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「……」
エミスが出ていって幾分か経っても、クラウディアはベッドに座り込んだまま外へと続く扉をぼうっとみつめていた。
生まれてからこの方、城の自室から出たことすらなかった彼女は、まずもって自発的に何かをするということを知らなかった。
塔から飛び降りたあの一瞬が、はじめて自分から行動したのではないかと思えるほどだ。
とはいえ、そんなクラウディアでもさすがに地上の人間が吸血鬼と敵対していることは常識として知っていた。
今の自分は安穏としていられる状況ではないのだ。その危機感がようやく意識と肉体を駆動させた。
「こ、これからどうするか考えないと……!」
頬を叩き、自分を奮い立たせるようにクラウディアは声を出した。
が、そこから先が続かなかった。
少女は生まれつき使えるいくつかの秘術を除けば、およそ自衛手段と呼べるものを持たなかった。
下位フリークスを従える術など知らないし、それどころか、走ることすらままならない有様だった。
街から一歩外に出れば、瞬く間に異形たちの餌食となって死ぬに死ねないまま貪られるだろう。
「……お父さまはこうなることを見越していたのでしょうか?」
己の想像に、クラウディアは自分の体をかき抱いてぶるりと震えた。
偏執的なまでの戦闘手段の剥奪、無力化。部屋に閉じ込められていたときは疑問にすら思わなかったそれが、今は見えない足枷となっている。
エミスに――彼女の視点では――助けられず自分ひとりであったなら、追手がハウンドだけだったとしてもどうにもできなかっただろう。
「エミスさん、か……」
無意識にクラウディアはおのれの首筋に触れる。肌の下でとくとくと脈が高鳴っているのは緊張の為か。
吸血鬼にとって首元は特別な意味を持つ。その部位からの吸血が示すのは「執着」。
首の吸血痕はそのまま所有権を示し、他の吸血鬼が手を出そうものなら殺されても文句は言えない……クラウディアは家庭教師からそう教わった。
彼女は人間の奴隷だったが、首に刻みつけられた父の痕がために他の吸血鬼も手が出せなかった。
そこから数段落ちるものの、首への口づけや触れる行為は相手を想っていることを伝える行為だ。
エミスさんは知っていたんだろうかと少女は想い、釣られるように、くぅと可愛らしくお腹が鳴った。
「血……」
空腹が、少女にその存在を想起させる。
クラウディアは誰かの血を吸ったことはない。物心ついてから父が造る人工血液しか口にしたことがなかった。
ただ、吸血行為は「すごく気持ちいい」のだと侍女たちが噂していたのを聞いたことはあったし、秘かな憧れもあった。
(もしも、あの人の首筋に牙を突き立てたら……)
その想像はひどく甘美なものだった。知らず、口内が唾液で満ちて牙がずるりと伸びる。
今まで何不自由なく、それこそ怪我のひとつも負うことなく育てられてきた少女にとって、全身を再生させた消耗による強烈な飢餓感と、初めて見る人への興味や感謝といった感情がないまぜになった欲望――「吸血衝動」は堪えがたいものがあった。
「――――」
だが、その衝動は、いつの間にか目の前にいた自動人形の視線に打ち消された。
ピットと呼ばれた四足獣型の自動人形がバイザー越しにクラウディアをじっと見つめる。
ナイフのついた尾がくゆりと揺れる。金属で覆われた自動人形に表情はないが、どことなく警戒しているように少女には感じられた。
冷や水を浴びせられたように少女の意識は興奮から急速に冷めていった。
「あぅぅぅ……」
思わずシーツを頭から被って意味不明な唸りを上げる。
なんだかよくわからないが猛烈に恥ずかしかった。エミスに裸を見られた時の何倍も恥ずかしかった。
「お、お犬の人形さん!! どうかこのことはエミスさんにはご内密に……」
ベッドに額ずく勢いで猛烈に頭を下げられたピットだが、バイザーに覆われて表情はわからない。
ただ、どことなく困った様子で尾を振っていた。
そんなことをしているうちに暗い気分はどこかに吹き飛んでしまった。クラウディアは深呼吸して、どうにか気持ちを入れ替えた。
「お犬の人形さん、わたしはこの部屋を見て回ってもいいのですか?」
ピットは器用にこくこくと頷いた。
クラウディアは礼を言ってシーツを体に巻きつけると、そろそろベッドから降り立った。
爪先で触れたリノリウムの床は冷たい。震えを堪えて、少女は裸足のままぺたりとぺたりとあちこちを見て回る。その後ろをトコトコとピットがついて回る。
室内には少女が寝かされていたベッドの他には椅子と工具が並べられた作業台、それに備え付けのクローゼットしかなかった。
着替えがないというのは本当だろう。クローゼットの中は空っぽだった。
「……ここは」
あまりにも物がなさすぎる。クラウディアはうら寒さを感じた。
はじめての探検は二分とかからず終了した。
ベッドのある部屋の他には埃の積もった台所と長く使われた形跡のない寝室しかなかった。広くはないが掃除し甲斐はありそうだった。
「ここはエミスさんの別宅なのでしょうか? いくらなんでも物がなさすぎるような……」
ベッドに戻ってきたクラウディアがこてんと小首を傾げる。地上の生活を知らない彼女でもこの部屋の生活感のなさは異常に思えた。
だが、ベッドにはたしかにエミスのにおいが沁みついている。それを吸血鬼の嗅覚が捉える。少なくとも半年。彼がここで寝起きしていたのは確かだ。その矛盾に少女は混乱した。
そのとき、玄関の方からガチャガチャと金属音が鳴るのを吸血鬼の聴覚が捉えた。
ぴくんとクラウディアの体が小さく跳ねる。
エミスが帰ってきたのかとも考えたが、それにしては扉が開く様子がない。
不審に思ったクラウディアは玄関に続く廊下へそろそろと顔を出す。
――直後、ひと際大きな音が鳴って玄関の扉が勢いよく開かれた。
途端に差し込む陽光に少女は思わず目を細める。
扉を開けた人物は逆光でよく見えないが、エミスとは明らかに背格好が違う。
「あの、どなたですか? エミスさんはご不在ですよ?」
「……」
闖入者は答えず、ずんずんと距離を詰めてくる。
ようやく目が慣れてきたクラウディアは人影をしかと見て、ひっと小さく悲鳴をあげた。
視界の中、装甲服の上からでもわかる豊かな胸元は人影が女性であることを伝えている。
しかし、首から上は無骨なガスマスクに覆われていて表情は窺えない。
ただ、片手に持つ抜き身のナイフだけが、なによりも明確に彼女の意思を示していた。
「だ、だれ、誰ですか? 来ないでください!! か、噛みますよ!!」
クラウディアが後ずさりながら叫ぶ。
が、そんな子供じみた脅迫で闖入者が止まることはない。
とん、と少女の背中が壁にぶつかる。
あっという間にクラウディアはベッドの端まで追い詰められてしまった。これ以上は下がれない。
見上げる先、闖入者は見せつけるようにナイフの切っ先をクラウディアの胸に向けて――
――カチリと音を立てて、その後頭部にエミスがネイルガンを突きつけられた。
「動くな。マスクを取れ」
「ちょ、それどっちに従えばいいのよ!? ってかもう帰ってきたの!?」
途端、ガスマスクの内からくぐもった女性の声が聞こえた。
次いで、慌てたようにナイフを床に落とし、降参を示すように両手を挙げる。
それでもエミスは狙いを解かず、後頭部にぐりぐりと銃口を押しつける。
「ちょっと!! あたしが誰かわからないのかい、エミス!?」
「認識した上で言っているのだ、ナフィルナ先輩。貴女が僕に教えたマナーだ。マスクは取るべきだ」
「~~ッ!! ああもう、わかったわかった。わかりましたよ!!」
ナフィルナと呼ばれた闖入者が一息にガスマスクを外すと、ひとつに括った赤毛が尾のように零れ出た。
正面から見上げていたクラウディアは驚きに目を瞠った。
マスクの下にあったのはまだ若い女性のかんばせだったのだ。
おそらく二十歳には達していないだろう。大きな瞳は明るい色を湛え、小さく頬を膨らませる姿にはどことなく愛嬌がある。
顔が見えるだけでこんなにも違うのか、とクラウディアは新鮮な驚きを得ていた。一瞬前までナイフを突きつけられていたことを忘れてしまいそうだった。
もっとも、当のナフィルナはようやく銃口を下ろしたエミスを恨みがましい目で睨みつけていたが。
「人にネイルガン向けちゃダメって教えなかったっけ、エミス?」
「安心してくれ。これは対フリークス用に改造してある。出力は五割増しだ」
「余計に危ないよ!? っとそれはともかく、脅かしてごめんなさいね。謝罪いたします、お嬢さん」
ナフィルナはクラウディアに向き直り、膝をついて目線を合わせると、右手を胸に当てて丁寧に礼をした。
言動や格好を置き去りにする優雅さを帯びた一礼に、クラウディアは前後の状況を忘れて驚いた。
無理もないだろう。ナフィルナがしたのは吸血鬼の礼法だ。それもクラウディアの見たことのある人間の奴隷や侍女たちと比べても遜色ないほど洗練されたものだった。
地上ってすごい。クラウディアは思った。
「エミス、この子の名前は?」
「クラウディア」
「じゃあ、クラウね。よろしく! あたしはナフィルナ。この街のハンターの実働隊長をしてるんだ」
「ハンター!?」
悲鳴を上げてクラウディアはびくんと跳ねて後ずさって壁に背中をぶつけた。
彼女の知る限りに於いて、ハンターとは吸血鬼をみつけ次第滅ぼしにかかる餓狼の集団だった。
だが、伝え聞くイメージと異なり、目の前の少女は笑みのままひらひらと呑気に手を振っている。
「取って食ったりはしないから、そんなに怯えないで」
「誰のせいだ誰の」
「エミスは黙ってなさい!! こうでもしないとこの子の性根を確かめられなかったでしょう?」
「地雷を踏み抜くことを確かめるとは言わない」
「一発でわかっていいじゃないのさ!!」
一瞬で淑女の仮面を脱ぎ捨てたナフィルナがエミスの脇腹を肘で小突く。
この蓮っ葉な口調がナフィルナの素なのだろう。
気の置けないやりとりをするふたりを見て、思わずクラウディアは吹きだしてしまった。
どうにもふたりが騙そうとしているようには思えなくて、警戒も肩の力も抜けてしまう。
「そうだ、これを」
ナフィルナを適当にあしらったエミスは思い出したように薔薇の花束をクラウディアに渡した。
鮮やかに色づいた真紅の花弁はクラウディアの目から見ても“おいしそう”にみえる。
我慢できずにその場で花弁に口づけると、まるで花弁の紅が流れ込むように少女の頬に色が戻った。
「……ありがとうございます。ずいぶん楽になりました」
クラウディアはほっと一息つくと、エミスに向き直って深々と頭を下げた。
赤色を取り戻した唇にはまだ薔薇の香気が残っていた。ふっと零れる息のかぐわしさは人間ではありえないものだ。
それら一切にエミスは反応せず、ただこくりと頷くだけだった。
「必要経費だ。気にしなくていい」
「それでも、です」
「……なら、受け取っておこう」
「ほほう、エミスも隅に置けないねー」
ここぞとばかりに茶化してくるナフィルナを、エミスはじろりとねめつけた。
「そういう先輩こそ何しに来たのだ? まさか顔見せだけではあるまい」
そう問いかけると、ナフィルナはふふんと笑ってバッグから綺麗に折り畳まれた服を取り出した。
「じゃーん!! 服持って来たの。お古だけど、エミスのセンスはアテにならないからね!!」
「…………アテに、ならない?」
エミスは不思議そうに首を傾げ、手に持つ紙袋を見下ろした。
彼が市場で見繕ってきたものだ。
ナフィルナも興味深げに横合いから紙袋の中を覗き――無言でひったくってクローゼットに封印した。
「どういう基準で選んでるのよ、このスカポンタン!!」
「サイズと遮光性だ」
「いっぺん死ね!!」
かなり本気の怒りを感じさせる言葉と共に、エミスは自宅外に蹴り出された。
ばたんと音を立てて、背後で鉄扉が勢いよく閉まる。
「着替えさせとくから暫くそこで頭冷やしてなさい!!」
「……了解」
追い出された扉を眺めながら、世の中にはまだ知らないことが多いな、とエミスは感慨深く頷いた。
ふと視線を感じた気がして監視の自動人形たちを見る。
戦闘用に調整された彼女たちには「慰める」などというルーチンはない筈だが、そのガラス玉の瞳はどことなく同情の色を帯びているように見えた。




