二十九話 「くるまのめんきょみたいだな」
「にほんえん、まんまだな」
異世界のお金に触れた水彦の第一声ががこれだった。
アインファーブルでは、「ジコッド」と呼ばれる通貨単位が使われていた。
大体、激しい肉体労働者一日の給金が一万ジコッド。
パンが120~150ジコッド。
外食一回が大体500~800ジコッド。
他の物価も大体似たようなもので、感覚は日本円とまったく変わらない。
ギルドで払われる通貨は何か、また、どのぐらいの価値なのか、と聞いた水彦に、ギルド最高責任者のボーガーは懇切丁寧に教えてくれた。
国によって使われる通貨が違うので、質問すること自体は不自然ではないのだ。
「にほんえん、ですか。聞いた事のない通貨ですが」
ボーガーに知りえない通貨など、この世界には存在していないといっていいだろう。
世界最高の情報組織のトップである彼は、様々な情報に精通している。
「ああ、ひとりごとだ。きにしないでくれ」
と、手を振って見せる水彦。
頷きながらも、ボーガーは頭の中のメモ帳にしっかりと「にほんえん」という言葉を記録した。
水彦の正体を探る、手がかりになるかもしれないからだ。
「さて、それでコルテセッカの討伐報奨金なのですが。約二千万ジコッドとさせて頂いておりました」
その金額を効いて、水彦は大いにむせ返った。
二千万である。
二千円ではない。
二千万だ。
今でも忘れもしない、数十年前の事だ。
赤鞘の社を建て替えたときにかかった金額が、現在の価値に換算して約二百万円だった。
当時の金額ではなく、現在の価値に換算して、だ。
完成した社の素晴らしさに、赤鞘は思わずむせび泣いたものである。
それが。
あのゴリラトカゲを倒しただけで、二千万だというのだ。
「たかすぎるだろう」
真顔で言う水彦に、ボーガーは驚いたように目を見開いた。
「いいえ。コルテセッカは人里に下りてくることもあるドラゴンです。もしこの街にきていたとしたら、被害総額は億は下らなかったでしょう」
民家や商店があるアインファーブル内にコルテセッカが入り込めば、たしかに被害額は二千万ではすまないだろう。
水彦だったから平気だったようなものの、ブレス攻撃は実際かなりの破壊力を持っていた。
少なくとも家の2~3軒は一撃で粉々になっていただろう。
たった一発のブレス攻撃でだ。
「死者も少なからず出ていたはずです。被害を未然に防いだと思えば、安いものなのですよ」
「そういうものなのか」
庶民的金銭感覚の水彦には良く分からなかったが、どうやらそういうことらしい。
険しい表情をしながらも、水彦はコクリと頷いた。
「それと。魔獣の引き取り金額ですが。肉は元々換金部位ではない動物ばかりですので、全て一抱えずつ食用にお持ち帰りになるだけでしたら、金額は変わりません」
「くわないのは、もったいないんだけどな」
「食肉にも加工にも適さないとされるものですからなぁ。需要が無いのですよ」
食うやつも使うやつもいなければ、当然買う奴もいない。
水彦が取ってきたコルテセッカ、レッドワイバーン、ハガネオオカミの三種の肉は、食肉店でも扱わないし、飼料にも何かの材料にも成らないと言う。
全て捨てるのはもったいないと、霜降りと思われる部位を一抱えずつキープするように頼んだのだ。
「ほんとうに、くうほうほうはないのか。ほかのしょくいんに、きいてみてもわからないか」
「ううむ。そうですな。では、少し調べてみましょう」
熱心に何度も聴いてくる水彦に折れたのか、ボーガーは調べてみることを約束した。
ここまで食べることに固執するということは、それが何か特別なことを意味するかもしれないと思ったからだ。
実際はただ水彦の食い意地が張っているだけなのだが。
「金額としては、レッドワイバーンが平均一千万。ハガネオオカミが二十万といったところですな。ハガネオオカミはたしか20頭いましたから、四百万ですか」
金額を聞いた水彦は、一瞬気が遠くなった。
顔を振って何とか意識を取り戻すと、再びボーガーに向き直る。
「たかすぎるだろう、だから。あいつらじぶんからおそいかかってきたんだぞ。そんなにめずらしくないはずだ」
「いやいや。あれらもなかなか危険な魔獣ですし、その素材はよい武器や防具になります。それに、質の良い魔石が取れるのですよ」
「ませき。ませきってたかいのか」
「まあ、魔力の塊ですからなぁ。自然に採掘されるものよりも魔獣の体内から取れるものの方が質も良いですし」
ボーガーの口から飛び出した言葉に、水彦は首をかしげた。
「ませきは、さいくつもされるのか」
「ええ。地下を流れる力の流れの影響を受けた宝石などに魔力が多く宿ることがあるのだとか。まあ、私などは門外漢なので詳しくは分かりかねますが」
説明を受け、納得したように頷く水彦。
地球にも、たまたま気脈などの力の流れの中に入り込んだ宝石が、長年かけて力を持つことがあった。
恐らくは、それの魔力版といったところだろう。
生物濃縮と自然に結晶化したもの、といった所だろうか。
「レッドワイバーンとハガネオオカミの魔石は、魔力の質も量もとても優れているのです。今申し上げた予測金額を下回るということは、滅多にありません」
言われた金額でも十二分だというのに、さらに上回ってくるらしい。
それだけの金があれば、一体どんな豪華な鳥居が作れるのか。
水彦は頭痛を覚えながらも、抜けているものについて聞くことにした。
「じゃあ、あのごりらとかげ、ええと、こるてせっかは、どのぐらいになるんだ」
「三千万は超えます」
ごん
一瞬気を失った水彦が、頭を盛大にテーブルに打ち付ける。
「だ、大丈夫ですか?!」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだ。もんだいない。おれは、いきてる。へいき」
なんとなく平気そうじゃない受け答えをしながら、額を押さえる水彦。
小市民な彼に、この金額は衝撃的過ぎたのだ。
このとき水彦の脳内は、常に無く高速で言葉が流れていた。
落ち着け冷静になれ。
ミサイル一発の値段を考えろ。
あいつをやるには普通ミサイルや銃弾がいる。
それを考えれば三千万ぐらいにはなるはずだ。
何せ普通の人間が相手をすれば死人が出るのかもしれないのだし。
この世界の大人も普通は、ゴブリンみたくなったアグニー程度だって言ってたし。
三千万ぐらい。
三千万円あったら何ができるんだ。
一個百円のアイスが…。
「かぞえきれない」
「何がですか?」
「はっ?!」
ボーガーの言葉に、我に返る水彦。
危うく数学の境地の彼方に旅立つところだった。
ちなみに水彦は算数の九九も危ない程度の暗算能力しかない。
その能力値で三千万円で買える百円アイスの数を計算しようなど、自殺行為でしかないのだ。
「だいじょうぶだ。もんだいない。かねは、いつわたされるんだ」
ひとまず平静を取り戻したらしい水彦の様子に、ボーガーはひとまず安心してソファーに座りなおした。
「ギルドへの登録もご希望とのことでしたので、手続きをしている間にとりあえず討伐賞金の二千万は用意させましょう。他のものに関しては量が多いですので、きちんと換金してからお渡しすることにいたします」
「なんにちかか、かかるか」
「申し訳御座いません。1日はかかるかと。何分これだけのものが一時に入ってくることが稀ですから」
「そうか。でもいちにちでおわるんだな」
「一応、ここはギルド本部ですから。それなりに人員は居ります。それなりに、ですが」
ボーガーはこういっているが、アレだけのものを解体するのは普通かなり時間と手間がかかる。
何せ相手は、大砲の弾をはじき返すような体をしているのだ。
水彦としてももっとかかるだろうと思っていただけに、非常に感心していた。
「では、ギルド登録をしていただく事にしましょう。別の場所に移動しますが、宜しいですか?」
「わかった」
「では、早速移動しましょう」
そういって、ボーガーは立ち上がる。
立ち上がろうとした水彦だったが、その表情が一瞬で曇った。
その様子を見たボーガーが、慌てたように声をかける。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
水彦は追いついた様子で首を振ると、ゆっくりと確かめるように言葉を口にする。
「すごいきんがくをきいて、こしがぬけた」
あくまで金銭感覚は小市民な、水彦であった。
何とか腰が回復した水彦が最初に案内されたのは、写真室だった。
なんとギルドには写真技術があったのだ。
とはいえ、その方法は現代地球とは多少異なっているようだった。
なんでも撮影した画像情報をインクが搭載された器具に送り、専用の印紙に印刷するのだそうだ。
「いんくじぇっとぷりんたーかよ」
思わず水彦がつぶやいたのも、無理からぬことだろう。
どうも魔法技術と言うのはかなり尖った発展の仕方をしているらしい。
なんでもギルドは独自の魔法体系「結晶魔法」というのを持っているそうで、ギルド運営に役立てているのだそうだ。
結晶魔法と言うのは、透明、半透明な物質内部に立体的な魔法陣を書き、それに魔力をつぎ込むことで発動する魔法なのだという。
ただ、魔力の込め方にコツがいるらしく、自力で習得するのは難しいのだそうだ。
ギルドでは一般的な魔法の刻まれた結晶の販売と、使い方の講習を有料でしているのだそうだ。
写真について尋ねた水彦に、ボーガーがすらすらとそのような説明をする。
どうやらそういった事業もギルド経営の一部になっているようだ。
「勿論、機密になっているものもあるのですが」
肩をすくめて言うボーガー。
普通は国が軍事機密にしたりしているのを考えれば、それでもギルドの方針は破格なのだが。
写真を撮り終わった後は、ギルドに登録する為のデータ作りだった。
なんとギルドカードには顔写真が入るという。
偽造防止の一環なのだそうだ。
さて。
ギルドに登録すると、一枚のカードを渡されるという。
そのカードには個人識別情報が記録されており、ギルド職員と本人への確認で本人確認を取るのだそうだ。
驚くべきことに、ギルドは世界中にあるギルド支部とリアルタイムで情報共有をしているのだという。
「遠話系魔法の応用で、文字や絵などの情報のやり取りであれば問題なくできるのだそうです。ただ距離が有る程度近いもの同士で無いとできないそうなので、世界規模の組織である我々ギルドの特権でしょう。サーバがどうのという話でしたが、魔法技術に関して私は門外漢でして。もう年ですね」
どうやらどこの世界でもお父さん世代が最新機器に悩まされるのは変わらないらしい。
ギルドへの登録情報は、出身やおおよその年齢、名前、秘密の暗号、魔力認証というものだった。
出身によっては正式な戸籍が存在しないこともあり、冒険者の大半が住所不定であることからこういう感じになっているらしい。
暗号は八桁の数字と八つの文字の組み合わせで構成される。
任意で設定できるのだとかで、語呂合わせで登録するものも多くいるのだそうだ。
ちなみに水彦は。
めしめしたくさん 89300213
直訳すると「飯飯沢山 やくざのおにいさん」
これならまず暗号がばれることは無いだろう。
なんとも言いがたい感は否めないが。
魔力認証。
これは手をかざすだけで、簡単に登録が終わった。
なんでも人体に蓄えられた魔力には個々特有のパターンがあるのだとかで、それを読み取ることで個人特定をするのだという。
本部に蓄積された個人データは世界中どこの支部からでもアクセスできるので、これで確実に個人特定ができるのだそうだ。
このシステムを使い、ギルドは世界中どこでも金を下ろせる「銀行」も営んでいるという。
いろいろ手広くやっている組織だ。
魔力量が尋常でない水彦でも、読み取りは問題なく行われた。
登録作業が終了し完成したギルドカードを手にした水彦。
その感想は。
「くるまのめんきょみたいだな」
だった。
実際微妙に形状は似通っていたのだが。
「今後は、受付でギルドカードと暗号をおっしゃっていただければ、各種サービスを受けていただくことが可能です。さて、規約についてお話しようと思いますが……」
言葉を途中で区切り、ボーガーは水彦をまじまじと見つめた。
そして、近くにいた女性職員に目配せで合図をする。
それを受けた女性職員は頷くと、すぐに封筒に入った書類のようなものを水彦に差し出した。
「其処に入っている書類に全て記入されております。必要なことは全て書かれて居りますので、ご一読下さい」
どうもボーガーはこの短時間で水彦の事を正しく理解したらしかった。
本来なら登録した時点で多少の説明をするのだが、まるっと全て省略したのだ。
ナイス判断といわざるをえないだろう。
「わかった」
そのことに気が付いているのかいないのか。
水彦はこくこくと頷き、封筒を受け取った。
後できちんと読むつもりの水彦だったが、内容が理解できるかどうかは実に微妙だった。
何せ文字を読むのも怪しいのだから。
「もし分からないことがありましたら、職員に声をかけて下さい。すぐに説明するように伝えておきましょう」
「たすかる」
ボーガーの対応は、及第点だろう。
今現在ギルドにいる職員の印象には、強烈に水彦の事が刷り込まれている。
声をかけられて、無碍にする職員はいないはずだ。
一度に覚えてもらうよりも、徐々に慣れていって貰おう。
そういう思惑もあるようだ。
カードを受け取った水彦は、討伐金二千万を受け取ることになった。
ギルド登録と同時に作られた銀行口座で振り込まれる形だったが、現金もすぐに用意できるといわれる。
ボーガーにどうするか聞かれた水彦だったが、彼にはそんな現金を持ち歩く度胸は無かった。
持ち歩いても襲われることは無いだろうが、小市民である彼には大金を持ち歩くという選択肢は無いのだ。
結局当面の生活費として三十万ほど引き出し、水彦はそれを懐に突っ込んだ。
水彦にしてみれば三十万でも十二分に大金だ。
挙動不審気味にきょろきょろと周りを見回して異様に目立っていたが、元々目立っていたのに気にする人はいなかった。
登録を終え、お金をゲットした水彦の次の課題は、肉に関してだった。
勿論、獲物の肉のことだ。
これには、ギルドの情報網が非常にいい仕事をしてくれた。
水彦が登録作業をしている間に、ボーガーが手を回して調べておいてくれたのだ。
様々な魔獣の肉を調理することができるコックが、この町に一人だけいるのだという。
その話を聞いた水彦は、興奮のあまりその話を持ってきた職員の胸倉を掴んでつるし上げた。
すぐに開放された職員は、手にしていたそのコックがいるという店の名前と地図が書かれたメモを水彦に渡す。
「とったどぉぉぉおおお!!!」
メモをゲットした水彦はなぞの咆哮を上げ、天高く拳を突き上げた。
もはやギルド内に、水彦の行動を疑問に思うものは誰一人居なかったという。
水彦がギルドから外に出ると、外に積んであったはずのドラゴンなどの死体は綺麗さっぱりなくなっていた。
もう既にギルド職員が何処かに運び出したらしい。
かなり迅速な行動だが、水彦がそれに感心することは無かった。
そんなことよりも懐に入れた大金が気になって仕方がなかったのだ。
ちなみに、肉は彼の背中に背負われた背負子に固定されていた。
ギルド職員が魔獣を料理できるコックに連絡を取り、必要な部位を切り分けておいてくれ、それを持たせてくれたのだ。
なんとも気の付く担当者である。
肉の量は、コルテセッカが80kg、レッドワイバーンが60kg、ハガネオオカミが60kg。
総計200kgだ。
普通ならばかなり苦労する量だが、水彦にとっては軽いリュックサック程度でしかない。
そんなことよりも、懐に有る大金のせいで誰かに見られている気がして仕方が無い水彦だった。
もちろん、注目はされている。
あれだけの事をした後で、肉を担いで出てきたのだ。
見ないほうがおかしいだろう。
が、水彦はその視線には気づいていなかった。
とことん良く分からないやつである。
そんなこんなで、水彦はケータイと地図を片手に街を歩き始めた。
周りの人々は水彦がギルドにいる間に落ち着きを取り戻したらしく、いつもの街の様子を取り戻していた。
なんだかんだで二時間ほどギルドにいたので、そうなるのも当然だろう。
この街も、かなりの都会なのだ。
人の行き来は多いし、それぞれ仕事もあるのだから。
人としてかなり欠陥の有る水彦だったが、地図さえ持っていれば道に迷わない程度の性能は持ち合わせていた。
順調に目的地へと向かっている途中、突然ケータイに着信が入った。
表示を見ると、其処にはこのように表示されている。
エルトヴァエル
水彦は眉間に皺を寄せ、低く唸り、つぶやく。
「だれだ」
分からなかったので、水彦はとりあえず出てみることにした。
「だれだ」
「あ、水彦さんですか? エルトヴァエルです」
「ああ。なんだえろとばんえろか」
どうやら水彦の中ではエルトヴァエルはえろとばんえろとして登録されているらしい。
ちなみに、アンバレンスの作ったケータイは数字を打ち込むのではなく、会話したい相手の名前を直接入力する形式になっている。
相手の電話番号がわからない、なんてことにはならないのだ。
相手がケータイを持っていればだが。
「エロじゃありませんエルトヴァエルです。今日こそ無事に街に着きましたか?」
「ついたぞ。ぎるどにとうろくもした」
「名前はきちんとかけましたか?」
「おお。れんしゅうしたからな」
「すごいじゃないですか。良かったですね!」
「まあな」
バカにしているとも取れる褒め方をするエルトヴァエル。
だが、水彦は素直に喜んだ。
実際かなり文字を書くのには苦労したからだ。
「えろとばんえろは、どこにいるんだ」
「エロじゃありませんエルトヴァエルです。ええとですね。今は、ステングレアの首都にいます。いろいろ調べていますから」
「そーなのかー」
「そちらはどうですか? 登録が終わったということは、お仕事始められそうですか?」
「それなんだけどな。なんか、とちゅうでたおしたものをうったら、かねになった。あしたにはひつようなもの、そろえられそうだぞ」
「もうですか? はやかったですね」
「おお。まーな」
「では、今日の夜にでもそちらに向かいますね。ケータイがあれば、おたがいの居場所も分かりますし」
「わかった。まってる」
「では、失礼します」
通話途切れ、ツーツーという音がスピーカーから流れ出す。
自分も通話を解除して、水彦は改めて地図画面を開いた。
水彦がケータイを受け取ったのと同じ日に、エルトヴァエルもアンバレンスからケータイを受け取っていた。
それから何度も通話をしている水彦とエルトヴァエルだったが、彼は未だにエルトヴァエルの正確な呼び名を学習していないのだった。
しばらく地図とケータイとにらめっこをした末、水彦はどうにか目的の店につくことができた。
宿と食事どころが併設された其処は、冒険者の多いこの街では良くあるスタイルの店だった。
看板にはメモにあるとおり「木漏れ日亭」と書かれている。
「あってるな」
水彦は何度か頷くと、その店のドアに手をかけた。
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木漏れ日亭の店主アニスは、若干十八歳の人間の少女だった。
アインファーブルで孤児として育った彼女は、その境遇を物ともしない明るさと気丈さで店を切り盛りしている。
孤児院で育った彼女は、五歳にして師匠であるコックの下に住み込みで修行を始めていた。
必死になって身に付けた技術やレシピは、一流と言ってよいだろう。
その腕は既に師匠にも認められるほどで、この木漏れ日亭を開くことを許されたのだ。
アニスを一人前と認めた日、彼女の師匠は一冊の貯金通帳を持ち出した。
それは、アニスが修行を始めたときから、彼女のために師匠がためていたお金だった。
驚いたアニスに、師匠はこんな話をし始めた。
「いいかい、アニス。僕は元々冒険者で、いろいろなところを旅していたんだ。
この街に来たのも、魔獣を倒してお金を得るためだったんだよ。
でも、そんな生活に疲れていたのかもしれないね。
引退を決意して、この街に宿を開いたんだ。
元々料理は得意でね。冒険者として動物の知識もあったから。
お店を開いて、三年ぐらいしたときかな、君が尋ねてきたのは。
最初は驚いたけど、熱心さに負けたんだね。
まともな修行もしたことも無い僕が、弟子をとるだなんて。
でも、君はこんな僕の弟子なのに、こんなに立派に料理を作れるようになってくれた。
僕に教えられることなんてはじめから殆どなかったけど、もうこれで、本当に何もなくなったよ。
これで心置きなく、旅に出られる」
師匠は、アニスが一人前になったら、旅に出るつもりだったのだという。
どうしても果たさなければならないことがあるのだ。
そう、言っていた。
ずっとそれから目を背けて冒険者をし、店を続けていたのだという。
だが、アニスの姿を見るうち、それを果たしに行く決心がついたのだと。
だから、店をアニスに譲ることにした、と。
アニスは旅に出るという師匠を、笑顔で見送った。
師匠の決意は固く、覆せるものではなかったからだ。
それに師匠は、それが終われば戻ってくる。
そう約束していた。
ならば、それまで店を守り、いいや。
もっと立派に、素敵な店にして出迎えることが、師匠への恩返しだ。
アニスはそう思っていた。
だからこそ、旅に出る師匠の事を笑顔で見送った。
お別れではない。
またいつか会えるのだから、泣く必要なんてないのだ。
だから別れ際に彼女の頬が濡れていたのは、朝露か何かのせいだったのだろう。
そんなアニスが店主を務める木漏れ日亭は、食堂の併設された宿屋になっていた。
彼女の師匠は、「おいしい料理を出す宿」に並々ならぬこだわりを持っていた。
恐らくは冒険者時代の経験からきているのだろう。
宿でくつろいでいるときは、おいしい食事を。
その信念は、アニスにも受け継がれている。
木漏れ日亭に泊まる客達は、寝床とそれ以上に、その食事を目当てにするほどだった。
土地柄から手に入れやすい様々な動物の肉に、近くの農家から直接手に入れている野菜。
それらにあわせた、数々の香辛料。
そして何より、料理人であるアニスの腕。
全てが一級品であり、この街にある料理を専門にしている店に勝るとも劣らないレベルのものだった。
食堂も併設している彼女の店は、食事時ともなれば外に列ができるほどの人気ぶりだ。
流石に一人ではお客をさばき切れず、店員を雇っていた。
雇われているのは、昔お世話になっていた孤児院の出身者達だ。
一生懸命に働く姿は、周りの住民達にも温かく受け入れられていた。
元々この街は冒険者で成り立っている。
危険な仕事だけに、親や家族を失うものは少なくない。
アニスはそんなものたちに職を提供したのだ。
自分自身も孤児でありながら、必死の努力で手に職をつけ、今は同じ境遇の皆と助け合っている。
そんなアニスは、この街でも一目置かれる存在になっていた。
食事時は賑わう食堂だが、昼のピークが過ぎたこの時間はのんびりとしたものだった。
カフェのようなこともしている為、お茶を飲んでいるお客や、休日なのかお酒をたしなんでるものが数人いる程度だ。
そんな店内に、新たにお客が入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
元気よく挨拶をするアニス。
他の皆は丁度買い物や宿の個室の清掃に出かけていて、今店は彼女一人だけだった。
この時間ならば、一人でも切り盛りは問題ない。
「この街にきたらここに来てみろと言われてな。だが、少し到着がずれたな。昼にしても夜にしても、食事の時間ではないな」
苦笑しながらそう言うと、その男性客はこの店のもう一つの名物である甘味を注文した。
砂糖をふんだんに使ったお菓子は、冒険者受けが意外にいいのだ。
一度森に入ると何日もこもることも有る彼らには、そういったものが恋しくなることがあるのだという。
かなり体格がよく、耳まで隠したニット帽を被ったその男性客も、どうやらそういう仕事についているらしい。
背中に大きな盾を背負っている様子から、それがうかがい知れた。
男性客は入り口近くの奥まった席に腰を下ろした。
四人がけのテーブルではあったが、この時間はすいているのでまったく問題は無い。
男性客が注文したのは、アイスクリームに、甘く煮た豆、そして、この店オリジナルの蒸留酒を一瓶だった。
師匠がこだわって職人に作らせた蒸留酒は、お土産に買って帰るものがいるほどの人気商品だ。
甘いものを食べながら、きつめの蒸留酒をあおる。
珍しい組み合わせの様にも見えるが、この店の客では同じようなことをする者が結構いた。
普段危ない世界にいる人間の、ひと時の楽しみというヤツなのだろう。
暫く店の中のお客に目をやっていたアニスだったが、すぐに大切なことを思い出した。
ギルドから連絡があって、魔獣の肉を持ってくるお客さんがいるというのだ。
師匠は元冒険者であっただけに、魔獣の肉を調理することに長けていた。
弟子である彼女も、当然その技を持っている。
アニスは腰掛けていた椅子から立ち上がると、脚立を引っ張り出した。
壁に吊るしてある、普段は使わない大なべを取るためだ。
こういうときは、自分の低い背が恨めしい。
そんなことを考えながら、アニスは脚立を登り、大なべを壁掛けから外した。
丁度、そのとき。
店のドアが開き、取り付けられていた鈴がチリンと音を響かせた。
「いらっしゃいませー!」
お客が来た合図に、アニスは反射的に振り返り、笑顔で声を出す。
ドアを開けたのは、なにやら大きな荷物を背負った、奇妙な服を着た少年だった。
「ここで、まじゅうのにくを、くえるようにしてくれるのか」
まるで幼い子供のような、たどたどしい口調だ。
どうやらこの少年が、ギルドから連絡があったお客らしい。
はい、そうです。
そう、アニスは言おうとした。
その瞬間だった。
今しがたやってきた少年と、ドア近くに座っていた男性客から、同時に何かが吹き出したのだ。
お互い、お互いの姿すら確認せず、少年はドアの外に立ったまま。
それでも、二人からはたしかに同じものが発せられていた。
殺気。
そう呼ばれる気配。
普通ならば、ただの街娘であるアニスにそんなものは分からないだろう。
だが、この二人から発せられるそれはそうと無理矢理に分からせられるほどのものだった。
いや。
そんな言葉では、生ぬるいかもしれない。
その気配を飲まれた瞬間、アニスはこう思った。
死んだ。
ただの街娘である少女にそう思わせるほど、二人から放たれたそれは濃密な死の気配をはらんでいた。
店にいた客達もその気配に当てられたのだろう。
皆、凍り付いて動けなくなっていた。
血の気が引き、青白くなっている。
アニス自身、その指先が冷たくなっていくのを感じていた。
怖い。
しかし、体は動かなかった。
まるで何か巨大な化け物ににらみつけられたかのように、体がまったく言うことを聞かなかった。
何事も無いように甘く煮た豆をスプーンですくい、口に運ぶ男性客。
同じように表情一つ変えず、荷物を背負いなおす少年。
二人の放つその気配が、この二人にとっては軽い挨拶代わりであることを、アニスはまだ知る由も無かった。
なんか長くなった気がします。
まあいいか。
情報量も少ないけどまあいいか。
ギルドに登録し終わり、いよいよ宿屋に宿泊です。
冒険者の醍醐味といえば宿屋ですよね。
宿屋=冒険者と言っても過言では有りません。
ウソです。
予定通り何者かと水彦が接触しました。
一体コレは誰なのでしょう。
作者には全く見当も付きません。
なんて駄目な作者なんでしょう。
さて次回は。
宿に到着し、エルトヴァエルと接触する水彦。
今後の予定はどうするのか。
そして赤鞘は、コンビニ袋にお菓子やジュースを入れて持ってきたアンバレンスと接触する。
そこで、アンバレンスの口から驚愕の真実が明かされる。
「実は。ずっと疑問に思ってたことが有るんですよ。おっぱい関連で」
乞うご期待。