百七十九話 「そうですね。指ハブも持って行きましょう。きっとお喜びになられますとも」
魔力がこもった食品、とりわけ魔獣の肉の類は、食べた者に様々な恩恵をもたらす。
だが、魔獣の肉というのはそのまま食べれば害となり、場合によっては死ぬことすらあった。
相応の加工を施せば、もちろん食べることが出来る訳だが。
その加工方法というのが実に複雑で、手間も時間もかかる。
しかもその方法というのは秘匿された技術である事が多く、知るものが少ない。
もちろん少ないだけで、知っている人間は知っている。
「というわけで。ここしばらくキャリン君にはずーっと魔獣の肉を食べててもらったわけなんですけれどもー」
唐突なセルゲイの言葉に、キャリンは飲んでいたコーヒーを吹き出した。
すっかりいるのが当たり前になってしまった“見直された土地”にある土彦の地下ドック。
その一角にある休憩室で突然切り出された衝撃の事実に、キャリンは大いに動揺した。
「もうちょっと落ち着いて飲みなさいよ」
「いつのまに!? なんでそんなもの食べさせたんですか!?」
「そりゃぁ、少しでも生存率を上げるためよ? まだしばらくこの商売続けることになりそうなんでしょ?」
「それは、そう、ですけど」
キャリンとしては、すぐにでも普通の冒険者の生活に戻りたかった。
だが、既に色々なことを知り過ぎてしまっている。
少なくとも、多くの国が「“見放された土地”の結界が解かれた」と知ることになるまでは、自由は無いだろう。
よしんばアインファーブルに戻れたとしても、ギルド、スケイスラー、ホウーリカからこれでもかと監視を付けられるはずだ。
あるいは、監視を付けられるだけなら、まだましかもしれない。
何しろこの世の中には、当人の口から聞かなくとも、頭の中をのぞく方法などいくらでもあるのだ。
本気で情報を守ろうと思ったら、キャリン程度なら始末してしまった方が楽だし早い。
他ならぬキャリン自身が、そのことをよく理解していた。
なぜそうならないか、と言えば。
恐らくはキャリンが水彦のお気に入りだから、といったところだろう。
今の様に仕事を手伝わされているのも、腕を見込まれたわけではない、と、キャリンは思っていた。
まあ、実際にはガッツリ腕を期待されての事なのだが。
キャリンは基本的に、自己評価が低いのだ。
セルゲイはアイスを齧りながら、肩をすくめて見せた。
「なら、少しでも体は作っといた方が良いよ? 魔獣の肉ってのは、魔力を増してくれるし、体にもいい。まぁ、食べるのに恐ろしく手間がかかるんだけどさ。ここにはほら、そういうのに強いお方がいらっしゃるから」
言いながら、セルゲイはある方向を手で指した。
その先に居たのは、アイスを齧っている土彦である。
土彦が樹木の精霊達から与えられた知識の中には、魔獣の肉を食用に加工する方法も含まれていたのだ。
方法さえわかれば、マッドアイネットワークを使った人海戦術で、後はどうとでもなる。
魔獣の肉の入手先については非常に簡単で、「ギルド」にお願いすればいい。
何しろギルドは、世界で一番魔獣を狩っている組織なのだ。
「まあ、正直ね。魔獣の肉食って得られる恩恵ってのはそれほど劇的なものじゃないじゃない?」
アニスの幼馴染である関係で、キャリンもそのあたりの事はよく知っていた。
魔獣の肉で得られる恩恵は、確かに素晴らしいものがある。
常人であれば、魔力や体力が二、三割は引き上げられるだろう。
それも、一時的にではなく、そういう風に体が作り変えられるのだ。
だが、その効果は一律のものではない。
例えばプライアン・ブルーや門土・常久のようなモノ達であれば、魔獣の肉で引き上げられる力は微々たるもの。
「常人ならざる連中にとってみれば、それこそ誤差の範囲な訳だけど。キャリン君は、どっちかっていうと常人寄りなわけでしょ? じゃあさ。少しでも生存率を上げる工夫をしなくっちゃ」
なんだかんだと巻き込まれ、ここまで付き合ってきたいくつかのアグニー奪還作戦。
考えられないほどの手厚いサポートを受けてはいたが、キャリンからすれば常に綱渡りだった。
常に「いつ死んでもおかしくない」という状況の連続。
他人が見れば、安定して仕事をこなしているように見えたかもしれない。
だが、キャリン本人からすれば全くそうではなかったのだ。
キャリンの夢は、なるべく早くそれなりに金を貯め、それなりの引退生活を送る事であった。
正直、冒険者という仕事にこだわりはないし、安全に生活できる程度の収入が得られるなら、そちらの方が良いと本気で考えている。
当然ながら、まだまだ死ぬつもりはなかった。
となれば当然、セルゲイのいう通り「少しでも生存率を上げる工夫」はする必要があるだろう。
「たしかに、そう、ですね」
キャリンは不承不承といった表情ながら、しっかりと頷いた。
浮かない顔なのは、知らないうちに魔獣の肉を食べさせられたことが未だに釈然としないからだ。
「でしょう? そのためにはさ、色々な準備をしといて損はないと思うわけよ。こっちとしてもさ、君が頑張ってくれるとありがたい訳だし」
キャリンとしても、納得できる話である。
実働部隊であるガルティック傭兵団の団長なのだ。
キャリンがただのお荷物で居るよりも、いくばくか使える存在になってくれた方が助かるだろう、と、キャリンは考えた。
ちなみに、セルゲイはキャリンの事を案外高く評価している。
知識や実力もさることながら、勘の良さもなかなか。
ガーディアンである水彦が気に入るだけの事はある、と思っていた。
「今は比較的落ち着いてるからさ。準備するなら今のうちだと思わない?」
「たしかに、その通りですが」
「いや、キャリン君が普段からきちんと準備してない、って意味じゃないのよ? そうじゃなくって、手が空いてる今のうちに、何か特別なことをって意味でね?」
「特別なこと、ですか」
確かに、今は特に動きもなく、一般の傭兵団員などはある意味暇な状態にあった。
実際は「大量破壊魔法」がらみで相当にきな臭い状況に片足を突っ込んでいるのだが。
キャリン達レベルにはまだその話は降りてきていなかった。
「体を鍛え直すとか。新しい装備の調整をする。とかですかね?」
実戦の場では、体を鍛えるというのはかなり難しかった。
疲れて動けない、などと言うことを避けるため、余計な動きをしないことも多い。
そのため、かえって体が鈍ることもあるほどだ。
ここのところ忙しかったので、キャリンとしては少々体が鈍っている様な気もしていたところだった。
また、キャリンは基本的に使い慣れた道具でしか仕事をしない主義である。
新しい装備は、こういう暇があるときに納得するまで訓練をしてから使うことにしていた。
「ここに来てから、見たことのない装備ばっかり渡されますから。慣れるのがちょっと大変です」
「なるほど、なるほど。つまり、体を鍛え直しつつ、新しい装備に慣れておきたい。ということですね?」
「うわぁ!?」
突然の声の主は、土彦であった。
離れたところでアイスを食べていたはずが、いつの間にかキャリンの背後に立っていたのである。
「事情はよく分かりました。ご安心ください! この土彦、こんなこともあろうかと! こんなこともあろうかと!! 秘かに用意していたものがあるのです!」
「いや、あの、どういうっ」
「さぁ、そうとなればすぐにでも行きましょう! ご安心ください! 痛いのは最初だけですから!」
「痛い!? 痛いんですかっ!? って、僕何されるんですかっ! ちょっと土彦様!? 土彦様!?」
何とか抵抗しようとするキャリンだが、馬力に差があり過ぎるらしい。
土彦は苦も無く、キャリンを引きずっていった。
そんな様子を、セルゲイは何処か感心した様子で見送る。
「なんです? あれ」
困惑した顔でセルゲイに近づいてきたのは、ディロードだ。
セルゲイは首をかしげながら答える。
「俺もよくわかんないんだけど。なんかキャリン少年用に装備作ったから、ああいう感じで話を持ってけって土彦ちゃんに頼まれたのよ」
「はぁ。なるほど。なるほど? いや、普通に彼を連れて行けばよかったんじゃないです? 最終的に引きずって行ってますし」
「その辺はほら。土彦ちゃんのこだわりなんじゃない? こんなこともあろうかと、って言いたかったとか」
「そんなことあります?」
「いや、よくわかんないけど」
セルゲイの勘は、九割がた当たっていた。
何かで「こんなこともあろうかと」というセリフを聞きつけた土彦は、それが言ってみたくてしょうがなかったのだ。
そこで白羽の矢が立ったのが、キャリンだったわけである。
「まあ、大丈夫じゃない? キャリン君も若いんだし」
「あー。確かに若いですしね」
おっさん特有の「若いから大丈夫」理論で、セルゲイとディロードから見放されるキャリンであった。
エルトヴァエルに続いてタヌキと顔を合わせることになったのは、樹木の精霊達であった。
何しろ「見直された土地」の中央、赤鞘の社を取り囲む形で生えている。
どうやっても、先に顔合わせをしないわけにいかなかったのだ。
一度に八柱の精霊達と引き合わされたのだが、流石にタヌキは落ち着いたものだった。
ニコニコと笑顔で挨拶を交わし、あっという間に打ち解けてしまう。
樹木の精霊達はタヌキの膝に乗ったり、背中にくっついたりしてすっかり仲良くなった様子である。
中でも特に懐いたのは、火の精霊樹の精霊と、闇の世界樹の精霊であった。
「ねぇーねぇー! 人間だった頃の赤鞘様って、どんなだったのー?」
「タヌキさんは、一緒に旅をされていたのでしょう?」
「このおかし、たべる? おいしーよー!」
「しっぽ! しっぽあるの!?」
わちゃわちゃと寄って来る樹木の精霊達に、タヌキはニコニコ嬉しそうに対応していた。
そんな様子を眺め、赤鞘は苦笑しながら頭を掻く。
「いやぁ。すみません。賑やかで驚いたでしょう?」
「賑やかなのは良いことです」
「そうですねぇ。私も、静かなのよりこっちの方が好きなんですよ」
「もちろん。知っていますとも」
苦笑いで頭を掻く赤鞘を見て、タヌキは嬉しそうに笑う。
タヌキの膝に乗っている火の精霊樹が、キャッキャと声を上げながら、タヌキの方に振り向く。
「タヌキさんって、だっこするの上手だねぇー」
「何人か子供を拾って、育てたこともありますので」
「子供、ですか。旅に出ていらしたときですかね?」
赤鞘が、首を捻りながらたずねた。
少なくとも赤鞘には、神社で子供を育てたような覚えはない。
タヌキは火の精霊樹を撫でながら、「はい」と頷く。
「旅をしていると、捨てられた子供などを見る機会が多くありまして。大抵は引き取り手を見つけられたのですが、特殊な事情の子供はそうもいかず」
「特殊な事情? ですか?」
「念動力や発火能力。魔法の素養などを持った子供です。宗教的に、そういった子供が生きづらい場所もありますので」
赤鞘は、納得したように何度もうなずいた。
タヌキは言葉をぼかしたが、そういった子供を「異端」として殺してしまうのはよくある事だ。
どうやらタヌキにとって、それは看過できない事だったらしい。
旅の途中で大変だっただろうに。
妙に生真面目で、そういう苦労を背負いこむことを是とする。
旅をしている間も、タヌキが「赤鞘の知るタヌキ」であったことが、嬉しく、どこか誇らしかった。
もっとも、タヌキからすればそういった子供になど興味はなかったのだが。
拾って保護したのは、あくまで「赤鞘ならそうする」と考えたからであった。
タヌキの行動基準は常に、赤鞘が何を望み、何をするか、なのだ。
「その子達は、今どうしているんです?」
「独り立ちした子も居ましたが、仕事を手伝ってもらっている子も居ましたので。そういった子達は、白蛇様に預けてきました」
「ああ! 白蛇さんに! それなら間違いありませんねぇ」
白蛇というのは、赤鞘が人間だった頃から交友のある土地神であった。
元々は白蛇の妖怪だったのだが、一悶着あって湖と周辺の村々を治める土地神になったのだ。
なんだかんだと口うるさい所はあるのだが、頼みごとをすればまず間違いなくやり遂げてくれる、頼りになる土地神である。
「そういえば、前にも巫女衆の人達を押し付けたことありましたねぇ。もしむこうに行くようなことがあれば、お土産でも持っていきましょうか」
赤鞘の白蛇に対する信頼に若干イラっとしながらも。
タヌキは赤鞘の言葉を、反芻していた。
赤鞘は、「むこうに行く」といったのだ。
つまり今の赤鞘にとって、「ここ」が居るべき場所だ、ということなのである。
タヌキにとって、いるべき場所は「赤鞘」であった。
つまり、タヌキにとっても「ここ」は居るべき場所なのだ。
「そうですね。指ハブも持って行きましょう。きっとお喜びになられますとも」
タヌキはどこまでも穏やかそうな顔で、嬉しそうに言った。
ギルド、スケイスラー、ホウーリカ。
今回の「見直された土地」の件に絡んでいる三つの勢力の中で、もっとも力がないのは何処か。
そう問われたとき、トリエア・ホウーリカは自信をもって「ホウーリカだ」と答える。
流通している魔石のシェア100%を占める、超々巨大エネルギー生産組織ギルド。
二千年以上の長きに渡り国家体制を維持し、あまつさえ今も現役の輸送国家として最前線で戦い続けているスケイスラー。
それに対して、ホウーリカはどうか。
ごく普通の中堅どころの国、である。
そこそこの戦力、そこそこの人口、そこそこの経済能力。
誇りを持てる程度の文化があり、他国にリスペクトされる程度の影響力を持つ。
貴族はそこそこに腐っているモノが多く、ごく一般的な「人間至上主義」な側面がある。
どうしようもなく、致命的なまでにどこにでもある、ごく一般的な国家であった。
一つ、他にない特徴を上げるとするならば。
無能で無能で、どうしようもない無能な「上」を、愚鈍で勤勉で優秀な「下」が必死に、時には実際に死んで支えている、という所だろうか。
少なくともトリエアから見て、ホウーリカの首脳陣と呼べるもの達に優秀な人材は存在しない。
そんなものがいるのならば、トリエアに「見直された土地」に関する全権など握らせないだろう。
大体にして、まだ年若い「小娘」でしかない第四王女が、国の諜報機関の一部やいくつかの犯罪組織を傘下に収めている、という状況が異常なのだ。
そんなことを許している時点で、「上」が無能であることは疑う余地がない。
対して、「下」はどうだろう。
無能な「上」を必死に支え、それが国のためになると信じて何とか国家を維持している。
何と愚かで、なんと勤勉なことだろう。
さっさと「上」を取り換えるなり、成り替わるなりすればいいのに、そういった発想がありながら、それを「悪」だと思っている。
当然、そういった事を考えた者もいた。
しかし、そのすべてが事前に叩き潰されている。
トリエアとしては少々残念に思うが、仕方がない。
叩き潰される程度の能力しかなかったのである。
運に恵まれて「上」に成れたところで、僅かの間もなく引きずり降ろされることになっただろう。
あるいは、早々に自分がしたのと同じようなことを「下」にされることになるか。
所詮、長続きなどしないだろう。
まぁ、とにかく。
ホウーリカは、実に凡庸な。
ギルドやスケイスラーとは、比べるのも失礼になるような小勢力なのである。
そのことを、トリエアは良く理解していた。
当然、出来ることの規模、精度、速度、何もかもが、他の二つの勢力に劣ることも。
それはもう、嫌というほど理解していた。
相手がどの程度の組織であり、彼我の差はどの程度のものなのか。
そういった事を調べるのもまた、トリエアの仕事だったのである。
「そんな方々と肩を並べて功を競うっ! ああ、明らかに格上の方々と肩を並べて戦っていますのよっ! ああ、なんて誇らしい! なんて素敵なのでしょう!」
こと「見直された土地」に絡むことに置いて、ホウーリカはその明らかな格上な二つの勢力と同じ土俵に立っていた。
トリエアにはそれが誇らしく、同時に。
「ホウーリカにどれ程のことが出来るというのでしょうっ! 広く世界を知り、永くその力を維持してきた方々と同じことが出来るのかしらっ!」
とても恐ろしく、不安であった。
トリエア・ホウーリカには、一つ大きな欠点がある。
感情の起伏が異常なまでに大きいことだ。
喜びや悲しみ、怒りや楽しみといった感情が沸き起こる度、トリエアの心は激しく揺さぶられ、翻弄された。
嵐の海に浮かぶ、一艘の小舟。
そう例えて差し支えないほど、トリエアの心の起伏は激しかったのである。
物心ついた頃からの事であるから、幼少期のトリエアは、それが普通だと思っていた。
誰もがそんなものなのだろう。
トリエアがその勘違いに気が付いたのは、幼少期の終わりごろであった。
幸か不幸か第四王女という立場以上に優秀であったトリエアは、自分と周りの人間を観察し、その違いに気が付いたのである。
常に大きな喜びや悲しみ、怒りや楽しみに揺れ動かされ続けること。
一見、大したことがない事の様に見えるそれは、実際には凄まじい弊害を伴っている。
心が動く、ということには、実は大変なエネルギーが必要であった。
あまりに大きな感情が沸き起こると、人の心は疲弊してしまうのである。
疲れ切った心を、それでも無理やりに動かし続ければ、どうなってしまうのか。
トリエアの場合は、まるで廃人の様に何も感じることも出来ず、指すら動かすことが出来なくなってしまう。
動くことはもちろんの事、歩くことも話すことも、呼吸すらも乏しくなってしまうのだ。
生きる力が枯渇した状態、と言ってよいかもしれない。
トリエアは数年に一度、そういう状態に陥ることがあった。
指を動かすことも、声を出すことも出来なくなり。
息をすることすら微かにしか出来ない。
まるで、意識不明のような状態である。
それでも、数日もすれば心の力は回復し、何事もなかったかのように動くことが出来た。
常に大きなうねりに晒されている分、トリエアの心は回復も早かったのである。
しかし。
廃人の様に動けなくなる時間は、毎回少しずつ長くなっていた。
今はまだ、ほんの五日程度。
だが、それは近いうちに六日になり、十日になり、一か月、二か月と伸びていくことになるだろう。
そして最終的には、恐らく。
二度と自力で動くことが出来なくなる。
別に、医者やカウンセラーがそういったのではない。
そうではないのだが、トリエアには不思議とそうなるだろうという予感があったのである。
それでも別に構わない。
トリエアは本気で、そう思っていた。
自分自身の生き死にについて、まるで興味を持っていなかったのだ。
別に、恐怖がない訳ではない。
自ら制御することが出来ない、まるで自分のものではないかのような感情の起伏。
それに対する恐怖もまた、異常な大波となってトリエアの心を襲うのだ。
ただ、それは。
まるで自分の心が自分のものではなくなってしまうかのような不安感からくるものであって、死への恐怖ではなかったのである。
心が動かなくなる、心が死ぬのであれば、それが自分の寿命なのだろう。
どうせ生き物というのは、いつかは死ぬのである。
それまで必死に生きればよいのだ。
ずっとそんな風に考えていたトリエアだったが、ある時転機が訪れる。
国同士の折衝のために訪れた天使が、トリエアにこう声をかけたのだ。
「励みなさい」
その瞬間、荒れ狂っていたトリエアの心は、無風の湖面の様に凪いだ。
植物のような穏やかさで、ただ「ああ、励めばいいのか」と思うことが出来たのである。
トリエアにとって天使や神と言った絶対者からの言葉とは、それすなわち平穏であったのだ。
普通の人間ならば当たり前に手に入る、「ぼうっとする時間」。
睡眠中ですら、夢などによって激しく感情を動かされるトリエアにとって、唯一。
本当に唯一、なだらかな心を手に入れることが出来るひと時。
それが、「天使や神の指示に従っている時」だったのである。
どんなときにも激しい感情の起伏に晒され続けていたトリエアの心にとって、それは渇望して止まないものであった。
天使や神が実在し、世界に干渉してくるこの世界に置いて、その指示に従うことは誰にとっても当然の事となっている。
もちろんトリエアもそういった認識を持っていたのだが、実際に「天使からの言葉」を受けることで、それはさらに強くなった。
今のトリエアにとって天使の言葉に従うというのは、食欲や性欲、睡眠欲といったもの。
生存本能に等しいものとなっていた。
いくつかの工作のために国内外を飛び回っていたトリエアは、久しぶりにホウーリカの王都に戻っていた。
執務室に入ると同時に、驚いたように目を見張る。
机の上に、一通の封筒が置かれていたからだ。
無論、ただの封筒であれば、驚きはしない。
その封筒に使われた封蝋。
見覚えがあるソレは、トリエアが数年前に叩き潰した、貴族家のものであった。
一瞬、トリエアの表情が歓喜に染まり、すぐにその色が消える。
この封蝋印は、何かの時のための連絡用として、トリエアが風彦を通じてエルトヴァエルに提供したものだった。
執務机に座ると、トリエアは封筒を開ける。
ナイフなどは使わず、魔法による開封。
使うのは、エルトヴァエルから与えられたベルである。
かなり高レベルで楽器魔法を扱うことが出来るトリエアは、専用の楽器でなくても魔法を行使することが出来た。
もちろん効率は落ちるが、封筒を開ける程度であれば問題ない。
エルトヴァエルが使う印が入ったベルは、その音色だけでトリエアの心を穏やかにしてくれる。
封筒の中から手紙を取り出し、広げて読む。
手紙は、「トリエアの筆跡」で書かれていた。
内容は実に簡潔で、箇条書きと言って良いものである。
略語、符丁と思しき単語が多いそれは、意味が解らないものには読み解けないものだった。
トリエアはそんな手紙を、事前の取り決めの通りに読み解いていく。
それは、エルトヴァエルからの「指示書」であった。
既に存在しない貴族家の封蝋に、トリエア自身の筆跡。
さらには、暗号のような文章。
人手に渡っても安全なように施されるようなそんな工夫は、本来全く必要のないものである。
エルトヴァエルが手紙を届ける手段は、おおよそ二つ。
当天使が運んでくるか、あるいは風彦が運んでくるか。
どちらにしても、奪われることも盗み見られることもない。
言ってみればこれは、エルトヴァエルの「遊び心」なのだ。
余人にはわからない種類のものであったが、トリエアにとってはとても楽しいものだった。
指示書の内容は、実に簡単なものだった。
とある国が不穏な動きをしている。
おおよその事は、リリ・エルストラにも伝えてある。
話を聞き、その国を調べ上げてほしい。
ごく短く、簡単な指示だった。
しかし当然、その意味するところは重い。
アグニー族奪還のための調査であれば、トリエアにこんな形で割り振られることはないだろう。
非常に遺憾ではあるが、その手の事はホウーリカよりも。
一国家である「ホウーリカ王国」よりも、ガルティック傭兵団の方が上であった。
当然、世界中に情報網を持つギルドやスケイスラーにも敵わない。
普通に考えるのであれば、ホウーリカに調査を任せる意味などないのだ。
無論、隠蔽や情報操作であれば後れを取るつもりは全くないが、そこは適材適所である。
ではなぜホウーリカに、トリエアにこんなことを任せるのか。
まず思いつくのは、調査が必要な事柄にホウーリカが絡むから。
あるいは、調査結果を基にした行動をホウーリカに任せたいから。
何にしても、ホウーリカの力が大きく必要になるから、その事前準備をして置け。
ということだろう。
ギルドでもスケイスラーでもなく、ホウーリカが選ばれた。
恐ろしく光栄で有難いことである。
手放しで喜びたいところだが、そうもいかない。
ほかの二つではなく、ホウーリカが選ばれた理由を、考えなければならなかった。
「とはいっても、情報が少なすぎますわね」
考えようにも、材料がないのだ。
まずは指示書通り、“鈴の音の”リリ・エルストラから情報を得るしかない。
早急に方法を考えなければならない、のだが。
「ふふっ」
トリエアは思わず、笑い声を上げた。
普段の彼女からは想像もできないような、微笑む程度の笑い声。
実に穏やかで、どこまでも静かな笑いであった。
ギルドやスケイスラーではなく、ホウーリカが選ばれた理由。
トリエアが笑ったのは、いくつか思いつくその理由の一つが、とても楽しいものだったからだ。
「戦争。戦争かしら」
ホウーリカがほか二つの勢力よりも、明確に優れる点。
その一つが、「戦争能力」である。
ギルドは、戦争が出来ない。
勢力としては巨大であるギルドだが、国ではないし、そもそもそれほどの戦力を保有していなかった。
ギルドの強さは多くの冒険者を抱えていることであり、彼らが運んでくる大量の魔石であり、それを加工する特殊技術である。
そもそも世界最大のエネルギー生産組織であるギルドに正面切ってケンカを売ろうとするものなど、存在しない。
自前で魔力を生産しているメテルマギトですら、二の足を踏むだろう。
ゆえに、ギルドは戦争をする能力を持たず、する必要もないのだ。
スケイスラーもまた、戦争が出来ない。
する必要がない、という方が適切だろう。
何しろ輸送国家である。
そこに手を出すような国は、早晩干上がることになるのだ。
危険地帯が多く、大型の輸送船舶を生産する能力を持つ国が限られるこの世界に置いて、輸送国家は唯一に近い安定した輸送手段なのだ。
そこに手を出すということは、周辺諸国に襲い掛かる口実を与える行為であった。
よほど特殊な事情でも抱えていない限り、輸送国家の世話になっていない国など存在しない。
どんな国であろうと、嬉々として「被害国を助ける」という錦の御旗を掲げて戦ってくれるだろう。
もちろん、国のような大きな組織ではなく、盗賊団などによる船舶襲撃はある。
スケイスラーもそれらを退ける戦力は十二分に持ってはいるが、それだけしか持ち合わせていないともいえた。
つまるところ、ギルドもスケイスラーも、大規模戦闘能力を有していないのだ。
もちろん小勢程度であれば簡単に叩き潰せる戦力は保有している。
翻って、その程度の戦力しか持ち合わせていない、ともいえた。
すなわち。
こと戦力、戦争能力という点に置いてだけは、ホウーリカは他二つの勢力を引き離し、大きな優位性を持っているのだ。
「その国と戦争になるのかしら」
良く誤解されるのだが、トリエアは戦争処女ではない。
何ならそこらの退役軍人なんぞよりも長く、濃密に戦場に関わって来ている。
そこら中で戦端が開かれ、瞬くように国が生まれ、滅びるのが今の世界情勢だ。
穏やかな「戦後」を謳歌している国など、ほぼ存在しない。
ホウーリカも当然そうであり、トリエアはホウーリカの諜報機関を実力で掌握した王族なのだ。
「天使様の御意思による戦争。きっと公にはできないでしょうけれど。ああっ。それが叶うなら、なんて素敵なんでしょう」
少なくとも、ここ約100年間、天使や神の指示による戦争は行われていない。
もしも、もしもである。
エルトヴァエルが意図するところが、「戦争準備のための調査」であるならば。
百数十年ぶりの天使や神の指示による戦争が、「聖戦」が行われることになる。
当然、表向きの理由は「アグニー族の依頼による、アグニー族の奪還」になるだろう。
しかしながら、トリエアは裏に誰が居るのか。
どんな考えがあるのかを、僅かながら知っている。
「期待はしてしまうけれど。慌ててはいけませんわね。まずはきちんと調べないと」
指示されたことを、一つずつ淡々とこなせばいい。
トリエアはどこまでも穏やかな気持ちで、仕事へと取り掛かった。
巨大な縦穴型の施設である、「エンシェントドラゴンの巣」。
最下層の宿泊施設にあるロビーで、水彦は苦悶の表情で頭を抱えていた。
そんな水彦を見て、テーブルをはさんで対面に座っていたモノ。
人の姿に変化したエンシェントドラゴンは、困ったように唸った。
「つまり、人であった頃の赤鞘様の記憶が、鮮明になってきた。と」
「まあ、そんなかんじだ。よりにもよって、こんなタイミングで」
赤鞘は元々日本の土地神であり、この世界「海原と中原」の神とは有り様がかなり違っている。
例えば、信仰。
日本の神にとっては絶対的に必要なそれは、この世界にとってはあろうがなかろうがどっちでもいいものであった。
何しろ「海原と中原」の神は生まれ出でたその瞬間から神であり、信仰があろうがなかろうがその在り方が揺らぐものではない。
一方日本の神、特に土地神と言うのは、「信仰されるから」神として強い力を得るモノであった。
元々日本の土地神であった赤鞘にとって、やはり信仰とは力である。
治めている「見直された土地」や、それ以外のこの世界の住民達からの信仰は、赤鞘の力になっていた。
だが、悲しいかな「日本」と「海原と中原」では、世界の基礎となる「理」に違いがある。
そのためか、この世界のものの信仰心は、赤鞘の力になりにくかった。
赤鞘に行くはずだった力は、最初はそのまま霧散してしまっていた、のだが。
信仰の力は、別の行き先を見つけたのである。
つまり、水彦だ。
水彦は、赤鞘の眷属というより、分霊に近い存在である。
「そんなわけで、赤鞘様に行くはずだった力が水彦兄に流れてしまっているんです、って、エルトヴァエル様が」
心配そうな顔でそういったのは、風彦だった。
ハラハラとした様子で、水彦を見守っている。
「赤鞘様が元々は人間で、それから神様になったお方だ。というのは有名な話ですから。そんな方向性の力が、水彦兄に流れているそうです」
「人であった神への信仰であるがゆえに、水彦殿にもその影響が出た訳か」
「はい。赤鞘様の人間時代の記憶がはっきりしてきたのは、つまりそういうことなのだとか」
記憶を引き継ぎ、場合によっては感覚を共有するとはいえ、水彦はあくまで「土地神 赤鞘」のガーディアンである。
水彦が持つ「人間時代の赤鞘の記憶」は、相応に曖昧なものだったのである。
だが。
最近になって流れ込んでくるようになった信仰心のおかげで、それがかなり鮮明なものとなってきたのである。
ぶっちゃけた話、なんなら赤鞘本神よりも、しっかりと思い出せる程だ。
何しろ赤鞘は雑魚神であり、基本的には常に記憶があやふやで、ふわっふわしているのである。
苦悶の表情の水彦をしげしげと見つめ、エンシェントドラゴンは首を傾げた。
「それに、何か問題が?」
別に、問題はないように思われた。
そういう記憶がある分、打ち解けやすくもあるのではないか。
エンシェントドラゴンとしては、そう思えるほどだ。
だが、どうも水彦にとってはそうではないらしい。
「きまずい」
気まずくて顔を合わせづらい。
水彦の悩みは、それに尽きた。
なにしろ、水彦の方はタヌキを知っているが、タヌキは水彦を知らないという状況だ。
顔を合わせても、どんな話をしていいかわからない。
正直なところ、水彦はこんなことを思い悩む性質ではなかった。
どちらかと言えばさっさと突っ込んでいくタイプである。
だが、ことがタヌキとなると、話は別だ。
人間時代からの付き合いなのに、最近まですっかり存在を忘れていた。
いくら赤鞘が雑魚神ゆえに記憶がふわっふわしているとはいえ、流石にこれは申し訳が無さすぎる。
無論、忘れていたのは赤鞘であって、水彦ではないのだが。
記憶を共有しているだけに、なんとも言えない複雑な気持ちになっていた。
「むこうは、おれをしらないんだけどな。だからこそ、なんだ。せつめいがむずかしい、かんじになる」
気まずい。
ひたすらに気まずいのである。
出会ってまず第一声、何と言って良いかわからない。
久しぶり、と言えば久しぶりだし、初めまして、と言えば初めましてなのだ。
タヌキが自分を見て、なんというか。
まるで想像がつかなかった。
水彦は頭を掻きむしると、やたらと重い溜息を吐く。
「たびにでも、でるかな」
「流石にそれは。エルトヴァエル様にも、土彦姉にも叱られますよ?」
風彦の言葉に、水彦は顔をしかめた。
エルトヴァエルも土彦も、水彦にとっては怖い相手である。
叱られると、口答えできなくなってしまうのだ。
生まれたときから世話になった相手に、同じ赤鞘のガーディアンである妹分。
どちらも、身内である。
水彦は身内の女性に、弱いタイプなのだ。
もちろん、風彦にも弱い。
「なんとか、さきのばしにならないもんかな」
記憶のせいか、赤鞘の保留癖まで移って来ていた水彦であった。