赤紙と白い小石
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とある明治生まれの、働き者で気丈だった女性のお話を・・・・・・。
母方の祖父母は、まだ「大日本帝国」がわが世の春を謳歌していた大正時代に結婚しました。今では信じられないでしょうが、結婚式の日に初めてお互いの顔を見たのだとか。
当時はそんな結婚も珍しくなかったそうです。
初対面でいきなりの結婚とはいえ、祖父母は不仲ではありませんでした。祖父は当時よくいた強権的な男性ではなかったそうです。
なんと特技は編み物で、子供たちのセーターや襟巻きや手袋を編むのは朝飯前。農閑期になると修行僧の姿で野山を駆け回ったりもしたそうです。
夕餉のおかずは家族みんなに平等に同じ物を食べさせる。そんな性格の男性でした。
彼女はこの結婚を「不幸せとか、おもいもせなんだなあ」と、聞きたがりな私にこっそり教えてくれました。
さて穏やかな生活が続き、夫婦は男子五人、女子四人の合計九人の子宝に恵まれました。
当時の大日本帝国は、富国強兵を合言葉に生めよ増やせよの時代です。
九人の子がいる家庭など珍しくもなかった時代です。
そして、一家の大黒柱が若くして亡くなり、女手一つで子供を育てる家庭も珍しくなかった時代。
九人目の末娘が産まれてまもなく、祖父があっけなく世を去りました。
まだ旧制中学の学生だった長男を頭に、乳飲み子の末娘まで男女九人。頼りにしていた夫を亡くし、祖母はどんな心境だったのか。
けれども、祖母はたくましい明治の女性です。
地場産業の紡績工場で働きながら未亡人の彼女は、がんばって残された子供を育て上げました。
夭折した三男以外、全員成人しました。幼児も死亡率が高かった当時としては稀有なことです。
子供の死亡率が高かった時代、乳飲み子を含めた子供たちを女の細腕で成人させるのがどれほど大変なことか。時代は「戦争」へとまっしぐらに走り始めた昭和初期です。
祖母の不屈の精神に、畏怖の念すら感じます。
この時代、祖母のような女性はたくさんいたのでしょう。そんな女性が、今の日本の礎なのだと私はおもうのですが。
成人した子供の中で、太平洋戦争に出兵して亡くなったのは2人。
史上最悪と言われたインパール作戦で、長男は戦死。
次男は薬品不足と食料不足による病死でした。
補給を無視した無茶で無謀な作戦は、彼らを含め多くの若い人命を奪いました。
彼らを戦地に連れて行ったのが召集令状「赤紙」です。
通常、赤は血の色、命の源の色。
だが、戦時中は、死への招待状でした。
この赤い薄っぺらい紙は、日本や満州や朝鮮半島から何十万人もの若い人を故郷から連れ去りました。
祖母は、戦地に向かう息子二人を笑って送り出しました。
娘の一人が、声を殺して仏壇の前で泣く祖母の姿を見たそうです。
戦死の通知と、病死の報告が届いた時も、彼女は残された子供達の前で泣きませんでした。
数ヵ月後、戦地から遺骨が届きました。
白い小さな骨壷が二つ、それが彼女の息子たちの生きた証です。
残された子供たちが見守る中、彼女は、無言で骨壷の蓋をとりました。
・・・・・・中にあったのは。
指の先ほどの小さい白い小石が数個だけ。
遺骨はどこにもなかったそうです。
この時、彼女は初めて子供達の前で号泣しました。
白い小石を握りしめ、息子たちの名を呼んで、号泣したそうです。
これは、鬼籍にある母方の祖母の話です。
親戚や母から聞いた話を、まとめて書きました。
こんなことが当時の日本中や、占領していた満州で、朝鮮半島で、たくさんあったことと思います。
二度と、こんな思いをする人がいないことを、心から願っています。