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 街の方から時刻を告げる時鐘の音が六度聞こえてくる。

 気付けば日が暮れかけていて、防壁から伸びる影が濃く地面を覆っている。

 防壁に囲まれているゲティーリアでは実際よりも早く日が沈む。気温も低くなり、少しずつ霧が濃くなっている。

 足元に侍るピットも先ほどからしきりに街の出入り門の方に振り向いている。

 懐中時計を開き、改めて閉門の時刻が近付いているのを確かめたエミスは、新たなゴーレムに取り掛かろうとしている少女に声をかけた。


「クラウディア、そろそろ刻限だ」

「も、もう少し。もう一体だけ……!」


 泥だらけになりながら、クラウディアはそう言って更に一体のゴーレムを直した。

 エミスも数えるのを放棄して久しいが、既に百体単位で直しているだろう。それでも終わりはまだ見えない。

 個々の修復にかかる時間こそ短いものの、如何せん街ひとつを賄う農耕用ゴーレムは数が多い。一晩徹夜したくらいで終わるものではないだろう。


「いい加減にしろ、クラウディア。貴女は追われている身で、夜は吸血鬼の時間だぞ」

「うぅ……はい」


 温度のないエミスの指摘を受けて、クラウディアは直しかけのゴーレムを労るように撫でると、名残惜しそうに畑を後にする。

 エミスは呆れの滲む溜め息を吐いた。まさか一日で全部直そうとするとは彼も予想していなかった。

 不老の身がそうさせるのか、良くも悪くも吸血鬼は気長な者が多い。彼女のような性急な気質は異端だろう。


(いや、これも街の者に認められたいからか……)


 そう思いなおし、エミスは泥だらけの少女に対して僅かに憐憫を覚えた。

 彼女がどれだけ勤勉に働こうとも、認めようとしない者は絶えないだろう。

 怨恨は慈悲や寛容で拭うことはできない。エミスはそのことをよく知っている。


「遅くなってすみません、エミスさん」

「いや……」


 頬を土で汚したまま、しょんぼりとするクラウディアを前にエミスは言葉に迷った。

 漏れ聞く彼女の半生を考えると、おそらく今日、彼女は人生で初めて働いたのだろう。

 それが認められないことが、エミスには“正しい”ことだとは思えなかった。

 だからきっと、それは気の迷いだったのだ。


「……よく、がんばったな」


 エミスはクラウディアのつば広帽子を押さえるようにして、そっと少女の頭を撫でた。

 少女は驚いたように目を見開いて、そして、じわりと目端を潤ませながら微笑んだ。


「はい、ありがとう……ござい……」


 次の瞬間、ふらりと少女の体が傾いだ。


 エミスは咄嗟に手を伸ばして矮躯を支えた。

 少女の体からふわりと薔薇の香りが舞い散った。


「大丈夫か?」

「すみません……なんだか、からだが重くて……」

「それは疲労だ。吸血鬼にとっては錯覚に過ぎないが……経験がなければきついだろう」


 呆れたように言って、エミスは少女の背と膝裏に腕を差し入れて抱き上げた。

 吸血鬼の少女は腕の中におさまるほど小さく、羽毛のように軽かった。


「あ、わたし、よごれて……」

「気にするな。辛いなら眠っておくといい。家にはまだ薔薇の残りもある」

「バラ……」


 茫洋とした声を発しながらも、クラウディアはおずおずと両腕をエミスの首に回した。

 やけに素直だなとエミスは訝りつつも帰路に就こうとして――


 ――刹那、その首筋をひやりと冷気が撫ぜた。


 それはひどく懐かしい、吸血の予感だった。


「――――」


 少年の貌から表情が抜け落ちる。

 今日一日感じていた筈の眩しさや暖かさが消え失せていく。

 代わりに、心臓がカチ、カチと冷たい鼓動を鳴らす。

 あたたかい夢から覚めるような心地がした。

 代わりに、冷たい灰色の現実を思い出す。


『――お前は吸血鬼を滅ぼすために造られた』

『――感情を捨てろ。お前は兵器に過ぎない』


 少女を気遣う思考の代わりに、古い言葉が脳裏を占める。

 最初の言葉。その身を定義した存在理由(プロトコル)が繰り返し再生される。

 エミスは醒めた瞳で腕の中の吸血鬼を見下ろす。

 徐々に圧を増していく灰色の瞳に気付いていないのか、吸血鬼はその身を苛む衝動のままに牙を伸ばし、少年の首筋に突き立てる。


「だ、め……」


 その直前、首に回された腕にぎゅっと力がこめれた。

 牙が少年の首に触れる寸前で止まる。熱のこもった吐息が少年の首筋をくすぐる。


「わたし……いや……やっと、地上に……」

「貴女は――」


 少年は灰瞳を見開いた。いつも無愛想にしていた顔に驚きの色が浮かぶ。


 実のところ、生物的な観点から見れば、吸血鬼は人間の血を吸う必要はない。薔薇なりから“赤色”を摂取出来ればそれで事足りるからだ。

 しかし、吸血鬼は人間の血を吸う。啜ってしまう。

 人間を雛型に生まれた彼らは、己の中の欠けた何かを人間に求めるのだ。

 その本能をして「吸血衝動」と呼ぶ。

 強烈な飢餓感と甘美な誘惑を伴う吸血衝動はたやすく耐えられるものではない。

 人間に置き換えれば、砂漠で七日ぶりにオアシスに辿り着いた瞬間に匹敵するという。

 少年の師ですら、ひとたび衝動に駆り立てられれば容易には抑えることができなかった。

 だからこそ、師は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「――クラウディア」


 命令は今も脳裡に再生されている。

 それでも、エミスはその深淵から目を背け、代わりに少女の名を呼んだ。

 どんな言葉より、態度よりも。息を荒らげ、内なる衝動に打ち克とうとするその姿が少女の覚悟を示していた。

 寿命や後の消耗に目を瞑れば、吸血鬼は自己の肉体に関して如何なる術も施せる。

 弱点はおろか、ごく短時間ならば吸血衝動も抑制できる――理論的には、だ。

 だが、いかに抑制しようとも、生半可な覚悟では呼吸を止めることはできない。

 誘惑をはねのけ、本能を凌駕するほどの意思。それだけが吸血衝動に打ち克つ特効薬なのだ。


(貴女は本当に地上ここにいたいのだな)


 ――あるいは、この瞬間だったのかもしれない。

 ――エミスという少年が、クラウディアという少女を目にしたのは。


 これまでの少年にとって、少女は路傍の石に等しかった。

 長い人生の中でふと躓いた小石。

 邪魔だと思えば、余所へ蹴り捨てるだけのモノ。

 だが、そうではなかった……そうではなかったことに、気付くことができた。


「――貴女は“幸い”がなにか知っているのかもしれないな」


 規則的で、それゆえに冷たい金属の鼓動が遠のいていく。

 吸血鬼が人の中で生きたいと心から願っている。

 生まれ持った宿痾さえ乗り越えようとしている。

 エミスにとって重要なのはそれだけだった。

 それさえ信じることができるなら、彼女がどのような役目(モノ)であろうと、構わなかった。

 ……それが、かつて師にすることができなかった代償行為とわかっていても、構わなかった。


「……大丈夫、落ち着いて、ゆっくりと息を吐いて」


 霞みがかった真紅の瞳を間近でみつめながら、エミスは一言一言ゆっくりと言い聞かせる。

 胸の奥でカチ、カチと歯車が鳴る。

 少女がか細く掴んだ意識を手放さぬよう声をかけ続け、小さな額に浮かんだ脂汗を拭ってやる。

 そうして五分、十分と経った頃、徐々にクラウディアの呼吸が落ち着いてきた。

 代わりに、すうすうと寝息が聞こえてきた。どうやら峠は越したらしい。


 エミスは小さく安堵の息を吐いた。腕の中にはあどけない寝顔を浮かべた吸血鬼がいる。

 泣きたくなるほど軽いその重さが、今は心地良い。

 自分のしたことが“正しい”のか、少年には判断できない。

 それでも後悔はなく、不思議と心は軽かった。

 太陽が沈む。霧の向こう、青から黒へと移りゆく空には、冴え冴えとした月が浮かんでいた。



 ◇



 翌朝、エミスが日課から帰ってくると、なぜか玄関先でクラウディアが縮こまっていた。


「起きたか、クラウディア。調子はどうだ?」


 昨日のこともあって念のため尋ねると、途端に少女はぶわりと目に涙を浮かべた。


「あのあの、わたし、昨晩の記憶がなくて、気付いたらベッドの上だったのですが……な、なにか粗相を……?」

「ん、ああ。粗相と言えば粗相だが」

「や、やっぱり!! ごめんなさい!!」


 額が床にめり込むような勢いで頭を下げる少女を前にエミスは困ったように頬を掻いた。この様子だと吸血衝動が起こったことは覚えていないようだ。

 昨夜のことを正しく伝えるべきかエミスは迷った。

 伝えればおそらく少女は気に病んで街を出ていくだろう。

 それは街の大多数の者にとっては種々の危険の排除される“正しい”選択だが、なんとなく……なんとなくエミスは納得がいかなかった。


「大したことじゃない。ただ……うむ、今後も僕の傍から離れないように」

「は、はあ。わかりました」


 ひとまずエミスは結論を先延ばしにした。

 少なくとも自分が傍にいれば最悪の事態は防げるだろうと、そんな論理で己の中で声高に叫ぶ正義に蓋をした。

 煙に巻かれたクラウディアは不思議そうにしながらも、頷いて応諾を返す。

 昨日の自分が何をやらかしたのか激しく気になったが、それを問う勇気は少女にはなかった。



「ところで、朝起きたらまた裸だったのですが、それは……?」

「服が汚れていたからな」


 少女は再び床に突っ伏した。


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