プロローグ
ああ、神様、神様。
私の祈り、私の願い。
ほんのささやかな、夢。
どうしてそれが、叶わないのでしょう――――
人間の最も偉大なる芸術もまた、炎神クァルスの舌に舐められ、その姿を失いつつあった。
大きな――とても大きな屋敷の一角。常は演奏会場として使われていたホールである。一見して質素な外見であったが、しかしそれを作るのに費やされた財貨は、如何ほどであっただろうか。
音響のため内部構造を徹底的に計算された、美しい空間。そしてその中央にどんと据えられた、大きなパイプオルガンは、この屋敷の主の権勢を、如実に物語っていた。
しかし木目の美しいその内壁は、轟々と燃える炎に焼かれ、黒く焦げ付き。
大きなパイプオルガンも、すでに回った炎によって、その機能を損じている。
「ああ――これが報いというのなら、これほど残酷なことはありません」
その空間の中央に、一人の娘が座っていた。
十八歳の女の子である。少女から女に、開花する頃合――しかしもはや、その時は永遠に訪れまい。
赤く充血した眼は、先ほどまで泣いていたからだろうか。輝くような金髪も今は煤けて、彼女の美しさに影を落としていた。
だがそれでも、その祈る姿を見て、心打たれないものは居ないだろう――
「神様、音楽神ラーナ様。私の願いはどうして届かなかったのでしょう。私の誓いは、どうして叶わなかったのでしょう」
両手を組んで、祈る。
少女は幼き日より音楽の道を志し、一日も弛む事は無かった。
人の世に楽しみを。ただその一心で、ラーナに祈り、演奏の技を磨き――ついには天覧の栄誉に浴するまでになったのである。
なのに何故、何故。まだこれからという時に、こうして斃れなければならないのか。
「ああ、神様。私の父母は、天国に召されたでしょうか。私は天上に上がれるのでしょうか」
轟々と燃える炎が、四方の壁を焼き尽くしていく。みしみしと軋む音は、焼けた柱が天井を支えきれなくなっているからか。
けほけほと、熱い空気に咳き込んで、少女は祈りの声を上げる。
「せめて最後に一曲、ラーナ様に捧げたかったのですが、叶いそうもありません……。信徒として恥ずかしい限りです」
酸欠で霞む頭で、少女は思う。
己の人生、ひたすらに音楽の道を歩み、終ぞ果たせず斃れる無念。
家族を殺され、家を焼かれ、こうして革命の炎の中で、短い生を終える恐怖。
それにそれに、ああそうだ、何よりも一番の後悔は。
「ああ、私も、恋というものをしてみたかった――」
そんな少女の後悔を飲み込んで。
音楽ホールは崩れ落ちた。
建国王ハロルドよ、我に無敵の武勇を与えよ。
三道を窮め士魂を体現し、王国男児たるを天下に示させよ。
然らばこの身は護国征道の鬼と化し、王室に最大の栄華を極めさせん――――
「では、父よ、母よ。行って参ります」
深雪を踏みしめた少年は、着帽の敬礼をびしりと決めて、両親にそう挨拶した。
もうすぐ十五になる少年である。昨今成人年齢が十八歳に引き上げられたこの国であるが、しかし軍隊においては、伝統的に十五で成人と見なす風習があった。
故に兵役検査は十四歳から行われ、特別に志願するものは、若年から兵役に就くことが許される。彼もまたその一人であった。
そんな彼を母親は不安そうに見守り、一方の父は息子に対し、さっと三十度頭を下げる。
「臣民たる責務を果たさんとする態度に、敬意を表します」
「はい、ありがとうございます」
「マクライン家の息子として、恥ずかしくない振る舞いをしてくるように」
「わかりました」
頭を上げて、父は息子を見た。郷中訓練によってくたびれた質素な防寒着。びしりと伸びた背中。まだ子供と思っていた顔つきは、しかし決然として父を見つめ返した。
その表情に、涙腺が緩む。父は右足が無かった。若い頃、山に出た魔物と戦って失ったのである。これによって彼は兵役から外され、今までの人生を肩身の狭い思いをして生きてきた。
勿論実際に、誰かに罵られたことはない。獰猛な赤目白虎を単身で討ち取った彼の武勇は、村人のみならず近隣の村落にも鳴り響いていた。だがそれでも思うのだ。この怪我が無ければ、と。
「もし一朝事あれば、御国の為にその身を捧げ、決して私達を省みてはいけない。……武運長久を祈る」
「はい。仮に一度戦ともなったならば、もはや私は死んだものと思い、その一切を処分していただいて構いません」
父は頷いた。母は涙ぐんでいたが、異議は唱えなかった。
その覚悟、その忠誠、その――“士魂”。
私達の息子は、天下国家に恥じぬ立派な王国男児に育ったのだと、それを理解できたからだ。
それでも、母は母親として、この大事な時に言わなければならないことがあった。歩み出て、言う。
「道義に悖ることをしてはなりません」
「はい」
「ちゃんと毎日、ご飯はしっかり食べなさい」
「はい」
「戦友となる人達と、あまり喧嘩はしないように」
「……はい」
「功を焦って、無謀な行動を取ったりしないように」
「…………はい」
「あと……、女の子には優しくしなさい」
「……。もし知り合う機会があればそうします」
母としては、それだけが心配であった。
それだけというには多すぎるかもしれないが、しかし喧嘩っ早さと蛮勇と、女の子に対する扱いは、親としてなんとしても改めて欲しい点である。
現に今も、本来なら見送りに来るはずだった家族が一人、ここに来ていないのだから。
「本当にお前はもう……。帰ったらあの子にも謝るのですよ」
「俺は別に悪くは……いえ、まあ、はい」
渋面を作って少年は頷き、それを見た父はくつくつと笑う。
少年が幼少の頃から幾度となく見た家族の光景。それも当分は――あるいは永遠に見納めかと、感慨深い心地だった。
母もまたうん、と一つ頷いて、息子に最後にこう伝える。
「もしも負け戦で生きて帰るようなことがあっても、私達はずっと待っていますからね。それだけは覚えておいて」
「……はい、肝に銘じます」
立派な王国男児に対して、この一言は無礼ではあったが。
それでも言わずにはいられない母の愛に、少年は素直に頷いて見せた。
それを見て取って、父は言う。
「では、行ってこい! 『武運長久』、忘れるなよ!」
「はい!」
「立派になって帰ってくるのを、私は待っていますからね」
「はい! では行って参ります!」
最後に一つ敬礼をして、そしてくるりと、作法通りの回れ右。
そこから先はもう、少年は振り向かなかった。