百七十七話 「おかえりなさい」
前の村では一番の歌い手であったアルティオが、無事にコッコ村へ到着した。
「アルティオ! 無事じゃったか!」
「よかったよかった!」
「うん、とくに怖いこともなかったし、美味しいものもあったよ。みんなは元気だったの?」
「げんきだったよー」
「けっかいー」
「村までつくってるぐらいだからなぁ」
「そっかぁ! それにしても、りっぱな村だねぇ!」
アルティオはぐるりと村中を見回すと、感心したように溜息を吐いた。
それも、無理はないだろう。
今のコッコ村は、元のアグニー達の村よりずいぶんと立派になってるのだ。
アグニーは少しでも危険が迫ると、すぐさまその場を逃げ出す生き物である。
その逃げっぷりは凄まじく、家財産に畑なども放り出して逃げてしまう。
なので、メテルマギトに襲撃を受ける以前にも、実は何度か村が移転していたりしたのだ。
しかも意外とその頻度は高く、アグニーの村は大体五年ごとぐらいに移動していた。
そのため、村の施設を充実させようとしても、それらがそろう前にその場所を逃げ出してしまうのである。
まあ、アグニー達は別にそんなこと気にしないし、何なら前の村から逃げ出したことも忘れてしまうことすらあるので、かけらも問題ない訳だが。
何なら既にメテルマギトに追いかけられたことすら、既に忘れかけているアグニーも居る始末である。
アグニー族の忘却力の高さは、種族としての弱さゆえであった。
悲しいことがある度に引きずり続けていては、なかなか前に進むことが出来ない。
そういう時は逃げ出して、少しでも早く忘れることで生きていく。
ただし逃げるときは、一人でも多くの仲間と一緒に。
何ともおかしな生態ではあるのだが、そこがアグニーらしいのではないだろうか。
きょろきょろと村の中を見渡していたアルティオが、不思議そうに首を傾げた。
「あれ? みんな、楽器つくってるの?」
「そうそう。お祭りやるんだよ。なんのだったかよくおぼえてないけど」
「あれ、なんだっけ。収穫祭だっけ?」
「けっかいー」
「たぶんそうだった気がする」
皆が首をかしげてあいまいに応えるのだが、そこはアルティオもアグニーである。
特に気にした様子もなかった。
大事なのはお祭りをすることなのである。
「なんにしても、アルティオがお祭りに間に合ってよかったなぁ」
「だよねぇ。おうた、じょうずだもんね」
「まかせてまかせて。たくさん歌っちゃうよ。でも、お祭りっていつやるの?」
「けっかい?」
「ええっと。いつだったっけ」
「忘れた。村長にきけばおぼえてるかな?」
アグニーの忘却力は、別に辛い記憶じゃなくてもどんどん消してしまう、若干問題のある機能なのであった。
とある大きな神社の境内。
幾柱かの神や神使があつまった其処に、タヌキの姿があった。
ただ穏やかに微笑んでいるその姿に、毒気のようなものは全くない。
そんなタヌキを見て、ヤマネは突然宇宙の話をされた猫のような顔になっていた。
「間抜けな顔になっているぞ」
かけられた声に、ヤマネは心底驚いたように体を跳ね上げた。
声をかけた当のオオカミは、その驚き様に呆れたような顔をしている。
「そんなに驚かんでもいいだろ」
「えっと、はい。すみません。いや、なんか、タヌキ様もあんなお顔をなさるのだなぁ、と」
穏やかで、優しく、温かい微笑み。
慈悲深さまで感じられるようなその笑顔は、ヤマネの中にある「タヌキ像」と明らかにかけ離れたものであった。
「あんな顔?」
オオカミはタヌキの方へ視線を向け、じっと目を凝らす。
そして、何事か納得したように「ああ」と頷いた。
「まあ、確かにこちらに戻ってからはあまり見なかったな。以前はよくあんな顔をしていたものなんだが」
「それは。赤鞘様が御近くにいらしたときですか?」
「そう言う事だな。どんなモノ、人間であれ、タヌキ殿のような妖怪変化であれ、己の本来あるべきところに戻る前というのは、機嫌の一つもよくなるものだろう」
「己の本来あるべきところ。赤鞘様のおそば、ということですか」
ヤマネの言葉に、オオカミは「そう言う事だ」と頷いた。
オオカミもヤマネも、どちらも神使である。
彼らは神社にいることが多いのだが、付いているのはあくまでその祭神にであった。
だからこそ、タヌキの気持ちを察することが出来る。
「ようやく、赤鞘様の元へ“帰る”ことが出来る。己の本来あるべきところに“戻る”。俺でいえばオオアシノトコヨミ様であり、君でいえば御岩様と巫女の下か。タヌキ殿は、約百年ぶりにそこへ“帰る”のだ」
「なぜタヌキ殿は、赤鞘様の下を離れていられたのでしょうね。正直なところ、僕には想像がつかないですよ。お仕えしている神様から離れて、百年でしょう。そりゃ僕らだって、それなりに離れることはありますが。長くて精々一月ってところですから」
同じ神使として、ヤマネにはタヌキが赤鞘を慕う気持ちが、ある程度とはいえ理解できた。
だからこそ。
何故その神の下から、離れることが出来たのか。
ましてタヌキの“執着”は、ヤマネのそれよりずっと、ずっとずっと強いようである。
にも拘らず、タヌキは赤鞘の下を離れた。
自らを磨くことで、より赤鞘の役に立つため、という理由があったにしても。
オオカミは苦笑いをして、肩をすくめた。
「わからんさ。わからんよ。タヌキ殿がタヌキ殿で、赤鞘様が赤鞘様だったからそうなったのだろう、というのを察することが出来る程度だ。タヌキ殿の心情を察しよう、推し量ろうというのは、いわゆる土足で踏み込むような類の事なのかもしれん」
そう言われてしまえば、ヤマネとしてはどうしようもなかった。
ただ、「一つわかることは」と、オオカミは続ける。
「タヌキ殿は用事を終えて、ようやく赤鞘様の下へ戻る。だから、機嫌がいいということだ」
「それは、そうなんでしょうけども」
「機嫌が悪いよりはよかろう。怒ったタヌキ殿は厄介だぞ」
機嫌が悪いタヌキ様というのは、一体どんな状態なのか。
危うく想像しかけて、ヤマネは慌てて激しく頭を振った。
凄まじく怖い想像になりそうだったから。
まだ若いヤマネだが、自分の心の守り方はある程度心得ていたのである。
こういう時は、別なことを考えて気を紛らわした方が良い。
そう考えたヤマネの頭に、ふとある疑問が浮かんだ。
「そういえば、タヌキ様が抱えていらっしゃった家臣団の方々。どうなるんですか?」
「なんだ。聞いていなかったのか? 白蛇様が御預かりになるそうだ」
白蛇様というのは、赤鞘神社がある村、その近くにある神社の祭神であった。
神社は山中の湖の湖畔に立っており、白蛇はその湖の神。
いわゆる水神であった。
この白蛇は元々は妖怪変化の類だったのだが、人間だった頃の赤鞘といざこざを起こしたことをきっかけに、水神として祭られることになったのである。
その件には当然タヌキも関わっていて、言ってみれば二柱と一匹は昔馴染みなのだ。
「ああ、白蛇様が」
白蛇の神社には、「巫女衆」と呼ばれる集団が居た。
当然普通の巫女などではなく、特殊な技能や能力を持った、一種の「忍者」集団である。
そういった集団を率いているという実績があるからこそ、タヌキは自分の部下達を預けようと考えたのだろう。
ちなみに、白蛇はこの場にも来ている。
ヤマネはちらりと、白蛇の方へ視線を向けた。
「いやじゃぁああああああ!!! あの主従そろいもそろってワシに厄介ごとばっかり押し付けるんじゃぁ! タヌキが世界中旅してるうちに拾った能力者とかなんじゃろあやつら! なんでワシがそんな厄タネ預からにゃならんのんじゃぁ! そもそもあの巫女衆じゃって、赤鞘さんから押し付けられたんじゃぞ!」
白蛇の外見は、巫女服を着た幼い少女、といった物である。
その姿で地べたに寝転がり両手両足を振り回す姿は、ただの駄々っ子のように見える。
「あの。白蛇様、いやがってるみたいですけど」
「白蛇様もオオアシノトコヨミ様一門衆の一柱だからな。泣こうが喚こうがどうにもならないことは御承知だ」
「その上で、泣き喚いて暴れていらっしゃると」
「そうだな。まあ、タヌキ殿を喜ばせているだけのようだが」
言いながら、オオカミはタヌキの方へと視線を向ける。
それを追ったヤマネは、なるほどと頷いた。
地面で暴れている白蛇を、タヌキがニヤニヤと眺めていたからだ。
先ほどまでの穏やかな笑顔とは、種類の違う笑顔である。
だが、それはヤマネにとって、見慣れた顔であった。
「本当にご機嫌がいいんですね、タヌキ様は」
「この時のために、散々に動き回っていたようだからな。何の憂いもなく“海原と中原”へ向かえるというものだろう。いや」
オオカミは何かを思い出したというように片眉を上げ、僅かに口の端を持ち上げた。
「一つ心残りがある、か。まあ、それもあちらへ向かう道中で終えるつもりなのだろうが」
そんなオオカミの言葉に、ヤマネはいささか不思議そうに首を捻った。
この世ならざる、いわゆる地獄と呼ばれるような場所。
そこで責め苦を受けているモノ達をしり目に、キツネは惰眠を貪っていた。
死後の裁きの結果待ちをしている間に、お偉方の会食のために用意された料理をつまみ食い。
その罰として、地獄で働かされることになったキツネだったのだが。
何とかは死んでも治らない、という言葉もある通り、キツネの性根は死んでも変わらなかったのである。
「うーん、むにゃむにゃむにゃ。これは、あれだ。ちょっと醤油味がきついなぁ。みりん入れろよ、みりんをよぉ」
気持ちよく寝言を言っていたキツネだったが、その体に強い衝撃が走った。
まるで腹のあたりを蹴り上げられたような、鋭い痛み。
「ひぎゅぁああああああん!?」
キツネは悲鳴を上げながら地面を転がり、痛む腹を抱えてのたうち回った。
「なんだごらぁ!? どこのボケが何し腐りやがった、ああん!?」
精一杯のメンチを切って周囲を見回したキツネは、すぐに何者かの影を発見する。
こいつがやったに違いないと素早く判断し、跳ね起きようと体を起こす。
が、改めて相手の姿を確認し、キツネは凍り付いた。
「はっ!? 穂ノ尾!? テメェなんでこんな所に居腐りやがんだこのハチャメチャ厄介オタク!!」
「なんでも何もありません。いいですか、稲穂。あなたがバカなことをしていると、赤鞘様の評判も傷つくんです」
「知るか、ボケェ! 大体アイツ、また異世界に行ったんだろ! 生きてやがったころみてぇによぉ! じゃぁ、もう関係ねぇだろうが!」
「関係ない訳がないでしょう。一門衆の方々にきいて、卒倒するかと思いました。どの神様も神使も、皆さんがあなたの地獄でのやらかしを知っていたんですよ。私はもう、顔から火が出るかと」
「言ってろお前、マジで口から火ぃ吹く癖しやがっ、あっつっ! 熱い熱い熱い! ふざけんなよお前!」
「まったく。赤鞘様の下へ戻る前に釘を刺しておこうと思ったのですが、正解ですね」
「は? お前まだあいつのこと追い掛け回してんのかよ。知ってっか? 最近はそういうのストーカーってひぎゃぁああああああ!!!」
口は禍の元、という言葉がある。
地獄にはしばらくの間、キツネの悲鳴が響き渡った。
ぶっすりとした顔で寝転がるキツネの横に、タヌキがすました顔で腰かけている。
お互いに同じ方向を向いていて、顔も視線も合わせていなかった。
「まさかあなたが寿命なんぞで死ぬとは思いませんでした」
「お前と違ってそこまでヤベェ妖怪じゃなかったもんでな。それでも五百年ぐれぇは生きてんだぞ。戦国前ぐらいなんだからよぉ」
「赤鞘様を置いて行って、どうするつもりだったんですか」
「知らねぇよ、流石によぉ! 死ぬの生きるのなんざ好き勝手出来るかよぉ!」
「気合が足りません」
「そんなもんでどうにかなるかぁ、ボケェ!」
キツネは噛みつくように声を荒げるが、タヌキはどこ吹く風。
表情一つ変えないその様子を見て、キツネは苛立たしそうにそっぽを向いた。
「あのバカ鞘んとこ行って、どうするつもりだよ。またぞろ面倒ごとに巻き込まれんぞ」
「行くのではなく、戻るのです」
「ったく、ストーカータヌキが」
「なにか、お伝えしておくことはありますか」
「ねぇよ。なんだかんだ死ぬ直前まで、ツラ突き合わせてたしな」
「赤鞘様に、看取られたわけですか」
「社の裏手で死んだからな。野郎ぐれぇしか居なかったし。って、何で睨んでくんだよテメェよぉ! お前がマジで睨んでくると熱いんだぞ! 妖気こもってっから! いい加減にしろよ!」
「赤鞘様に看取られたんです。光栄に思いなさい」
「しらねぇよバァーカ! 死ぬ直前なんてそんなもん分かんねぇし何でもよくなる、あっついつってんだろうがボケ!!」
タヌキの文字通りの熱視線を、キツネは叩いて逸らさせる。
「赤鞘様に看取っていただけるなど。あなたには過ぎた幸運です」
「頭イカレてんじゃねぇのかお前。いや、イカレてたわ。そうだ。うん。そうだったわ」
自分でそう言って、キツネは妙に納得した顔でうなずいた。
そして、疲れたようなため息を吐く。
「結局お前、マジで何しに来たんだよ。異世界渡りの前に地獄に来るって」
「赤鞘様にあなたのことをご報告するためです。地獄にいることは、お耳に入っていないらしいですから」
「あのアホがオレの事気にするかぁ? 大体、こっちゃぁ死んでんだぞ」
「あの世でまで悪さをしていると知れば、きっと何をしたかお知りになりたいと思われるでしょう。そして、場合によっては手ずから折檻をなさりにいらっしゃるはずです。羨ましい」
「どういう精神構造してんだ一体。ったく。お前も変な奴だよなぁ」
「それと、もう一つ」
「もう一つ? オレが何してんのか見に来る以外に?」
「言いそびれた別れを言いに」
「ああ?」
キツネは胡乱気な表情で、タヌキの方へ顔を向けた。
冗談を言っている風ではない。
もちろん本命は赤鞘へ報告するための確認なのではあろうが。
どうやらタヌキは本当に、「別れ」を言う目的もあってここまで来たらしい。
なんだかんだと、長い付き合いである。
顔を見れば、その程度の事は察することが出来た。
キツネは顔をしかめると、再びタヌキから視線を外す。
そして、少しの間お互いに黙って、横に並んでいた。
先に口を開いたのは、キツネである。
「あんまり無茶苦茶すんじゃねぇぞ」
そっけないような、どこかぶっきらぼうな響き。
タヌキは目を閉じると、僅かに口の端を持ち上げた。
「あまりイタズラが過ぎると、キツネ鍋にされますよ」
「うるせぇ、バァーカ」
タヌキはやおら立ち上がると、キツネに背を向けて歩き出した。
「では」
「おう」
お互いに、付き合いが長いからこそ。
またいつか、ということもなく。
さようなら、と今生の別れを惜しむでもなく。
ただそれだけのやり取りで、十分であった。
上位精霊達の住む浮遊島は、湖の上にあった。
ただでさえ周囲は荒れ地だというのに、遮るものの無い湖の上にある浮遊島は、ただでさえ恐ろしく目立つ存在である。
もっとも、浮遊島が目立つ理由は、それだけではない。
島自体、そのものが発光しているのだ。
浮遊島を形作っているのは様々な種類の力の結晶であり、力の中には結晶にすると光を発するものがいくつかあった。
その光り方はやはり種類によって異なり、強く発光し続けるモノ、淡いゆっくりとした点滅を繰り返すモノ、波のように揺らめきながら輝くモノ、などなど。
浮遊島はそういった様々な光によって彩られ、幻想的な姿を見せていた。
その浮遊島の一番端。
水に浮かぶ普通の島でいえば、岸に当たる部分。
そこに、多くの上位精霊達が集まっていた。
輪を描くように並んだその中心には、奇妙な形状の立体物が浮かんでいる。
平面と直線だけで形作られたその物体は、刻一刻と姿を変え続けていた。
ガラス質のような滑らかな表面をしており、そこを淡い光が波のように緩やかに滑っている。
「なかなかに良い出来になったか」
「派手でいいよねぇ」
「ほかの神輿も見栄えがするからな。賑やかになるだろう」
この立体物は、上位精霊達が作った神輿であった。
力の結晶で作られたそれは、言ってみれば「小さな浮遊島」である。
祭りと言えば神輿。
そんな発想から作られたもので、数は樹木の精霊と同じ、八基用意してあった。
もっとも、共通点は数ぐらいであり、別にそれぞれの属性に揃えたり、見た目を工夫するといったことはしていない。
「お、日が沈み始めたぞ」
今は夕刻。
もう少しで、日が水平線に沈み始めるといった頃合いであった。
祭りを始めるのは、日の入りと同時の予定である。
コッコ村では、着々とお祭りの準備が進められていた。
太鼓を打ち鳴らすためのやぐらが組まれ、楽器なども用意されている。
気の早いものなどは、既に楽器を鳴らしたり踊ったりしているのだが。
お祭りのごちそうを用意していたベテラン主婦アグニー達にどやされ、慌てて仕事に戻ったりしていた。
「うわぁ。なんか、たくさん作るんだねぇ」
「そうさ。何しろ食材はたくさんあるからね!」
「豊作だもんなぁ」
「けっかいー」
「豊作すぎて、しまう場所がないんだよなぁ」
豊作は嬉しいのだが、出来すぎてしまうのも困ったところだった。
コッコ村は、赤鞘の力の流れの調整。
それから樹木の精霊達の援護によって、凄まじい勢いで作物が育っていた。
アグニー達のお世話のおかげで非常に味もよく、大変に良いものばかりである。
のだが、いかんせん食糧倉庫に収まり切らないほどの豊作となると、嬉しい悲鳴というより、本格的に悩みの種になっていた。
まさか捨てるわけにもいかず、かと言って放っておくと腐ってしまう。
「やっぱり、傭兵さんにもっていってもらうのがいいかのぉ」
「あー。なんだっけ。アグニーを探してくれてる人達だよね?」
「たくさんいるらしいからなぁ。今度タルの人が来たら、もって行ってもらおう」
大半のアグニー達は、ガルティック傭兵団がどんな連中なのか、よくわかっていなかった。
そもそも傭兵などというものと関わったことがあるアグニーはほとんどいなかったし、そういうのを気にしたことのあるアグニーもほとんどいなかったからだ。
ちなみに、ディロードは樽の人と認識されていた。
村に来た時、樽に入れられて打ち出されたという話が広まった結果である。
「豊作で困るなんて、不思議なもんだよなぁ」
「まったくじゃのぉ。うれしい悩みというヤツじゃて。神様に感謝をせねば」
「しゅうかくさいだ、しゅうかくさい!」
「よぉし、タイコ叩こう!」
「じゃあ、ぼくはフエを」
「ちょっと、なに遊んでんの! きちんと準備を手伝いな!」
「日が沈んだら、お祭りが始まるんだよ! 遊んでる暇なんてないんだから!」
また踊り出そうとしていたアグニー達だったが、やはりおかみさんアグニー達に叱られてしまった。
慌てて走っていく数人のアグニー達の姿に、周りからは笑い声が上がる。
コッコ村のお祭りも、湖の精霊達と同じ日が沈むと同時に始まることになっていた。
実際には、湖の精霊達の方が、コッコ村に合わせた形である。
「にぎやかになったなぁ。さいしょの頃は、どうなることかとおもったけど」
「さいしょのころって何やってたっけ?」
「そりゃおまえ。あれだ。なんだっけ?」
「なんか、こう。シカ。シカがいた気がする」
「シカかぁ。アイツら凶暴なんだよなぁ」
「あと、水彦様もきたんだよな」
「そうじゃなぁ。最近お見かけせんが、お元気なんじゃろうか」
「どうなんじゃろうなぁ。まあ、あの方はいつもお元気じゃもの」
日はずいぶんと傾き、今は夕方といった頃合いである。
アグニー達のお祭りの準備も、ほとんどが終わっていた。
もうすぐ、祭が始まる時間である。
一見、飛行機の発着場か、あるいはどこぞの大企業の巨大オフィスのように見えるそこでは、多くの天使が忙しそうに動き回っていた。
なにしろ、今の「海原と中原」は、ここにいる天使達の手によって支えられている部分が大きい。
忙しそう、なのではなく、実際凄まじく忙しいのだ。
与えられたデスクで仕事をこなし、大慌てで外に飛び出し、空へと飛んでいく。
上空には、いくつもの「空間に空いた穴」のようなものが設置されている。
ひっきりなしに天使が出入りしているそれらは、地上世界と天界を繋ぐゲートであった。
飛行機の発着場と、大企業の巨大オフィス。
言葉を聞くだけだと全く関係のないもののように感じられるだろうが、この場所はまさにその二つの機能を持った施設だったのである。
そんな「海原と中原」の「天界」にある天使達の仕事場に、タヌキはやってきていた。
「いやぁ、ごめんねぇ。こんな所で。いや、こんな所っていうと天使達に失礼かもなんだけど。ほら、お客さんをお招きするところじゃない的なアレでさ」
タヌキに向かって申し訳なさそうに両手を合わせているのは、アンバレンスであった。
「いえ。まさに世界を支えている場所なのですから。そこをお見せいただいた感動に、震える思いですとも」
日本のとある社から、「海原と中原」への異世界渡り。
その、「海原と中原」側の出口が、ここだったのである。
「日本からお客さんがこっちに来るのなんてほとんどないもんだから、業務用の出入り口しかなくって。赤鞘さんの時はVIP用の出入り口作ろうかと思ったんだけど、それだと逆にアレでしょ? 赤鞘さんの場合」
「ええ。そういった出迎えをして頂くと、緊張しすぎてしまう方ですから」
「そうなのよねぇ。ここでもビビり散らかしてたし」
あんまり立派なところに通されると、緊張し倒して心の底からビビる。
赤鞘というのはそういう神様なのだ。
「今日は、お祭りの日だそうですね」
「そうなのよ。コッコ村と、湖の精霊達のね。さっきも言ったんだけども、どうしても顔出さなくちゃいけなくって。向こうに着いたら、すぐに別れなくちゃいけないんだけども」
「はい。承知しております。私だけで赤鞘様の下へは向かえますので」
近づけば、赤鞘の気配は手に取るようにわかる。
今のタヌキは、正確には赤鞘の神使ではない。
赤鞘の下を離れて旅をするため、一時的にそういった「つながり」を絶ってしまったからだ。
ただ。
神様と神使などという「つながり」は、タヌキにとってみればどうでもよいものであった。
赤鞘がどこにいても赤鞘であるように。
タヌキはどこにいても、赤鞘の背中を追いかけ続けてきた、一匹のタヌキなのである。
「地上にお連れ頂ければ、十二分でございます」
「そういってもらえると助かるわー」
いかにも申し訳なさそうに、いささか大袈裟に謝るようなしぐさを見せるアンバレンスを見て、タヌキは思わずといったように小さく笑った。
「お気を使って頂いて、ありがとうございます」
タヌキの言葉に、アンバレンスは「何のことだか」と肩をすくめて笑った。
「せっかくの御再会です。赤鞘様とタヌキ様。その時だけは、知らぬ顔はないほうが良いのですとも」
ぱちりと両手を合わせて、土彦はいつものように。
いや、いつもより幾分嬉しそうににこにこと笑いながら言う。
「はぁ。そういうモノ、なんですかぁ」
そういった心の機微に疎い風彦は、不思議そうな顔で首を傾げた。
風彦としては、水彦にぃ、土彦ねぇ、そして自分やエルトヴァエル様と、皆揃って出迎えた方が良いのでは、などと思うのだが。
アンバレンスや土彦、エルトヴァエルといった面々は、そうは思っていないらしい。
「もちろん、ご挨拶は必要です。ですが、ひとまずは、そう。赤鞘様とタヌキ様だけで」
「風彦はそういう所、まだまだだねぇ」
可笑しそうに言ったのは、風の精霊樹であった。
風彦の膝に座って、頬っぺたなどをモニモニされている。
樹木の精霊達はずいぶん大きくなったのだが、風彦にとってはまだまだかわいい対象のようであった。
「タヌキさんのことは赤鞘様に任せてさ、お祭りを楽しまなきゃだしね。お店もやらないとだし」
土彦達がいるのは、精霊の湖のほとりである。
そこは、ちょっとしたお祭りの会場のようになっていた。
樹木の精霊や、上位精霊達がやっている出店が数軒並んでいる。
「コモットモやきー! コモットモやきだよー!」
「コモットモって何?」
「ほら、海岸で這いずってるやつ」
「アレって食べられたんだぁ」
お客として並んでいるのは、出番までまだ時間がある上位精霊達だ。
精霊達に食事は必要不可欠ではないのだが、出来ないわけではない。
事前に樹木の精霊達から配られた木の葉をお金代わりにして、屋台で買い物などを楽しんでいるようであった。
ちなみに。
お金代わりの木の葉は、世界樹や精霊樹、調停者といった、樹木の精霊達本体の葉っぱである。
人間社会で手に入れようとすれば、相応のコネと労力と金が必要になる、かなりのレアアイテムだ。
そういう意味では、ここの屋台は相当なぼったくりであると言えるかもしれない。
「そういえば、エルトヴァエル様は?」
「ガルティック傭兵団の方々から、報告を受けているようです。例の大量破壊魔法の件ですね」
「せっかくのお祭りなのにですか?」
「だからですよ。エルトヴァエル様も、気を使ってらっしゃるのですとも」
「なるほど。積もる話もある、というヤツですか」
「さぁ、どうでしょう。案外、話す必要なんてないのかもしれませんよ」
「約百年ぶりの再会なのに、ですか?」
「約百年ぶりの再会なのに、です」
風彦はさっぱりわからないといった顔で、体ごと首を捻った。
その動きにつられて、膝に乗っている風の精霊樹の体も傾ぐ。
土彦はそれを見て、思わずといったように噴き出した。
日が沈む。
すっかり太陽が姿を隠すと、一瞬だけ周囲を青が覆った。
地球ではブルーモーメントと呼ばれるような現象であり、良く晴れた日など、夕焼けの終わりや朝焼けの始まりにわずかの間だけ起こることがある、珍しい気象現象である。
特別天気が良い訳でもないのに、この日それを観測することが出来たのは、とある太陽神からのちょっとしたプレゼントであった。
あたりが暗くなり、夜のとばりが下りるのを待っていたのだろう。
光が八つ、浮遊島から湖に向かって零れ落ちた。
落下速度はあくまで遅く、綿毛が一つ落ちるよりもゆっくりとしたものである。
その光を中心に、上位精霊達が輪を作っていた。
一定の間隔を取り、ゆるゆると光の周りをまわっている。
ただ回っているだけではない。
皆が皆、ゆっくりと穏やかに。
それでいて躍動感がある、まるで踊っているかのような身振りを見せている。
精霊というのは、個体によって全く見た目が異なっていた。
いわゆる人型のモノから、竜、馬、と言った生物的なモノ、組み変わり続ける正六面体の集合体、石や砂で形作られた鳥といったようなものまで、まさに多種多様である。
にも拘らず、上位精霊達の動きは統率が取れているように見え、まるで全体が一つの同じ踊りをしているかのようであった。
姿が違うにもかかわらず、奇妙な統一感を感じさせる踊り。
それは、もちろん偶然の産物ではない。
アンバレンスやカリエネス、みゅーみゅーによる指導の賜物であった。
湖の波打ち際で屋台を開いている樹木の精霊達は、それを見て大喜びをしている。
聞こえてくる音楽も気に入ったようで、一緒になって踊っている樹木の精霊も居た。
上位精霊達の中には、歌や楽器を得意としているのも居る。
そんなモノ達が、踊りながら得意の腕前を披露しているのだ。
奇妙に、繊細に絡み合う音の連なりは、文字通り天上の音楽である。
聞いているだけで胸が躍るような音色に、土彦や風彦、一緒に見学しているアンバレンスも、楽しげな様子であった。
アンバレンスに連れられて、タヌキはようやく「見直された土地」の土を踏んだ。
事前のレクチャーにより、「見直された土地」のことはよく知っていたタヌキだったが。
実際に荒涼とした土地を見ると、いささかならず驚きがあった。
だが、沈んだ気持ちは全く湧いてこない。
むしろ。
ああ、こんな土地であるなら、なるほど赤鞘様を招くのも当然だ。
そう、むしろどこか誇らしい気持ちが、タヌキの胸には膨れ上がっていた。
アンバレンスとタヌキが降り立ったのは、精霊の湖の程近くである。
結界に守られた湖は、タヌキから見ても異常なほどの力が集中した場所であった。
将来的には調整も必要だが、今はこういった場所があった方が、赤鞘様も土地の調整をしやすいのだろう。
「じゃあ、タヌキちゃん。俺はお祭りの会場に顔出さなきゃだから。赤鞘さんのいる場所、分かる?」
「はい。もちろんですとも」
いくつか挨拶を交わして、アンバレンスは樹木の精霊達の屋台へと小走りに向かっていった。
その背中を頭を下げて見送ると、タヌキも踵を返して歩き始める。
方向を迷うことはない。
タヌキにはもう、赤鞘の居場所がはっきりと分かっていた。
最初は、ゆっくりと。
段々と小走りに、それから大股になり、力強く、懸命に。
姿は人からタヌキへと変じて、さらに速く。
本来の姿である大妖狸としての姿を晒し、さらに、さらに速く。
タヌキはあまりに大きく、大仰な、自分の本来の姿が好きではなかった。
気の小さな赤鞘様を驚かせてしまうかもしれない姿など、タヌキにとっては邪魔なだけなのである。
だが、今だけはその巨躯が役に立つ。
速く、速く、速く。
タヌキの急く心を表すように、周囲には火花が散っている。
そんなことにも気が付かずに、タヌキはただひたすらに、足を前へと進めた。
かがり火や焚火を焚いて、美味しいご飯を食べながら、歌い、踊る。
ポコポコと太鼓の音、ちょっと調子の外れた笛に、心底楽しそうな手拍子。
それらをまとめ上げるのは、カリエネスも太鼓判を押すような、素晴らしい歌声。
普段はアグニー達を心配してばかりのカラス達も、この日ばかりは楽しそうであった。
アルティオの歌につられて、焚火の周りを円を描くように踊り、歌う。
まるで音程のあってないへたっぴな歌を歌うものも居るし、ひょこひょことお世辞にもうまいとは言えない踊りを見せているモノも居る。
それでも。
いや、だからこそ、アグニー達は心の底から祭りを楽しみ、収穫を喜び合っていた。
そして、同じだけの感謝を、この土地の神様。
赤鞘に捧げていたのである。
「やっぱり、お祭りってたのしいなぁ」
「そうだなぁ。ほかの場所にいるみんなは、どうしてるだろ」
「元気だといいんだけどなぁ。怪我してるのもいただろうし」
「どこかで、うまく暮らしてるといいんだけどなぁ」
「なぁに。もし何かあったら、よーへーだんの人たちがここへ連れて来てくれるじゃろうて」
「そうじゃそうじゃ。そういうときのためにしっかりと村を守るのも、わしらのつとめじゃぞ」
「それもそうだなぁ。やっぱり年寄りのいうことはがんちくがあるぜ!」
もちろん、心配事も少なく無い。
考え始めればきりはないが、それでも。
やはりこうして、何かの楽しみがなければ、心が折れてしまう。
まあ、大抵のアグニーは心が折れるようなことがあったとしても、結構あっさり忘れてしまうのだが。
弱小種族であればこそ、そういったある種の「強かさ」も兼ね備えているのが、アグニーなのである。
「おっ、ギン。こんな所に居たのか。皆でごはんたべてるのか?」
「ああ。だいぶ疲れて来てるカラスも居るからな」
村で唯一の専業猟師であるギンは、カラス達の世話の中心にもなっていた。
狩りはカラス達も手伝うので、必然的に付き合いも長くなるからである。
そのカラス達は、本来は空を飛ぶ鳥類であり、地上を歩くのはそれほど得意ではない。
地面の上で飛んだり跳ねたりして踊っていると、案外すぐに疲れてしまうのだ。
ギンは疲れたカラス達を休ませながら、食事の世話などをしていた。
「そっかぁ。おどると、つかれるもんなぁ」
「まだはしゃいでるカラスも結構いるけどな。まあ、休み休み楽しめばいいと思うよ」
広場の脇には、背もたれの無い長椅子が並んでいる。
カラス達はその上で羽を休めていて、ギンもそこに腰かけていた。
「で、なんでカーイチはあんなに丸まってるんだ?」
「なんか、歌って踊るときの衣装が恥ずかしいみたいだぞ。かわいいと思うんだけどな」
ギン達の視線の先には、長椅子の上で膝を抱えて丸まっているカーイチの姿があった。
翼で体全身を隠すようにしているので、黒いおまんじゅうのようにも見える。
いつもあまり表情を変えないカーイチなのだが、今日は目に見えてむっつりとしていた。
「アグニー、はずかしがらない。カラス、はずかしがり」
カーイチのいうように、アグニーは基本的に何かを恥ずかしがったりしない性質のものが多かった。
おおらかというか、基本的におおざっぱなのだ。
その点、カラスはかなり繊細である。
もしかしたら、アグニーが置き忘れてしまっている感覚を補うため、なのかもしれない。
「なにがはずかしいんだ?」
「なんか、衣装があんまり気に入らないらしいんだよな」
今のカーイチは、いつものような真っ黒な服装ではなかった。
カリエネスに押し付けられた、フリフリの衣装だったのである。
カーイチはそれが見えないように、おまんじゅうみたいに丸まっているのだ。
「きょうのお祭りで、土彦様と風彦様と一緒にうたっておどるんだっけ?」
「そうそう。なんか、キラキラしたやつな。カーイチがおどるの、俺も楽しみなんだけど」
ギンはそう言いながら、カーイチの羽を撫でる。
それでも、カーイチはむくれたままであった。
やらなければならないと諦めているのだが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。
ギンに褒められるのはもちろんうれしいのだが、それはそれ、これはこれである。
「そっかぁ。土彦様たちもくるのかぁ。にぎやかでたのしそうだなぁ」
「たのしみだよな。だからカーイチ、今のうちにご飯食べて置いた方が良いぞ」
そういいながら、ギンはカーイチの口元にポンクテのおにぎりを差し出した。
カーイチはむっつりとした顔をしながらも、それを齧る。
もぐもぐするうち少しだけ表情が和らいだのは、美味しかったからだろう。
「おーい! ギンー! こっちきておどろうぜー!」
「わかったー! カーイチもいくか?」
踊っているアグニー達の誘いに答えてから、ギンはカーイチに尋ねた。
カーイチはいささか不満そうながら「いっしょにいく」と頷く。
もぞもぞと起き上がってきたカーイチの手を、ギンはしっかりと握る。
そして、村の皆の踊りの輪に入って行ったのであった。
「見直された土地」と、「罪人の森」の境界近く。
荒れ地と森、その近くにある大樹の枝。
赤鞘はその上に胡坐をかいて、楽し気に微笑んでいた。
力の流れを使った「遠視」の術で、精霊の湖と、コッコの村の祭りを眺めているのだ。
この場所で術を使っているのは、二つの祭りを同時に見るのに都合がいい場所だったからである。
物理的な距離としては、赤鞘が今いる場所はコッコ村に近い。
だが、「遠視」に用いる力の流れ的には、ちょうど中間点あたりだったのだ。
「いやぁ。皆さん楽しそうで何よりですねぇ」
赤鞘はしみじみと、誰にともなくつぶやく。
神輿と、焚火。
明かりの周りをくるくると回り踊る様子は、赤鞘にとってはとてもなじみ深い光景であった。
日本時代、よく村祭りなどで見ていた盆踊りに、どこか似ているのだ。
「やっぱり、盆踊りっていうのは万国共通なんですかねぇ。ん? 万国? 万世界? ばん、あー。まあ、とりあえず万国で大丈夫ですかね?」
なんとなくニュアンスさえ通じれば、何となく察してくれるだろう。
そんな風に自分で納得して、赤鞘は何度もうなずいた。
さておき。
日本の事を思い出したことで、赤鞘の思考は別の方向へと流れていった。
「タヌキさんが来たら、どうしましょうかねぇ」
守護する村が廃村になったとき、赤鞘はタヌキにそのことを知らせなかった。
どうせ消えるなら、ひっそりと消えてなくなるつもりだったからである。
自惚れでなければだが、おそらくそのことを知れば、タヌキは悲しんでくれただろう。
あるいは、こちらに飛んで帰ってきたかもしれない。
そして、何とか村を建て直そうとしてくれたはずだ。
だが、当時の赤鞘は、消えるなら消えるでよい、と思っていた。
村が廃村になったとき、自分の役割は終わったのだと考えたのである。
己の役割を全うして、最期を迎えるのだ。
それは、素晴らしいことではないか、と。
「とはいえ、ねぇ」
赤鞘はそう思っていたとしても。
やはりタヌキは、何とか手を尽くそうとしただろうし、赤鞘が消えるときには泣いてくれてただろう。
赤鞘は、どうにも湿っぽいのが苦手であった。
涙で見送られるというのは、なんとも居心地が悪すぎる。
それに、消えるまでの間を泣き暮らすより、もう消えてしまったのだという方が、タヌキにとってもさっぱりしていいのではなかろうか。
少なくとも赤鞘は、そう考えていたのである。
しかし。
赤鞘は消えることなく、異世界である「海原と中原」で、再び土地神をすることとなった。
「因果なものですよねぇー」
それだけではない。
なんと、タヌキまでこっちに来るという。
多分だが、叱られることはまず間違いない。
自分が消えるかもしれないというのに、知らせの一つも送らなかったのだ。
それはもう、長いお説教が待っていることだろう。
ついでに腹パンとかもされるかもしれない。
そのあたりなら、まだいいのだが。
「泣かれたりするのはねぇ。なんとも」
赤鞘は、とにかく湿っぽいのが苦手なのである。
どうすれば、泣かれないで済むだろうか。
何だったらいっそ怒らせるようなことを言って、引っ叩かれた方が楽だろうか。
いやいや、流石にそれは。
何しろ約百年ぶりの再会なのだ。
「話したいことは、アレコレあるんですがねぇ。とりあえず、一番最初に何を言うか。ですかね、問題は」
本当に、どうしたものか。
上位精霊達とアグニー達の歌と踊りを眺めながら、赤鞘は頭を悩ませるのであった。
湖の水面を滑るように、上位精霊達が舞い飛ぶ。
最初は少々緊張した様子のものも多かったのだが、時間が経つにつれ、慣れてきたのだろう。
どの上位精霊も、楽し気に踊っている。
最初は屋台をやってみたり、観覧していた樹木の精霊達も、何時しか踊りの輪に加わっていた。
店主のいなくなった屋台だったが、踊りの交代で休憩中の上位精霊達が、代わりを務めている。
アンバレンスやカリエネスも、屋台の店主になって遊んでいた。
たくさんのアグニー達が、輪になって踊っている。
少し外れた場所にある舞台では、土彦、風彦、カーイチの三人も歌と踊りを披露していた。
もちろん、アグニー達がじっとしていられるはずもない。
一緒になって歌って踊り出し、何時しか舞台の上はいっぱいになっていた。
アグニーで一番の歌い手であるアルティオの声が、優しく、力強く響く。
焚火とかがり火に照らされた皆の顔は、どれも心の底から楽しげであった。
巨躯を持ち、口から炎を溢しながら、タヌキは走った。
赤鞘の居場所は、はっきりと分かっている。
巨木の枝の上。
胡坐をかいて、湖と村の祭りを眺めている。
タヌキも、「遠視」の術を使っていた。
力の流れを利用した術なので、赤鞘には術の行使が手に取るようにわかっただろう。
術を使ったということそのものが、一種の先触れのようなものなのだ。
タヌキははやる気持ちを抑え、脚を緩める。
本来のタヌキの姿は、「大妖狸」などと呼ばれることもあるほど、大仰なものであった。
そんな姿で赤鞘様の前に出たら、驚かれてしまう。
赤鞘様ならすぐに受け入れてくれるだろうが、少しでも「驚かせてしまう」ということが、タヌキにとっては耐え難かった。
どこにでもいる普通のタヌキの姿になって、走る。
荒れ地と森の境目が見えてくる。
タヌキはさらに脚を緩め、小走り程度の速さに。
もうすぐだ。
本当に、もうすぐ。
もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ。
今のタヌキの頭にあるのは、ひたすらそれだけだった。
あったらどんなことを話そう。
どんな挨拶をしよう。
何があったか、どんなことをしてきたか話してもらおう。
ほんのわずか前まで、そんなことが頭を占めていたはずなのに。
今はただ、ひたすらに。
もうすぐ、もうすぐ。
荒れ地と森は、まるで線を引いたように分かれていた。
実際、少し前までは「結界」という線が存在していたのだが。
その「結界」がなくなった今でも、くっきりとした境目が存在するのだ。
ここに来る前、そういった資料も読み込んでいたタヌキだったのだが。
今のタヌキの頭には、詰め込んだはずの情報が一つも浮かんでいなかった。
なにしろ、もうすぐなのだ。
枝葉の方を向きながら、ひときわ大きな木の根元へと近づいていく。
太く立派な枝の上に、半透明の影が見える。
鮮やかに赤い鞘を抱え、胡坐をかいている総髪の侍の姿。
鋭い三白眼に、妙に力の抜けた笑顔。
「赤鞘様!」
タヌキの声に、赤鞘は振り返る。
「ああ。あー、っと。えー」
何かを言おうとして、言い淀み。
考えるように上に視線を向け、首を捻り、困ったような八の字に眉を寄せて。
その動作一つ一つが、タヌキの記憶と重なっている。
ああ、やはり。
ようやく。
それまで早鐘のようだった狸の心身が、急速に落ち着きを取り戻していった。
ようやく、ようやく。
あるべき場所へ戻ってきた。
その心地よさと、安心感と、安らぎと。
タヌキの中に、じわじわと温かさが広がっていく。
それは体の温度というよりも、心の温度のようなものであった。
「えーっと。なんというか」
赤鞘は頭を掻くと、へにゃりとした笑顔をタヌキへ投げた。
「おかえりなさい」
この言葉のために、タヌキは世界を渡ったのだ。
約百年という時をかけ。
様々な土地をめぐり。
ついには、異世界にまで渡って。
「ただいま戻りました」
おかえりという言葉を貰って、ただいまと返すために。
タヌキは木の幹を駆け上り、赤鞘が腰かける枝へと登った。
幹に背中を向けていた赤鞘は、どこか気恥ずかし気な表情のまま、振り向かない。
赤鞘という神様は、仲が深まれば深まるほど、どこかそっけなく振る舞うことがある。
気恥ずかしさと、そういった姿を相手が許容してくれることを知っているからこそ。
あえて名前を呼ばなかったり、交わす言葉の数が減ったり。
全く不器用なことだと思うタヌキだが。
そんなところがまた、赤鞘様らしい。
振り向いて、わざわざ言葉を交わさずとも。
傍にいるだけで何となく通じるものがある。
そんなことがあるか、というものも居るだろうが、少なくとも。
今の赤鞘とタヌキにとっては、まさにそれで十分であった。
別に、話をする必要もなかったのだ。
傍に居ればこそ、それで十分通じることもある。
共に「遠視」の術を使い、赤鞘とタヌキは祭りを眺めていた。
力の流れに頼る術を行使すると、様々なことがわかる。
どこにどのように、力の流れがあるのか。
何を目的として、配置されているのか。
それはその土地を治める土地神の、個性が現れるモノだった。
この「見直された土地」の力の流れは、まだまだ粗削りで、準備不足で、おおざっぱで。
永く神使として勤めてきたタヌキの目から見れば、お世辞にも整っていると言えるようなものではなかった。
だが。
ああ、ここは、赤鞘様の土地なんだ。
ここは間違いなく、赤鞘の癖の付いた土地。
土地神「赤鞘」の治める土地であると、タヌキにはわかった。
お互いに言葉も、視線も交わすこともなく。
タヌキはとことこと枝の上を歩き、赤鞘の背中に近づいていった。
ずっと、追いかけ続けてきた。
人であった頃も、土地神になってからも。
タヌキはこの背中を、追いかけてきたのである。
必死に駆けて、何とか近づいて。
追いついたと思ったら、離れねばならなくなり。
二度と手の届かぬところに行ってしまったかと思えば、お傍近くに仕えることが叶い。
少しでもお役に立てるようにと、一大決心をして離れてみれば。
今度はこんなに。
こんなに遠い場所まで来てしまって。
そして、ようやく。
再び傍へ来ることが出来た。
タヌキはその背中に、半透明で、透けていて。
どこか頼りなさそうなのに、広くて温かい背中にそっと寄り添った。
触れた感触こそないが、心は確かに温もりを感じている。
タヌキには、良くよくわかっていた。
結局自分には、この背中を捕まえておくことなどできないのだ。
考えてみれば当然だった。
何しろタヌキは、この背中を追いかけるのが好きなのだ。
捉えどころもなくふらふらとしていて、どこにでもすぐに行ってしまい。
誰よりもお人好しで、困っているモノを見ると放っておけず。
無茶に無理を重ね、自分の心身を削ってでも、助けてしまう。
そんな危なっかしくて、頼りになって。
自身が言う所の「侍」である赤鞘の、その背中を追いかけるのが。
タヌキは何よりも好きだったのである。
タヌキは頭に、急速に霧がかかったような、重くなったかのような感覚を覚えた。
ここ最近、約百年ほど感じたことのない濁り。
ただ、それはけっして不快なものではなかった。
何かに包まれて、ゆっくりと溶けていくような。
赤鞘の背中に、自身の腹と背中をくっつけて、タヌキはくるりと丸くなった。
呼吸を落ち着けて、目を閉じる。
意識が沈んでいくのは、あっという間だった。
約百年ぶりに、タヌキはゆっくりとした深い眠りにつくことが出来たのである。
別に最終回じゃないです!
ガンガン続きます!