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彼女と飲み明かしたあの日のことは、正直よく覚えていない。
散々彼女に飲まされて、辺りが暗くなる頃から先の記憶は飛び飛びだ。
彼女は相当な飲ませ上手だと思う。
だからといって、相手が女だからと一線を越えるようなことはしていない。
支離滅裂な会話をしながら、見てて飽きない人だとつくづく思った。
彼女は堰を切ったように、家族との思い出話を話していた。
父は昭和時代を絵にかいたような頑固おやじで、お酒好きで、缶ピースを吸っていたこと。
父と母は娘の彼女から見てもおしどり夫婦だったこと。
母の作るカレーはいつも水っぽいけれどそれ以外の料理は本当においしかったこと。
兄は陸上の長距離で全国大会に行ったことがあること、彼女とは漫画の趣味は合うが、あまり仲良くなかったこと。
妹とは一番の親友だったこと、彼女いわく妹の方が自分より変わっていると言うので、よほど変わっている人だったのだろう。
それを語る彼女は、活き活きとしていて、今まで見た中で一番魅力的で輝いていた。
僕は基本的に聞き役だった。
これで本当に彼女を助けることになるのかどうかは疑問だったが、大人しく彼女の気まぐれに付き合い、この前僕が止めた『DJ愛子プレゼンツ煮干しのゲームミュージックコーナー』とやらも開催されてしまった。
ちなみに彼女の選曲センスは僕好みですっかり楽しんでしまったのだが。
真夜中にスピーカーから音楽を大音量で流していても、この孤立した家では全く問題はないわけだ。
いつの間にか僕は縁側で眠っていて、早朝に目が覚めたが、約束通り会社はサボった。
彼女は寝るときは縁側の廊下を挟んで奥にある和室にあるベッドに入っていた。
寝相は良く、むしろ死体のように寝ていた。
その寝姿を見ても不思議と性的な気持ちは一切湧いてこない。
やはり僕は彼女が嫌いなのだろうか。
朝から酒を飲まされるので、なかなか帰ることが出来ず、一日と言わず、何日か結局この家に滞在してしまった。
その間、タブレットやパソコンのゲームを教えてもらったり、タブレットで効果写真を撮ったり絵を描いたり、音楽にイコライザを付けて遊んだり、煙草を吸ったり、酒を飲んだり、支離滅裂な話を聞かされたりと、スローな時間が流れる。
その間にも間瀬愛子宛に荷物は届く。
僕の乗ってきた配送車は家の裏に隠されていた。
彼女がいつも買っているのは服やDVD、食料品などが多いようだ。
こうして自分がどんどん堕落していくのが良く分かった。
彼女に付き合っていたら、僕はどんどん駄目になっていくだろう。
ぼんやりした時間だったので、記憶はおぼろげだが、彼女の言葉を一つ覚えている。
「人間の本質を知れ!第一歩は会社を辞めること。次はコミュニティを絶ち切ること。さあ行けえ、煮干し!」
それに対して僕は、「多分、僕はクビですよ」と答えた記憶がある。
配送車を拝借して出歩き、何日も戻ってこないとなると、あの支店長のことだ、即クビだろう。
ちょっとした職務怠慢でもクビになった先輩を何人も見ている。
それに付随して退職者が増えて、そのせいでうちは万年人手不足なわけだ。
数日後。
その予想は大当たりすることになる。
久しぶりに会社に配送車と共に支店に出向いた僕は支店長に大目玉をくらった。
勿論、自主退職扱いで即クビとなった。
それはそれは長い説教を聞かせられ、「これだから若いやつはいかん」という言葉を多分5回ぐらい聞いた。
これまでは真面目にやってきたのにとは思ったものの、不思議と落ち込みはなかった。
きっと彼女のせいだと思う。
それがきっかけとなり、僕の人生は大きく方向転換することになる。
僕は一大決心をして、最低限の荷物をまとめてタクシーで彼女の家を訪れていた。
こうなったのも彼女のせい、ならば彼女に責任を取ってもらおうと思った。
残った荷物は全て金をかけて処分した、今の僕の財産は手元のキャリーケースに詰めた物だけ。
アパートも引き払い、僕にはもう何もない。
そんな状況に自らを追い込んでからここを訪れたのは、僕はいつの間にか顔と胸以外は大嫌いな彼女の虜になっていたからだろう。
縁側に向かうと、古臭い紫色のはんてんを着た彼女がヘッドホンで音楽を聴きながらパソコンを弄っている。
近づいても、やはり僕には気づいていない様子だ。
ヘッドホンを外し首にかけてやると、彼女はゆっくりとした動作でこちらを見上げた。
「お、煮干し」
彼女は僕の私服姿を見て、不思議そうにしていた。
「何、その格好」
「あの後、仕事クビになりました」
「おめでとう」
彼女はにやりと笑ってそう告げると、パソコン画面に目を向きなおした。
どうやらネット麻雀をやっているようだ。
パソコン画面を見つめたまま、彼女は問いかける。
「なんだその大荷物は」
「どうせ部屋はいっぱいあいてるんでしょう?置かせて下さい」
「ここ3Gはかろうじて入るけどテレビの電波悪いよ」
「嫌気がさしたら出ていきます」
「ふふっ…」
彼女はいつになく上機嫌に見えた。
そして、挑戦的で、やはり強気に一言付け加える。
「やっぱ君のこと嫌い」
彼女のその一言は僕にとっては予期できたものだった。
彼女はパソコンを床に置くと、立ち上がりながら、玄関を指さした。
「玄関開けるからそっちから入ってくれるかね?」
そう言われて、玄関に回り、そこから中へと入る。
玄関先を見るのは初めてだった。
古い手入れされていないようなインテリアに囲まれたこじんまりとしたホールのある玄関。
そこで迎え入れるのはなぜかジンの酒瓶を持っている彼女。
「玄関から入るのは初めてだね」
「そうですね」
彼女はおもむろに、持っていた瓶ボトルを掲げると、僕の頭に注ぎかけた。
その行動に僕は思わずびくっと震えて凍りつく。
「ようこそ。歓迎しよう」
僕は後ずさりながら「なっ…なんすか!」と、困惑気味にうろたえる。
「煮干し、君は死んでくれるなよ」
そんなことをいう彼女に、「頭おかしいんじゃないすか!」と文句を言いながら玄関の扉まで後ずさる。
「いいな、全身から酒飲めるなんて」
彼女はそう言ってけらけら笑っていた。
相変わらず、この人は滅茶苦茶だ。
「早速、あんたを殴りたくなった…」
そういうと、彼女は声をあげて笑っていた。
僕の言葉で彼女がこんなに笑うなんて、初めてかもしれない。
こんな時に、ようやく、僕のことを初めて相手にしてくれたような気がした。
桜の葉が茶色く染まり始めた秋の始め。
気の合わない僕らの名もない関係が、この縁側だけが特徴的なウッドハウス調の一軒家で始まろうとしている。
冷え込む日が多くなり、季節はもう冬になろうとしていた。