10
懐かしい夢の感触がする。
タールのようにべったりと後悔のこびりついた夢だ。
「何故僕を置いていくのですか、師匠!?」
太陽も沈んで久しく、月光も霧に閉ざされた夜半。
うらびれた工房に少年の叫びが響く。灰色の髪に灰色の瞳をした十五,六歳と思しき少年は必死の形相で声を嗄らす。
だが、彼を拾い、育てた「師匠」は振り向くことなく、無言で出立の準備を続けていた。
思わず少年は師の肩へ手を伸ばし、しかし、触れることはできなかった。
少年の身体はあらゆる異形にとって毒だからだ。触れるだけで師を融解させてしまう。
仕方なく、少年は腕の代わりに言葉を差し伸べる。心のどこかでそれが無駄であると理解しながら。
「連れて行ってください。必ず役に立ってみせます!! 命じてください。吸血鬼を滅ぼせと!! そう一言命じていただければ、僕は……僕は」
それ以上は続けられず、少年は悔しそうに唇を噛んだ。
師の下で多くを学んだ。ハンターの戦い方を身につけた。全霊をとしておのれを鍛えた。
師のためだ。自分は強くなったのだ。この強さがあればきっと、きっと……。そう信じて。
無論、自分の戦闘技術はいまだ最古のハンターである師に及ぶものではない。少年は自己をそう評価している。激戦区に赴けば、足手まといになることもあるかもしれない。
それでも譲れないものがあった。
少年は知っている。
いかに不老長寿を誇る吸血鬼であろうと肉体は摩耗する。人間を遥かに超える賦活能力にも限界があるのだ。数百年にわたる同族殺しで師の体は既に限界に達している。老いに似た劣化に犯され、その命はもう幾ばくもない。
少年に見えるのは、師匠の老いさらばえた背中だけ。ずっと人々を守り続けてきた背中だ。それを少年は誇りに思う。
だが、その背に他者からの称賛が与えられることはなかった。
人間からは吸血鬼と恐れられ、吸血鬼からは裏切り者と罵られる日々。
その茨の旅路に少年はずっと付き添って来た。だからこそ、最後の最後で置いて行かれるなど思いもしなかった。
この身は吸血鬼を滅ぼすために生み出され、
吸血鬼を滅ぼすために鍛えられ、
吸血鬼を滅ぼすために技術を学んだ――兵器なのだと。
そう信じて疑わなかったのだ、この瞬間までは。
「命令してください。ついて来いと。吸血鬼を滅ぼせと。お願いします。どうか……」
僕を、ひとりにしないでください。
その利己的な一言を少年は口にできなかった。身を切るような懇願はついぞ言葉になることはなかった。
「……命令する」
「ッ!!」
そのとき、出立の準備を終えた師がゆっくりと振り向き、少年に向かってそう告げた。
はっとして少年は俯いていた顔をあげた。
視線の先、皺にまみれた中で、老いてなお鋭い眼光が少年を真っ直ぐに見据えていた。
少年は嬉しかった。自分はまだ用なしではなかったのだ。
今ならどんな命令でも受け入れる覚悟が少年にはあった。なんとなれば、万の吸血鬼が巣食うという地下都市に特攻して来いと言われても、喜び勇んで向かっただろう。
この人に尽くし、この人のために死ぬこと。それだけが自分の存在理由なのだ。
「――エミス、人として生きて、そして“幸い”をみつけなさい」
瞬間、呼吸が止まった。師の告げた命令を脳が理解することを拒んだ。
その命令は少年の予想だにしないものだった。おまけに不合理だ。おのれは兵器なのだ。“幸い”などという概念は定義されていない。
多くを学びながら、しかし、その概念は少年にとって未知だった。
驚愕と困惑に硬直する少年に対し、師は困ったような悼むような表情をした。
そして、懐から懐中時計を取り出し、その鎖を少年の首にかけた。真鍮製の無骨な作りのそれはいつも師が持っていたものだ。
はじめて作った作品なのだ、と照れくさそうに言っていたことを少年は覚えていた。
それで事情は察せられた。――これは形見分けなのだ、と。
「やっとわかった。お前こそが私の夢だったのだ」
「な、にを……言って……」
少年は辛うじて嗚咽を呑み、問いを返す。命令の意味は理解できない。師の夢が何なのかも知らない。
だが、わかることもある。少なくとも、これが師に見せる最後の顔ならば、泣き顔は見せられなかった。
「心配するな。お前は自慢の弟子だ。きっとおのれの“幸い”をみつけられる」
そう言って、師は表情を変えた。同族と戦い続けた長い長い半生を窺わせない、幸福に生きた者が末期の際に見せるような穏やかな一瞬。
それは、師が少年にはじめて見せた微笑みだった。
「師匠……」
ですが、その中にあなたはいない。僕は最期の瞬間まであなたと一緒にいたいのです。
きっと、そう言うべきだった。
言えば、なにかが変わったかもしれなかった。なのに、少年の喉は凍り付いたように言葉を発さなかった。はじめて見る師の笑みがあまりにも眩しくて、なにも言えなかった。
師の命令に従うのが“正しい”のだとその脳裡に刻まれた思考に告げられて動きを止めてしまった。
それきり言葉を交わすことはなく、少年は夜霧の中に消える師の背中を呆然と見送った。
この後に及んで、少年は正しさの奴隷だった。
一年経った。師は帰ってこなかった。
少年は日課の訓練と武器の整備を終えると、日がな一日中、工房の前で師の帰りを待った。
帰ってきた師に一番に声をかけるためにずっと待ち続けた。
しかし、どれだけ待っても師の姿を目にすることはなかった。
三年経った。少年はようやく工房を出ることを決意した。
命令だからだ。人として生きること。そして、“幸い”をみつけること。
その言葉の意味すらわからない自分だが、ここで待ち続けているだけではみつからないことはわかった。
だから、出て行かなければならない。命令を違えることは許されない。それが最後の命令ならば尚更だ。
「……さよなら、師匠」
見送る者のいない寂れた工房に離別の言葉を投げかけて、少年は歩き出す。荷物は首から提げた形見の懐中時計だけ。あとはすべて思い出と一緒に置いていく。
耳の奥で、カチ、カチと響く歯車の音が鳴りやまない。踏み出す行く先には暗澹とした霧が凝っている。それでも、足を止めることはできない。
涙は流れなかった。振り返ることもなかった。
ただ、あのとき無理にでもついて行くべきだったと、そんな後悔だけが胸の内に宿っていた。
そうして、五年が経った。
少年は再び吸血鬼に出会った。
◇
「――スさん。エミスさん!!」
ふと、名前を呼ばれた気がしてエミスはまぶたを開いた。
目の前に吸血鬼がいた。灰瞳が機械的に収縮する。
反射的にその首に手をかけて――それが同居人だと気付いて、慌てて動作を停止させた。
「大丈夫ですか、エミスさん!?」
「……クラウディア」
ようやく思い出した名前を呼ぶと、クラウディアはほっと胸を撫で下ろした。
自身に迫っていた危険には気付いていないようだった。エミスは頭痛を堪えるように額に手を当てた。
途端に、少女は再びあたふたと慌てだした。
「どこか具合が悪いのですか? うなされていたので起こしたのですけど……」
「いや、大丈夫だ。気遣いに感謝する」
ベッドから身を起こす。見れば、クラウディアはワンピースの上からエプロンを身に着けていた。
“赤色”には劣るが、吸血鬼も普通の食事から栄養を摂取できるとわかって、ナフィルナが料理を教えていた、と記憶が告げる。
実際、朝食の調理中だったのだろう。少年の鋭敏な嗅覚は肉の焦げる匂いを捉えた。
「焦げてる」
「あ!?」
端的な指摘に、クラウディアがぴょんと跳ねてキッチンに転がりこんでいく。
直後に悲鳴と合成ベーコンの焼ける音が聞こえたが、どうにか救出に成功したらしい。
しばらくして、リビングにひょっこりと顔を出した少女は額の汗を拭い、輝くような笑みを浮かべた。
「忘れてました。あらためて、おはようございます、エミスさん」
「……おはよう、クラウディア」
それがエミスが吸血鬼の少女を拾ってから七日目の朝のことだった。
◇
「今日は北区の倉庫街に行く」
少々焦げ気味の合成ベーコンを丁寧に切り分けて口に運びながらエミスは言った。
向かい合って座るクラウディアは首を傾げ、小さな口で齧っていたトーストを一旦皿に置いた。
「倉庫街、ですか?」
「錬金術ギルドが研究用に解体したゴーレムが放置されているらしい。それでこの街のゴーレムは全部だ」
「じゃあ!」
「貴女の仕事もひとまずはこれで一区切りとなる」
「やった! ありがとうございます!」
「僕に礼を言われても困る。それに、喜ぶのもまだ早い。最後まで気を抜かないように」
「は、はい……」
花開きかけた笑みをしゅんと萎ませて、しょんぼりとした表情のままクラウディアは朝食を再開した。焦げ気味のベーコンが妙にしょっぱく感じられ、口直しに薔薇の花弁を啄む。
七日も一緒に暮らしていれば同居人の性格にも慣れそうなものだが、エミスのこの起伏のない態度にはどうにも慣れそうになかった。
無関心というわけではない。
むしろ、クラウディアの目から見ても、エミスが端々に気を配っているのがわかる。彼女が街を出歩いても罵声ひとつ聞こえないのは、先日の街長の宣言のためだけではないだろう。
テオという名の少年の憎悪や、ナフィルナのどこか複雑そうな感情とも違う。エミスは心から自分を気遣ってくれている。義務感や責任感だけではない想いを、クラウディアは確かに感じている。
(ただ――)
ただ、平時のエミスは驚くほど無愛想なのだ。
笑った顔など見たこともない。彼女が料理に失敗しても顔を顰めることすらしない。まるで表情というものをどこかに落としてきたのではないかと思うほど、変化に乏しい。
遠目に見た街の人たちがくるくると表情を変えるのを見てしまったからこそ、クラウディアはそこに不安を感じていた。
この人は、自分が傍にいるせいで笑えないのではないか、と。
「ごちそうさま。……あまりのんびりはしてられないぞ」
「あ、はい!」
やんわりと促す声を掛けられ、クラウディアは思考を中断して朝食の残りを片付けにかかった。
ちらりとテーブルの向こうを見れば、エミスは何をするでもなく懐中時計の文字盤を眺めている。
蓋を開けていると、カチ、カチと、いつもエミスの胸元にある規則的な歯車の音が、クラウディアの許まで届いてくる。
「その時計いつも持っているのですね」
「師匠の……育ての親の形見なんだ」
「っ!! す、すみません……」
「気にしないでいい。もう何年も前の話だ。僕も心の整理はついている……と思う」
ぱちん、と蓋を閉じ、エミスは傷ひとつない表面を指先でそっと撫でた。
「この時計は師匠の初めての作品だったらしい。真鍮は師匠の触れられる数少ない金属だったから……」
「数少ない? まさか、エミスのお師匠さまは吸血鬼だったのですか!?」
「そうだ。貴女たちが“裏切り者”と呼ぶ吸血鬼。
名を捨て、人間に与した裏切り者。それが僕の師匠だった……」
エミスは僅かに頬を緩めて言葉を途切れさせた。憧憬というにはあまりに儚いその表情に、クラウディアは胸が締め付けられるような想いがした。
裏切り者、同族を裏切った吸血鬼については城でも何度か噂になったのを聞いたことがあった。
“親”を殺してその頚木を外れた吸血鬼は名を剥奪され、騎士に追われる。そのうちの幾人かは同族を裏切って人間と手を組んだのという。エミスの師匠もそのひとりだったのだろう。
そして、きっと優しい人だったのだろう。エミスの淡い表情がそう語っている。
「師匠はずっと人間の為に戦っていた。本当にただそれだけだった。何故そこまでできたのか、吸血鬼の貴女にはわかるだろうか?」
「……っ」
灰色の錆びた瞳が少女を見つめる。
きっとこれは、本来なら自分なぞに語るべきでなかったであろう想いだ。心の奥底に土足で踏み込んでしまった罪悪感がクラウディアを苛む。
少女は咄嗟に謝ろうとして、しかし、何と言えばいいのかわからず言葉を詰まらせた。
そのうちに、エミスの顔からは淡い表情すら抜け落ちて、いつもの無愛想な面に戻ってしまった。
「余計なことを言った。もう仕事の時間だ」
「……はい。着替えてきます」
気まずい雰囲気のまま二人は食卓を立つ。エミスは迷いのない足取りで玄関に向かって行く。
いつものことだ。クラウディアが着替えている間に「少し霧を払ってくる」のだという。地上の言い回しは彼女にはまだ難しかった。
遠ざかっていく背中に少女は手を伸ばし、しかし、その手は何も掴むことがなかった。




