百八十話 「人間の方々も、大変なんですねぇ」
世界でも五本の指に入る高い魔法技術を持つとされる国、プロネテニア。
複数の金属を用いて作られる金属彫刻を用いた魔法は「鉄像魔法」と呼ばれ、高い精度を誇る。
こと精密作業においては他の追随を許さず、魔導国家と称されるステングレアや、高効率と高い汎用性を見せるメテルマギトを凌ぐほどとも言われていた。
国民性は非常にまじめで、向上心が強い。
帰属意識も強く、愛国心が強いことでも知られていた。
高い技術力と、勤勉な国民性。
コレだけ揃えば、本来であれば強国の一つに数えられても良い所だろう。
だが、プロネテニアは列強入りが出来ないでいた。
高い魔法技術を持ちながら、中堅国の一つとされていたのだ。
「いくつかある理由の一つが、魔物や魔獣によるものです」
土彦はニコニコと笑いながら、胸の前でパチリと手を合わせる。
真剣な面持ちで話を聞いているのは、風彦だ。
アグニーぬいぐるみを膝に抱え、両手でしっかりと抱きしめている。
土彦と風彦がいるのは、エンシェントドラゴンの巣にある、宿泊施設であった。
今は宿泊客などはいないのだが、それでも土彦が作った魔法仕掛け、マッドマン達がしっかりと管理してくれている。
放っておいても良いのだが、それではあまりに人情が無いと、こうしてたまにやってきているのだ。
今で言えば、タヌキとうっかり顔合わせをしないようにするため、というのもある。
「海に面しているため、そちら方向へ国土は伸ばせず。左右は山と森があり、そのどちらもが魔獣や魔物が多い危険地帯。何しろコルテセッカの生息地ですから、そちらへ領地を伸ばすのは容易ではありません」
「コルテセッカ、ですか。そんなに強力な魔獣なんですか?」
「ああ、そうですね。風彦は知りませんか。以前、兄者がやりあったドラゴンの一種ですよ」
「水彦にぃが、ドラゴンさんと? 戦ったんですか?」
風彦は不思議そうな顔で、首を捻る。
ドラゴンと戦う、ということにピンと来ていないようであった。
何しろ、風彦にとってドラゴンと言えば、エンシェントドラゴンの事である。
身内とも言ってよい存在であり、敵対するような相手ではないのだ。
様々な知識を与えられて生まれているので、ドラゴンが危険な相手である、という知識はあった。
だが、やはり実際に経験したことの方が、印象としては勝るらしい。
「結局、赤鞘様が兄者の体を借りて斬ったのですが。まあ、ともかく。プロネテニアは前を海に。左右を魔獣魔物がひしめく危険地帯に挟まれている訳です」
「それだと、後ろに広げられる余地がありそうに思えますが」
「通常であれば、その通り。ですが、それは絶対に不可能なのですよ」
「不可能、ですか。それは、その、ナゼ?」
「“辺境の絶対防壁”ハウザー・ブラックマンが守る国境線があるからです」
これを聞いて、風彦は表情を引きつらせた。
知識でしか知らない存在ではあるが、それでも思わず顔を歪めてしまうほどのインパクトが、その名前にはあるのだ。
ハウザー・ブラックマン。
二つ名として奉られた“辺境の絶対防壁”は、伊達でも酔狂でもなく、端的な事実である。
既にこの世界を去った創世神である母神から祝福された一族であり。
与えられた加護は「理不尽」そのもの。
ことと次第によっては、最高神であるアンバレンスですら手を焼くような存在である。
「プロネテニアが持つ国土は、取り立てて狭い訳ではありません。きちんとそれなりの面積の国土を得ています。ですが、頭一つ抜け出すためには、それなりではお話にならないわけです」
人が暮らすのにも、食料を生産するのにも、土地は必要であった。
だが、魔獣魔物が存在するこの世界では、「安全に使用できる土地」というのは限られてしまう。
国にとって国土の維持、拡大は、地球の場合よりも重い命題なのである。
「長い停滞というのは、緩やかな衰退とあまり変わらない。実際にどうか、ではなく、プロネテニアの首脳陣はずっとそう考えていました。そんな時。大きな、とても大きな問題が起きたわけです」
国内における、個人最高戦力。
その人物が、病気を患ったのだ。
「命に係わる類のもの。常識外れの身体能力を持ってはいても、こればかりはどうしようも無い訳です」
幸か不幸か、すぐに命に別条があるような病気ではなかった。
健康な状態も、後一年、二年は続くだろう。
だが、それより先。
五年先か六年先か、そこまでに確実に命を落とす。
そういう種類の病気だったのである。
「治療は出来ないんですか?」
風彦の疑問に、土彦は苦笑いで首を横に振る。
「ああいった方々は、怪我や病気を得にくい分、一度なってしまうと治りにくいのだそうです」
風彦にはよくわからない話だったが、土彦がそういうのだからそうなのだろう、と納得する。
土彦はニコニコと笑いながら、話をつづけた。
「個人最高戦力を近い将来失うであろうプロネテニアは、大変に慌てました。何しろ次世代の強者。抑止力級の力を持つ個人が、一人も確保できていなかったからです」
抑止力と言えるような戦力を持つ者など、そう簡単に見つかるものではない。
教育や訓練で、どうにかなるような種類の問題でもなかった。
「本来であれば、まだ時間的余裕はあったでしょう。十年か、もう少し長いか。それだけ時間が有れば、どうにかなったはずです。ですが、タイムリミットが見えてしまいました」
この世界「海原と中原」の現代社会において、抑止力級、個人最高戦力無しでの国防などありえなかった。
それがあるからこそ、他国は手を出してこない。
文字通り抑止力として機能しているからだ。
もしそれが居無くなれば。
あるいは、近い将来確実に不在になると分かってしまえば。
その国を襲わない理由など、どこにもないのだ。
「戦争をするための大義名分なんぞ、その国が刈り取り頃だから。で済んでしまう。それが今のこの世界の現実です。何しろ、使える土地が限られた世界ですから」
危険地帯を縫うように、何とか人が生きていける土地を切り取って生きている。
それが、「海原と中原」の国々の現状なのだ。
貴重な土地を手に入れる機会が目の前に転がり出てきたのなら、刈り取るのが当然。
敵対行為を受けたとか、威嚇行為をしてきたからとか、そういった大義名分など一切不要。
「私達から見ればかなり乱暴にも思えますが、仕方ないのでしょうね。そのぐらい貪欲でなければ、すぐに魔物や魔獣の領域に飲み込まれてしまいかねない世界ですから」
とはいえ、侵略する側はそれでいいかもしれないが、される側は堪ったものではない。
「プロネテニアの最高戦力の寿命が近いのであれば、今からちょっかいを出して早死にさせてやろう。然る後、美味しく国土と国民を戴く。そう考える国は、一つや二つではないでしょう」
最高戦力の病状が国外に漏れる前に、何とかして対策を考えなければならない。
抑止力級の強者を探すのはもちろんの事、最悪それが見つからなかったとしても、国を存続させる方法を見つけなければならなかった。
「何しろ、侵略された国の扱いなどどこも似たようなものですから。国民など、まともに人間として扱われるわけもありません」
プロネテニアは、それこそ必死になって、血眼になって方法を考え、探した。
いくつもの案が出され、いくつかが実行されることとなる。
何しろ国の存亡がかかっているのだ。
一つの方策だけをとる、ということはありえない。
いくつもの予防線、いくつもの方法を試し、どれかが効果を発揮してくれればいい。
金も労力も、プロネテニアは一切惜しまなかった。
「そう、何しろ、国の存亡がかかっているのですから。当然、方法だって問わなかったのでしょう。結果、プロネテニアは多くの国で禁忌とされる方法に手を出すことにしたわけです。わかりますね?」
「大量破壊魔法、ですか」
「その通り! まあ、私達から見れば、さもありなん。と言った所ですがね? 何しろ、神様方はアレの使用をことさら止めている訳ではないのですし」
多くの国や民、というか大半の人間が「神々は大量破壊魔法を使ったことを愚行と断じている」と考えている訳だが、実際はそうでもない。
そもそもアンバレンスが「見直された土地」を大々的に宣伝して封印し、無理矢理にでも人間達を静かにさせるためだったのである。
当時は母神が「新しい世界を作るからこの世界を去る」と言い出したころであり、とにかくそちらに集中する必要があった。
だから、しばらく余計なことをしないようにと、わざと派手な演出をしたのだ。
「母神様が新たな世界を作るために旅立ってしまい、赤鞘様がこの世界にいらした。未だこの世界が安定していないとはいえ、大量破壊魔法の使用を神の権限で止めるほどのことは無い訳です」
魔力の流れ、つまり世界を形作る力に多大な影響を与える兵器である。
神々としては使用されない方が「世界の管理」が楽になるが、もはや殊更目くじらを立てるほどの事でもない。
正直なところ、「興味が無い」というのが正直なところであった。
何しろアンバレンスでさえ、「あ、まだ大量破壊魔法使わない国が多いんだ。へぇー」と驚いていたほどである。
「とはいえ、相手は神様です。そして、最初にそれを咎めたのは最高神アンバレンス様。人間が気にし過ぎるほど気にするのも当然でしょう」
「人間の方々も、大変なんですねぇ」
「全くですとも。さて、話が少々逸れましたが、風彦。貴女はエルトヴァエル様から、プロネテニアの現状調査を任されたわけです」
別にわざわざ調べに行かずとも、情報は天界にいる天使仲間から得ることが出来る。
しかし、エルトヴァエルはそれで満足するタイプではなかった。
どうしても気になるところがあるから、と、風彦が調査を頼まれたのである。
「貴女なら特に問題ないと思いますが、一つだけ。ハウザー・ブラックマンが守る国境線にだけは、絶対に近づかないようにしてください。たとえ実体を持たない貴女でも、彼の人物には関係ありません。国境を侵犯したと判断された瞬間、消滅させられます」
明確な断定の言葉。
実態を持たない風である風彦を、人間にどうこうできるはずがない。
そもそも風というのは現象であって、モノではないのだ。
消滅させるもさせないも、無いはずなのである。
だが、ハウザー・ブラックマンだけは別だ。
創世神である母神にそう作られたがゆえに、ハウザー・ブラックマンの力は絶対。
理不尽としか言いようがないものなのだ。
「あの、土彦ねぇ。この話は何ていうか、もう何度もして頂いていると思うんですが」
土彦が風彦にとうとうと語っていること。
ハウザー・ブラックマンにだけは絶対に近づくな、というその内容は、既に何回も繰り返されたものであった。
あちこちに話を脱線させながら、土彦はすでに三時間以上、同じことを繰り返している。
「何度でも言いますとも! 可愛い妹分が怪我でもしたらどうするというんです! ただ外に出るだけならまだしても、ハウザー・ブラックマンはあまりにも危険すぎます!」
「近づかなければ大丈夫ですから」
「近づいたら一巻の終わりということでしょう! やはり私も付いていきます!」
「いえいえいえ! いけませんって! ちょっと行って帰って来るだけですから! 私の脚なら、一日かかりません! 半日で行って帰ってこれますから!」
プロネテニアまではそれなりの距離があるのだが、風彦の移動速度は尋常ではない。
エルトヴァエルから頼まれた調べ物にかかる時間を考えても、行って帰って半日と言った所だろう。
ハウザー・ブラックマンが守る国境線に近づかなければ危険もないので、特にこれと言った問題はないのだ。
なのだが、土彦はまるで納得していなかった。
「そうかもしれませんが、これまでの仕事と今回はまるで違うではありませんか」
「いえ、そんなに変わりませんので」
「一週間待ってください。そうすればマッドアイ・ネットワークを応用した自立型浮遊要塞を作ってですね」
「ストップストップ! それは流石に目立ちすぎますから! 大体、土彦ねぇは土地の守りというお仕事があるじゃありませんか!」
すぐに外へ飛び出して行こうとする土彦に、風彦は必死の顔で縋りつく。
それでも土彦は、風彦を引きずって歩く。
風彦の方も、そうはさせじと足をばたつかせたり、机などに引っ掛けたりなどして抵抗を見せる。
ちなみに、今日はこんな感じの攻防を、すでに三回ほど繰り返していたのであった。
ストロニア王国の「虹色流星商会」を円満に退職したトリトエスリは、アインファーブルにやって来ていた。
と言っても、素のままの姿ではあまりにも目立ってしまう。
ただのエルフでさえ目立ってしまうのに、ハイ・エルフとなれば猶更だ。
見た目こそあまり変わらないエルフとハイ・エルフだが、やはり見る人が見れば違いが分かってしまう。
そして、アインファーブルというのはその違いが判る人間が多く集まる場所である。
という訳で、トリトエスリは目立たぬよう変装をしていた。
なりすましたのは、リザードマンの冒険者である。
骨格からして全く違う種族だが、変装を得意とするトリトエスリにかかれば、何ということは無い。
例え取り調べや精密検査を受けたとしても、そう簡単にこの変装を見破ることは不可能だろう。
そういう特技を持っている人物だからこそ、エルトヴァエルはトリトエスリに声をかけたのである。
「全くエルトヴァエル様も相変わらずですね」
トリトエスリがアインファーブルに来たのは、一通の手紙がきっかけであった。
差出人は罪を暴く天使エルトヴァエル。
その内容は、かなり刺激的なものであった。
「見直された土地」で、アグニー相手に商売をしてみないか。
思いがけない、あまりにも魅力的な誘いである。
当然、一も二もなく飛びついた。
トリトエスリは、一種のフリークである。
商売というものに魅了され、それを求めて生きて来た。
一口に商売と言っても、人がそこに求めるものは様々であると、トリトエスリは考えている。
利益であるか、あるいは金が動くことそのもの。
人とモノが動く、それを動かしていることに楽しみを見出すものも居るだろう。
トリトエスリが商売に求めるものは、実に様々だ。
金という経済の血液が循環する様を見るというのは、山やら森やらでは体験できることではない。
物や情報が人と人の間を行きかう目まぐるしさは、実に心が躍り沸き立つ。
誰かにとっては些末な品を、別の誰かが宝物のように大切に抱きしめる。
商売という視点に立って眺める世界は、まさにトリトエスリにとって何物にも代えがたい宝物であった。
「さてと、何から始めればよいでしょう」
アインファーブルに来たトリトエスリは、さっそく宿をとって商売の準備に取り掛かった。
ちなみに、宿の名前は「木漏れ日亭」。
旨い食事を出してくれる、なかなかに良い宿である。
「どんな商売をするか。そこからですね」
トリトエスリは「商売」そのものが好きなのであって、別に形は何でもよかった。
衣料品などを売るのもいいし、食べ物の屋台をやるのもいい。
だが、アグニー族相手にそういった商売をやるのは難しいだろう。
トリトエスリも永く様々な種族を見てきたが、その中でもアグニー族は変わり種だ。
一か所に長くとどまらないくせに、農耕をしている。
悲観的かと思えば恐ろしく楽観的で、楽観的かと思えば割と悲観的だ。
素晴らしい危機回避能力を持っているようで、割と騒ぎの渦中に居たりする。
実際、今も「見直された土地」という爆弾地帯に定住しているのだ。
ちょっとした殺気や危険の兆候すら察知するのに、なぜか特大の災いには飛び込んでいく。
確か、敢えて危険な場所に身を置くことでそれ以外の危険から身を守る、と言う生態があったはずだが。
別の思考に埋没しそうになった頭を、軽く指で叩いて切り替える。
「兎に角、現地に行ってみないと始まりませんね。とはいえどうやって見放された土地。いえ、見直された土地に入るか、ですか」
正面から歩いていくのは、なかなか難しいだろう。
ステングレアの隠密が取り巻いているはずだ。
ハイ・エルフではあるが、トリトエスリは戦闘がさほど得意ではない。
相手が相応の訓練を積んでいる者であれば、押し切られてやられてしまうだろう。
逃げ隠れに徹すればそれなりに自信はあるが、出来れば別の、もっと安全な方法を探りたい。
「やはり、ボーガー・スローバード氏にお会いするのが近道。ですか」
エルトヴァエルからの手紙に「ギルド長であるボーガー・スローバードを頼るのが一番早い」と書いてあったのだ。
一応、トリトエスリとボーガーは顔見知りである。
親しい間柄とは言えないが、エルトヴァエルの勧めだ。
十中八九、何かしらの意図があるのだろう。
罪を暴く天使の策謀は、地上の人間がどうこうできる種類のものではない。
抵抗しようが何をしようが、最終的に「予定通り」に収まってしまう。
どうにもならない、天変地異の類と同じなのだ。
それならば、乗ってしまって善後策を考える方が幾らかマシである。
やることが決まれば、あとはのんびりと動けばいい。
大急ぎで行動をしなければならない程、切羽詰まった状況ではないのだ。
実際に動き出すのは、明日からでいい。
トリトエスリは椅子に座り直すと、何の気なしに一枚の紙を持ち上げる。
部屋に入ったときに渡された、夕食のメニュー表だ。
どうやらこの宿は、食事が自慢の一つらしい。
多くのエルフと同じように、トリトエスリは野菜好きである。
ストロニア王国はそれなりに野菜が豊富で、満足する食事が出来たものであった。
果たして、ギルド都市であるアインファーブルはどうなのか。
お手並み拝見と言った気持ちで眺めていたトリトエスリの目が、突然大きく見開かれた。
「ゴウンブッシュのサラダ? いや、まさか」
ゴウンブッシュは栽培数が少ない珍しい根菜であり、非常に固い。
通常は煮込んだりして食べられるのだが、ごく限られた地域では特殊な手法を使い、生のまま食べることがある。
世界中を飛び回るトリトエスリも、かつて一度だけしか食べたことが無い。
ここの料理人は、何故そんなものを出そうと思ったのだろう。
単に聞きかじりで調理してみたのか。
あるいは、たまたまその地域の出身なのか。
そうでないとするならば、相当に料理知識が豊富な人物、ということになる。
「これは。楽しみが増えましたね」
トリトエスリの商人としての勘が、商機を感じ取っていた。
「罪人の森」の中でも、アグニー達の住むコッコ村からは離れた場所。
水彦はそこで、刀を振るっていた。
型稽古のようなことをしているのだが、どうにも集中できない様子である。
そもそもこんなところで体を動かしているのは、じっとしていられなかったからだ。
理由はもちろん、タヌキの事だった。
「だめだな。しゅうちゅうできない」
刀を鞘に納め、水彦は珍しく特大のため息を吐き出した。
普段はどちらかと言えばため息を吐かせる方なので、非常に珍しい光景である。
水彦は近くの岩の上に腰を下ろすと、腕を組んで唸り始めた。
「たぬき、なぁ」
タヌキと顔を合わせるのは、やはり気が重かった。
別に、会いたくないという訳ではない。
顔を合わせて、アレコレと話はして見たくもある。
ならば何が問題なのか、と聞かれても、うまく答えられなかった。
兎に角、気まずいのだ。
「つちひこや、かぜひこは、なんでへいきなんだ」
こんなことを言っている水彦だが、当の土彦や風彦に面と向かってこういった事を言うことは無かった。
言えば数倍になって返って来るだろうし、そうなったら絶対に勝てないと思っているからだ。
「どんなかおを、すればいいんだ」
合わせる顔が無いという言葉があるが、まさにそんな気分である。
水彦とタヌキは、直接面識がある訳ではない。
かかわりもほぼないと言って良く、本来何一つ気にする必要などないのだが。
こういった物は気の持ちよう、心の問題なのだ。
気まずいと思ったら気まずいのである。
「たびにでも、でるかな」
もちろん、実際にそんなことができる訳が無い。
それでもそんな風に思ってしまうのは、赤鞘の人間時代の記憶が色濃くなってきた影響だろう。
何しろ人間だった頃の赤鞘には、逃避癖があった。
兄が家を継ぐのを邪魔しないように、という理由はあったものの、本家から逃げ。
誰かの助けになって、礼を言われそうになると、こっぱずかしさを感じて逃げ。
ずっと旅の空に居たなどと言えば、多少は響きが良いものの。
その実、半分ぐらいは気まずさから逃げ回っていたような人生だったのだ。
土地神になってからは一つ所にとどまることが多くなったものの、赤鞘の本質はおそらく、旅の空の下で生きることなのだろう。
「そんなところまで、になくてよかったんだけどな」
水彦はそうぼやくと、深い溜息を吐いた。
木々の間を縫うように歩きながら、タヌキは上機嫌で尻尾を振っていた。
赤鞘の社から離れて、散歩中である。
別に見回りなどではなく、本当に楽しみのための散歩であった。
この世界「海原と中原」に来てからというもの、タヌキは恐ろしいほどに上機嫌で、色々緩みっぱなしになっている。
何しろ、約百年ぶりに赤鞘の元へ戻り、赤鞘が管理する土地を歩いているのだ。
元々神社があった土地にも行ったのだが、やはり赤鞘本神がいる土地は全く違う。
調整管理はまだまだ甘いと言わざるを得ないものの、それでも目に見えて別物であると分かった。
赤鞘の影響力は、既に土地全体にいきわたっている。
あとは、少しずつ整えていくだけ。
根気と時間がかかることを、タヌキはよく知っている。
となると、この乱雑な力の流れの光景を見れるのは今だけ、ということになるわけで。
そう考えれば、これも案外絶景と言えなくはない。
荒々しくうねる力の流れなど、日本ではほとんど見ることが出来ないものなのだ。
あるいは神々が怒り狂えばそんな景色も見られるだろうが。
少なくともタヌキは、そんなものは一度も見たことが無かった。
赤鞘が人間だった頃にはすでに、妖怪だったタヌキである。
それなりに永く生きてきてそうなのだから、ずいぶん長くそういった事は起きていないのだろう。
元のあの世界も、ずいぶん安定してきたものである。
おかげでいわゆる怪異は少なくなっているようだったが、その反動はあるようだった。
元々赤鞘の神社があった場所に集められた連中が、まさにそれだ。
本来は遍く世界に振り分けられて、少しずつ発現するはずだった「異常」。
それが、世界が整い過ぎた影響で一つ所に凝り固まって発現したのが、あの「特別要監視能力保有者」とか呼ばれている連中の力の正体である。
あんな文字通りの化け物が現れるより、狐の嫁入りやら河童やらがそこらで見られた頃の方が幾分穏やかだったのではないか。
などとタヌキは思ってしまうのだが、まぁ、もうどうでも良いことだった。
タヌキにとって重要なのは、赤鞘に関することだけなのだ。
赤鞘が気にかけ治めるからこそ、民や土地を守るのである。
「はぁ。風が心地よいですねぇ」
少し前まで、日本にいた頃のタヌキであれば、考えられないほど穏やかで、緩んだ声であった。
実際、今のタヌキは緩みっぱなしである。
ようやく自分が居るべき場所に戻ってこれたことで、安心しきっているのだ。
無論、それは今までと比べてという意味であり、本当に隙だらけになっているわけでは無い。
だからこそ、タヌキはその気配を察知したのだ。
「ん?」
それは、赤鞘と似た気配であった。
ほかのものならばそのまま赤鞘のものと間違えるであろう程似ていたが、幸か不幸か、タヌキは赤鞘の事にかけては専門家である。
見た瞬間に「知らない気配だ」と判断し、そのすぐ後に「そう言えば赤鞘様に似てるな」と判断した。
「はて、なんでしょう?」
ここで、普段のタヌキならば。
そういえばガーディアン成るものを創っていたと言っていたし、それかもしれない。
などと判断できただろう。
だが、この時のタヌキはいささか以上に緩んでいる。
普段ならば、「紹介されるまで顔を合わせないようにした方が良かろう」などと考えたはずだ。
だが、この時のタヌキの頭には、まるでそんなことは浮かびもしなかった。
もちろん緩んでいるとはいえ、タヌキはタヌキである。
例えば今この瞬間、敵に襲われたとしても、ものの見事に対応するだろう。
影の中や次元の隙間から襲い掛かってくるような手合いが相手でも、問題なく撃退可能だ。
そういった方面に関してタヌキは間違いなく優秀だし、常に気を張っていた。
ただ、事赤鞘が絡むと、この神使は時々どうしようもないほどポンコツになるのである。
「気になりますし、見に行ってみましょうか」
タヌキは好奇心の向くまま、鼻歌混じりに四つの脚を動かし始めたのであった。