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翌日、新品のカーテン越しの光を感じてクラウディアは目を覚ました。
パジャマのまま窓際にとてとてと近付き、シャッと音を立ててカーテンを開いて部屋に陽光を招き入れる。
差し込む陽光に照らされて、艶のある金糸の髪が光に溶け込むように輝いた。
「――ん」
外が明るいということにはまだ慣れず、その分だけ新鮮な感動が少女の胸を震わせる。
古い石造の建物の隣に金属の煙突の立つ不思議な光景を眺めながら少女はぐっと伸びをする。
昨日はこの寝室の掃除やら何やらで慌ただしくして、そのまま眠ってしまったのだ。
はしたないと咎める側付きの侍女がいないこともまた、随分と新鮮だった。
「えっと、今は何時でしょうか?」
はたと気付いて、クラウディアは置時計に視線をやる。
時刻という概念にいまだ不慣れな彼女は、頭の中で数を数え、約束までにはまだ余裕があると判断した。
今日からは仕事を斡旋されるという。昨日のテオの視線を思い出すと胸がずきりと痛みを発するが、このまま二度寝するわけにもいかない。
少女は自分を鼓舞すると、パジャマを脱いで、ナフィルナに貰った代えのワンピースに着替えて寝室を出る。
やや緊張しながら扉を開ければ、キッチンで朝食の準備をしていた当の本人と目があった。
「おはよう、クラウちゃん」
「おはようございます、ナフィルナさん」
「その服もよく似合ってるわね。元がいいと着られ甲斐があるわ」
「あ、ありがとうございます……」
エプロン姿のナフィルナに礼を返し、次いでクラウディアは部屋を見回して家主を探した。
昨日、あの後にナフィルナが改めて買って来た簡易ベッドはリビングの隅、玄関からの最短距離に置かれている。
だが、既に体温の残り香はないことをクラウディアは吸血鬼の視覚で見て取った。
今は、家主の代わりにピットが寝そべっている。クラウディアは挨拶しつつその頭を撫でた。返事代わりにぺたん、ぺたんと尾がマットを叩く姿はどことなく暇を持て余しているように見える。
「あの、ナフィルナさん、エミスさんはどちらでしょうか?」
「朝一番に顔が見たかったかい? おアツイねー」
「え? あ、や、ちがいます!!」
思わぬ返しを投げかけられてクラウディアの白皙の頬に紅が散った。
ナフィルナなりのコミュニケーションなのだと理解はしているが、こういった話題に少女はまったく耐性がなかった。
「ふふ、冗談よ。エミスは朝の日課にでてるの。心配しなくてもすぐに帰ってくるよ」
「日課?」
クラウディアは小首を傾げたが、ナフィルナは意味深に笑ったきり答えを告げることなかった。
◇
ゲティーリア中心区画の一角に小さな広場がある。
いくらかの緑とベンチと、そして無数の鉄碑が設置されたその場所は住民にとっても特別な意味を持つ。
そこは街の解放に尽力したハンターの名を冠された慰霊の場だった。
鉄碑の全ては慰霊碑であり、真実そこに刻まれているのは死者の名前だった。
整備性を考えれば石にすればいいところを鉄で作ったのは、金属が吸血鬼に犯されぬ物質だからだろう。
肉体と密接な関わりのある吸血鬼の秘術は、彼らの拒否反応そのままに金属に作用しがたいのだ。
そして、鉄碑の中でもひときわ大きく、精緻な装飾の施されたひとつの前に、エミスはいた。
その鉄碑もまた慰霊碑であり、墓碑に相違ない。
刻まれている名はゲティーリア解放戦の戦死者たち。五年前、この街を吸血鬼から取り戻すために戦い、死んでいった者たちの名前だ。
エミスは毎朝その名前たちを見上げるのを日課としていた。祈るわけでも、悼むわけでもなく、ただ見上げて羅列された名前を眺めていた。
この街に来てからの半年欠かさず繰り返しているために、千人を超える名前もとっくに覚えてしまった……あるべき名前が欠けていることにも気が付いていて、しかし、目を逸らしていた。
「――――」
そうして静かにたたずんでいると、遠くからは機械の作動音が聞こえ、空には高らかに蒸気が立ち昇っているのが視界の端に映る。
今日もゲティーリアの街は元気に生きている。
その熱気と活気が、エミスを焦らせた。
「……“幸い”をみつけなければならない」
鉄碑を見上げたまま、ぽつりとエミスは呟いた。
人として生きて“幸い”をみつけること。それが師の最後の命令だからだ。
エミスが今も鼓動を止めていないのは、ただその命令を遂行するために過ぎない。
「だけど、僕は戦うために拾われ、戦うために育てられ、戦うために生きてきた。では、戦うことが幸いだったのでしょうか?」
鉄碑に問いかけたところで答えが返る筈もない。それでも、毎朝エミスはこの碑にその問いを発していた。
少なくとも、この碑に記された戦士たちは戦いに何らかの意義を見出していたはずだ。
でなければ、ナフィルナのような女子供まで前線にだしていた末期的状況で士気を保つことなどできない。
――自分のいるべき場所はここではないのかもしれない。
エミスはこの街に流れ着いてから特にその想いを強くしていた。
己の名はこの墓碑に記されるべきだった。その想いを捨てることができないのだ。
戦いの中で死ねば、少なくとも己の生まれた意味をまっとうすることはできた。
それはきっと狩猟者として“正しい”在り方のはずだった。吸血鬼を庇ったりするよりもきっとずっと“正しい”はずだ。
けれど、今となってはそれすら許されない。人として生きろと命じられているからだ。
答えを得ずして自ら死ににいくことはできない。悔しさに似た気持ちを抱く。
あるいはそれは、死した戦士たちへの羨望だったかもしれない。
「……やはりここだったか、エミス」
ふと、少年の背にしわがれた声がかけられた。エミスはいつものように振り向いた。
「ゼルナム街長、そういう貴方こそ毎朝来ているじゃないですか」
「いやいや。今日はおぬしに会いに来たのだよ」
「僕に?」
「正確にはおぬしが保護する嬢ちゃん宛てだが……議会の決定を伝えにな」
そこまで言われて、クラウディアに割り振られる仕事の話だとエミスは思い至った。
ゲティーリアでは各分野のギルド長が集まって議会を形成し、諸々の決めごとをする。
もっとも、基本的に余所者に対する仕事の斡旋程度の些末事は所属する各ギルドに一任され、議会の俎上にのぼることはない。
だが、吸血鬼の住民は初めてのことで、協議が必要だったことは容易に想像できる。
「嬢ちゃんにはひとまず農耕用ゴーレムの修理を頼もうと思っておる。おぬしには監視を恃む」
「妥当な線でしょう。追手がかかっている現状、街の中心区画からは離しておくべきです」
「うむ。戦闘用の自動人形を何体か回しておく。必要に応じて使ってくれ」
「了解しました」
「……議会では、彼女を街から放逐すべきという意見もでておる」
「それも当然かと」
苦々しい表情で告げるゼルナムに対し、エミスは表情ひとつ変えず断言した。
老人の白い眉が僅かに跳ねた。
「意外だな。おぬしもそう思うのか?」
「僕のときとは事情が違う。彼女は明確に追手がかかっている。報告した通り、無闇に人を襲う性格でもない。監視をつけて放逐しても問題はないでしょう」
もしそうなったら自分も一緒に出ていくのもいいかもしれない。ふと、エミスの脳裡にそんな考えがよぎった。
どうせひと所には長くいられない身だ。監視ついでにまた旅に出るのもいいだろう。
だが、ゼルナムはゆっくりとかぶりを振った。そういう話にはならなかったらしい。
「おぬしの報告にあった“塔”の話が気になってのう」
「……」
ふたりの視線が揃って街の外、霧のむこうにそびえ立つ古塔に向けられる。珍しく晴れた今日は霞む先端までどうにか見える。
あそこから飛び降りるのは吸血鬼にしても随分と勇気が要っただろうとエミスは思った。案外、あの少女の肝は据わっているのかもしれない。
「今日の朝、塔の調査に向かわせた自動人形一個小隊の反応が途絶した」
「――!?」
今度はエミスの眉が跳ねた。
ハンターギルドの保有する戦闘用の自動人形の調整にはエミスも一枚噛んでいる。戦後も改良を続けられた性能の高さは過不足なく把握していた。
思考回路を限定されている自動人形は同じ条件下では常に同じ結果を出す。
理論上、この付近に出没する野良フリークスでは束になっても彼らを壊滅させることはできない。
つまり、想定以上の脅威がいるのだ。
「追手の吸血鬼が塔に陣取っている、かもしれないのですね」
「うむ。奴らの地上侵攻の可能性もある。現在、ハンターチームを再編中だ。しかしだな……」
「対吸血鬼戦の基本は包囲殲滅。街長、貴方はクラウディアを餌に吸血鬼を誘い出すつもりですか」
「平たく言えば、そうだ。奴らの領域で戦うより、防壁近くで戦った方が遥かに生存率が高い」
そして可能ならば捕虜を取って吸血鬼側の目的を解き明かしたい。そんなところだろう、とエミスは心中でひとりごちた。
もっとも、殺さずに吸血鬼を捕えるのは困難だ。特に今も残っている吸血鬼は金属や陽光に耐性のある厄介な血族ばかり。
そうした人間に対する強みのない血族は悉くハンターに滅ぼされている。捕縛にせよ討滅にせよ、一筋縄ではいかないだろう。
「わしのやり方を卑怯だと思うかね、エミス?」
「貴方がそのヨタ話で彼女の滞在を議会に認めさせたのだと、僕は理解しています」
「……敵わんのう」
ゼルナムは困ったように笑った。街長は行政の主体であるが議会の決定を無視はできない。
機械技術や商業の発展はその分だけ街を富ませるが、同時にそれらを司るギルドの発言力を伸ばすことにも繋がる。
戦時は街の防衛責任者として強権を振るっていたゼルナムも、今では小細工を弄さねば意見ひとつ通すことができなかった。
「しかし、街全体に責任を負う貴方が、何故そうまでして吸血鬼を庇うのです?」
「……今、この街で吸血鬼を直に見たことある者がどれくらいいると思う?」
「五年前まで吸血鬼と殺し合っていたのでしょう。大抵の者は見たことがあるのではないかと」
「二割じゃよ」
ゼルナムの端的ないらえにエミスは思わず顔を顰めた。
「たったそれだけ……」
口調に苦いものが混じる。とはいえ、有り得ることではあった。
目の前に立ち並ぶ鉄碑が示すように、五年前の解放戦では多数の戦死者が出た。
残ったのは女子供と老人ばかり。あとは戦後に外から流入した者たちばかりだ。
「議会で吸血鬼との戦闘経験があるのもわしだけだ。ハンターにも奴らを知らぬ者が徐々に増えておる。それでも下位フリークス相手なら十分戦えるが、吸血鬼との戦いはそれとは一線を画す」
みしり、と節くれだった老拳が強く握られる。
ゼルナムの表情が厳めしいものに変わる。
命を消費して戦果を購う者の顔、五年前、ハンターを率いて戦い抜いた指揮官の貌だ。
「吸血鬼は強く、しぶとく、執念深い。そしてなによりも……彼らは元人間だ。獣を相手にするのとは違う。自動人形で補うにも限界がある」
「だけど、吸血鬼は老いない。過去を忘れることもない。達観などとは無縁だ」
「そうだ。いずれ過去の戦乱を生き抜いた古兵が地底から這い出てくるだろう。そのとき、この街は人を撃つことを知らぬ新兵を率いて戦わねばならん……」
苦汁を飲み干すようにしてゼルナムは言った。
その段に至ってエミスもようやく理解した。この老人がクラウディアを餌に追手の吸血鬼を街に引き入れる理由。吸血鬼の脅威を人々の記憶に刻みつけるために、ゼルナムは街の被害と住民の犠牲とを容認したのだ。
であれば、次にこの老人が何を言うかもエミスには予想がつく。
「あの子の保護に加えて、追手の吸血鬼の討滅、頼めるか?」
「構いません。半年前、僕のような不審人物を受け入れてくれた借りを返す時が来ただけのこと。もっとも、貴方の首までは保障できませんが……」
「この老いぼれの首ひとつで後の敗北を避けられるなら安いものよ」
ゼルナムは呵々と笑って己の進退を投げ捨てた。
彼が本気であることをエミスは悟った。そのことが、少しだけ悲しかった。
「だが、すまんな。叶うなら、おぬしにはもうハンターをさせたくないのだが」
「気遣いは不要です、街長。今回は僕がいた。これは、それだけの話です」
「そうだな。……ああ、そういえば“幸い”はみつかったのか?」
一点して明るい声音で問うゼルナムに対して、エミスは力なくかぶりを振って応えた。
「僕にはまだ“幸い”がなんなのかすらわからない。人として“正しく”生きている筈なのに、わからないのです」
「……おぬし頭は良いのに、こうしたことにはとんと疎いのう。お嬢さんの方がまだしも聡いだろうて」
「心外です」
「どうかな。案外、おぬしの探している“幸い”を彼女は知っておるかもしれんぞ?」
「その発想はなかった。機会があれば訊いてみることにします」
真面目に頷く無愛想な少年をみて、ゼルナムはもう一度莞爾と笑った。
その笑い声は、徐々に活気づいていく朝のゲティーリアに長く響いていた。




