百七十話 「何その和風アクションゲーの定番みたいなヤツ」
赤鞘という侍は。
いや、まだ人間であった頃であるから、赤鞘という神としての名前を使うのは何なのだが。
今となってはやはり「赤鞘」という名が通りがよい。
なので、この侍のことは赤鞘、と呼ぶことにしよう。
とにかくこの時の赤鞘は、巻き込まれていた事件にようやく区切りをつけることが出来、ホッと胸を撫でおろしているところであった。
ひどい目にあったと、珍しく疲れた様子だったのである。
なぜか平家の怨霊と斬り合うことになった赤鞘は、思いがけない怪我を負った。
四十ほどの怨霊に囲まれ、槍やら弓やらで攻め立てられ、背中に矢傷を受けてしまったのだ。
「ちょっちょっちょっちょ」
話を聞いていたアンバレンスは、思わず突っ込みを入れる。
「え、四十人、人? 四十亡霊に囲まれて、矢傷で済んでるの?」
「はい。一本肩のあたりに刺さっちゃいましてねぇ。骨は大丈夫だったんですけど、痛いのなんの。あははは!」
「あ、うん。いいや。続けて?」
矢が刺さっていた傷口というのは案外痛いもので、赤鞘も早く治したかった。
そこで、近所にあるという名湯四万温泉を目指すことにする。
一緒にいたタヌキも、それがいい、そこでしばらく湯治をしようと強く賛成した。
まあ、確かにそれも良いかもしれない。
そう考えた赤鞘は、さっそく四万温泉へと向かった。
のだが、途中で道に迷い、気が付いたら京の街にいたのである。
「なんで? なん、え? 待って待って、四万温泉って群馬だよね?」
「はい。今でいう群馬県ですよねぇ」
「で? 京って、京都でしょ? そうはならなくね?! いや、俺も結構日本で迷ったけども!」
「そうですよねぇー。そう思うんですけどねぇー、私もー。でも、なんかよくわかんないんですけど、そんな感じになっちゃうんですよぉー」
タヌキも唖然としていたが、すぐに頭を振って切り替えている様子であった。
赤鞘という侍は、とにかく目的地にたどり着くことが少ない。
なんだかよくわからないうちに、なんだかよくわからないところに出てしまうのだ。
「自分でも困ってたんですけど、まぁ、しょうがないですよねぇ。この時はまだ現世だったんで、ましな方ですよ。その前なんて気が付いたら河童の国に居ましたし」
「カッパ!? カッパって、あの妖怪で頭にお皿乗せてるやつ!?」
「はい。で、なんか不法侵入だ、的なこと言われましてね。お相撲取ることになりまして。いやぁ、何とか勝てたからよかったんですけどねぇー」
「まってまってまって。え? ちょ、いや、多すぎるのよ。情報が。情報が多すぎるのよ」
「まあ、今はソレは関係ないんで置いておくんですけど」
「置いとかれた。でっかいヤツ置いとかれた。気になるわー。サイズが自己主張しすぎなんだわー」
ともかく。
当初の予定とは違うが、京の都である。
この当時の京は、しっちゃかめっちゃかでずったぼろであった。
それでもまぁ、一応は都なのだ。
きっと医者ぐらいは居るだろう。
そう思って都に入ろうと思った赤鞘だったが、その前に足止めされてしまった。
火の塊が人の形をとっているような化け物に襲われたのだ。
それも、一匹や二匹ではない。
「三十匹ぐらいいたんですかねぇ。人の形してたから、三十人? まあ、どっちでもいいんですけど。あとでわかったんですけどね、アレ、人工精霊の類だったらしいんですよ」
「人工精霊? ってことは、火の精霊的な?」
「ですです。なんかこう、魔術的な儀式で作ったモノだったらしいんですよぉ」
「ほら、また、出ましたよすんごい単語が。魔術的な儀式って、アナタ。日本でしょ? なんで魔術?」
「私もそう思ったんですけどね? ちゃんと理由があったんですよ。この後のことに関わるんで、今は置いておいてもらって」
「多いなぁー、置いておくもの。棚壊れちゃわないかな」
都へ向けて歩いていた赤鞘の後ろから、火の塊で形作られた化け物達が現れた。
最初、赤鞘は「へぇ。火でできた人もいるんだなぁ」と思ってスルーしようとしていたのだが。
火の塊達の方が、それを許してくれなかった。
人間を見たらとりあえず殺せ、的な指示を受けていたのかもしれない。
問答無用で襲い掛かってきた火の塊を、赤鞘はやむなく斬り捨てた。
「あの、エルトちゃん! エルトヴァエルちゃん! そのあたりの事情ってもう調べてるよね!?」
「はい、調べてあります」
「その火の塊って刀で斬れるようなものだったの!?」
「プラズマを術式で固定化した、一種のエネルギー体ですから。剣や銃が効くような存在ではなかったようです」
「でも赤鞘さん刀で斬ったんでしょ? なんで?」
「その、赤鞘様はそもそも、神様の脚を斬っているぐらいですので。それも、とぐろを巻くと山を覆い隠すぐらいの巨大な神様の脚を、です」
「そうか。火を斬る程度の事なら、今更どうってことない。のか?」
最初はなかなか斬れずに苦戦した赤鞘だったが、コツを掴んだら割と簡単であった。
要するに、体を流れている血脈っぽいものを斬ってやれば、それで壊れてしまうのだ。
あとから考えれば、それが術式であり、火というプラズマを固定するためのものだったのだろう。
もっともこの時の赤鞘にはそんなことがわかるはずもなく、「斬ったら斬れる」ということが分かったことが、何よりも重要であった。
何より幸いしたのは、この時はたまたま、刀を持っていたことである。
平家の怨霊が持っていた刀を、失敬していたのだ。
怨霊が持っていた武器は、基本的には霊体であった。
あちらからの攻撃はこちらに届くが、こちらからの攻撃は届かない、という感じの、いかにも怨霊な相手だったのである。
ただ、それもやっぱりなんだかんだ工夫をしてみたらどうにかなったので、赤鞘は平家の怨霊を無事に竹槍で殲滅した。
竹槍でやられたというのはさぞ無念だっただろうが、相手が悪かったとしか言いようがない。
「怨霊って竹槍でどうにかなるの?」
「なりましたよ? 刺したら刺さりましたし」
そんな怨霊の一人が、刀を持っていたのだ。
中々の業物で、赤鞘はかなり喜んでいた。
使い手のことはこの際置いておくとして、火の塊を斬れるような刀である。
真実、相当の業物だったのだろう。
しかし、斬ったものが悪かった。
火の塊をすべて斬り終えた頃には、刀はすっかり役に立たなくなってしまっていたのだ。
熱にやられて、ただの曲がった鉄の棒になってしまったのである。
挙句、火の塊の最後の一匹を斬るとき、へし折れてしまった。
赤鞘は若干へこんだのだが、折れてしまったものは仕方ない。
こんなものでも、売ればいくらかにはなる。
握り飯を手に入れる位は出来るはずだ。
そんな風に考えていた赤鞘だったが、ふと気が付くと周囲を何者かに囲まれていた。
おそらく、忍びとかラッパとか呼ばれるような手合いだろう。
赤鞘もそんなに詳しくないのだが、なんか忍術とかを使うらしい。
半信半疑だったが、なるほど、と納得させられた。
そうでなければ、赤鞘が囲まれるまで相手の気配に気が付かないわけがない。
「普段なら気が付くものなんです?」
「ええ。なんかこう、敏感肌だったもので」
「敏感肌ってそういうんじゃないんだよなー」
一緒にいたタヌキはやたらと警戒して唸るし、どうしたものかと赤鞘は頭を掻いた。
「ちょいちょいちょいちょい!! なに、その時っていうか、ずっとタヌキさん一緒だったの!?」
「へ? あ、はい。結構前から一緒に行動してましたねぇー」
困惑している赤鞘のところに、集団の一人が近づいてきた。
旅装束の女性である。
やたらと派手で目立つ色合いの衣装は、一目で旅芸人のそれとわかるものだ。
これにタヌキがやたらと威嚇音を出しまくっていたのだが、赤鞘はとりあえず気にしないことにした。
女性は、自分達はとあるお方の命を受けて動いている妖狩りだ、という。
妖狩りなるものが何なのかわからなかったが、妖怪やらを退治することを専門にしている者たちなのだそうだ。
旅芸人の衣装は、世を忍ぶ仮の姿、というやつらしい。
「京の都にいらっしゃる、某とあるやんごとなきお方にお仕えしてるんだそうでしてねぇ。いやぁ、びっくりしたのなんの」
赤鞘は当時から権威の類にめちゃくちゃ弱かったので、それを聞いただけでビビり倒した。
そんな人達が、一体自分に何の用なのか。
曰く。
あの火の塊は、この日本に侵入してきた、西洋の妖怪が放った化け物であった。
その身をもって京の都を焼き払おうとしていた、というのだ。
「なんでも、日本に新しい縄張りを求めてた西洋の妖怪。まあ、モンスターっていうんですかね? 当時はよくわかんなかったんですが、平たく言えば吸血鬼ですよ。吸血鬼」
「あー。吸血鬼。その時代に日本に来てたんですねー。で、そいつが何で京都を焼こうと?」
日本に上陸した吸血鬼は、すぐさま行動を開始。
ある城を攻め落として、自らのものとした。
そこで力を蓄え、一気に支配領域を広げようと、したのだが。
異変を見抜いたとある人物が、その城に封印を施した。
「やっぱりあとからわかったことですけど、あれって土地神の業に近いんですよねぇ。よっぽど優秀な術者だったんだと思うんですけど。誰だったのかよくわかんないんですよねぇ」
無論、吸血鬼は慌てた。
外に打って出ようとした刹那に、封印されてしまったのだ。
城の中でなら自由に動けるのだが、一歩として外に出ることが出来ない。
激怒した吸血鬼は、魔術などを使って部下を作り出し、周囲に放った。
人里を襲わせたりして力を蓄えつつ、情報を集めたのである。
そして、吸血鬼は自分を封印した術者がどこにいたのか、突き止めた。
術者が京に居ることを知った吸血鬼は、それを都ごと焼き払うことにしたらしい。
そのために放ったのが、あの火の塊だったのだ。
妖狩り達はこれを何とか退けようとしたのだが、全く歯が立たなかった。
刀や槍、弓、鉄砲といったものはもちろん、彼らの持つ特殊な術を使っても、足止めすらできなかったという。
どうしたものかと頭を抱えていたところに、赤鞘が現れた。
そして、危険だから離れろ、と忠告する間もなく襲われ。
返り討ちにしてしまったのである。
「で、それを見た妖狩りの人達が、なんか私をすごい武芸者かなんかと勘違いなさったらしくってですね? 是非、お力をお借りしたい、なんていうんですよ。私なんかが役に立つわけないと思うんですけどねぇー」
「妖狩りの人達、ナイス判断なんだよなー」
妖狩り達は、封印されて弱体化している今のうちに、吸血鬼を討伐しようと考えていた。
赤鞘にそれを、手伝ってほしいという。
だが、赤鞘は自分のことを、どこにでもいる程度の腕しかない、極々一般的な侍でしかないと思っていた。
そんな大それたことが出来るわけがない。
タヌキも、赤鞘の隣で絶対にやめろとわめいている。
断ろうと考えた赤鞘だったが、妖狩り達は赤鞘の傷に気が付いたのだろう。
とりあえず治療だけでも、と、彼らの隠れ家に誘われた。
そこには、妖狩りの中には、医者もいるという。
赤鞘にとって、この申し出は大変にありがたかった。
手持ちもなかったので、京に行っても医者にかかれるかわからなかったからである。
妖狩り達の隠れ家は、芝居小屋であった。
旅芝居の一座を隠れ蓑にしているらしい。
様々な場所で興行をして不審に思われにくいのだろう。
このとき彼らの芝居小屋は、農村に建っていた。
「芝居小屋に入るときに、村の様子が目に入りましてねぇ。城が近いものですから、吸血鬼が悪さしてたみたいで。結構荒れてたんですよ。で、あぁ、こりゃ駄目だなぁー、と」
腹を空かせている者が居て、子供が泣いている。
この時点で、赤鞘は吸血鬼を斬ることを決めた。
困っている人が居たら助ける。
それが、赤鞘にとっては当然の行動であった。
侍とはそういうものだ、と考えているからだ。
ほかの誰が、どう定義しているかは関係ない。
赤鞘にとって侍というのは、誰かが困っていたら助けるものなのである。
そして、赤鞘は己を侍であると定めていた。
であるから、赤鞘は吸血鬼を斬らなければならないのだ。
あまりにもめちゃくちゃだ、と言われれば、その通りだろう。
だが、赤鞘は死ぬまでそれを貫き通した、当人曰く所の「侍」である。
こんなものを見てじっとしていられるはずがなかったのだ。
治療を受けた赤鞘は、そのまますぐに件の城へと向かった。
その時、一本の刀を借り受けている。
妖怪を斬るのに適した刀だそうで、タヌキが凄まじく嫌そうな顔をしていたから、おそらくかなりの業物だったのだろう。
「この時の刀は、今も妖狩りが切り札として保管しているそうです」
「エルトちゃんそんなことまで調べてるのね。お兄さんびっくりだわ」
妖狩り達とタヌキが止めるのもへらへら笑ってごまかし、赤鞘は単独で城に乗り込んだ。
忍び込むのならば、一人の方が動きやすい。
そう考えたのである。
なんだかんだと経験の豊富な赤鞘は、城にこっそりと忍び込むといった芸当もできるようになっていたのだ。
と、当人は思っていた。
実際はただの正面突破である。
こっそりと城門に近づき、敵に発見されて、なんやかんや戦闘に。
それを斬り伏せると、周りに敵が居なくなる。
ならいいかな、と考え、赤鞘は門を蹴破った。
「蹴破れるものなの?」
「なんか、門番を倒した時に、相手が振り回した武器が当たりましてねぇ。それで随分ガタが来てたみたいなんですよ」
「なにそのアクションゲーの定番みたいなヤツ」
「牛頭と馬頭っていうんですかね。牛の頭と馬の頭の二人組で、結構苦労しましたよ」
「何その和風アクションゲーの定番みたいなヤツ」
城というのは案外厄介なもので、侵入しにくいようにできている。
城壁を一つ越えれば、すぐに中に入れるというものではない。
次の壁を越えようとあちこち動き回り、その度に敵に発見されて片っ端から斬っていった。
すると、瘴気を振りまく女性のような見た目の妖怪が現れる。
「なんか、相手方の重鎮の一人だったみたいなんですよね。四天王っていうヤツですよ。なんか空飛んでて、厄介そうだなぁー、と思ったんですけど。突然地面に墜落して、動かなくなりましてねぇ。アレなんだったんですかねぇ?」
「エルトちゃん?」
「はい。ええっと、いわゆる淫魔だったそうです。赤鞘様に精神攻撃を仕掛けたんですが、その。赤鞘様の精神力の前ではどうしようもなかったようで」
「と、いいますと?」
「淫魔、サキュバスの能力が、自分の精神を相手の精神に叩きつけて堕落させる。というような類のものだったようでして。相手は発泡スチロールの薄い板程度しか強度がないと高をくくって全力で突っ込んでいったら、エアーズロックでした。といった具合だったようです」
我を失って暴れるオオアシノトコヨミ。
赤鞘は、その足に踏みつぶされそうになっているタヌキを助けるために、刀を振るうような男である。
精神攻撃を仕掛ける相手としては、あまりに相手が悪すぎたのだ。
なんだかよくわからないうちにサキュバスを仕留めた赤鞘は、二つ目の壁を越えた。
またなんやかんやとモンスターやら妖やらを斬っているうちに、また強大な妖力を持った妖が目の前に現れる。
「てめぇーかよぉ!! 暴れてるやつがいるっていうから来てみたらよぉ! ふざけんじゃねぇぞ!!」
キツネであった。
話を聞いてみると、吸血鬼になんだかよくわからない術を掛けられて、逆らったら殺されるらしい。
どうやら、道案内やら、対外的な交渉やら、ほかの妖怪のスカウトやら、良いように使われているようなのだ。
「お前が居るってことは、タヌキもいるんだろ! あのクソヤンデレイヌ科タヌキ属! 呼んでくれよアイツこういう呪い的なやつ得意だからぜってぇー解術できるからよぉー!!」
もちろん、実際にこんな口調だったわけでは無く、現代語訳である。
キツネがあまりに必死に頼んでくるので、赤鞘の方が折れることになった。
まあ、タヌキはしばらく待っていれば、赤鞘に追いついてくる。
この時も、持ってきていた握り飯を食いながら待っていると、程なくタヌキが追い付いてきた。
事情を聴いたタヌキは、真冬の湖面を思わせる表情を見せる。
「良いではないですか、一度死んでみれば。病が治るかもしれませんよ? ああ、でもバカというのは死んでも治らないのでしたっけ」
「いいから! 解けよこの呪いみたいな術よぉ! 出来るんだろお前!」
「そういわれましても、異国の術ですよ? そう簡単には」
「あー。やっぱり難しそうですかぁー。解くだけ解いてやりたいんですけどねぇー」
「四半刻もあれば終わります。お任せください」
そんな調子で、赤鞘はキツネをタヌキに任せ、次の壁をよじ登って乗り越えた。
ここでようやく、城本体が見えてくる。
流石にここまでくると、警備も厳重だ。
ぷんぷん飛び回っている淫魔だか何だかが精神攻撃を仕掛けてくるし、犬っぽい顔の人達が襲い掛かってくるし、火の塊みたいなのも襲い掛かってくる。
赤鞘はそれらを、片っ端から斬っていった。
何しろ、刀が良い。
折れず、曲がらず、よく斬れる。
赤鞘が握った中でも、一、二を争う良い刀だ。
これはいい刀である。
きっと高いに違いない。
もし折ったりしたら、弁償しなければならないだろうか。
そんな考えが頭に浮かび、赤鞘の脚が遅くなる。
まあ、最悪は働いて返すしかあるまい。
薪割とかでどうにかなるだろうか。
そんなことを考えていると、目の前に箒に乗った女が現れた。
「やっぱり当時は呼び名を知らなかったんですが、ゴリッゴリの魔女でしたよねぇ」
魔女は何事か外国の言葉で喚きたて、赤鞘に襲い掛かった。
毒物、幻術、魔術、物理、様々な方法を駆使して攻撃を仕掛けてくる。
何かしらの方法で生み出したらしい、人形のようなものもけしかけてきた。
無論、今更そんな木偶による数のゴリ押しで赤鞘をどうにかできるなら、誰も苦労しない。
精神攻撃や幻、呪術なども論外で、火の玉や水といった魔法も簡単に退けられる。
瞬く間に魔女を斬り倒してしまった赤鞘だったが、一つだけ効果があったものがあった。
毒だ。
粉末、液体、気体といった複数種の毒は、確実に赤鞘の体に入り、蝕んだ。
無論のことすぐさま死ぬようなことはなかった。
まあ、ばらまかれた中には致死性の毒も混じっていたのだが、その辺はご愛敬。
とにかくすぐに死ぬようなことにはならなかったのだが、毒が確実に赤鞘の命を削っていた。
これが死因の一つになるわけだから、この時相対した魔女というのは、凄まじい存在だったのだろう。
「エルトちゃん、この魔女ってどんなのだったの?」
「疫病などを振りまくタイプの、かなり厄介な人物だったようです。人格もかなり破綻していたようですし」
「エルトちゃんにそう評価されるって、すごいなー」
ようやく城内に入った赤鞘の前に現れたのは、一人。
金属製の全身鎧に身を包んだ男であった。
「なんか、騎士とかそんな感じの人でしたねぇー。いやぁー、強かったですよ」
赤鞘が強かったというのだから、間違いない。
この騎士はべらぼうに強かった。
初手、赤鞘の一太刀目を盾で受けようとした騎士だったが、すぐにそれを捨てて回避に移る。
分厚い金属製の盾での防御であり、それは的確に赤鞘の刀を捉えていたのだが、騎士はソレを捨てて全力での回避を選んだのだ。
その時点で、騎士は相当の手練れだと言える。
何しろ赤鞘が本気で振るった刀を、盾やら鎧なんぞで防げるわけがないのだ。
「オオアシノトコヨミさんの脚ぶった切ってるぐらいだしね。シカタナイネ」
「軽いビルぐらいありましたねぇー。いやぁ、よく私斬れましたよねぇ。あっはっはっは!」
剣を振る騎士の動きはかなり堂に入っており、赤鞘とかなり長い間立ち会うこととなった。
途中、騎士は身に着けていた鎧を脱ぎ捨てている。
どうやら鎧自体が呪物だったようで、それを脱ぎ捨て騎士はかなりの速度で動き回った。
無論のこと、赤鞘も負けていない。
結局、赤鞘は騎士の体を真っ二つに切り裂き。
騎士の方は、赤鞘の腹に一太刀を入れた。
「エルトちゃん、その騎士さんって何者だったの」
「吸血鬼に噛まれて支配された英傑、だったようです。名のある騎士だったようですが、手駒にされていたようですね」
場内に入ると、残っているのは吸血鬼が一匹のみ。
それでも余裕の表情を見せていたようだったが、侍である赤鞘に虚勢が通じるものではない。
相当に怯えているのが分かった。
吸血鬼がどう思っているかわからないが、赤鞘にとっては既に勝負は決していたのである。
体を霧と大量の蝙蝠に変えて、吸血鬼は赤鞘に襲い掛かった。
しかし、赤鞘にとってそんなものは物の数ではない。
火というプラズマを斬り裂ける赤鞘が、霧を斬れないはずが無し。
まして、飛び回っているだけの蝙蝠に苦戦するはずもない。
本来であれば、この吸血鬼には物理攻撃の類など全くの無意味だっただろう。
術式にも優れていたことがうかがえるし、相当に苦戦することが当然だったはずである。
無論、相手が普通であれば、だが。
吸血鬼にとって不幸なことに、人間であった頃の赤鞘は、違わず侍であった。
ごく一般常識としての侍ではなく、赤鞘が理想とする「侍」だったのである。
斬る、斬る、斬る。
三度刀を振るったが、吸血鬼はまだ襲い掛かってきていた。
その体を何百年と維持してきた吸血鬼は、多くの命を食らってきている。
二度や三度殺された程度では、死ななかったのだ。
殺しても簡単には死なない。
普通ならば怯むだろうが、赤鞘はそんな手合いと数多くやり合ってきている。
無論、対処法もしっかりと心得ていた。
動かなくなるまで、斬ればよいのである。
赤鞘にとってはごくいつも通りの戦いであり。
吸血鬼にとっては、悪夢の始まりであった。
吸血鬼は粉微塵に切り刻まれ、完全に命を絶たれた。
数刻後に上ってきた日の光を受け、その遺骸も灰となって消えたのである。
「それで、ことが片付いたんで妖狩りさん達に刀をお返しに行ったんですよ。そこで、ざっくりと傷の治療とかもして貰いまして。で、是非京の都へ、って言われたんですけど、まぁ、もういいかなぁ、と思いまして。また、旅に出ることにしたんですよねぇ」
「あー、まぁ、うーん。なるほど」
「で、せめて何かお礼を、って言われたんです。別にお礼をされるようなことしてませんし、いりませんっていったんですけどねぇー」
「お礼をされるようなことはしたんじゃないかな? うん、多分してると思いますよ太陽神的には」
「どうしよう、って思ったんですけど。じゃあ、腰が寂しいですし、せっかくだから舞台用の竹光でも頂こうかな、って思いまして。ほら、旅芸人さん達に変装されてたので、小道具とかもあったんですよ」
「へぇー。んんん?! 待って待って、じゃあ、えっ? 赤鞘さんの赤鞘ってまさか」
「その時の竹光が収まっていたのが、この鞘です。いやぁー、舞台用だから派手なんですよねぇー」
確かに、赤鞘の鞘はかなり派手だ。
何しろ朱塗りなのである。
なるほど、舞台映えするだろう。
「そこからは妖怪狩りさん達と別れて、旅に戻ったんですけど。まぁ、どうにも体調が悪くってですねぇー」
「そりゃそうでしょう。毒回ってて腹斬られてるんだから」
しっかりと晒で腹を巻いたのだが、どうにもよろしくない。
山の中で見つけた小屋で休んでいる時、タヌキがあることを思いつく。
話に聞く河童の秘薬であれば、あるいはこの傷も癒せるかもしれない。
赤鞘が危険であると知れば、きっと河童も薬を分けてくれるはず。
タヌキは赤鞘に、決してここを動かないでください、必ず薬を頂いて戻りますので、と言い置いて、小屋を飛び出した。
なるほど、流石タヌキである。
河童の薬であれば、きっと傷も治るだろう。
二、三日で戻るというので、赤鞘はソレまでゆっくり寝ていることにした。
幸い、食料などはタヌキが置いて行ってくれたので、問題ない。
そこで、赤鞘はふと気が付いた。
飲み水がなかったのだ。
まあ、近くに沢もあるし取りに行くのにそれほどの手間もない。
ちょっと行って、汲んで来よう。
赤鞘は軽い気持ちで、小屋の外へ出た。
「そしたら、こー、小さな子供が転がってきましてね?」
それが、プロローグの一件へと、繋がるのである。
「いやぁ、参りましたよねぇー。刀ないですし、こりゃもう奇襲をかけるしかないなぁーって」
竹光で一人目を斬ったら、そのあとやることは決まっていた。
一人目が持っていた刀を奪ったのである。
そのために、わざわざ一人目には刀を持っているものを選んだのだ。
ただ、この時代の山賊である。
刀の手入れなどしていなかったのか、刀はすぐに折れてしまった。
相手は多かったので、何度も奪う羽目になる。
なので、相手の刀はなるべく無事になるように戦わなければならなかった。
赤鞘にしてみれば、相手の刀を叩き斬るというのはけして難しいことではない。
無論、相手との力量差が前提だが、やってできないことではなかった。
だからこそ、それをやらないようにすることにこそ気を遣わなければならなかったのである。
「いやぁ、参りましたよねぇ。気力も使い果たしましたし。結局、そのままぽっくり。でも、村の方々は皆さん無事だったようで。それに関しては本当に良かったですよ。あっはっは!」
村人を助けることが出来た。
赤鞘にとっては、それがすべてだったのである。
自分の死についてなんぞ、二の次三の次。
人間であった赤鞘は、侍として生き、侍として死んだ。
これほど贅沢なことはない。
自分にとっては出来過ぎなほどだ。
死ぬ直前も、土地神となった今も、赤鞘は一点の曇りもなく、そう思っている。
「なんか。赤鞘さんの人間時代ってマジで無茶苦茶だったんだね。グルファガムくん、どう思う?」
「はい!? あっ、はい! ええっと、なんていうか。すごく、こう、稀有な生き方をされていたんだなぁー、と」
「あっはっはっは! そんなことないですよぉー! 私みたいなのなんて日本にはいっくらでも」
「いねぇよ!?」
「赤鞘様、それはいくら何でも」
「ええ? そうですかねぇ?」
事程左様に。
赤鞘というのは、変わった生き方をした侍だったのである。
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人間というのはすさまじい生き物だ。
精神力で、覚悟で、磨き上げた技で、驚くべきことを為してしまう。
お侍様、赤鞘様のように。
タヌキにとって人間とは、可能性の塊であり、素晴らしい存在であり、愛すべき存在であった。
赤鞘様が人とはそういうものであると信じているのだから、間違いない。
だからこそ。
その人間であるということを捨て、人間でいることをやめた連中のことを、激しく嫌悪していた。
「ましてあの連中、赤鞘様を」
そこまで口にして、タヌキは顔を歪め、舌打ちをする。
土地神になってから、赤鞘は常々言っていた。
「別に種族としての吸血鬼さんとかに恨みはないですよ? 私とやり合った人が、たまたま吸血鬼だっただけですし」
赤鞘がそういうのだから、タヌキも吸血鬼という存在そのものを恨んだりはしない。
あの時のことを思い出しただけで吸血鬼という存在全てを焼き滅ぼしたくなる、様な気がするが、それはあくまで気のせい。
タヌキに吸血鬼への恨みなど存在しないのだ。
存在するはずがないのである。
タヌキが吸血鬼を見ただけで滅ぼしたくなるのは、あくまで人間でいることが耐えられなかった脆弱さが、あるいは、人間であることをやめさせることが出来る邪悪さが許せないからなのだ。
実際、その気持ちには一点の曇りもない。
タヌキが吸血鬼を忌み嫌う理由の一端であることは、間違いなかった。
だからこそ。
“始祖の一滴”などと御大層に名乗っている血だまりが、タヌキは気に食わなかった。
そもそも吸血鬼などという不浄の塊が、日ノ本の土を踏むのが気に食わない。
吸血鬼という存在が、どうしようもなく気に食わないのだ。
別にお侍様を殺したことを恨んではいないので、存在することぐらいは許してやってもいい。
ただし、タヌキの目に入らない場所での話だ。
もし目の入る場所で悪さをすれば、殺す。
確実に殺す。
まあ、もっとも。
連中は存在することそれ自体が悪なのであって、悪さをしていない吸血鬼というのは存在しないのだが。
日本に来てから、タヌキは赤鞘が治めていた土地近くのホテルを拠点に動いていた。
オオアシノトコヨミの、文字通りの「御足元」である。
本来であれば、元々赤鞘が治めていた土地に居たかったのだが。
何しろ廃村になって以降、不便な場所となってしまっている。
タヌキはそれでも全く構わないのだが、移動の便が悪いというのが頂けない。
赤鞘が居る異世界へ行くまでに、仕事を終えてしまわなければならなかった。
立つ鳥跡を濁さず。
赤鞘様の神使である自分の行いは、赤鞘様の評価につながる。
だからこそ、今日ノ本に降りかかっている問題、あの腐れ吸血鬼を綺麗に始末してしまわなければならない。
テーブルに置かれたカップを持ち上げ、コーヒーを口に含む。
ホテルの一階にある喫茶店で、質の良い豆を使った良いコーヒー、らしい。
正直なところ、タヌキにはコーヒーの味など分からなかった。
というより、そもそも食べ物の味の良しあしというのが、よくわからなくなっている。
赤鞘の元を離れ、外国にたどり着いたころからだろうか。
何を食べても、良いとか悪いといった感情が、徐々に薄れていったのだ。
味を感じること自体は可能だ。
だが、それで美味しいとか不味いとかいった事を、感じなくなっていったのである。
理由は、当然分かっていた。
赤鞘様の元を離れたからだ。
本当は、赤鞘様のそばを離れたくなどなかった。
お近くでお役に立っていたかったのだ。
だが、当時のタヌキの力では、とてもお役に立つことなど不可能。
赤鞘様にふさわしい神使となるためには、もっともっと、遥かに己を鍛え上げる必要があった。
まあ、赤鞘の元から離れた頃には、タヌキも相当な年月を経ており、実際には相当に恐ろしく、強大な力を持っていたのだが。
当のタヌキ自身がそれで納得していなかったのだから、仕方ない。
「社長。ヤマネ家の方からです」
声をかけてきたのは、タヌキが外国に出てから拾って育てた部下の一人である。
手渡されたのは、古式ゆかしく封筒に入れられた手紙であった。
無論、ただの封筒でも、手紙でもない。
術式を織り込まれ、透視対策などを施された、呪物の類である。
「ありがとう」
受け取って、開封する。
電子機器の発達した昨今、こういったものを使って知らせてくるというのは、よほどのことなのだろう。
中身は、挨拶などが一切ない、用件だけの走り書きである。
元赤鞘様御神域近く 件の者配下の痕跡有
「すぐに出ます、車を」
いうや、タヌキはすぐに立ち上がり、ホテルの出入り口に向かった。
部下がすぐに動き、何人かが付いてくる。
車に待機しているものに、連絡を入れている者もいた。
行き先を聞いてくるものはいない。
この時点でタヌキが行き先を口にしないということは、車に乗ってから伝えるということである。
タヌキとの付き合いが長い部下達は、皆そのあたりのことは理解していた。
こういったときは、とにかく迅速に行動しなければならない。
長くタヌキに仕えている彼らは、そのあたりのことをよくよく理解していた。
一足先に現場に来ていたアカゲは、額を押さえて呻いていた。
隣にいるヤマネは、青い顔で震えている。
「あの、アカゲさん。これってあの、多分不味いですよね? やっぱ知らせないほうが良かったんじゃないですか? 実際、別に大したことじゃないわけですし」
今はオオアシノトコヨミが管理している、元赤鞘が治めていた土地。
そこに、“始祖の一滴”の部下が、侵入してきていた痕跡が見つかった。
ヤマネが言う通り、本当に大したことではない。
連中にとってオオアシノトコヨミの神使であるアカゲは敵であり、ここは敵の勢力圏内。
敵情視察をしに来るのは、当然と言える。
ほかの場所でも、“始祖の一滴”の息のかかったものが動き回っているのは、確認されているのだ。
その一つに、たまたまこの場所があった。
たったそれだけのことなのである。
しかし。
「君もわかってるから震えてるんだろう。タヌキ殿にそういう理屈は通用せんぞ。普段は全く冷静だが、こと赤鞘様のことが絡むとタヌキ殿はすぐに理性を失いかける。まあ、完全に失ったりはしないから、その点は助かるのだが」
ヤマネはますます顔を青くし、ガタガタと目に見えるほど震え始めた。
ここしばらくのことで、タヌキの恐ろしさは身に染みて理解している。
「タヌキ殿に関しては、こういったことはすぐさま知らせたほうが良い。知らせねばならない。当然機嫌が悪くなるだろうが、結局その方が被害が少ない。そういう性質なのだ、タヌキ殿は」
木々をかき分け、草を踏む音が近づいてきた。
凄まじい速度で現れたのは、タヌキである。
服には、木の葉や草の汁が付いてた。
部下達は置いてきたのだろう。
それだけ速く走ってきたらしい。
「アカゲ殿」
アカゲに声をかけ、頭を下げる。
歩きながらのそれは礼を失する行為ではあるが、アカゲは咎める気持ちは微塵もわかなかった。
むしろ、挨拶をされたことにいささか驚いていた。
それだけの「理性」が残っているのなら、まだよかったと思ったのである。
早めに知らせたのは、やはり正解であった。
これがもし下手に隠し立てして、あとでタヌキがそのことを知ったりしたら。
何がどうなっていたか、分からない。
タヌキはアカゲとヤマネの隣を通り過ぎ、歩いていく。
そこは開けた場所で、比較的地面が平らであった。
廃村になったときに放棄された、農作地である。
タヌキは目を閉じ、周囲の気配を探るように術を張り巡らせた。
同時に、大きく鼻から息を吸い、周囲の匂いを嗅ぐ。
懐かしい。
そのまま昔の思い出に浸りたい気分になるタヌキだったが、今はそれどころではない。
術でわかった情報と、匂いを、頭の中で解析する。
といっても、一秒以下の出来事だ。
すぐに、それが見つかった。
あのクソ忌々しい、“始祖の一滴”と名乗るガキの手駒の臭い。
「 」
この時ヤマネは、生まれて初めて、人の体に見えるものから「ブチブチ」という何かが切れる音が本当に響いてくるのだ、ということを知った。
そして、声にならない叫びというのを、初めて聞いたのである。
確かにそれまで人のそれであったタヌキの体が、見る見るうちに変化していく。
仕立ての良いスーツが内側から引き千切れ、茶色みがかった毛皮があふれ出す。
タヌキの姿が見る間に肥大化していき、両手、いや、両前脚を地面に着く。
それと同時に現れたのは、巨大な尾。
タップリと毛を蓄えた、立派な尾であった。
「タヌキ殿の名は、ホノオ、というのだ。赤鞘様が付けた名でな。尾が稲穂のように立派だから、穂の尾、ということらしい。ネーミングセンスのないお方だったが、タヌキ殿の名に関してはまともだったなぁ」
感慨深げに言うアカゲの横で、ヤマネは完全に固まってしまっていた。
震えも止まっているのだが、恐ろしくなくなったわけでは無い。
むしろ今まで感じたことのない恐怖に、身動きが全く取れなくなってしまっていたのだ。
「不思議なものでな、その名を頂いて以降、タヌキ殿は火を巧みに操るようになった。身にまとう妖気も火に近しくなってな。まぁ、穂の尾という名が、炎に通じるからだろうな。妖というのは、そういうものに引っ張られるところがある」
アカゲの言葉は、ヤマネの耳にしっかりと届いていた。
今は理解できていないが、言葉自体は頭にしっかりと刻まれている。
あとで思い返せば、しっかりと意味も飲み込めるだろう。
タヌキの体は、驚くほどの大きさであった。
象などよりもはるかに背が高く、全長も凄まじい。
大型バスより、一回りは大きいだろうか。
妖としてのタヌキの本性は、この姿。
巨大な尾を持つ大狸。
口の端からは炎が漏れ、毛皮のところどころからも、赤い火が零れている。
その灼熱の塊が、徐々にタヌキの上に集まりだした。
形作り始めたのは、唐傘のような形である。
「タヌキ殿は様々な地を渡り歩くうち、様々なタヌキの妖の要素を取り込んでいてな。その中の一つに、傘さし狸というのが居る。どんな妖怪か知っているかな?」
アカゲに聞かれたが、ヤマネは声を発することが出来なかった。
代わりに、激しく首を左右に振る。
「徳島あたりの伝承なんだそうだが。雨が降っている夕刻、傘を差した人の姿で現れ、傘を忘れた人に入るようにと誘う。うっかり入ってしまうと、とんでもないところに連れていかれるんだそうだ」
炎で形作られた唐傘。
その下で、タヌキは吠え続ける。
不思議なことに、吠えている、恐ろしい、と確かにわかるのだが。
ヤマネの耳には、「吠え声」がまるで聞こえなかった。
吠えている、という事実だけを叩きつけられているような、不思議な感覚だ。
だが、今のヤマネにはそれを不思議がっている余裕はなかった。
ひたすらに、恐ろしい。
「お、開くぞ」
唐傘の下の景色が、突如として変化した。
だが。
確かに見えているはずのその景色を、ヤマネは認識できなかった。
なにか、訳が分からない、唖然とするしかないような景色なはずなのだが、認識できない。
「あ、あああ、あの、あの、アカゲ様。あれ、あれは、あの、いったい?」
「炎熱地獄か。見るのも久しぶりだな。ああ、君はまだ認識できなかろう。あれはな、八大地獄の一つだよ。言っただろう。傘の中に入ってしまうと、とんでもないところに連れていかれるんだ」
あまりにもとんでもない所すぎやしないだろうか。
もはや、ヤマネはただただ固まって、体験した出来事を記憶しておくことしかできなかった。
衝撃が強すぎて、思考は停止した状態である。
「“始祖の一滴”とか名乗るものとその一党も可哀そうにな。最近ではこういうのを、地雷を踏んだ、というんだったか? 敵ではあっても、本来全く怒らせる必要のない相手を怒らせてしまったんだからな」
元赤鞘が治めていた土地に、吸血鬼の配下が足を踏み入れた。
ただそれだけの事。
それだけのことが、タヌキにとっては重大事なのである。
「赤鞘様、ご本神がいらっしゃればまだよかったんだろうが。思い出の地、になってしまったからな。それを汚される怒りというのは、もはや理屈ではあるまい。それでもまだ冷静なようでよかった。あれだけの術、そう長くは維持できまい。すぐに疲れるだろう」
そうなれば、ひとまず暴れることは出来なくなる。
八大地獄の蓋を開ける、などという馬鹿げた術を使っているのは、苛立ちを発散させるためなのだ。
しかも、そこから炎などが零れぬようにもしている。
タヌキは確かに怒っているが、狂ってはいない。
「それにしても、ずいぶん覗きに来ているな」
千里眼や遠視といったものを使い、様々なものが覗きに来ている。
それはそうだろう。
これだけの術が行使されれば、嫌でも気になるはずだ。
もっとも、何か凄まじいことが起こっていることはわかっても、「地獄の蓋が開いている」などという事実が「認識」できるものが、どの程度いるのか。
こういったことを理解するためには、相応の格が求められる。
格が足りなければ、たとえ目の前で何が起こっても、懇切丁寧に説明されたとしても、理解できないものなのだ。
大半の者に理解できるのは、「巨大なタヌキが、凄まじい妖気を発散させて吠えている」ということ程度だろう。
まあ、それだけでも十二分を通り越し、国内にいる様々な勢力の警戒レベルが跳ね上がるような事態なのだが。
「まあ、良いか。タヌキ殿が落ち着いたら、ラーメンでも食べて帰るかな」
タヌキが思ったよりも冷静でいてくれて、アカゲはホッとしていた。
おそらく、タヌキは自分の行動が赤鞘の評判に響くことを、凄まじく気にしているのだろう。
そうでなかったら、今すぐ飛び出して“始祖の一滴”とその一党を、焼き殺そうとしているはずだ。
今この世界に居ない以上、赤鞘は名誉挽回すらできない。
神使であるタヌキの行動は、そのまま赤鞘への評価につながる。
だからこそ、行動には気を付けなければならない。
と、タヌキは思っているのだろう。
もし、赤鞘というタガが無かったら。
あまりゾッとしない想像だが、幸いなことに現実は違う。
ならば、特に気にするようなことではない。
安心して、小腹を満たす方法を考える余裕すらある。
もちろん、そんな風に考えることが出来るのは、アカゲがタヌキよりも遥かに年経た神使であるからだ。
この後、すぐに冷静さを取り戻したタヌキは、着ていた服をびりびりにしてしまったことを一頻り悔やみ、あとから追いついてきた部下が運んできた服に着替える。
そのあとしっかりとアカゲとヤマネに挨拶をすると、さっさとホテルへと戻っていった。
極々短い時間ではあったのだが。
タヌキのこの吠え声は、様々なもの達に、様々な形の警告を与えることとなったのである。
その頃。
無理やりふたを開けられた側である地獄では、獄卒達が事後処理に追われていた。
「おい、お前! ちゃんと蓋が閉まってるか、確認してこい!」
「はぁ!? ふざけんなこの全身赤ら顔野郎! そのシャレオツなトラ縞パンツひん剝いてやろうか!?」
「お前、悪さした罰を減刑してもらうために働いてんだろうが! 黙って行って来いオラ! 大体、あれ開いたのお前の知り合いだろうよ!」
「はぁ!? 知らねぇし! 誰だよそれ! って、これ、てめぇーバカヤロウこれ、あのクソヤンデレイヌ科タヌキ属じゃねぇーか! 何してんだアイツ!」
「ほら、知り合いがやらかしたんだ、しっかり後始末してこい!」
「ふざけんなよ、マジで行くのかよ遠いのによぉー! あのもっさりシッポ、こっち来たらぜってぇーどつきまわしてやるかんなぁ!!!」
実に不機嫌そうな獄卒キツネは、頭をガシガシと掻くと、仕事のために大股で歩き出した。
今回書こうと思っていたことがほかにもあったんですが、赤鞘の過去が思ったよりも長くなったので、「地球・日本」の話ばっかしになりました
代わりに次回は異世界の話ばっかしにしようと思います
出来れば次回でアルティオさんを確保して、ストロニア王国から逃げ出したいところ
「ケツ叩き」で行こうかなぁ、と思ってます
どんな方法なのかは、多分結構な人が感づいてると思いますけども
時に皆さん、「神様は異世界にお引越ししました」コミカライズ版、もうご覧になりました?
漫画アプリとかでご覧になれたりしますので、ご興味のある方は調べてみてください
とっても面白いですぞ