百四十五話 「赤鞘殿は、異世界へ引っ越しされた」
羽田空港、国際線ターミナル。
その一角にあるカフェで、アカゲは難しい顔をしてトーストを齧っていた。
日本の玄関口であり、それなりの料金を取るだけあって、中々に美味い。
惜しげもなくバターが塗ってあるのがいいのだろうか。
アカゲが普段使っているのはマーガリンなので、風味が違うように感じる。
あるいはやはり、パン自体の味の差だろうか。
引っかかるところではあるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
とてつもなく不味い状況なのだ。
「このトーストは美味いな。うちの神社でも焼けないものか。いや、違う違う。現実逃避をしている場合ではなかった」
「アカゲ様、大丈夫ですか?」
対面の席に座った青年が、気遣わし気に声をかけてくる。
当代の御使いヤマネであり、今回の件の同行者であった。
アカゲ、ヤマネ共に、人間ではない。
別々の神に仕える神使であり、言わば同業者である。
とはいっても、格はアカゲの方が圧倒的に上だ。
ヤマネが年相応の十七、八歳であるのに対し、アカゲは軽く四千を超える旧い神使である。
「大丈夫。いや、大丈夫ではないか。気が重い。全く、赤鞘様も、ほんっとうに、勘弁してもらいたいものだな。あの方は昔からこういうところがあったのだ」
「あの、アカゲ様。実は私、まったく事情を知らされずに送り出されまして。事情が呑み込めて居ないのですが」
ヤマネの言葉に、アカゲは目を丸くする。
「全く? というと?」
「朝、家のものに叩き起こされまして。そのまま車に詰め込まれて、ここにいます」
「そうか。ホントに全くなんだな。どこから説明したものか。君は、赤鞘様のことは覚えているな」
「はい。何度か遊んでいただいたこともあります。まさか、あんなことになるとは思いませんでしたが」
「まあ、なぁ」
まさか、知り合いの、それも神様が異世界に行くことになるとは、おおよそのものは思わないだろう。
永く生きているアカゲでも驚いたのだから、若いヤマネの衝撃はよほどのものだったに違いない。
「マンガかアニメの主人公のような事というのは実際に起きるものなのだなぁ。現実は小説よりも奇なり、だ。まあ、それはいいとして。今日ここに、海外から戻ってくるものがいる」
「戻ってくるもの。それは、赤鞘様に関係のある方、ということですか」
「そう。赤鞘神社の神使だ」
「しんし。神使って、そういえば見たことありませんでしたけど。海外にいらっしゃってたんですか?」
「色々あってな」
アカゲは珈琲を一口飲んでから、説明を始めた。
赤鞘神社には、元々神使が二匹いた。
一匹は何十年か前に死んだキツネ。
もう一匹は、赤鞘が人間だった頃から付き合いがあるという、タヌキだ。
「このタヌキ殿は恐ろしく真面目で、中々先見の明がある妖怪変化でな。あれは、なんだ、幕府が倒れるとか倒れないとか、大政奉還の何年か前ぐらいか? まあ、細かくは忘れたんだが。とにかくざっくりそのぐらい前だ」
「ほんとにざっくりですね」
「永く生きていると、その辺の時間感覚が適当になってくるんだよ。君も今に分かる。とにかく、そのぐらいの時期に、タヌキ殿が海外に行くと言い出してな」
これからの時代は、日本だけにとどまっていてはいけない。
海外の技術を取り入れることで、より素晴らしい土地の管理ができる。
それが、タヌキの主張であった。
当時海外から日本に頻繁に入ってきていたのは、何も人間だけではない。
精霊やら天使やらといった、神秘に属するものの出入りも多くなっていった。
「人間と違い、我々のような類のものの技は、一概に海外の方が優れているというわけではなかった。日本の土地神が行うような繊細な力の調整は、あちらには全くないものでな。逆に、こちらには全くない技が、向こうにあったりもした」
そういったものをいち早く取り入れるには、やはり海外に行くしかないのではないか。
様々な知識、技術を身につければ、きっと赤鞘様の役に立てるに違いない。
そう考えたタヌキは、赤鞘に海外行きを許可してくれるように申し出た。
意外なことに、赤鞘はそれをあっさりと認めたのである。
「赤鞘様なら、危ないからと止めそうな気がしますが」
「元々、人間だった頃の赤鞘殿、いや、赤鞘様は、諸国を歩き回る旅の武芸者でな。タヌキ殿とも、その時に知り合ったらしい。だからなのか、どうも何かを習得するためにべつの土地へ行くというのに、忌避感が無かったようなのだ」
赤鞘の許可も出て、タヌキは意気揚々と海外へと向かった。
それが、おおよそ百数十年前のことである。
「ずいぶん昔のことなんですね。そんなに永い間、海外にいらしたんですか」
「若い君からすると長く感じるかもしれないが、神使にとってみればそれほどでもない期間ではないかな。タヌキ殿にしてみても、そうさな。人間でいえば十年ちょっと程度の感覚ではあるまいか」
「それも永い気がしますが」
「とにかく、タヌキ殿はその後世界各国を回ってな。様々な妖怪変化や神性にかかわるものから、技術を習得したわけだ」
「そのタヌキ様が、今日日本にお戻りになられる、と。ん? 待ってください?」
ヤマネは嫌な予感がして、表情をこわばらせた。
何を考えているか察したのだろう、アカゲも苦い表情を作っている。
「あの、タヌキ様は赤鞘様がすでに地球にいらっしゃらないことは、ご存じなんですよね?」
「知らない」
「なぜ!? 赤鞘様とご連絡を取っていらっしゃらなかったんですか!?」
「一年か二年に一度、手紙でやり取りはしていたらしい。ただ、あちらへ行く事が決まった時はバタバタでな」
そのあたりの事情は、ヤマネも聞いていた。
随分急な話だったそうで、最低限の周りへのあいさつ程度しかできなかったらしい。
「君のところにもいらしただろう? 赤鞘様は君がいる御岩神社で祀られている、御岩殿、いや、御岩様の師匠のような事をしていたからな。しかし、神使が神様をなになに殿、と呼ぶのは失礼にあたるとかいう風潮はどうにかならんもんか。昔からの癖がどうにも抜けん。ご時世というやつなんだろうが」
「そのあたりのことはよくわかりませんが。って、待ってください、待ってください。そもそも、なんで今になってお戻りに? そもそも赤鞘様の村は廃村になったではありませんか。今頃来たところで、何もかも遅いのでは。って、まさか」
「そのまさかだ。赤鞘殿、ああ、もう。もういい。どうせ君しか聞いておらんだろ。赤鞘殿はあの御気性だからな。村が廃村になったことも、自分が消えかけていたことも、保留保留で一切伝えていない」
「どうするんですか、それ。誰が説明を。ま、まさか、いやいや、まさかですよね?」
「そのまさかだ。私達が説明をすることになっている」
「なん、で、って、そんな殺生なっ! 僕会ったこともない相手ですよ!?」
「ヤマネ一族の先祖は、赤鞘殿のところにいたタヌキ殿とキツネ殿から妖術を教わっている。言ってみれば君の大師匠だ。だから、まぁ、まったく関係が無い、とも、言い切れん」
「そんなめちゃくちゃなぁ!」
「直接説明するのは私なんだぞ? 君はまだいいではないか」
「あの、そのタヌキ様というのは温厚な方なのでしょうか?」
妖怪変化の類というのは、割と話が通じない手合いが多い。
話し合おうとしたら、いきなり襲われる。
などというのは、珍しいことではない。
むしろよくあることで、ヤマネも何度かひどい目にあっている。
アカゲはひたすら苦い表情を作ると、コーヒーでのどを潤す。
「なんともいえん。流石に百余年もあれば、妖怪も変わるからな」
「妖怪? 妖怪って、神使ではないのですか?」
「ああー、それも説明せんとな。一時的に神使ではなくなっておるのだ、タヌキ殿は。流石に国外まで出るとなると、土地神と神使の霊的な絆を保てんということでな。絆が繋がっていれば、お互いに状況把握も楽だったのだろうが」
土地神と神使の間には、目に見えない絆のようなものがある。
赤鞘と水彦の間にあるものと同じで、おおよそお互いの状況を伝えあったりできるのだ。
非常に便利なもので、使い勝手が良いのだが、土地神の力量によって、色々とできることとできないことが出てくる。
雑魚神である赤鞘では、できることも数えるほどしかないし、絆を保てる距離も短かった。
「では、タヌキ様は本当に何も知らずに?」
「そうなるなぁ」
「それは何というか。赤鞘様も赤鞘様なのでは」
「あの御仁がやらかすのは、今に始まったことじゃないからなぁ。そもそも、死因になったアレだって相当だったわけだし。まあ、そんなことより。飛行機が来るまで、あと三十分ほどだ。覚悟をしておかんとなぁ」
珈琲を飲もうとするも、カップにはもうなにも入っていない。
アカゲはがっくりと肩を落とすと、深い深いため息を吐いた。
赤鞘がタヌキの存在をいまさらになってようやく思いだしたのも、実は無理からぬことであった。
何しろ赤鞘は雑魚神であり、記憶容量が驚くほど少ない。
それに加えて、異世界である「中原と海原」にやってくる時と、やってきて以降のゴタゴタである。
赤鞘の記憶からタヌキのことが追いだされるのには、十分な出来事だ。
むしろ、よくぞ思いだしたと褒めるべきところだろう。
もっとも、事が事だけに、そういった理屈が通用する相手ばかりではなかった。
「あかさやさま。さすがにないとおもう」
「ない。ひととしてどーかと」
じっとりとした目で睨んでくる樹木の精霊達の視線に耐え兼ね、赤鞘は誤魔化すように苦笑を漏らす。
赤鞘がタヌキのことを思いだした直後、樹木の精霊達の号令で、「見直された土地」にかかわるモノ達全員に集合がかかった。
お声がかかったのは、赤鞘の関係者である。
エルトヴァエル、水彦、土彦、風彦、エンシェントドラゴン。
それと、樹木の精霊達だ。
本来まだ海の上にいるはずだった水彦は、風彦が無理やり抱えて連れてきていた。
なんでも、風と水は相性がいいのだそうで、運ぶのも難しくなかったという。
ただ、どうもとても疲れるらしく、グロッキーそうな顔でぐったりしている。
難しくないというのと、やると疲れるというのは、別のことらしい。
まだ疲れが残っているのか、風彦は土彦の横で、顔をしわしわにしながらジュースを飲んでいる。
その土彦も、珍しく厳しい表情をしていた。
ビニールシートの上に正座をして、まじまじと赤鞘と水彦を見据えている。
アグニー達が作った三つの社の中央にビニールシートが敷かれ、その中央には赤鞘と水彦が正座。
その前に、エルトヴァエル、土彦と風彦、樹木の精霊達が正座している形だ。
土彦は唸るような声を出すと、首を左右に振る。
「私はタヌキ様が不憫でなりません。赤鞘様のために、必死に努力なさったのでしょうに」
「なんでおれまで、こっちなんだ」
「兄者は赤鞘様に最も近い御方。同じ記憶を共有されているのですから、これまで思いだそうと思えば思いだせていたはずです」
ぴしゃりと言われ、水彦は押し黙った。
確かに、水彦は赤鞘とかなりの部分記憶を共有している。
アンバフォンでタヌキのことを言われたとき、「あー!」となったのも事実だ。
「タヌキ様についてのおおよその話は、エルトヴァエル様から聞きましたが。聞けば聞くほど、何故そのような大事な方を忘れていたのかと疑問に思えてなりません」
流石“罪を暴く天使”といったところだろうか。
エルトヴァエルはしっかり、タヌキに関する情報も持っていた。
海外での大雑把な動向までつかんでいたのだから、恐れ入る。
もちろん、エルトヴァエル基準の「大雑把」であり、世間一般の認識とは大きくかけ離れていることは付け加えておかなければならない。
「いやぁー、まぁー、なんていうですかねぇー。忙しくって、つい」
「そんな仕事に疲れたお父さんみたいな」
しわしわの顔でジュースを飲みながら、風彦は絞り出すように言う。
樹木の精霊達が突っついたり上ったりしているので、徐々にではあるが回復してきてはいるようだ。
「タヌキ様は、赤鞘様の神使様。しかも、生前からのお知り合いだというではありませんか。そのような方を無下にするというのは、いかがなものかと」
「そうです。タヌキ様がかわいそうです」
どうも土彦と風彦は、タヌキを哀れに思っているらしい。
共感を覚え、その扱いの酷さについても怒っているのだ。
神使とガーディアン。
立場が近いだけに、親近感を持っているのだろう。
赤鞘の態度に腹を立てているのだ。
風彦は、樹木の精霊を捕まえ、頬をつつきながら言う。
「折角思いだしたのですから、タヌキ様にご連絡申し上げたほうがいいと思うのですが」
「その通りです。一刻も早く、この状況をお知らせすべきです。そして、今後どうなさるのか、決めていきませんと」
「どうなさるー、というと?」
「タヌキ様の身の振り方についてです。村が無くなり、神社が無くなり、赤鞘様がこちらにいらしたのですから」
「あーあーあー。そうですよねぇ」
確かに、このままだとタヌキは宿なしである。
何かしらの手を打たなければならない。
「オオアシノトコヨミ様にお願いするか、御岩様のところにお願いするか」
「しこくに、しりあいがいれば、はなしがはやいんだがな」
「んー。まぁ、でもあそこらへんはあまりにも本場すぎますし」
「それもあるか」
「大事なことですしねぇー。考えるのにも時間が必要ではありますかねぇ」
ぼそぼそと水彦と相談しながら、赤鞘は頭を掻いた。
実際、そう簡単に決められることではないだろう。
土彦や風彦、樹木の精霊達も、その通りだというように頷く。
だが、エルトヴァエルは、何か奥歯にものが詰まったような顔をしている。
それに気が付いた土彦が、小首をかしげた。
「どうかなさったのですか?」
「ああ、いえ。その、そんなに考える時間はないかと思いますが」
「まっ、何かあるんですか?」
珍しく動揺する土彦に、エルトヴァエルは頷いて見せた。
「タヌキさんが修業を終えて帰っていらっしゃるのは、今年の予定ですから」
「見直された土地」中央に集まっていた全員が、凍り付いた。
羽田空港の、とある一角。
ごく一部の関係者以外立ち入りを厳重に禁止されたエリアに、アカゲとヤマネはやってきていた。
外部からは完全に隔離されており、日差しなども入ってきていない。
それでいて内部は広く、飛行機でも格納できそうな大きさがあった。
中央には金属のコンテナが置かれており、周囲には何人もの人間。
あるいは、人間に見えるモノが配置されている。
「あの人って、警視庁に協力してる能力者ですよね?」
恐る恐るといった様子で言うヤマネに、アカゲはちらりとそちらを確認して頷いた。
「話してる相手は、上の方の術者だな。ソッチにいるのは呪物係に、あっちは山の坊さん。ん? なんだ、あの不良神主まで呼び出されたのか」
「有名な方々なんですか?」
「化け物退治やらなんやらで、政府に協力している連中だな。君のところの巫女殿と同業といったところか」
「なんでそんな人達が」
「強力な妖怪が国外からくるのだからな。この程度の備えは、まぁ、当然のことだ。いつぞ、吸血鬼が一人こっちに来た時なんぞは、もっとにぎやかだったぞ」
「アカゲ様も、その時にいらしたのですか」
「こう見えて、それなりに旧い神使なのでな。オオアシノトコヨミ様がご興味を御持ちだったことが大きいのだが、万が一の時のために駆り出されたのだ」
ヤマネにとっては普段からあっている相手だが、その実は名のある神に仕える神使なのだ。
実力も知名度も、絶大なものがある。
現に、ここに入ってからというもの、探るような視線が絶えない。
「妖怪変化の類を空輸するというのは、通常かなり危険なことだからな。それでも、船便やら自力で移動されるよりまし、といったところか」
「そんなに危険なのですか?」
「移動の時に嵐やらなんやらを伴う手合いは多いからな。移動に時間がかかる船は、周囲への影響を長く与えることになる。自力での移動は、もっと酷いぞ」
強力な力を持つものほど、その傾向にあるらしい。
中には走り回るだけで疫病の類をまき散らすものもいるので、迷惑至極である。
「そう考えると、これでも穏当な方なんですね」
「まあ、それでも飛行機に何かあると怖いからな。相当厳重に封印して運ぶことになる。ああいう風にな」
そういってアカゲが視線を向けたのは、金属製のコンテナだ。
普通の人間の目から見れば、ごく普通のコンテナにしか見えない。
だが、それなりに素養のあるものからすれば、呆れるほどの封印が施されているのが分かる。
この中に、タヌキが居るのだ。
「知らないものが下手に封印を解こうとすると、手痛いしっぺ返しを受けるように作ってある、そうだが。作った方も開くのに手間がかかるようでは、どうしようもないな」
「それだけ、タヌキ様のお力が強い、と」
「そういうことだな。ちなみにだが、君、旅は好きかね?」
「仕事で出かけたりしますが、観光はほとんどありません」
「可愛い子には旅をさせよ。の例えではないが、若いうちにあちこち見て回っておいた方がいい。そのうち君も、ああいうのに入らなくては飛行機に乗れないようになる」
ヤマネは恐ろしいものでも見るような目を、コンテナに向ける。
あんなものに詰め込まれて運ばれるというのは、あまり愉快な想像にはならないだろう。
アカゲもどうしても用があって北海道に行くとき、似たようなものに詰め込まれた事があった。
乗り心地は最悪で、二度と乗らないと心に誓ったものである。
スーツを着た人間が、アカゲとヤマネに声をかけてきた。
どうやら、コンテナが開くらしい。
「物々しいですね」
いよいよ開く、という段になって、周囲の緊張感は高まっているらしい。
見えないようにだが、銃や呪物といったようなものを手にして、警戒している者の数が増えている。
重々しい金属音と、機械式の警告音が響く。
金属製の扉の奥から現れたのは、ごく普通の若い女性の姿をしたものであった。
長い黒髪を後ろで束ね、黒のパンツスーツを着込んでいる。
少したれ目がちではあるが、鋭い表情のせいか、どこか厳しそうな雰囲気を纏っていた。
荷物はそれだけなのか、大型のキャリーケースを引きずって、コンテナの中から降りてくる。
すぐに近づいていった役人と思しきスーツの人物たちと言葉をいくつか交わすと、すぐにアカゲとヤマネの方へと歩いてきた。
「お久しぶりです、アカゲ殿。相変わらずご健勝そうで、何よりです。随分あか抜けたお召し物ですね」
「タヌキ殿も、元気そうだ。アレに詰め込まれている間は退屈であったろうに」
「気の利いたものがいたようで、マンガの単行本などが置いてありまして。なかなか有意義に過ごせましたよ。スマホが使えないというのは難儀でしたが」
そこで、タヌキはアカゲの横にいるヤマネの方に目を向けた。
見てすぐに、目を丸くしている。
「これは。あなたは、御岩神社の神使殿でしょうか? 私は赤鞘神社の、元神使、タヌキです」
「はい! 当代の神使をしております、ヤマネでございます。タヌキ様のことは、古文書などでも拝読させていただいております」
「古文書、ですか。なんだかずいぶん年寄になった気がしますね」
苦笑するタヌキに、ヤマネが失言であったというように顔色を変えて頭を下げる。
だが、タヌキは気にするなというように手を振った。
「ヤマネ殿は、十七、八といったところですか? それから見れば、十分に古狸でしょう」
「はっ、その、恐縮です」
「ところで、その、タヌキ殿。この後は、どうするつもりで?」
アカゲに聞かれ、タヌキは「はい」と顔を向けなおす。
「車を出していただけるということでしたので、ご厚意に甘えさせて頂こうかと。その前に、空港で赤鞘様におみやげ物でも買おうかと思っています。向うのものを持ってくることはできませんでしたから」
「そのかばんの中身は?」
「実は、空なんです。よほど警戒しているのか、あれはダメこれはダメと、ほとんど持っていかれてしまいました。なので、代わりにこちらでおみやげ物を買い込んで持っていこうかと」
「おみやげ物か。確かに今の空港は色々売っているからな」
「来る前に、色々とインターネットで調べてきました。赤鞘様はおそらく、東〇バナナがお好きだと思うんです。それからついでに、ゲーム機なども買って行こうかと。きっと欲しいのに我慢して、指をくわえていらっしゃるでしょうから」
さすが神使といったところだろうか。
百数十年離れていても、赤鞘のことをよくわかっている。
実際、赤鞘は最新のゲーム機を欲しがりつつも、ずっと我慢していたりした。
キツネが死んで以来、よく顔を出していたアカゲは、そのことをよく知っている。
「なるほど。ゲーム機を」
「ああ、そうなるとまずは銀行でしょうか。幾らか下ろしていかないと、神社の修繕費も用意しなければならないでしょうし」
「修繕費? いつの間にそんな寄進を」
「いくつか会社を持っておりまして。そこからの寄進という形で納めようと考えております。村も随分人が減ったと、赤鞘様が手紙で仰っていましたから」
んならいっそ廃村したって伝えてくれて置いたらよかったのに。
アカゲとヤマネが同じことを思い浮かべるが、今となっては後の祭りである。
なんとも重苦しいアカゲとヤマネの雰囲気を察したのか、タヌキの表情が曇った。
「なにか、有りましたか?」
「実はその、だな。赤鞘殿のことで、伝えなければならぬことがあるんだが」
瞬間、周囲の空気が、一気に温度を下げた。
タヌキの目が鋭く細められ、口元からはたなびく様に青色に染まったカゲロウ様なものが漏れている。
人間達はにわかに慌ただしくなった。
緊張に表情を引きつらせるもの、中には気絶しているものもいる。
無理もないだろう、とヤマネは思った。
となりにアカゲがいなければ、ヤマネも死んだふりをしているところだ。
ただ、流石アカゲ、というべきか。
こちらは特に動揺もなく、困ったような表情をしているにとどまっている。
「赤鞘様に、なにか?」
「いや、まず言っておくが、赤鞘殿はすこぶるお元気だ。それは間違いない」
その言葉に、空気の温度が元に戻る。
緊張が解けて、ヤマネはホッと息を吐いた。
「どういうことでしょう。複雑な事情なのでしょうか?」
「それがな。なんというか。順を追って説明する必要があるんだが、まず、結論を言う。まず間違いなく信じられないようなことだが、事実であることは間違いないゆえに、心して聞いて貰いたい」
タヌキの表情に、緊張の色合いがにじむ。
その分、アカゲの顔に苦い色が増していく。
「赤鞘殿は、異世界へ引っ越しされた」
「はぁ?」
旧い神使であるアカゲに、「はぁ?」などというのは、本来あってはならない無礼である。
だが、まぁ、それも仕方ないよな、と、ヤマネは大きく頷いた。