛るのは定番だがな、女口説くのに勲章を云々するのはいただけねえよ!」

「しかも年金を強調するとか、王国男児として恥ずかしくねえのか!」

「商人根性じゃねえか! 武士の風上にも置けねえ! 士道不心得だ!」

「そうだ! 士道不心得だ!」

『士道不心得! 士道不心得!』

「なんだとてめえらぁ!」


 唱和されて、クライドは今度は拳でテーブルを打った。怒りと体重の乗った一撃にメキッと天板が音を立て、たまらずマスターが声を掛ける。


「おい! やるなら外でやれ!」

「おう、許可が下りたぞ! 全員相手してやるから表出ろ!!」

「ちょ、おま!」


 予想外のクライドの激怒ぶりに仰天するマスター。彼を尻目に血の気の多い連中は腕まくり、それ以外の奴らもやんややんやと喝采し、すっかり客たちは決闘ムードである。

 せめて看板や壁を壊されないよう、外に出る客たちを追いかけてマスターも出て行く。厨房の調理の音が空しく響き、場に残されたのは旅の楽師と、看板娘の女二人だ。

 おずおずとルーライが口を開く。


「あの、私が行った方が……」

「駄目駄目、一度ああなったら、火に油を注ぐだけだから」

「い、いいんですか?」

「というか、手の施しようがない。ま、店の備品壊さないなら別にいいっしょ」

「はあ、そんなものですか……」


 オロオロするルーライを落ち着かせるため、ジェーンはミルクを差し出した。


「温いけどどうぞ」

「あ、はい。ありがとうございます」

「勘定はクライドにツケとくから、安心して飲んでね」


 それもどうかとルーライは少し気が引けたが、明らかに今夜の騒動は彼が元凶である。

 なんか狐につままれたような気がします……落胆とも失望とも判断の付かない溜息を吐いて、こくり、ルーライはミルクを飲む。


「あ、美味しい」

「でしょ?」

「……もっとあります?」

「アイツにツケとくねー」


 二人がそんなやり取りをしている内にも、店の外はヒートアップしているようで。


『おうおう! ハンデとして魔法は無しにしてやる! かかってこいやぁ!!』

『魔法が使えるのテメエだけじゃねえだろ!』

『兵隊帰りなら全員使えるわ!』

『馬鹿にしてんのか!?』

『おまえら看板は壊すなよ!?』

『おーいクライドー、おまえ明日仕事あるぞー?』


「……本当に大丈夫なんですか?」

「平気でしょ、魔法無しって言ってるし」


 本当にいいんでしょうか、と心配するルーライを余所に。

 決闘の幕は、どうやら切って落とされたようだった。


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