3.自転車と携帯電話
翌日の夕方は、アルバイトがない日だったので、クラスメイトと放課後30分ほど雑談をしてから学校を出た。
今日はいつもの3人はそれぞれの用事でいないので、駅までが一緒の、クラスの女子2人と帰ることにした。たわいのない話をしながら駅へ向かう。見慣れた広場を通ったとき、不意にそばを自転車が通って行った。かなりのスピードがあったらしく、ふっと風を感じる。思わず通り過ぎた背中を目で追うと、広場をすぎた駐輪場に入って行くところだった。学ランに、大きな黒のリュックが印象に残った。
「びびったあ。ぶつかりそうじゃなかった?」
隣を歩いていたクラスメイトがゆず子に言った。
「ギリギリだったね。急いでたのかな」
そう答えながら、ゆず子は2メートルほど先の地面に黒い物が落ちているのを見つけた。先ほどまではなかった気がする。
(財布か何かかな…?)
タイミング的に、先ほどの自転車少年が落として行った物ではないだろうか。ゆず子はかがみ込むと、黒い物を手に取る。折りたたみ式の携帯電話だった。
「さっきのチャリの子が落としたんじゃん?」
クラスメイトが後ろから覗き込むように言った。もう一人も、かもね、と同意する。
ゆず子は手に取ったそれを眺めながら思案する。3秒後に立ち上がった。
「私、チャリ置き場まで行ってくる!まだいるかもしんないし」
「あ、じゃああたしらも行くよ」
「ありがと。でも大丈夫だよ!もう電車の時間でしょ?私はまだ時間あるし。じゃあまた明日ね!」
そう言うや否や、駆け足で駐輪場に向かう。後ろは振り返らなかった。
駐輪場の中は薄暗かった。広い屋根付きのそこは、ほとんどいっぱいに自転車でうまっている。ゆず子は自転車を使うことがないので、ここに入るのは初めてだった。
(これじゃ、誰が誰の物かわからなくなりそう…)
そんな感想を抱きながら、目的の人物を捜す。目につくところに人影は見えない。きょろきょろと辺りを見回しながら進むと、出口付近に黒い人影が見えた。逆光でよくわからないが、背格好は似ている気がする。
「ちょっと待って!」
早足で自転車の脇をかいくぐりながら、人影に向かって声を張り上げた。けれど影はそのまま外へ消えた。
(聞こえなかったかな…)
遠い距離でなかったとはいえ、相手は音楽を聴いていたかもしれないし、他に注意が行っていた場合もありえる。
ゆず子が遅れて出口から外へ出ると、急に明るい日差しがさし、目を細めた。ふと視線を感じ振り返ると、眼鏡をかけてリュックを背負った学ランの少年が、こちらを窺うように見ていた。
「ああ!いた!」
ゆず子が思わず指をさすと、一瞬驚いたようにびくりとした。
(警戒してるなあ…)
ゆず子は、怪しい者ではないことを示すように笑みを浮かべ、少年に近づく。相手は戸惑ったように一歩後ずさった。
「あのさっ、さっき自転車に乗ってた子だよね?駅前で」
「ここも駅前ですけど…まあ、そう、です…」
戸惑ったままだが、それ以上下がることはなく少年が答えた。
ゆず子は目の前まで歩み寄って少年を見る。思ったより背が高い。見上げた顔は、どちらかというと可愛い感じの童顔だ。全体的に細く華奢で、家で読書やゲームをするのが似合いそうな雰囲気だった。制服に見覚えがないので、この付近の学校ではないのかもしれない。
ゆず子は一瞬で観察すると、本題に移った。
「あのさ、携帯電話落とさなかった?」
えっ、と少年は言うと、すぐさまリュックをおろして外のポケットを開けた。次いで、中のポケットを探る。ゆず子も見覚えのある英語の教科書が見え、(あ、もしかして同じ高1かも)と思った。
ひとしきり探したのか、少し困ったような目でゆず子を見た。ゆず子は無意識に口角を上げると、先ほどの黒い携帯をかばんから取り出した。
「これじゃない?」
少年はゆず子から受け取ると、開いて画面を確認した。
「あっ、別に何もしてないから!中見たりいじったり、アドレス帳とか見てないからね!」
ゆず子は弁解するように言った。何もしていないのだが、少年の無表情に探りを入れられているように感じた。少年ははっとしたように感じた。
「いえ、そんな風には…。ただ、本当に自分の物か確認しただけで」
「え、と、そう…」
気まずくなってそうつぶやいた。早足で来た反動か、急に顔あたりが暑くなってきた。手で軽くあおいでいると、少年が言った。
「僕のです。ありがとうございます」
笑みというほどでもなくかすかに口角があがっているのをゆず子は見た。
「いいええ、良かったよ!携帯なくすと大変だからね!」
何となく浮き足立った気分で答えた。それきり、言葉が出ず沈黙する。かといってすぐにこの場を離れるのはためらわれた。
少年は携帯を操作して何かの画面を確認しているようだ。指の動きが止まると、ぱちんと携帯をたたんで顔を上げる気配がした。かぶせるようにゆず子は声を発する。
「どこの高校!?」
思ったより大声が出てしまい、内心冷や汗をかく。言われた相手は、さほど動じていなかった。
「え?ああ…南工業です。」
「すごいね!頭いいんだね」
ゆず子はお世辞ではなくそう言った。南工業高校は、普通校とあわせた中でもかなりレベルの高い学校だ。スポーツも盛んで、インターハイにも出ている部があることで有名である。
「頭いい人はいますけど僕は別に…」
「えーでもすごいよ。理数系得意って、なんか憧れる!」
「あ、それ良く言われますけど、別に工業だから理数系とかって、そうでもないんですよ?僕は文系の方がまだ良かったりもしますし…」
「私は全体的にいまいちだから〜。西高だしね!」
卑下する訳でなく、ゆず子の高校はレベルが高くない。近くの中学生が普通に行くような学校だ。受験で必死に勉強した覚えはないし、入ってからもあまり勉強はしていない。勉強よりも、友人たちと語り合ったり、アルバイトをしたり、そういう今できることをやることも大事だとゆず子は思っている。それでも最低限赤点を取らないレベルに保っていた。
ただ、相手は西高と言われてもピンと来なかったらしく、返答に困っていた。ゆず子は話題を変える。
「高校の何年?あ、ちなみに私は1年なんだけど…。もし年上だったらすみません…」
相手に問いながら、だんだん声が弱々しくなって行く。
(そういえば、先輩かもしれないじゃん!平気でタメ口だったけど!)
どきどきしながら相手を見つめると、少年は目を細めて笑った。
「僕も1年です」
返答と、柔らかくなった雰囲気にほっとして、ゆず子も顔をほころばせた。重ねて会話を続けようとするゆず子を、少年が遮った。
「ところで…電車の時間がそろそろなので…」
「ああっ!そっか、そうだよね!ごめんなんか引き止めちゃって」
あわててゆず子は駅の方へ足を向ける。
「いえ、こちらこそすみません。ありがとうございました」
少年は手に持った黒い携帯を掲げると、軽くお辞儀をした。丁寧な仕草につられ、ゆず子もぺこりと上半身を倒した。やり慣れていないのがわかるぎこちない礼だった。
「じゃあ、お気をつけて」
ゆず子が顔を上げるが早いか、少年はさっさとゆず子に背を向けて、駆け足で駅のホームへ続く階段に向かった。
(あれっ?おいてけぼり!?)
これまでの流れからして、一緒に駅まで行くつもりだったゆず子は、あっけにとられる。
(まあ、急いでたんだろうしね…)
そう思いながらも、どこかがっかりした気分でゆっくり駅へ向かう。
偶然、携帯電話を拾って、その相手が同年代の男の子だったことに、ゆず子は少なからず浮かれていた。運命とまでは言わないが、なかなかない偶然だと思う。これをきっかけに他校の友人ができるかも、とちょっとだけ期待していた。けれど相手は感謝こそすれ、それ以外のことは全く考えていなかったようだ。
(名前すら聞かれなかったし)
とはいえ、それはゆず子の方も同じなので、お互い様とも言える。ゆず子は気を取り直して顔を上げた。
(あの子はありがとうって笑ってくれたし、私はいいことをした!それでいいね!)
背筋を伸ばすと、階段を上がって行った。