エピローグ
“霧の塔”が倒壊してから数週間が経った早朝のこと。
少しだけ薄くなった霧が立ちこめるレーヴライン広場にエミスはいた。
鉄碑を見上げる少年の胸元で、カチ、カチと直したばかりの懐中時計が規則的な音を立てる。
「しばしお別れです、師匠」
自然と声に苦笑の響きが混じる。
ようやく師匠の死に向き合えたというのに、不孝者だと自分でも思う。
それでも、決意は変わらなかった。
「もう行くのかい、エミス」
「はい。お世話になりました、ゼルナムさん」
背に掛けられた声に振り向けば、いつものようにゼルナムがいた。
毎朝顔を合わせていたふたりだが、その恒例行事もしばらく中止となる。
「わしは迷惑をかけただけよ。この結果は全部お前さんのおかげだ」
「それでも、今の僕があるのはこの街のおかげです。だから、胸を張って旅立てる」
そう言って、気負いのない笑みを浮かべるエミスを見て、ゼルナムも皺の目立つ顔に笑みを浮かべて手を差し出した。
「いつでも帰ってきなさい。たとえ離れていても、お前さんらはこの街の住人だ」
「ありがとうございます。ゼルナムさんもお元気で」
握手を交わし、エミスは広場を後にした。出発の時間が迫っていた。
◇
街の正門には既に旅支度を終えたクラウと見送りに来たナフィルナがいた。
どうにか修理の間に合ったピットも中身を旅道具に換えて、クラウの足元に侍っている。
「あ、エミス。もういいのですか?」
「別れは済ませてきた。先輩も事後処理で忙しいところありがとうございます」
「いいってことよ。これでもあんたたちの保護者なんだしね」
ぱちりと片目を閉じてみせたナフィルナだが、ふと表情を真剣なものに変えた。
「もし、その、気まずくて出ていくんなら、あたしは止めるよ。そんなつもりでクラウちゃんを助けに行った訳じゃないんだから」
「いいえ。エミスとふたりで相談したんです。世界を見て回ろうって!!」
笑顔で告げるクラウに、ナフィルナは驚き、次いで、柔らかく目を細めた。
「世界とは、また大きく出たねえ」
「クラウが灼け死ぬ前にどうにかする方法を探す」
エミスは腰に差した黒鋼の剣に触れながら、そう答えた。
誂えた鞘の中で眠る剣はなにも言わない。だが、硬い手触りが誓いを思い出させる。
世界を変えると、あの日、あの塔で誓ったことを。
「アテはあるのかい?」
「マキナクルスの製造施設だ。僕の擬似脳に所在地の記憶はないが、この世界のどこかに存在している――あるいは存在していたはずだ。この身は“霧”を燃料にしている。そして、霧が吸血鬼を守る傘だという事実と併せて考えれば――」
「そうか!! 製作者は吸血鬼が“霧”を必要とすることを知っていたんだ!!」
「可能性は高いと思う。そして、その事実を仲間のハンターにも隠していた。理由も察しはつく」
“霧”を燃料にできるということは、成分の解析自体は済んでいる可能性が高い。
それは同時に、その解析記録があれば「“真血”の吸血鬼を犠牲にせずに霧を作る」ことができるかもしれない、という事実を指し示している。
……そんなことを知っている人間が吸血鬼にされてしまえば、地上は再び吸血鬼の支配下に落ちる。
錬金術の秘奥――全人類を次の段階へ進ませる可能性を秘めた発見を、ただひたすらに吸血鬼を滅ぼすための兵器にしてしまう。
そういう頭の窮まった人物がマキナクルスの製造者だ。情報漏洩の危険に思い至らなかったとは考えられない。
「だが、他に手がかりもないし、そもそも確証もない。まさしく霧を掴むような話だ。気長に探そうと思う。だから、いつ戻れるかはわからない」
「そうかい。……寂しくなるね」
「ナフィルナさん……」
「ん、あんたたちの選んだことだ。泣き言はなしさ」
ナフィルナは頬を叩いて弱気を追い出すと、改めて見送る者の笑みを浮かべた。
「さよならは言わないよ。いってらっしゃい、だ」
「はい、いってきます!!」
「いってきます」
そうして、二人と一匹は歩き出した。
幾度も振り返り、名残惜しそうに手を振って、しかし、歩みを止めることはない。
ナフィルナは彼らの姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。
◇
正門を抜け、ゴーレムが畑を耕す姿を横目に街道を歩く。
しばらくすると、街を守る金属防壁が見えてきた。
エミスとクラウ、ふたりが出会ったのはこのあたりだ。
すべてはここから始まった。
だから、もう一度ここから始めようと、ふたりは互いに向き合った。
「さて、どこに行こう」
「北へ行きませんか」
「なにかアテがあるのか?」
「雪を見てみたいからです!!」
満面の笑みで告げられて、エミスは思わず苦笑してしまった。
「お気楽な発想だ」
「いいじゃないですか。これからは素直に生きるって決めたんです!!」
「わかったわかった。どうせ世界中を探すつもりなんだ。最初はどこへ行ってもいい」
「あ、それなら、エミスはどこか行きたいところはないんですか?」
「そうだな――」
エミスはしばらく考えると、にこりと屈託のない笑みを浮かべた。
「僕の行きたいところは――君の行きたいところだ」
衒いもなくそう告げると、途端にクラウの白皙の頬が真っ赤に色づいた。
「エミスのそういうところ、卑怯です……」
「なぜだ?」
「教えてあげません!!」
ぷいとそっぽを向いたクラウだが、数瞬と経たずに笑顔になってエミスに手を差し出した。
エミスも笑ってその手をとる。
握った手は冷たく、しかし確かなぬくもりを感じた。
「いきましょう」
「ああ、いこう」
そうして、生贄として造られた少女と、兵器でしかなかった少年は歩き出した。
行く先はずっと先まで霧に覆われている。道がどこまで続いているかもわからない。
それでも彼らの歩みが止まることはない。希望を信じて霧の向こうを目指す。
歯車は回る。いつか世界を変えるその時まで。
――後に、人と吸血鬼の懸け橋となるふたりの旅が始まった。
(霧の塔、白銀の杭 完)
あとがきは活動報告にて。




