プロローグ
ある山奥の廃村に、小さな社があった。
半分朽ちかけたそこに祭られているのは、一本の朱塗りの鞘だった。
数百年も以前の話になる。
小さな農村だったそこは、野武士達に狙われていた。
はじめのうちこそ上納金やら米やらを奪われるだけだったが、所詮山の中の小さな農村。
そこから得られる金額や物など高が知れている。
野武士達は早々にその村に見切りをつけ、すべてを奪って別の村を狙うことにした。
女は女郎屋にでも売りさばき、男は皆殺し。
野武士のすべてがそうではないのだろうが、その村を襲っていた野武士達はたいそうなゲス野郎ばかりだったのだ。
若い娘はどこの女郎屋に売れば良い値が付くか。
年増女はいっそ皆殺しにするか。
男共はどの程度抵抗するか。
武器はどのぐらい持って行こうか。
運が良かったのか悪かったのか。
野武士達のネグラである洞窟の中でかわされたそんな会話を、村に住む子供がたまたま聞いてしまった。
村から四半時も歩いた場所であるそこに、子供はそうと知らずに近づいてしまったのだ。
その年は米が不作で、小さな子供まで駆り出されて食料を探していた。
小さな木の実を籠いっぱい集め嬉しそうにしていた子供は、冷や水を浴びせられたように顔を真っ青にする。
叫びそうになる自分の口を両手で塞ぎ、音を立てないようにその場を離れた。
何とか見つからずに森の中に入ることが出来た子供は、転がるように獣道を走った。
急いで村の大人にこのことを伝えないと、大変なことになる。
子供は急いで急いで、何度も転びながら走り続けた。
それでも、村は遠い。
ついには息が上がり、子供ははいつくばって動くのがやっとになるほど疲れ切ってしまった。
そのときだ。
「大丈夫かい?」
子供に声をかける者が居た。
子供が倒れこんだのは森の中。
一体誰だろう。
顔を上げた子供の目に映ったのは、真っ赤な朱塗りの鞘を差した武芸者風の男だった。
一瞬警戒を見せた子供。
しかし、武芸者の笑顔を見て、体のこわばりが抜けていくのを感じた。
悪い人には見えなかった。
子供のそういう直感は、大人よりもずっとずっと鋭い。
息も絶え絶えになりながらも、子供は洞窟のそばで聞いたことを話した。
その内容は、簡単に信じてもらえるものではなかっただろう。
そもそも、見知らぬ武芸者風の男にはかかわりの無い話だ。
だが、武芸者の反応は意外なものだった。
子供を背負うと、村に向かって一目散に走り出した。
うっそうと茂る木々の間を縫い、でこぼこの地面を物ともせず走る。
背負われた子供は、まるで鳥の背にでも乗っているかのように感じた。
あっという間に村に着くと、武芸者は村の大人達を集め、子供に見聞きした話をさせた。
最初は半信半疑な大人たちだったが、武芸者の言葉に徐々に心を動かされていく。
旅人だという武芸者は、いくつかその野武士に潰された村を見たというのだ。
それに、不作だった今年食料や金を巻き上げられれば、飢えて死ぬしかないだろうとも。
村の大人達は意を決して、野武士達と戦うことにした。
他所に逃げようという声もあったが、山の中の小さな村。
逃げる場所などどこにも無いのだ。
村の男達は武器を取り、女と子供達は家の中に隠れた。
武芸者風の男は村長にいくつか戦いの方法を教えると、その日のうちに村を出て行った。
幾人かは残って一緒に戦ってほしいといったが、そうなることは無かった。
村の何割かは、その武芸者が野武士の仲間ではないかと疑っていたからだ。
武芸者風の男も、それに気が付いていたのだろう。
野武士たちがやってきたのは、子供が村人に危険を知らせたその夜だった。
夜陰に乗じて事を起こそうとしたのだろう。
不意打ちを狙った襲撃はしかし、思わぬ抵抗に会った。
農具で武装した村人達が、入り口を守っていたからだ。
最初こそあわてた野武士達だったが、相手は農民。
野武士たちはすぐに落ち着きを取り戻し始める。
このままでは皆殺しか。
そう思われたときだった。
野武士達の後ろで、何かの輝きが閃いた。
次に響いたのは、村人のものではない。
野武士の断末魔だった。
突然のことに、誰も何が起こったのかわからないでいた。
ただ一人、あの武芸者風の男に助けられた子供を除いては。
彼は村を出た後、近くの森の中に潜んでいたのだ。
村を、野武士達から守るために。
武芸者風の男の実力は驚異的だった。
あっという間に二人目を切り捨て、三人四人。
五人六人、十人と。
次から次へと切り伏せる。
農民と武芸者の挟み撃ちにあった野武士たちは、瞬く間に数を減らしていった。
とはいえ、野武士たちもただ斬られるだけではない。
武芸者は徐々に疲れていく。
野武士が残り数人になったとき、それは起こった。
野武士の刀が、武芸者の腹に突き刺さる。
血がにじみ、武芸者の苦悶の声が響く。
普通ならば臓物を撒き散らすことになるだろうその一太刀。
だが、武芸者は倒れず、残った野武士達を切り捨てた。
村を脅かす野武士達がいなくなったことに、村人達は喜んだ。
命を懸けて戦ってくれた武芸者を称えようと、膝を突いて動かない彼に駆け寄る。
そして、村人達は気が付いた。
武芸者は腹に、きつく布を巻きつけていた。
斬られても臓物を出さない為のそれは、真っ赤に濡れている。
武芸者の顔は青白く、血の気はすっかり引けていた。
野武士に受けた一太刀が、ゆっくりと武芸者の命を奪おうとしていたのだ。
こうなっては、助かる道は無い。
あっけにとられる村人達を見て、武芸者は力なく笑っていう。
「みんな、無事でよかった」
それが、真っ赤な鞘の武芸者の、最後の言葉となった。
村人達は武芸者に感謝し、その真っ赤な鞘を神社に収め、遺体を丁重に葬った。
村を救ってくれた彼のことを忘れないよう、神社は「赤鞘神社」と名を変える。
そして、その年から不思議なことが起こり始めた。
数年に一度起こっていた不作が無くなり、飢える事もなくなった。
清らかな水が湧き、田が肥える。
何時しか村人達は口々に言うようになる。
「あの武芸者は、神様の化身だったのかもしれない」
村人達はその年の実りを、欠かさず赤鞘神社に奉納するようになった。
真っ赤な鞘はその後、何年たっても色あせることも朽ちることも無く神社の奥に大切に奉納される。
時代が移ろい、村に人がいなくなり、十数年の時が経つ。
それでもその真っ赤な鞘は、朽ちた神社のその奥で、あたり一帯を見守るように鎮座していた。