百六十八話 「赤鞘様のお世話もせずに、勝手に死んで。あのバカが」
新田・亮介は、私立高校に通う二年生男子である。
当人はごく普通な一般人のつもりなのだが、どういうわけか昔からいろいろなことに巻き込まれた。
サルの妖怪に因縁を付けられたり、対吸血鬼の特殊部隊だとかいう連中に追いかけまわされたり、汚染の影響で我を忘れてしまった神様を止める羽目になったり。
とにかく、ろくな目にあわない。
「リョースケ。お腹空いた、アイス食べたい」
「アイスって腹にたまらないんじゃないかな」
今、声をかけてきた少女も、亮介に降りかかってきた厄介事の一つである。
見た目の年齢的には、亮介と同じか、少し下。
抜群に容姿端麗な、どこか表情に乏しいといった感じの少女である。
だが実際のところは、少女どころか人間ですらない。
永く時を経た日本刀の、付喪神なのだ。
まだ多くの武将が土地を奪い合っていた頃。
妖怪やら化け物やらを斬るための刀を作る、女刀匠がいた。
作刀方法から、目的、性別に至るまで、全てが異質異例であったことから、人間の間では存在が消され、神やら妖怪やらの間で語り継がれてきた名工である。
その女刀匠が打った刀の一振りが、この少女なのだ。
もっとも、人の姿になれるようになったのは、ここ数カ月のこと。
ソレまでは、亮介の父方の実家にある、蔵の奥にしまい込まれていた。
亮介がある事件をきっかけにそれを見つけ、以来こうして行動を共にするようになっている。
「言ったでしょう。今日はゲームを買いに行くんです。余計なお金なんてないんですよ」
「リョースケはすぐにゲームにお金使う。食べものに使うべき」
亮介はゲームが好きだった。
コンシューマーゲームからTRPG、ボードゲームまで幅広く嗜んでいる。
祖父やら師匠やらから奇怪な剣術と共に様々な訓練を施されてはいるが、当人の性格的にはインドア派なのだ。
今も、今日発売のゲームを買いに行くため、ゲーム屋に向かっているところだった。
亮介行きつけの店で、個人経営のゲーム屋さんである。
このご時世にもかかわらず、未だに頑張ってくれているありがたいお店だ。
「じゃあ、私はなんのためについてきたの」
「家で待っていればよかったでしょう」
付喪神の少女は、ふくれっ面で口をとがらせた。
少女は亮介の家で、一緒に暮らしている。
両親ともに少女の正体については、特に気にしていない様子だ。
あるいは亮介が知らないだけで、親達は親達で「こういったもの」に慣れているのかもしれない。
「家にいるときにリョースケが襲われたら、大変」
「そんな、ゲーム屋さんに行くんですよ? こんなところで仕掛けてくるようなのは・・・」
そこで、亮介はふと足を止めた。
周囲の様子がおかしい。
車や人の雑踏の音が、完全に消えている。
よく見ると、周囲のものの色合いもおかしい。
いや、あまりにもおかしすぎる。
色が薄い、といった次元ではなく、周囲がモノクロになっているのだ。
目がおかしくなったのか、とも思った亮介だったが、自分と少女の体はカラーで見えている。
少女はと言えば、険しい顔で前の方を見据えていた。
視線を追ってみると、その先にいたのはスーツを着た女性の姿がある。
ミラーシェードのサングラスをかけ、じっと亮介と少女の方を見ていた。
亮介は背筋が凍る感覚を、久しぶりに味わっている。
目の前にいるのが何者なのかは、正直分からない。
ただ、「尋常でなくヤバい相手」だということだけは、間違いなかった。
女性はゆっくりとした仕草で、亮介の方へ近づいてくる。
思わず身構え、少女を背中に庇う亮介だったが、女性は両掌を広げて見せていた。
敵意はない、ということなのだろう。
亮介が最大の攻撃力で刀を振るえる間合いの、ちょうど一歩手前で、女性は足を止めた。
ここに来てようやく気が付いたのだが、どうも周囲は時間が止まったように、完全に動きを止めているらしい。
亮介は以前祖父に聞いた話を、思い出していた。
妖怪の中には、自分だけの世界を作り出すような、シャレにならないやつもいる。
そういう手合いに出会ったら、敵でないことを祈れ。
もし敵だったら、迷わず斬れ。
世界を箱庭みたいにしてるやつから逃げられると思うな。
でも殺す方向ならワンチャンあるから、それに賭けろ。
聞いたときはむちゃくちゃなことを言うな、と思ったものだが。
なるほど、こうして対峙してみると、分かる。
そのぐらいしかやりようがないのだ。
「初めまして」
女性は、亮介と少女に向かって声をかけた。
それだけで、少女は亮介の背中にしがみつく。
妖怪を斬る刀が、怯えているらしい。
「私は、とある神様にお仕えしていた、元神使の、タヌキです。新田亮介さん。そして、付喪神の刀の方、で、間違いないでしょうか?」
「ええ、そうですが」
神使、という言葉に、少しだが亮介は警戒を緩めた。
詳しい事情は知らないが、「神使」というのは特別な意味を持つ単語らしい。
神使を僭称することは、相当なタブーなようなのだ。
ただ、「元」というのが気になる。
どういうことなのだろうか。
亮介がそんなことを考えていると、女性はゆっくりと指を伸ばし、自分の上着にある胸ポケットを突いて見せた。
「どうぞ、出てください。厚生労働省の彼からですよ」
言われて、亮介は自分の胸ポケットに入れていたスマホの呼び出し音に気が付いた。
女性、タヌキに気をとられ、意識の外にあったらしい。
「あー、はい。分かりました。ちょっと失礼します」
利き手ではない左手でスマホを取り出すと、器用に操作して通話状態にする。
いつでも刀を振れるよう、利き手は残してあるのだ。
「よかった繋がった、もしもし、亮介君? 藤田ですけど」
「はい、亮介です。お久しぶりです」
「あー、よかった、無事だったか。そこは俺でも見えないのよ」
厚生労働省、特殊人材就職支援課の藤田という男は、おそらく国内で最高位の“千里眼”を持つ人物だ。
亮介もそのことは知っているし、実際何度か助けてももらっている。
その藤田が「見えない」と言っているということは、この場所は日本、それどころか、「この世」ですらない場所だということだ。
「幽世とか、箱庭とか、固有結界とか、まぁ、呼び方はどうでもいいんだけど。そこは君の目の前にいるタヌキさんの持ち物なのよ」
「そんな場所でも電波繋がるんですね」
「普通は繋がらないよ。タヌキさんが許可してくれてるから繋がってんの。まあ、そんなことはどうでもいいんだけど」
サラッととんでもないことを言われた気がしたが、「そんなこと」になってしまうほど重要なことがあるようだ。
亮介はタヌキから視線を外さないようにしながら、ゴクリと喉を鳴らした。
「そこにいる方は、君達の敵じゃない。むしろ、味方だと思っていい。今は事情があって神使ではなくなっているんだけども、まぁ、その辺は話すと長くなるから」
「はぁ」
「とにかく、今でもほかの神様や神使の方々に顔が利く、ゴリゴリのVIPなのよ。で、今、お国の仕事を手伝っていただいてるの」
「あの、そんな人、人? いや、方が、なんで俺に?」
「それは、その方から説明がある。というか、そのためにわざわざ君達に会いに行かれてるんだよ。ああ、言わなくてもわかると思うけど、バチボコにヤバイ、かなりシャレにならないタイプのアレだから。絶対に失礼の無いようにね。じゃ!」
「ちょっと!? 藤田さん!? 藤田さん!!」
亮介は声を張り上げるが、既に通話は切れていた。
とにかく、失礼の無いように。
それさえ守れば、危険はないらしい。
今はそれで納得するしかないのだろう。
タヌキは亮介を見ながら、小首をかしげるような仕草をした。
サングラス越しにも、強烈な視線を感じる。
ニコリとせず、どこか不機嫌さを感じさせる表情で向けられる視線は、物理衝撃のようなものを感じさせるほど圧力があった。
「お話は終わったようですね」
「へ? あ、はい」
「買い物に行く途中だったようですし、手早く話を終わらせましょう。貴方が以前に斬った吸血鬼達、覚えていますか?」
「えーと、まぁ、はい。覚えてますけども」
忘れるわけがない。
あのなんだか中二病でも患ってるような吸血鬼達に、亮介は酷い目にあわされたのだ。
追いかけまわされていた女の子を助けたのがきっかけなのだが、その追いかけていた連中が吸血鬼だった。
ちなみに、追いかけられていた方の女の子は妖怪で、今は亮介の家の近所に住んでいる。
「その親玉が、日本に来ています」
亮介の目が、鋭く細められた。
強烈な三白眼は、見る者に恐ろしい印象を与えてしまう。
普段は気にしていて、なるべくこういった目つきをしないようにしているのだが、今はそんなことを気にしている心境ではなかった。
「防衛や警察などが対応をしていますが、もちろんそれだけでどうにかなる訳がありません。そして、連中は貴方を目の敵にしているようです」
「姫川が襲われるかもしれないってことですか」
姫川というのは、亮介が助けた妖怪の女の子の名前だ。
亮介が気になるのは、まずそこだった。
別に、「自分のことはどうでもいい」などというつもりはない。
単純に、自身の身の安全よりも、そちらの方が気になるというだけである。
タヌキの眉が、わずかに歪んだ。
「そうなるかもしれません。多くの政府機関が、件の吸血鬼共を抑え込もうと動いています。一般人の目に触れる前にどうにかしてしまおう、と。もちろん、その一般人の中には貴方も含まれています。ですが」
タヌキは傾けていた首の位置を直し、じっと亮介の目を見据える。
祖父や師匠から視線を読むすべを教え込まれた亮介にも、それがわかった。
「あの人間でいられなかった連中にとって、そういった物があまり障害にならないことは。貴方はよくわかっているはずです。守りたいものは、貴方の手で守って構いません。銃刀法違反だ、などという野暮は、私が言わせませんので。安心してください」
「わかりました。ありがとうございます」
まず、亮介は頭を下げて礼を言った。
目の前のタヌキが、自分の助けをしてくれているらしいことは、亮介にもわかる。
助けてもらったら、まず礼をしろ。
祖父や師匠、両親から、亮介はそう教わってきて、実践してきている。
ただ、気になることがあった。
「でも、どうしてそんなことを教えてくれたんですか?」
今しがた聞かされた話、吸血鬼云々という話は、「公式には存在しない話」なのだ。
一般人である亮介が、聞くことなどできない話のはずなのである。
じっと亮介を見ていたタヌキの視線が、付喪神の少女に移った。
少女はびくりと体を跳ね上げさせるものの、かろうじて悲鳴は上げていない。
人間より妖力に敏感な付喪神には、タヌキの視線はあまりにも恐ろしいものだったのだろう。
それにしても、と、亮介は思う。
少女は妖怪を斬るための刀のはずだ。
その少女が恐怖を感じるほど、目の前のタヌキは強大な存在、ということなのだろう。
古来から、強い力を持った妖怪タヌキというのは、伝承の中などに残っている。
あるいはこのタヌキも、そういったものの一匹なのかもしれない。
「貴女の銘を、聞かせていただけますか?」
聞き方は丁寧だが、もはや「言え」という強迫に近い。
あるいは、「命令」と言ってもいいかもしれない。
少なくとも、少女の頭に「答えない」という選択肢は浮かばなかった。
「飯喰狐、といいます」
イイジキキツネ。
そう聞いたとたん、タヌキの口角がわずかに上がった。
「貴女を打った刀匠が、昔世話になった狐のために打った一振り。それが、貴女ですね?」
「そうです」
当時はまだ作られたばかりであり、刀「飯喰狐」としての意識はなかった。
ただ、記憶は残っていたのである。
「そのキツネは、私の知り合いです。そして、その名をつけてやったのも私です。あまりに食い意地が張っていたものですから。悪い子にしていると、イイジキキツネにご飯をとられるよ。そんな風に、脅し文句にも使ったりしたものです」
タヌキは飯喰狐と亮介から、視線を外した。
その瞬間、亮介は急に周囲がまぶしくなったように感じ、目を細める。
いつの間にか、周りに色が戻り、動きが戻っていた。
一瞬、周囲を見回すが、すぐにハッとなってタヌキに視線を向ける。
タヌキは既に二人に背中を向けて、歩き出していた。
そして、振り返りもせずに、亮介に向って何かを投げつける。
慌てて受け取ったそれには封がされておらず、中身がすぐに分かった。
十枚や二十枚ではない、札束だ。
「ちょっ!? なんですかこれ!」
「お小遣いです。人間でいることに耐えられなかったような屑共ですが、やり合うのにお腹が空いていたら大変でしょう」
そういって手を振ったとたん、タヌキの姿が消えた。
正確には、「どこにいるのか認識できなくなった」のだが、似たようなものである。
「なんだったんですか、あれ」
封筒を手に、亮介は呆然と立ち尽くす。
飯喰狐が、その封筒に顔を近づけ、匂いを嗅いだ。
「リョースケ。お腹空いた。アイス食べたい」
「お前、どういう神経してるんですか」
謎の疲労感に襲われ、亮介は深いため息を吐いた。
「御岩神社の初代巫女様が、術を学ぶようになれば。そう思って、悪い子のところに来てご飯をとってしまう妖怪がいる、と、言ったのですよ」
「イイジキキツネというのは、今も一部地域に伝承が残っているようです」
「少々間抜けな名前の方がいいと思ったんですが、残るものなのですね。あいつには悪いことをしたかもしれません。いえ、ざまぁみろですが」
タヌキは座席から外を眺めながら、人の悪そうな笑顔を作った。
今は車に乗っていて、次の目的地へ移動中である。
隣には配下が座っていて、タブレットを操作しながら話していた。
「赤鞘様のお世話もせずに、勝手に死んで。あのバカが」
言葉の割には、機嫌がよさそうだ。
部下はそう思ったのだが、当然口には出さなかった。
「いくつか気に食わないことがあります。あの少年、妙に赤鞘様に似ていました。特に目つきがそっくりです」
「目、ですか」
「ええ。こう、まるで睨んでいるような目です。ただ、敵意のこもったような視線を向けられたのは、何というか、面白かったですね。赤鞘様が私に向けてくださるのは、いつも柔らかな目でしたから」
タヌキは昔を懐かしむ様に、目を細める。
既にサングラスは外していた。
普段はしないそんなものをかけていたのは、亮介をあまり怯えさせないようにするための、気遣いだ。
並の人間や物の怪が、固有結界の中にいるタヌキの目を直接見たりしたら、どうなるかわからない。
「私はいつもあの目を、お隣で見ていました。もしあの目を向けられたら、どんな気持ちになるのだろう。と、思っていたものですが。存外悪くない気分でした。もちろん、本当の赤鞘様でなかったからそう思えるのですけど。もしあれが赤鞘様であれば、恐ろしくて恐ろしくて。私程度では恐怖のあまり、身動きもとれなくなっていたでしょうとも」
この部下は、タヌキから赤鞘のことについて、何度か聞かされていた。
タヌキの口から語られるそのサムライは、にわかには信じられないような活躍をしている。
だが、調べてみれば、タヌキが語った内容の一部が、伝承として語り継がれていたのだ。
「ああ、今でも思い出します。迫ってくるオオアシノトコヨミ様の脚を前に、私を背中に庇って立つあの方の背中。人というのは、あんなにも気高く、強く、壮絶に、輝けるものだというのに」
人は、人間というものは、素晴らしいものなのだ。
まだ人間であった頃の赤鞘の姿は、タヌキにそう強く印象付けさせた。
それは、今も変わっていない。
だからこそ、タヌキは見るべきところがある人間は粗雑に扱わず、一定の敬意を払っている。
もし、赤鞘との出会いがなければ。
タヌキは人間に好意など持たなかっただろう。
それどころか、小汚くて知恵も浅いくせに、やたらとうるさい害獣、程度に思っていたかもしれない。
「なのに、あの方は本当に、刀にだけは恵まれませんでした。いつもいつも、鉈やら竹やりやら。あんなにも素晴らしい剣客でいらしたのに。そう、刀に。恵まれなかったのです。常に、良い刀は手元に残らず、すぐに潰してしまったり、人にあげてしまったり。ずっと、刀には、恵まれなかったのです」
なのに。
亮介には、あの刀が居る。
しかも、タヌキがあのバカキツネに嫌がらせで付けてやったのと、同じ名前の刀が。
「本当に、あのバカは。何が寿命だ。もっと妖力を蓄えていれば、永く赤鞘様のお世話ができたはずだろう。生き汚いのだけが取り柄だったくせに」
静かに目を閉じたタヌキの様子に気づき、部下は作業の手を止めた。
タヌキが寝ることが出来ないのは、知っている。
だが、うとうとする程度は出来るらしい。
それを邪魔する訳には、行かないのだ。
タヌキは、夢とも、記憶をたどっているだけとも言えるような、眠りと覚醒の間を漂っていた。
キツネが境内に大きな穴を掘り、タヌキがそれを咎め、赤鞘が困ったように笑っている。
そんな、いつかの景色を。
既に記憶の中にしかないそんな景色を眺めながら、タヌキはうっすらとほほ笑んだ。
シャルシェルス教の法衣で身を包んだコウガクは、ストロニア王国首都を歩いていた。
一度内陸方向に向かい、国境を出る。
それから海を目指し、アグニーを奪還し終えたガルティック傭兵団と合流する予定だ。
今回コウガクが出張ってきた目的は、キースを通して、シェルブレンに「見直された土地」の状況を伝えることであった。
「ガルティック傭兵団」のアグニー奪還には、参加しないことになっていたのである。
たったそれだけのためにわざわざ、と思うものもいるかもしれない。
だが、ことはソレ一つで戦争が起きるかもしれないほど、危険な情報の伝達だ。
本来であれば、たった一人に任せられるようなことではない。
シャルシェルス教の僧侶という立場があるコウガクだからこそ、やり遂げられる事柄と言えるだろう。
さて。
国境へ向かっていたコウガクだったが、ふと足を止めた。
今コウガクが歩いているのは、いわゆる郊外の一角である。
周囲には建物なども少なく、木々が多い。
そんな道の一角に、寝間着姿の子供がしゃがみ込んでいた。
近所に住んでいる子供、というわけでは無いだろう。
この辺りには民家などほとんどないのだ。
周りを見渡してみると、木々の向こうに、大きな建物があるのがわかる。
そこへ続く道の分岐点に、看板が立っていた。
どうやら、病院のようだ。
おそらくこの子供は、そこから抜け出してきたのだろう。
コウガクはゆっくりと子供に近づいていくと、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「こんにちは。観察をしているかな」
子供がしゃがみ込んでみている先には、陸生のカニがいたのだ。
どんぐりのような実を割り砕き、中身を食べている。
声を掛けられた子供は、一瞬驚いたように体をはねさせた。
しかし、コウガクの姿を見て、ホッとしたような顔になる。
どうやら、シャルシェルス教の僧侶を知っているようだ。
子供は立ち上がり両手を胸の前で合わせると、「こんにちは」と頭を下げた。
兎人の国である、「野真兎」周辺の礼儀だっただろうか。
「森のなかなのに、かにがいたから。どうしてだろう、とおもって」
「確かに、水辺の方がカニはおおいね。だが、森のなかに住むのもいるんだよ」
「そうなんだ」
子供は目を輝かせて、再びしゃがみ込んでカニを観察し始めた。
「海か、湖か、川か。そういったところにいたのかね?」
「そう。うちからは、海がみえたの」
それが、なぜわざわざこんな内地の病院にいるのか。
病院はかなり大きな建物であり、設備も整っているであろうことがうかがえる。
「坊は病気なのかな?」
リザードマンの性別は、他種族の目からはわかりにくいとされている。
だが、多くの人を見てきたコウガクには、すぐに子供が男の子であるとわかった。
一見すると元気そうなのだが、場所と恰好から考えれば、そうであろうと予測が付く。
案の定、少年は「うん」と頷いた。
「しんのぞうがね、わるいんだって」
「そうか。それは大変だね。どれ、お坊さんに、少し見せてくれんかな」
「うん。いいよ。おぼうさまは、しぇるしぇるる、しゃしゅしゅしゅ? ええっと、おぼうさま、なんでしょう?」
首をひねる少年に、コウガクは思わず笑みを浮かべた。
シャルシェルス教というのは、何とも言いにくい言葉なのだ。
実は、コウガク自身、聖地である「山」で修業し始めて一、二年は、「シャルシェルス教」と発音できなかった。
それは、コボルトという種族が「しゃ行」の音の発音が苦手、という事情もあるのだが。
だとしても、少々時間がかかり過ぎだったと言える。
今となっては覚えているものもごく少ない、コウガクにとってはいささか恥ずかしい昔話の一つだ。
「ああ、そうだよ。よく知っているね」
「うん。おっとうから、おしえてもらった」
「そうか。坊の御父上は、物知りだね」
少年は、くすぐったそうに笑った。
父親との仲が良いのだろう。
「さて、では、お坊さんの手に、手を乗せて」
「はい」
「体の中を見せてもらいたいが、よいかな?」
「うん、よいよ」
コウガクは少年の手を取ると、朗々と経を唱え始めた。
すると、コウガクの体に刻まれた呪文が発動し、少年の体の中へとコウガクの感覚を伸ばしていく。
こうすることで、コウガクは直接体の中を「診る」ことが出来る。
生き物の体の中を魔法で診るというのは、凄まじく難しいこととされていた。
大抵の生き物は、外部からの魔法的干渉に対する抵抗を有しているからだ。
それを無効化するには、大型で複雑な魔法装置や、円熟した複数の魔法使いの手が必要、というのが常識である。
だが、シャルシェルス教の僧侶は、それをたった一人で可能にしていた。
相手に許可をとる必要がある、術の発動中は経を読み続ける必要がある、など、制約も多い。
とはいえ、驚異的な技術であることは間違いなかった。
シャルシェルス教が有する魔法体系「経典魔法」は、習得するのにも時間がかかり、また、体に直接術式を刻むといった手間も必要になる。
その分、というわけでは無いのだが、効果は絶大にして無類であった。
診始めること、しばし。
コウガクの感覚は、少年の心臓に届いた。
なるほど、確かに異常がある。
リザードマン特有の病で、数は少ないものの時折見ることがある症例だ。
外科手術や薬による治療は難しく、多くの国で、いわゆる難病の類とされていた。
しかし。
「これか。うむ、運がいい」
コウガクには、治療経験がある病であった。
外科手術や薬による治療は難しくとも、「体内から」影響を及ぼすコウガクにとっては、むしろ相性がいい類の病だったのである。
「坊、病の原因が分かったのだがな。これは、治してしまってよいかな?」
「なおせるの?」
「ああ。すぐに終わるとも」
「じゃあ、なおして。おっとう、びょうきなおすために、たいへんなんだ」
「では、治させてもらおうかな。すぐ終わるから、少しじっとしていておくれ」
メスや内視鏡、薬などによる治療は難しいが、体を直接変化させることが可能なコウガクの手にかかれば、あっという間に治療は終わる。
ものの数分で治療を終えると、コウガクは少年の手を離した。
「さあ、終わった。痛いところや、かゆいところ、ほかにも、気になるところはあるかな?」
「んーん。だいじょうぶ」
「そうかね、それは何より何より」
コウガクはにっこりと笑うと、懐から一枚の紙を取り出した。
患者に薬を渡すときなどに使うもので、シャルシェルス教の文様のようなものが入っている。
特殊なものであり、これを持っているだけで、シャルシェルス教の僧侶に治療を受けた、という印にもなっていた。
「これを、お世話をしてくれている看護師の方に、見せてもらえるかな」
「うん。いいよ。これ、なぁに?」
「坊の病気を診た、という印だよ」
コウガクは少年の頭を撫でると、ゆっくりとした仕草で立ち上がった。
「さて。では、そろそろ行くとしようかな」
「おぼうさま、どこかにいくの?」
「行かないといけないところがあってね。さようなら、坊」
「うん。さようならー」
歩き去っていくコウガクの背中に、少年は長く手を振り続けた。
その後、病院ではかなりの騒ぎが起きていた。
治療困難だったはずの少年の病が、完全に癒えていたからである。
理由は明確。
少年が持っていた紙が物語っていた。
医師達は驚愕と共に、シャルシェルス教の僧侶がいかに優れているかということを、改めて認識することとなる。
このことは小さな奇跡として、国内の医師の間に広まることとなった。
僧侶の名前などについては、全くわかっていない。
少年が「こぼるとの、おぼうさん」と言っていたのだが、シャルシェルス教の僧侶にはコボルトも少なくなかった。
それだけで個人が特定できるほどの情報には、ならなかったのだ。
病院の前には監視カメラなどもあったのだが、計器の故障でその時間は映っていなかった。
もっとも、僧侶の個人名などというのは、些細なことともいえる。
シャルシェルス教の僧侶は、等しく全員が、同じ志を持って修行に励んでいるからだ。
その時通りがかったのがだれであれ、シャルシェルス教の僧侶であれば、必ず治療を施しただろう。
誰もがそう信じるだけのことを、僧侶達はしてきていたのだ。
これもまた、シャルシェルス教の名を知らしめる出来事の一つとして、広く知れ渡ることとなったのである。
コウガクが立ち去った、数時間後。
病院のベンチに座り、呆然としている侍の姿があった。
リザードマンの男性で、名を「伊井沢・和正」という。
「野真兎」近くにある島国で、「爬州」という島国に暮らしていた。
それがなぜ、こんな遠く離れた土地まで来たかと言えば、息子の治療のためである。
妻に先立たれ、それでもなんとか暮らしていたのだが、息子が難病を患ってしまった。
何とか助けてやりたいと海を渡り、治療設備の整ったこの土地に流れていたのだ。
用心棒の仕事にもありつくことが出来、何とか治療費をためようとしていた、その矢先の出来事である。
「このようなことが、あるものなのだなぁ」
医師からは、治療費がたまって手術をしたとしても、成功率はよく見積もって六割。
胸を開いて見なければ何とも言えないが、それより確率が高くなることはない、と言われていた。
それが、これである。
伊井沢は我知らず瞑目し、手を合わせていた。
あるいは、己の命を売ってでも、金を作らねばならないと思っていたのだが。
むしろこれで、死ねない理由が出来てしまった。
「そうさな。生きなければならぬ。せめてあの子が、元服するまでは」
病は癒えたとは言え、息子の体は永の患いで疲弊している。
もうしばらくは、入院が必要だということだった。
それが終わったなら、爬州に戻ろう。
親子二人、静かに暮らすことが出来たならば、それでよい。
息子が病に苦しんでいた時には、このようなことを考えることもできなかった。
今はただ、感謝しかない。
頬を伝う涙をぬぐうこともせず、伊井沢はひたすら、手を合わせるのであった。
今回の作戦では、ホウーリカ王国第四王女トリエア・ホウーリカが情報処理係として後方支援についていた。
そのトリエアから送られてきた指示の一つが、「ストロニア王国首都郊外にある病院へのクラッキング」だったのである。
「一応やりましたけど、結局何だったんです? これ」
指示書を読みながら、キャリンは不思議そうに首を傾げた。
直接作業に携わったのだが、目的は聞かされていなかったのだ。
答えてくれたのは、ディロードである。
「ホウーリカの第四王女様からの指示のヤツ? あー、アレだねぇ。虹色流星商会に腕のいい曲刀使いの人がいるって話があったでしょ」
「聞きましたけど」
「その人、息子さんが重い病気だったらしくてね。その治療費稼ぐのに必死なんだって」
「お金が必要なわけですか」
「そう。で、僕らが虹色流星商会からアグニー族の人を奪還するときに、当然障害になるわけ。その時、手柄を上げて報奨金貰おうって張り切られると、困るじゃない?」
「それこそ命がけになられたら、かなり被害出そうですね」
「そういうこと。だからそのモチベーションをなくしてもらうために、息子さんに治ってもらおうってことになったわけ」
「どういうことです?」
心底不思議そうな顔をするキャリンをちらりと見て、ディロードはキーボードに指を走らせた。
モニタに、地図といくつかの情報が映し出される。
「その息子さんが入院してるのが、今回君が行ってきた病院なの。で、そこの近くを、この時間にコウガク様が通る予定になってたわけ」
「ああ、国境へ出るためにですね」
「息子さんは遊び歩いてて、たまたま開いてたドアから外に出る。すると、たまたま通りがかったコウガク様と出会う」
「いや、ちょっと待ってくださいよ」
「シャルシェルス教のお坊様が、難病の息子さんと出会ったらどうなるか。まぁ、言うまでもないよねぇ」
「それって、たまたまっていうか。え、第四王女様、それを狙ったってことですか? なんでわざわざ、そんな回りくどい」
「直接コウガク様にお願いした方が早かっただろうけど。接触できないからね」
今回のコウガクの動きは、極力周囲にバレてほしくなかった。
ガルティック傭兵団と行動を共にしていることや、「見直された土地」とかかわりがあることなどがバレるのも、非常にまずい。
万全を期す、ということで、コウガクは通信機器の類などは持たないことになっていたのだ。
もちろん、国内で接触をとることも避けることになっていた。
「目的も果たせたし、危険も取り除けたし、息子さんの病気も治った。万々歳だぁね」
「ええっと、なんていうか。良かったのはよかったんでしょうけど。すごく複雑な気持ちです」
「大丈夫。僕もだから。なんだろうなぁ。八方丸く収まってるのに釈然としない感じ」
二人とも、直接トリエアと会ったことはなかった。
だが、「見直された土地」の地下ドックで、彼女のやり口についての資料などは読んでいたのだ。
方向性は違うものの、キャリンもディロードも情報の精査についてはかなり高い能力を持っている。
トリエアの滲み出るようなヤバさについても、察することが出来ていたのだ。
「まあ、いいんじゃない? 別に悪いことなんてないわけだし」
「そう、ですかね。そうですよね、うん」
「こういう理不尽を呑み込んで、大人になっていくんだって」
「そういうものなんですか」
「いや、よく知らないけど。僕あんまし人里に出てなかったから」
この人も大概だよなぁ。
と、思ったキャリンだったが、口には出さなかった。
キャリンはまだ大人と言える年齢ではなかったが、幸いなことにディロードよりもいくらかは大人な行動がとれるタイプだったのである。
いろいろ重なってなかなか更新が出来ず、申し訳ねぇ
次は出来ればもっと早く更新したいと思いますが予定は未定
時に皆さん、「神様は異世界にお引越ししました」コミカライズ版、もうご覧になりました?
漫画アプリとかでご覧になれたりしますので、ご興味のある方は調べてみてください
とっても面白いですぞ