百二話 「風の風彦。無事、御前で生まれて御座います」
順調に改善の進む見直された土地だったが、中央付近は相変わらず荒地状態だった。
時折生えていたはずの魔力枯渇に強い植物も、どういうわけか最近では見かけなくなっている。
むき出しの地面が広がる荒野を見回して、赤鞘は首を捻った。
「なんか、最近あのひょろっこい草も見なくなってきましたねぇー」
ぼそりと呟いた赤鞘の疑問に、数歩後ろを歩いていたエルトヴァエルがピクリと眉を上げた。
一秒かからず頭の中からその答えを見つけ出すと、すぐに赤鞘へと応える。
膨大な情報を頭に入れているエルトヴァエルだが、それを引き出す能力もかなり高いのだ。
「それでしたら、調停者のお二人が過度の繁殖を抑えてくださっています。あの植物は荒れた土地に多く根付くのですが、根から土に微量の毒素を流すんです」
「毒!? へー、あの草、毒なんて出してたんですねー」
「はい。自分で中和できる毒で土地を侵すんです。数が少なければどうという事は無いんですが。こういった荒地に他の植物よりも先に進出して、場所を独占するためですね」
「はぁー。賢い草なんですねー」
赤鞘の言葉に、エルトヴァエルは眉を上げた。
賢い、というポジティブな言葉が出てくるとは、思わなかったからだ。
確かに生存戦略としては、優秀な部類だろう。
だが、赤鞘のように土地を豊かにしようとするものにとっては、邪魔な存在といえる。
そういったものに対し、まず肯定から入る、というのは、出来るようで出来ない事なのだ。
「ですので、調停者のお二人が過度の増殖を抑えていらっしゃるようです。今後、他の植物が進出する妨げにならないように、ですね」
「なるほどねー。ていうか、樹木の精霊さん達、もうそんなに力がついたんですか? 荒地の中だけでも、かなり広いですけど」
「彼等もかなり大きくなっていますし。それに、ずいぶん以前からアグニーさん達の畑を守ってくださってもいますし」
「あー。あーあー! そういえばそうでしたねー! 忘れてました!」
思い出したというように、赤鞘は手を叩いた。
嬉しそうに笑うその顔を見て、エルトヴァエルは一瞬だけ悲しそうな表情を見せる。
ただ忘れていただけなら、それでいい。
だが、記憶から消えてしまっていたら。
神の力というのは、記憶や知識のことも含まれている。
赤鞘はそういったものも含めて、とても小さな力しか持たない神だ。
記憶して置ける事の総量は、とても少ない。
余程大切な記憶以外、片端から忘れていってしまう。
おそらく赤鞘という神は、そのことを受け入れているのだろう。
この「海原と中原」に来てからのことすら忘れ始めたとしたら、赤鞘は今までどれだけのことを忘れてきたのか。
生まれながらに強い力を持つエルトヴァエルには、想像することしか出来ない。
元々この世界で生まれたのではない赤鞘は、この世界で信仰を集めたとしても、それを力に変える効率がすこぶる悪かった。
だから、あと数百年は今のような雑魚神のままで居るはずだ。
人間から神になった赤鞘に、其れはどれぐらい辛い事なのか。
それこそ、エルトヴァエルには想像する事しか出来ない。
だが、それでも赤鞘は、いつもへらへらと笑っている。
別に、自分の状況がわかっていないわけじゃない。
赤鞘という神は、自分がそういう場面に置かれていても、へらへらと笑っている神なのだ。
嘆くでもなく、悲しむでもなく。
それが、エルトヴァエルには好ましく感じていた。
「お、そろそろですねー」
掌で日陰を作りながら、赤鞘は前方を見上げた。
その先にあるのは、八本の樹木が生えた、赤鞘の社が建つ場所だ。
「いやー、しかし。毎日歩くと成ると大変ではないですが、メンドウではありますねぇー」
空を飛ぶ能力が無い赤鞘の移動方法は、基本的に歩きだ。
属性の精霊達が作った湖へも、赤鞘は毎日歩きで通っているのである。
すごく離れてはいないが、歩けばそれなりに時間がかかる距離だ。
赤鞘の言うように、大変ではないが面倒ではある。
「何かいい方法ないですかねー。バスでもあればいいんですけど」
「宜しければ、私が赤鞘様をお乗せして飛びましょうか?」
赤鞘は不思議そうな顔をすると、首を捻った。
そして、申し訳なさそうに笑う。
「でも、エルトヴァエルさん着地苦手じゃないですかー」
着陸こそ不得手だが、エルトヴァエルの飛行能力は天使の中でも高い部類になる。
飛行可能距離や最大速度、隠密性などは、トップクラスといいっていい。
あまりにも飛び続けているから、地面に降りるのが苦手になったというのが、彼女を知る天使達からの評価だった。
「ほ、ホバリングは得意なので、ある程度の高さから飛び降りていただければいいんです」
「ああ、なるほど! 私、高いところから飛び降りるのは得意ですしね!」
いいながら、赤鞘は能天気そうに笑った。
それは忘れてくれてもいいのになぁ。
そんな風に思いながら、エルトヴァエルは小さくため息を付くのだった。
土地の中央、社へと戻ってきた赤鞘に、樹木の精霊達は一斉に集まってきた。
「赤鞘さまだー!」
「おかえりー!」
「おかえりなさーい!」
「にくたいろーどー!」
「あっはっはっは。はい、ただいま、かえりましたよー」
流石に皆大きくなったため、全ての精霊達が飛びついてくることはなくなっていた。
だが、それでも何柱かは、未だに赤鞘の頭や胸に飛びついている。
非実体である彼等にまとわり付かれながらも、赤鞘は慣れた様子で土地の中心へと足を進めた。
「あかさやさまー! きょーは、風彦作るんだよねー?」
「えー、名前はまだ決まってないんでしょう?」
「もっとイカした名前にしよーよぉー!」
「まぁー、真名は別に考えますけどねぇー。通称はほら。私、ネーミングセンス無いって言われますしー」
樹木の精霊達が口々に言う言葉に、赤鞘は苦笑する。
実は、水彦や土彦というのは、本当の名前ではなかった。
名前というのはそれの存在を示すものであり、その存在を縛るものでもある。
軽々しく呼ばれると、呪い等に使われてしまうことがあるとされているのだ。
なので、それを隠すため、普段は別の名を使うのである。
もっとも、名前を使ったからと言って、水彦や土彦ほどの存在を縛る事など、普通は不可能だ。
その無理を通すには、上位神レベルの力が必要になるだろう。
特に必要は無いのだが、念のための措置、と言った所だろうか。
「そっかー 赤鞘様、ネーミングセンスないもんねー」
「土彦は女の子なのに、彦ってつけちゃうぐらいだもん」
「せめて姫だろ? 普通。土姫って、其れはそれで微妙だけど」
「えー? 私は可愛いと思うんですけどねー? 土彦、って」
首を捻る赤鞘に、樹木の精霊達はため息を付く。
「本人が気に入ってるみたいだから、いいですけど」
「だねー。それがすくいだー」
土彦自身は、土彦という名前を気に入っている様子だった。
赤鞘から貰った、兄とお揃いである名前に、何か感じるものがあったらしい。
ああ見えて土彦は、ブラコンでファザコンなのだ。
自分に絡み付いていた樹木の精霊達を優しく引き剥がし、赤鞘はパンパンと手を叩く。
「さぁさぁ。そろそろ始めますからね。皆さん、少し離れていてもらえますか?」
「はーい!」
「わかったー」
「いいこで見てるー」
次々に自分の本体の元へと飛んでいく樹木の精霊達。
それと入れ替わりに、エルトヴァエルが赤鞘のそばへと歩いてくる。
どこが心配そうな表情で、赤鞘に話しかけた。
「あの、赤鞘様。本当に宜しいんですか?」
「へ? ああ、名前ですか? 先に名前決めちゃったほうが、どんな風な子にしたいかイメージも付けやすいですし。結構他の神様もやってますよ?」
御使いやガーディアンの名前を、生まれる前につけておく。
それは、特段珍しい事でもなかった。
名は体を現す、というように、名前にはその能力を表す場合も多い。
なので、「こういった力を持たせたい」という目的のため、先に名前をつけて置く事もあるのだ。
赤鞘の知り合いで、日本で土地神をしている神の何柱かも、そのような手法で御使いを作っていることがあった。
だが、エルトヴァエルが気にしているのは、そこではなかったらしい。
「いえ、そうではなくてですね。私の、その、翼で起した風を使う、というのは……」
「あー、そのことですかー」
なるほど、といった様子で、赤鞘は手を叩く。
今回、風彦の創造をするに当たって、赤鞘はエルトヴァエルに協力を頼んでいた。
肝心要になる風を、エルトヴァエルの翼で作ってもらおうと考えていたのだ。
赤鞘が力の流れを操り作っても良かったのだが、それよりもエルトヴァエルが起したものがいいと考えたのである。
何しろ、エルトヴァエルは「罪を暴く天使」という二つ名を付けられるほど、情報収集に長けた天使だ。
ガーディアンや御使いは、生まれ出でる時の逸話、関わったもので、その能力の方向性が決まる事も多い。
エルトヴァエルという情報収集狂天使の翼が起した風で、情報収集目的のガーディアンを作る。
もとより情報関連に強い「材料」を、赤鞘がそれに特化して「加工」する、とでもいえばいいのだろうか。
これだけの要素をそろえて造るガーディアンが、情報を集めるのが得意にならないはずが無い。
「私がその、ガーディアンを造るお手伝いをさせて頂く、というのは……」
この「海原と中原」という世界において、天使というのは神の補佐役でしかない。
天使がガーディアンを造るのを手伝っていいものなのだろうか。
既に樹木の精霊達という、天使よりも下位とされる存在が、土彦を造るのを手伝ってはいる。
だが、あくまでそれはそれだ。
例外を幾つも作るというのは、如何なものか。
そう、考えているのである。
エルトヴァエルは、どこまでも生真面目な天使なのだ。
赤鞘は眉をハの字にして、困ったように笑う。
「いやー。やっぱり用意するものって大事じゃないですか。きちんとアレしなかったから、水彦と土彦さんはあんな感じですし」
その言葉に頷きそうになるのを、エルトヴァエルは何とかこらえる事に成功した。
赤鞘だけで造った水彦は、かなり困ったちゃんになっている。
樹木の精霊達が力と知識を詰め込みまくった土彦は、なんかすごい事になってしまった。
悪いというわけではないが、こういう子ばっかりになってしまうと困るのも事実だ。
「エルトヴァエルさんに手伝ってもらえれば、賢い子になると思うんですよ。ええ」
「そう、ですか……」
なんとなく遠い目になっている赤鞘に、エルトヴァエルは強く出ることが出来なくなってしまった。
赤鞘は「それに」と続けると、眉をハの字にしたまま笑う。
「私はこの世界では珍しい雑魚神ですから。貴女に手伝ってもらわないと、色々上手く回らなく成っちゃうんですよ」
へらっと笑いながら、赤鞘は頭を掻いた。
エルトヴァエルは小さく笑うと、コクリと一つ頷く。
「分かりました。出来る限り、お手伝いします」
「いやぁ、助かりますよー」
赤鞘とエルトヴァエルは、お互いの顔を見ておかしそうに笑いあった。
エルトヴァエルは、八本の樹木を背にして立っていた。
羽を動かした風圧で体が浮かないように、しっかりと両足を踏みしめる。
さらに天使の業を使い、足の裏を地面に縫いとめた。
「赤鞘様、準備が出来ました」
「はーい、コッチもじゅんびできましたよー」
エルトヴァエルから離れた位置に建った赤鞘は、ひらひらと手を振る。
その周りを、樹木の精霊達が物珍しそうに飛び回っていた。
「赤鞘様とエルトヴァエルの、共同作業?」
「こどもをつくるのー?」
「いやいや。それとはちょっと違うかな」
「それなら、土彦は僕達の子供になってしまうからね」
「えー! つちひこはこどもっていうか、おねーちゃんみたいなかんじー」
「だねー」
「僕達普通の生き物の常識は」
「天使や神様には通用しないよ」
「勿論ガーディアンにも」
「そんなもんかぁー」
ふらふらと飛び回りながらそんなことを話している樹木の精霊達を見て、赤鞘は楽しそうに笑う。
ある程度距離が離れているので、危険は無いだろうと判断する。
「では、エルトヴァエルさん、お願いしますー」
赤鞘は地面に本体である鞘を突き刺し、片膝を付いた。
それを合図にしたように、エルトヴァエルは大きく翼を動かし始める。
すると、翼の大きさからは考えられないような、大きな風が吹き始めた。
天使であるエルトヴァエルの翼は、世界に及ぼす影響がとても大きい。
見かけや質量的なものからは考えられないほど、強い力を引き出すことが出来るのだ。
強い風に煽られながら、赤鞘は自分の指先に集中する。
人差し指の腹、その真ん中に、赤い色が染み出してきた。
ゆっくりと盛り上がってきたそれの表面は、小さく波打っている。
力を集中させて作り出されたそれは、紛れも無い赤鞘自身の血だ。
「じゃあ、いきますよー!」
いいながら、赤鞘は血の浮いた指先を頭上へと掲げる。
血の玉が弾け、小さな粒子となって風の中に溶けていく。
エルトヴァエルの目も、赤鞘の目も、それに向けられていた。
そして、その瞬間を狙っていた樹木の精霊達が、一斉に動き出す。
「いまだー!」
「それー!」
「おてつだいだー!」
「こうげきかいしー!」
「こうっげきー!」
「攻撃じゃないですよー!」
服の中や、背中の後ろ、掌の中。
樹木の精霊達は、それぞれの場所に隠していた小さな欠片をエルトヴァエルの風の中に投げ込んだ。
「へ?」
「あっ!」
流石に油断していたのか、赤鞘もエルトヴァエルもそれに反応が出来なかった。
エルトヴァエルの起した風に、赤鞘の血。
それに、樹木の精霊達が作った力の欠片が、交じり合う。
「あらら……」
赤鞘の額に汗が浮かび、エルトヴァエルが唖然とする。
打って変わって、樹木の精霊達は大喜びだ。
一方方向へと吹いていた赤い霧と結晶を含んだ風は、小さな渦巻きを作り始めた。
人ほどの大きさに成ったその渦は、赤鞘の目の前へと動き出す。
霧と結晶が、空気に溶け込むように消えていく。
エルトヴァエルが翼を止めても巻き続けるその風は、赤鞘の前に留まり続ける。
その風はまるで自身の存在を確かめるように、うねり、跳ねた。
しばらくの間そうしていた風は、やがて満足したように動きを止める。
そして、少しだけ大きく膨れ上がった。
周囲に風を撒き散らすと同時に、その中から浮き上がるように何かが現れる。
長く細い手足に、白く長く糸のような髪の毛。
「ほういっ! っと」
トン、と、つま先で地面に降り立ったそれは、裸体の少女であった。
白い肌と、白い髪。
血のように紅い瞳。
少し吊り気味の目元は、赤鞘、水彦、土彦似だろう。
体付きは幼いものの、しっかりと女と分かる体付きをしている。
年のころは、水彦や土彦と同じ程度だろうか。
顔立ちは、実に可愛らしいものだった。
天使のような、という形容詞が似合う、愛らしいものだ。
ただ、エルトヴァエルとは似ても似つかない。
白い髪と白い肌、紅い瞳と相まって、関連付けて考えるものはまずいないだろう。
「っとっとっと。とりあえずこんなもん、かな?」
そういいながら、少女は自分の体を見回した。
満足したように頷くと、パチリと指を鳴らす。
その瞬間、少女の体の回りに風が渦巻き、空気の中から染み出すように布が現れる。
真っ白な一枚布が少女の身体を覆い、切れ目が入り変化していく。
出来上がったのは、純白の和服と、提灯袴だ。
足元の足袋も、白い布地で作られている。
少女は懐に手を突っ込み、一本の紐を引き出す。
長く伸びた髪を、後頭部の高い位置で一本に結わえる。
唖然としている赤鞘に向き直ると、にっこりと笑顔を作った。
ゆっくりと地面に片膝を突くと、片手を自分の胸に当てる。
「どうも初めまして、赤鞘様。樹木の精霊さん方のおかげで多少予定が狂ってしまったようですが。風の風彦。無事、御前で生まれて御座います」
「えーっと」
風彦を前に、赤鞘は表情を引きつらせ固まった。
どうしたものかと考えている赤鞘に、風彦はふふっと小さく笑う。
困った様子で、赤鞘は周りを見回す。
エルトヴァエルは、唖然とした様子で口をあけたまま固まっている。
樹木の精霊達は、嬉しそうに飛び回っていた。
どうしたものかと頭を掻く赤鞘に、風彦が立ち上がりながら声をかける。
「予想外が重なって、当初の予定よりもずいぶん丈夫な身体になったようですが。水彦兄者ほどの力は無いようです。知識も、土彦姉程では。汎用性のある、真ん中くらい、といったところでしょうか。ああ、情報収集のほうは、お任せください」
「あのー。なんでもう二人の事を?」
生まれたばかりなのに、その知識はどこから来るのか。
首を捻る赤鞘に、風彦が面白そうに笑う。
「はい。エルトヴァエル様が、おおよそ必要な知識は全て風に乗せて下さいました。すぐにでもお仕事を始められるように。ああ、宜しければその前に、兄姉に挨拶をしに行きたいのですが」
天使のように微笑みながらそういう姿は、実に可愛らしいものだった。
赤鞘は困ったように笑うと、カリカリと頭を掻く。
そして、大きく息を吸い込むと、疲れきった様子でため息を吐く。
「ま、いいか。多少予定からずれただけですし」
とりあえず、起きちゃった事は仕方ないよね。
赤鞘は今日も、平常運転だった。