閑話 カーイチのお休みの日 2
意外なことかもしれないが、アグニー達は独自の文字を持っていた。
一音に付き一文字を当てたタイプのもので、覚えるのはさして難しくは無い。
昔から細かい作業が得意だったアグニー族は、仕事の指示などを書き残す文化があったのだ。
ちなみに、アグニーの村に残っていた最古の文章は、数百年前の日記であった。
現在はメテルマギトに保管されているその最初のページに書かれていた内容は、「きょうは、たっくるをしました」である。
健康のために、丸太にタックルを決めていたのだという。
アグニー族はいついかなるときもアグニーなのであった。
人の形になったことで、カーイチは非常に器用に指を使う事ができるようになっていた。
脳が大きくなった事もあり、ずいぶんと記憶力や判断力なども高くなっている。
アグニー族という例があるだけに一概に脳が大きいから賢いとも言えないのだろうが、とにかくカーイチは非常に賢くなっていたのだ。
いくら賢いとはいえ、普通のカラス達はアグニーの文字を読む事ができなかった。
教えようとした事は有ったのだが、残念ながら失敗に終わっている。
かわりに、カラス達に指示を残すための専用の絵文字が開発されていたりした。
エサ箱、アグコッコ小屋など、カラス達の仕事にかかわるものを示した絵文字である。
それぞれの場所にそれを設置する事で、カラス達に覚えこませたのだ。
今ではすっかりカラス達もそれを覚え、円滑な仕事の役に立っていた。
カーイチも、当然のようにそれらの絵文字は覚えている。
だが、最近の土彦による研究により、アグニー文字の習得も可能である事が判明したのだ。
これを一番喜んだのは、ほかならぬカーイチであった。
文字が覚えられれば、色々な仕事が出来るようになる。
手も自由に使えるようになったので、カラスがしている以外の仕事も出来るようになるのだ。
ほかのカラス達のためにしてやれる事も多くなる。
早速文字を教えて欲しいと土彦に頼んだカーイチだったのだが、帰ってきたのはにんまりとした笑顔であった。
「いやいや、私も馬に蹴られて死にたくはありませんから」
言葉の意味がわからず首をかしげるカーイチを見て、土彦は楽しそうに笑い声を上げた。
土彦の笑いの意味がわからず、カーイチはますます不思議そうに首を捻る。
ならば、長老に頼もうと考えたカーイチであったが、土彦はもっといい人物が居ると言い出した。
土彦が推したのは、ギンであったのだ。
これにカーイチは、僅かに難色を示した。
いつもお世話になっているギンの手を、これ以上煩わせるわけには行かないと思ったのである。
だがここで、土彦は電光石火の早業を見せた。
マッドマンを使いギンにカーイチが文字を覚えられる事を伝えると、その場であっという間に文字を教える事を快諾させたのである。
「これで、ギンさんから文字を教えていただけますね」
にんまりと笑う土彦に、カーイチは困惑気味な顔を向けるしかなかった。
土彦から報告を受けたギンが喜んでいる様子は、マッドマンを通してカーイチにも見えている。
これでいろいろな事ができるようになると、ギンは嬉しそうな様子だ。
それを見てしまえば、もうカーイチに否は無い。
ギンがうれしい事は、カーイチにもうれしい事なのだ。
結局、カーイチに文字を教える役目は、ギンがすることになったのである。
一部始終を見ていた土彦は、それはそれは人の悪そうな顔でにんまりと笑っていた。
狩りのお休みの日、カーイチは早速ギンに文字を教えてもらう事になった。
水彦からもたらされた荷物の中には、紙とクレヨンも混ざっていたのだ。
ちなみにエルトヴァエルが渡した表以外のものも大量に入っていたらしく、後で水彦が正座させられたりしたのだが、それはカーイチのあずかり知らぬ話である。
とにかく、ギンとカーイチは、ギンの家で文字の勉強を始めた。
「まずは、名前から書いてみるか」
そう言うと、ギンは一枚の紙にクレヨンを走らせた。
書いたのは、カーイチ、という文字だ。
「これが、カーイチの名前だぞ」
「かー、いち?」
不思議そうな顔をしながら、カーイチはじっと文字を見つめた。
ギンはその様子を見て微笑みながら、一番先頭の文字を指差す。
「これが、か、だな。次が音を伸ばす印で、かー、になる」
「かー」
「そうそう。かー、だな」
「かー……!」
カーイチは表情を見る見るうれしそうなものに変えると、ぱっと顔を上げた。
ギンの顔を見ると、至極うれしそうな声を上げる。
「かー、わかる! 読めた!」
ただのカラスであった頃はただのごちゃごちゃっとしたものにしか見えなかったものが、きちんと文字として認識できた。
それがうれしくて、ギンにそれを伝えたくて、カーイチは興奮した様子で体を跳ねさせる。
カーイチの喜びが伝わったのか、ギンはにっこりと笑うと、カーイチの頭を撫でた。
「そうか! すごいなぁ! 文字、ホントに覚えられるんだな!」
ギンが喜ぶのがうれしくて、カーイチはくすぐったそうに首をすくめた。
指で髪をすくような、優しい撫で方だ。
直接肌に感じるくすぐったさは無かったのだが、なんだか心がむずむずしたのである。
「それで、これがイ、だな。こっちはチ。イチ。わかるか?」
「これ、イ。これ、チ。カと、伸ばすのと、イと、チ。かー、いち」
「そうそう。カーイチ、だな。もう一つぐらい見てみるか? 何がいいかなぁ……」
「ぎん、ぎんがいい。ぎんの名前、書いて」
「俺か? そうだな。字もかぶってないし。いいか?」
ギンはクレヨンを手に取ると、ゆっくりとした動作で字を書き始めた。
カーイチは身を乗り出し、真剣な表情でそれを見つめる。
眉間にしわを寄せ、口をきゅっと結んでいるカーイチの顔を見て、ギンはおかしそうに微笑む。
「よし。出来た。この文字が、ギ。こっちが、ン、だな。あわせて、ギン。俺の名前だ」
「ぎー、んー。ギン!」
「そうそう。ギン」
カーイチは目をきらきらと輝かせ、ギンの書いた文字を指先でなぞる。
ギンの書いているのを見て覚えたのか、書き順や形もなかなか整っているように見えた。
「じゃあ、早速書いてみるか」
そういって、ギンはカーイチの前に新しい紙とクレヨンを置く。
それを見たカーイチは、僅かに表情を曇らせる。
「紙、たかい。たくさん、つかえない」
以前のアグニー達の村は、外貨獲得の手段が殆ど無かった。
そのため、外から買ってくるしかない紙などの品は、非常に希少なものだったのである。
カーイチは、その事をしっかり覚えていたのだ。
そのため、希少な紙を自分が使うわけにはいかないと考えたのである。
ギンは目を丸くすると、すぐにおかしそうに声を上げて笑った、
「なんだ、カーイチ。大丈夫だよ。水彦様がたくさん紙を手に入れてきてくれたんだ。使い切れないぐらいたくさん。だから、悪くならないうちに使っちゃわないと。かえってもったいないだろう?」
不思議そうに首をかしげるカーイチに、ギンは油紙の包みのようなものを取り出して見せた。
中に包まれていたのは、たくさんの白い紙だ。
今度は、カーイチが目を丸くする番である。
「紙、たくさん。水彦様、もってきてくれた?」
「ああ。みんなマッドアイの形を変えるときの、設計図を描いたりしてるよ」
ギンが言う様に、長老やマーク達はマッドアイのデザインや、家の建設計画などに紙を役立てていた。
地球ではPCなどが普及しているために少なくなってしまったが、村規模の大きな仕事をするには、たくさんの設計図などが必要なものなのである。
「俺も貰ったんだけど、俺は狩りの時に記録とか残さないからな。だけど、カーイチが文字を覚えるためなら、使う理由には十分なるよ」
「かー?」
「カーイチが文字を書いたり読めたり出来るようになれば、できる事もたくさん増えるからな。仕事だけじゃなくて、俺が手紙を書いたりとか……って、必要ないか」
ギンは笑いながら、カーイチの頭を撫でる。
くすぐったそうに目を細めながら、カーイチは文字を覚えたら何をしたいか考えた。
ギンとのお手紙は、少ししてみたい。
でも、いつも一緒にいるのだから、必要は無いだろう。
なら、日記と言うのを書いてみるのもいいかもしれない。
ギンは記録しなくても、自分が狩りのときのことを書いたりするのだ。
食べたものを書いたりするのも、いいかもしれない。
文字を書けると言うだけで、こんなに様々な事を考えられる。
それが、カーイチには楽しくてたまらなかった。
「じゃあ、早速書いてみるか。クレヨンの持ち方はわかるか?」
「わかる。ギンが持ってるの、みてた」
ギンに渡されたクレヨンを持つと、カーイチは真剣な顔で紙の前に座った。
最初に書く文字は、もう決めてある。
ゆっくりと、しっかりと。
力加減を気をつけながら、カーイチはその文字を書いた。
「できた」
「出来たって。これ、俺の名前じゃないか。自分の名前を練習したほうがいいだろう? いろいろなものに名前もかけて、便利だぞ?」
「そうだね。そうする」
苦笑しながら言うギンの言葉に、カーイチはコクリとうなずいた。
だが、その顔はとても幸せそうである。
前回の話で、カーイチさんが幸せそうでよかったと言うご意見をいただきまして。
ならばということで書いてみました。
本編には殆ど絡まないお話です。
ていうかカーイチさんとギンがいちゃいちゃしているだけですばくはつしろ。
あと、アルファポリスさんのウェブランキングと言うのに登録してみました。
ぽちっても面倒な事は無いので、カチッとしていただけるとうれしいです。
次回の投稿こそ、謎の着物少女が出てきます。