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 アパルトメントを出れば、ちょうど昼前の頃合いになっていた。

 相変わらず頭上に霧は立ちこめているが、この時間は僅かなりとも薄れる。

 中天に昇った太陽が霧を溶かしてしまうからだ。昼は人間の時間だ。


 三人のやってきた南区画にある市場は、丁度あちこちから炊煙が上がっていた。

 通りの中央は馬車がすれ違える幅の車道になっており、機械仕掛けの街灯がその両側に並び歩道との境界線を曳いている。

 南北に走る石畳の敷き詰められた通りには幾つもの露店が並び、午前の仕事を切り上げた職人たちや大声で客を呼び込む売り子たちでごった返していた。


「わあ……! こんなに人がいっぱい!!」


 視界に入りきらない人ごみを前にして、クラウディアが驚嘆の声をあげた。

 つば広帽の下で真紅の瞳が真ん丸になり、物珍しそうにきょろきょろとあちこちを見て回る。

 小動物のようなその姿にエミスは数度目を瞬かせ、ナフィルナは遠慮なく和んだ。


「さて、とりあえず街長にお目通りしとかないと。ここらへんにいると思うんだけど。……あ、あとでクラウの生活用品も買わなきゃね。あんたのとこの寝室、さすがにベッドはあるわよね?」

「肯定する。ただし清掃が必要だ」

「無理言って保護してもらってるんだし、そのくらいは手伝うさね。あと、クラウはできるだけエミスから離れないようにね」

「えっと、それは……その、エミスさんが監視役だから、ですよね?」


 おずおずと尋ねたクラウディアに対して、ナフィルナは苦笑し、ひらりと手を振って否定した。


「もっと単純な話、この子がこの街で一番強いからよ」

「え……?」

「ほんとほんと。ひと山いくらのゴロツキが束になっても敵いやしないわ。まあ、人格にはちょっと疑問符がつくけどね」

「失礼な。この街に来てから半年、僕は一度として問題を起こしていない」

「片手で馬車持ち上げるような馬鹿力相手に喧嘩ふっかける奴なんていないわよ」


 憮然として言い返すエミスを、ナフィルナはどことなく面白がるように三日月に細めた瞳で見下ろした。

 そうしていると、ナフィルナとエミスは姉弟のようにクラウディアには見える。

 髪色も瞳の色も違うのに、ふたりの間には気安い空気が流れているのだ。

 十九歳だというナフィルナに対して、エミスの見た目はもう何歳か若く見える。身長も僅かにナフィルナの方が高い。物語で聞いたお節介な姉と無愛想な弟にぴったり嵌まるよう。

 だが、それを口に出して言うと否定される予感がして、クラウディアはそっと胸の内に留めた。

 きっとこの気持ちは秘めるのがいいのだと、少女はこの短い時間で学んでいた。


「あーうん、ここで睨みあっててもしょうがないし、エミスちょっと街長みつけて」

「しばし待て………………むこうだな」


 瞑目して耳を澄ませたエミスが確信をもって通りの南を指さした。

 その先には他の場所と変わらぬ熱気と人だかりしか見えない。

 頼んだナフィルナですらどことなく呆れたような表情になった。


「相変わらず便利ね、あんたの耳は」

「人間相手だと多少精度が下がるが。……クラウディア、手を」

「え、は、はい!」


 反射的に差し出したクラウディアの手をエミスはしっかりと掴んだ。

 ひんやりとした感触に頬を熱くする少女を他所に「はぐれないように」とだけ告げてエミスはさっさと歩きだす。

 カツン、カツンとブーツが規則的な靴音を鳴らし、迷いなく大通りを進んでいく。

 繋いだ手に引っ張られるように小走りで進むクラウディアのすぐ傍を山と食料を積んだ馬車がごう、と風を巻いて通り過ぎる。


「――――」


 びっくりして思わず足を止めたクラウディアをエミスは表情の窺えない灰瞳で見遣り、しかし、逆の手を握り直して少女を庇うように自分の身を車道の側に置き換えた。

 歩調も先ほどよりもゆっくりとしたものになっている。無言でなされた種々の気遣いにクラウディアは心が暖かくなるのを感じた。

 心身に余裕のできた少女は足を止めぬまま周囲を見渡す。

 何もかもが初めて見る光景だった。道々の建物に象嵌された機械細工、方々の煙突から立ち昇る蒸気、露店で肉串の焼かれる匂い、窓に渡したロープで吊るされた色とりどりの洗濯物、目に映る全てが新鮮だった。


「クラウ、気分が悪くなったりはしてない?」


 呆けたように周囲を眺めるクラウディアを心配してか、ナフィルナが声をかける。

 はっとして気を取り戻した少女は恥ずかしそうに赤くなった顔を伏せた。


「いえ、大丈夫です、ちょっと見とれてしまっただけで」

「そう。ならいいんだけど……太陽光に耐性があるってのはホントみたいね。金属粉も効かなかったし、クラウみたいな吸血鬼ばっかりだったら、とっくにあたしたちは滅びてたわね」

「あの“塔”から落ちても無事だったようだしな。大した丈夫さだ。いや、ミンチにはなっていたが」

「そのことは忘れてください……というか、エミスさんはわたしの裸みたんです、よね?」


 ふと今まで棚上げてしていた事実を思い出したクラウディアが恨めしそうにエミスを見上げる。

 が、遠くに見える塔を眺めていた当の本人は何食わぬ顔でしれっと言い返した。


「不可抗力だ。気にするな」

「気にするなって、そんな、もうお嫁にいけません……」

「吸血鬼に婚姻制度はない」

「そういう意味ではありません!!」


 可愛らしく頬を膨らませたクラウディアがぷいっとそっぽを向く。

 なにがなんだかわからない中、ナフィルナがにやにやと笑いながら脇腹を小突いてくるのを、エミスは鬱陶しげに追いやった。


「ん?」


 そのとき、視界の端からなにかが飛んでくるのを見て取って、エミスは反射的に空中で掴みとった。

 目の前に素早く伸びた少年の手にクラウディアが驚いた表情を浮かべる。

 それは市場で売られている橙色の果実だった。

 飛んできた方を見やれば、薄汚れた格好をした十歳ほどの少年が怒りの形相で立っている。見知った顔だ。事情についても聞き及んでいる。

 面倒なことになる、とエミスは直感した。次いで、制止の言葉を吐こうとして


「吸血鬼はこの街から出ていけッ!!」


 それよりも早く、往来に子供の癇癪が爆発した。


「……テオ」


 エミスがなにか言うよりも先に、少年――テオは自らの目的を声高に叫んでいた。

 今日何度目かもわからない頭痛を堪え、エミスは眉間を揉んだ。

 少年の瞳の奥で燃える仄暗い憎悪をエミスはたしかに感じた。

 胸の底を焦がす熱、懐かしい感触だ。

 だから、知っている。その感情は厄介だと知っている。


「フリークスの親玉め!! お前らは地上にいちゃいけないんだ!!」

「――っ」


 幼く、しかし、それゆえに剥き出しの敵意を茶色の瞳に宿してテオはクラウディアを睨みつける。

 これほどまでに強烈な感情に晒されたのは初めてなのだろう。

 クラウディアは自らより遥かに弱い存在に対してみるからに怯えていた。反論することもできず、ただ目に涙をためている。

 ひどく珍しい、それでいてチグハグな光景だろう。吸血鬼クラウディアがその気になれば、子供のひとり、羽虫を払うよりも容易く殺せるのだから。


「オレのオヤジは吸血鬼に殺された!! オフクロもそれで病気になって死んじまったよ!!」

「ちが、わたしは……」

「ちがわない!! お前たちがいたからだ!! 吸血鬼なんて、みんないなくなれば――」


「――テオ」


 エミスは短く、しかし、はっきりとした声音でテオの言葉を遮った。

 正直なところ、エミスはナフィルナの警告を気にしていなかった。

 クラウディアが暴れることを警戒はしても、人間が吸血鬼を害することを警戒していなかった。

 だが、目の前にいるこの孤児こそが、今も変わらぬ人間の吸血鬼に対する一般的なスタンスなのだろう。

 そして、かつて共にいた師とは違い、その憎悪を受け止められるほどクラウディアは強くないのだ。

 本当に、笑ってしまうほどに、ただの小娘なのだ。

 だから、エミスは彼女を庇うように前に立ち、もう一度「テオ」と少年の名を呼んだ。


「君の父親を殺したのはクラウディアではない」

「そんなことわかってる!!」


 テオはキッとエミスを睨みつける。怒りの矛先が自分に向いたのをエミスは感じた。

 それでいい、と内心で頷く。

 逃げてきただけの彼女が詰られる謂れはない、少なくとも今のところは。


「だいたい、お前はなんで吸血鬼なんか助けたんだ!?」


 声変わり前の甲高い声をあげて、テオは詰る。

 手を止めて窺う周囲の住民たちもエミスに気遣うような視線を向けてはいるが、少年を止めようとはしない。テオの弾劾はある意味で彼らの総意なのだろう。

 数多の視線をその身に浴びながら、ふむ、とエミスはわざとらしく腕を組んで間を取った。


 実際のところ、エミスはナフィルナに従っただけだ。

 主体的な判断は行っていないし、今でもこの吸血鬼を排除すべきでないかと考えてもいる。

 だが、だからといってその弾劾が的外れというわけではない。

 ナフィルナの判断が間違っているならそうと申し出るべきだし、クラウディアが眠っている間に秘かに仕留めることも十分に可能だった。

 だから、そうしなかった理由が、論理が――“正しさ”がなければ、成程、こうして律義に吸血鬼の面倒をみているエミスは不合理だ。


「――彼女が追われていたからだ」


 だからこそ、エミスは臆することなく答えた。

 一瞬、ざわめきが小波のように市場に伝播した。

 テオは聞き間違いかと眉をひそめ、次いでどことなく決まり悪そうな表情で問い返した。


「追われていたって……吸血鬼が、吸血鬼にか?」

「そうだ。だから助けることに同意した。弱きを助ける、それがこの街では“正しい”ことだと、僕はそう教えられた」


 ゲティーリアは逃げてきた者、弱き者を見捨てない。

 それはかつて、そうでもしなければ対吸血鬼戦争の最前線に人など来なかったからだ。

 戦いが終結した後も、皆で助け合って復興してきた誇りがそうさせてきた。

 半年前、エミスもその理念に従ったナフィルナたちに助けられたのだ。

 エミスの中に判断はない。だが、その理念を尊いものと感じたのも確かだった。


「教えてくれ、テオ。僕は間違っているのか?」

「それは……」

「彼女を助けたことは間違いだったのか? どうか、教えて欲しい」

「いや、けど……」

「――じゃあ仕方ないのう」


 そのとき、いまだ納得のいかない様子のテオの頭にぽんと皺だらけの手が置かれた。

 手の主は白い髭と同色のゆったりと長衣に身を包んだ老人だった。身長はエミスと同じくらいの小柄で、垂れ下がった瞼が柔和な雰囲気を漂わせている。


「ゼルナム街長」


 エミスが名を呼ぶと、老人は白髭に覆われた口元でにこりと笑んだ。任せろということだろう。


「エミスは街の流儀に従った。なんも間違ったことはしてない。だからこれ以上は言いっこなしだ」

「け、けど、アイツは吸血鬼なんですよ!?」

「テオ、わしらに味方してくれた吸血鬼もいる。お前さんは小さかったから覚えてないかもしれんけどな」

「――――」


 街長の一言に、エミスの胸元でカチリと歯車の音が共鳴した。

 少年は数瞬、身を固くしたが、幸いにして誰にも気付かれることはなかった。


「……わかり、ました」


 しばらくして、テオは不承不承という感じで引き下がった。

 そのまま踵を返して走り去る直前、クラウディアに対して鋭い眼差しを向けこそしたが、その奥には複雑な色があった。

 あの様子ならもう手出しはないとみていいだろう、とエミスは判断した。


「すまなかった、お嬢さん。どうか気を悪くせんでほしい」

「は、はい! いえ、大丈夫です。地上ではこういうこともあるかなって、その……」


 あたふたとするクラウディアに向き直ったゼルナムは、落ち着いた態度の中でどこか試すように片眉を動かした。


「お嬢さんが望むなら住民として歓迎しよう。ただ、この街は復興途中で余裕はない。すまんが、働かざる者食うべからずだ。自分の居場所は自分で作るんだ。よいかね?」

「あ……はい!! わたし秘術……えっと、錬金術もちょっと使えます!!」

「そいつはいい。明日から働いて貰うとしよう」

「あ、ありがとうございます!!」


 クラウディアが安心したような表情でぱっと頭を下げる。

 エミスはちらりとナフィルナと目を合わせた。

 こんな簡単でいいのかと視線で問うと、仕方ないという風に肩を竦められた。少年はいまだこの街の流儀に疎い。


「皆も聞け。この娘は街長ゼルナムの名に於いてゲティーリアの住民とする。彼女を害する者は法に則って裁く。文句がある者はわしに言え。よいな!」


 老いてなおよく通るゼルナムの声に反対する者はいなかった。

 いまだ住民たちの戸惑いは色濃いが、直接的な害はないだろう、とエミスは判断した。

 五年前まで吸血鬼と殺し合っていた最前線であったことを思えば驚くべき寛容さだ、とも。

 おそらくはそこにこの街の根本がある。ぶつかることを承知でクラウディアを受け入れようとする、その矛盾した態度の源泉がある。

 とはいえ、今問題なのは、このまま買い物という空気ではないことだった。


「帰ろう、クラウディア。清掃と貴女の寝床を準備しなければ」

「はい……」


 周囲の雰囲気を感じとったのか、悄然とするクラウディアの手を引いてエミスは帰途に就く。

 このままではいけないとエミスもわかっていたが、さりとてどうすればいいかはわからなかった。

 この街では所詮、エミスも余所者に過ぎないのだ。


(しかし、まさか吸血鬼を庇うことになるとは……)


 エミスは心の中で自嘲した。

 数えきれないほどの吸血鬼を滅ぼしてきた自分がなにを今さら、とあまりの滑稽さに目を覆いたくなる。

 クラウディアのことは成り行きでしかない。

 そして、エミスにとっては単なる代償行為に過ぎない。


 ――我が身を削って人間を守り続けた、師の模倣に過ぎない。


師匠マイスター、僕はこれで“正しい”のですか。人として生きられていますか……?)


 自分を持たないエミスの思考は結局、そこに行きつく。

 だが、答えは出ない。エミスの知る師は常に戦いの場にあった。平時にどうしていたのかは知らないし、これからも知ることもない。

 無意識に首から提げた懐中時計を握りしめる。胸の奥ではただカチ、カチと歯車の鳴る音だけが響いていた。


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