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 ゲティーリアの東に佇む“霧の塔”。途方もない数の石を積み上げた古き塔の頂上。

 空に一番近い場所。並の吸血鬼なら太陽に近づきすぎて灰になる、そこにクラウディアはいた。


「――――」


 地上の景色はこんなにも色褪せていただろうか。

 霧に煙る眼下の光景を見下ろしながら、少女は心中でひとりごちた。

 エミスと一緒に鐘楼から見たときよりもずっと高い場所にいるのに、心は晴れない。

 高度を増しても依然としてたちこめる霧が今は煩わしい。こんなものがなければ、と憎らしく思う気持ちも、少しだけあった。


 周囲では、仮面をつけた吸血鬼たちが忙しなく石棺の調整をしている。

 時おり苦悶の声をあげるのは陽光に灼かれているからか。少女には分からない感覚だったが、心はざわめいた。

 視線を転じれば、目の前には夥しい血の匂いを発する巨大な石棺が顎門を開いて彼女を待ち受けている。

 光を通さぬ暗がり。内部で蠢く()()()。悲鳴が焼き付いたような血の残香。

 この中で自分がどうなるのか、彼女は聞いていない。聞く気もなかった。気が滅入るだけだからだ。


 父たるサダクも再び仮面をつけてクラウディアの横に佇んでいた。

 拘束はされていない。監視もおざなりだ。だが、少女はもう逃げることはできなかった。

 逃げれば、誰に、どれほどの迷惑がかかるのか悟ってしまったからだ。

 サダクがそうと告げたわけではない。

 だが、吸血鬼の未来の為なら、父は躊躇なく人間を手にかけるであろうこともまた、少女は理解していた。


「何か言い残すことはあるか?」


 ふと、サダクがそんな言葉を告げた。遺言を聞く乾いた声音だった。


「お父さま、仮面をとっていただけませんか? それがマナーだとわたしは教わりました」

「……いいだろう」


 石棺から父に視線を向けると、サダクはややあって頷きを返した。


「サダク様!? この高度ではお身体が――」

「喚くな。動ずるな。私なら問題ない。作業を続けろ」

「しょ、承知いたしました!」


 部下たちが慌てて散っていき、二人の間に静寂が訪れる。

 そうして仮面を外せば、そこにあったのはいつもと同じ父の顔だった。

 怜悧な表情、娘を犠牲にすることに呵責を感じているようには見えなかった。


「これで満足か、クラウディア?」

「はい。……目を見ればわかります。お父さまはご自分の意思でわたしを捧げるのですね」

「そうだ。誰の指図も受けていない。私は、私の意思でお前を殺す。恨むか、クラウディア?」

「いいえ。それが、わたしの生まれた意味なのですから」


 恨むとすれば、あの時この搭から飛び降りた自分だけだ。

 そのせいで多くの人に迷惑をかけた。吸血鬼である自分を受け入れてくれた勇気ある人たちを傷つけた。

 だから、ここで死ぬのが“正しい”のだとクラウディアは理解した。



 ――――自分は、存在するべきではなかったのだ。



「準備が整いました、サダク様」

「クラウディア」

「……はい」


 なのに、なぜ声が震えるのか。足が竦むのか。

 消えてしまいたいと願うのに、なぜ死ぬことを恐れるのか。


 クラウディアはサダクに背中を押され、ふらつく足取りで一歩ずつ石棺へと進んでいく。

 中から漏れだす冷気がひやりと頬を撫で、まるで見えない手に引かれるように中へ中へと引きずり込まれていく。

 石棺の中は暗闇だった。黒々と燃える炎。吸血鬼を焼き尽くして霧に変える地獄の窯だった。

 感じるのは、むせかえるほどの血の匂い。これまでに何人の兄姉がこの石棺に喰われたのか、クラウディアには想像もつかない。

 それでも以前は逃げられた。決死の想いでこの塔から飛び降りることができた。

 今度はそれすらできない。ただ、底のない絶望だけがクラウディアを支配していた。


 クラウディアは歩き続ける。

 何も感じていないと自分に言い聞かせて、震える足で歩を進める。

 そうして石棺に押し込まれる刹那、聞き逃してしまいそうなほど小さな、父の声が聞こえた。


「……彼奴は来なかったな」


 びくり、とクラウディアの肩が震える。

 父の声には不思議と落胆の色が滲んでいた。それが何故なのかは少女にはわからなかった。

 少女はただ俯き、唇を噛んで漏れそうになる言葉を押し殺していた。

 来てほしくなどない。あの不器用で無愛想で、けれど心優しい少年が傷つくところはもう見たくなかった。そう自分に言い聞かせる。

 だから、これでいいのだと。クラウディアは溢れそうになる心を押し込めて石棺に手をかけて――



 ――――カツン、と高らかな足音を聞いた。



 はっと顔を上げる。

 聞き覚えのある足音。重く、硬質で、人間とは思えないほど規則的なそれ。

 彼女の鋭敏な聴覚が聞き違える筈がない。今ほど吸血鬼に生まれたことを感謝したことはない。

 この音は、あの街で目覚めたときからずっと傍にあった音なのだ。

 彼女が困ったときはいつだって、この音が聞こえてくるのだ。

 そして――そして、彼はいつもの無愛想な表情で告げるのだ。



「――すまない。遅くなった」



 そのひと言でクラウディアの視界に色彩が戻った。

 目に映るすべてが鮮やかに色づいていく。

 なのに、視界が滲んで、一番見たいものがよく見えなかった。


「エミス……!!」


 もう一度会ったら言いたいことがたくさんあったのに、押し殺していた心が溢れて、溢れて、言葉を紡ぐことができない。

 なぜ来たのかと問うべきなのに、嗚咽ばかりがその喉を震わせている。

 その間にも、エミスは足音を響かせて少女へとまた一歩近づいていく。


「重ねて謝罪する。僕はまた足を止めてしまうところだった。君を助けたことを後悔するところだった」

「そんな!! だって、わたしがいたからナフィルナさんは――」

「あたしがなんだって?」


 エミスに続いて頂上に続く扉からナフィルナがひょっこりと顔を見せる。

 思わぬ再会にクラウディアは状況も忘れて、驚きと喜びのあいまった表情を浮かべた。


「ご無事だったのですね!! ああ、よかった……」

「当り前さ。あの程度でやられるほど、あたしはヤワじゃないよ!!」


 誇らしげに胸を張るナフィルナの背後には続々と街の住民が続いてる。見覚えのある顔も、ない顔もいる。

 それでも、全員が戦意も高らかに吸血鬼と相対している姿に、クラウディアは驚きと困惑と、微かな喜びを感じてしまった。


「みなさん……どうして、もう街は襲わないってお父さまは……」

「そいつに答えるのはあたしたちじゃないよ。ね、エミス?」

「ああ」


 エミスは頷き、堂々とサダクの横を通り過ぎた。

 サダクは止めなかった。感情の窺えない真紅の瞳で、ただエミスを見下ろしている。

 そうして、カツン、と最後の足音を響かせて、エミスはクラウディアの正面に膝をつき、手を差し出した。


「君を迎えに来たんだ――“クラウ”」

「エミス……」


 初めて少年に呼ばれた愛称は、想像以上に少女の胸に響いた。

 心が通じ合った実感が、あたたかな涙を再び零させる。


 最初は無関心とすれ違いから始まった。

 落ちてくる少女と、灰色の少年。


 ――助けてくれるなら、誰でもよかった。

 何も知らない少女にとって、はじまりはそうであったのかもしれない。


 ――助けられるなら、誰でもよかった。

 師の影を求めていた少年にとって、はじまりはそうであったのかもしれない。


 けれども、今は違う。

 少女が心から求めるのは少年であり。

 少年が手を伸ばすのもまた、彼女の為なのだ。


「帰ろう。君が捧げものになる必要などない」

「そんな、いまさら……わたし、こわくても、これだけはって……生きていてはいけないんだって」

「本当にすまない。でも、僕にも“幸い”がなにか、やっとわかったんだ」


 エミスは微かに目を伏せた。

 人として生きて“幸い”をみつけろと、そう言われて師匠に置いて行かれた。

 だが、これまでのエミスには“幸い”なるものの正体はわからなかった。だから、迷っていた。

 それは気づいてみれば当たり前のことだった。


「僕の中に“幸い”はない。その暖かなモノを僕はどこかに置いてきてしまった。それが僕の中に帰ってくることはない」

「エミス……」

「だけど、だからこそ、みつけたんだ」



 ――――君の笑顔が、僕の“幸い”だ。



「それがわかった。君のおかげでわかった」


 この答えが正しいかはわからないし、知ったことではない。

 けれども、それでもいいのだと、他ならぬ自分が決めた。


「僕は君を守る。君を笑顔にしてみせる。だから、泣くな、クラウ」

「エミ、ス――」


 ついに、クラウはエミスの手を取った。

 おずおずと伸ばした細い指先が力強く引かれる。

 吸血鬼よりも冷たい手。けれども、心は暖かい。

 そうして、少女は石棺を脱出した。

 数瞬ぶりの陽光がひどく眩しくて、嬉しかった。



「選択を違えるか、クラウディア」



 その瞬間、ずっと沈黙していたサダクが動いた。

 ふたりの前に立ちはだかり、すらりと腰の剣を抜く。

 黒鋼(クロム)の剣、王の証。故に、サダクが選択を違えることはない。


「吸血鬼を裏切るか、我が娘。人間を選ぶか、クラウディア。その先は茨の道だぞ」

「そ、それは……」


 突きつけられた剣先に、恐怖よりも従わなければという想いが先立つ。

 絶対の庇護者にして、かつて少女の全てだった者の言葉は、重い。

 だが、少女は今やひとりではない。よろめく小さな背中を、エミスが支えた。


「君の本音を言ってやれ、クラウ」


 その一言は、万の言葉よりも少女を勇気づけた。

 クラウは一歩前に出て、生まれて初めて父の顔を真っ直ぐに見上げた。

 どこか面影の似た真紅の視線が交わされる。

 怯んだのは、はたしてどちらであったのか。


「わたしにはお父さまがなさることが“正しい”ことなのかはわかりません」

「……」

「それでも――それでも、わたしは生きたい!! 生きたいのです、お父さま!!」


 娘の心からの叫びにサダクは一瞬、表情を歪めた。

 ずっと目を背けていた何かを突きつけられたような、そんな表情だった。


「……ならん」


 それでも、王としての矜持故か、サダクが突きつけた剣先は揺るがなかった。

 クラウの頬を涙が零れ落ちた。覚悟していても、父の言葉は胸に刺さった。


「では、押し通らせてもらう」


 だが、エミスがそっとクラウの背を押してナフィルナの許へと向かわせた。

 一度はその胸を貫いた剣先に、しかし、怯む様子すらなかった。


「エミス!?」

「心配するな、クラウ。僕は大丈夫だから、先輩たちと先に戻っていてほしい」

「な、そんな!? 待って、エミス!!」

「もう一度だけ僕を信じてくれ、クラウ。それだけで――僕は勝てる」

「――!!」


 そう言って、エミスは微笑んだ。

 涼風のような笑みに、クラウは数瞬、周囲の状況を忘れた。

 その笑みに否を返すことはできなかった。惚れた弱みだった。


「……ぜったい……ぜったい帰ってきてくださいね、エミス!!」

「約束する、必ず帰る。……先輩、頼む」

「あいよ。クラウを泣かすような真似するんじゃないよ、後輩!!」

「それは難しい注文だ」


 ――なにせ、今から彼女の父親を倒すのだから。


 撤退していく仲間たちを見送って、エミスはサダクへと向き直った。

 終わりの時が近づいていた。


 そして、エミスが人間でいられる時間も、また――。


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